田中治彦研究室


19歳になったシンジ君

−2002年にエヴァンゲリオンを語る−

   

田中治彦(立教大学)

2002年1月7日  


 新世紀エヴァンゲリオンは1995年から96年にかけて26回にわたってテレビ東京で放映されたアニメであり、その後1997年に映画化された頃から大ブームになった。従来のアニメファンだけでなく、映画批評家、作家、社会学者、心理学者らを巻き込んで社会現象にもなった。私が最初にエヴァを見たのはそうしたフィーバーがすでに収まっていた2000年のことである。ちょうど『子ども・若者の居場所の構想』の執筆中であった。

 『居場所の構想』を書くに当って、現代の若者の心象風景をもっともよく教えてくれたのがエヴァ・シリーズであった。最初の2・3回を見たときにはまってしまい、貸ビデオ屋に何度も通った。ビデオ屋のお姉さんからは「オタクおやじ」と思われたことだろう。昨年秋の授業「居場所の構想」でこのビデオを使ってから、再び全編を通してみようという気になった。そしてエヴァンゲリオンについて何かを書かずにはいられない気持ちになったのである。


戦わない主人公

 

 物語はさほど複雑とは言えない。西暦2015年の日本が舞台である。「使徒」と呼ばれる正体不明の敵が次々と押し寄せて人類を滅ぼそうとする。これを迎え撃つ組織がネルフである。使徒から人類を守る世界組織がゼーレであり、ネルフはその特務機関である。ネルフではエヴァンゲリオンという人造ロボットを開発した。このロボットは一種の生命体であり、エヴァンゲリオンと精神的に共鳴する14歳の少年少女しか運転することはできない。主人公のシンジはそうしたパイロットの一人である。

 ストーリー展開自体は従来の冒険アニメと何ら変るところはない。1960年代の鉄腕アトム、1970年代の宇宙戦艦ヤマト、80年代の機動戦士ガンダムに連なる系譜である。ところが驚いたことに、主人公のシンジ少年はしばしばエヴァンゲリオンに乗ることを拒否するのである。確かにガンダムでも主人公のアムロは大人たちに酷使されることに反発して、ガンダムから一度は離れる。あるいは巨人の星の星飛雄馬も、野球しかなった自分の人生に嫌気がさしてボールを握らない時期がある。

  しかし、シンジ少年の場合はアムロや飛雄馬のケースとは本質的違う。物語の最終段階において、ゼーレとネルフの意見対立から、戦略自衛隊がネルフを総攻撃する場面がある。ここでシンジの指導教官であり保護者でもあるミサトが致命傷を負い、死のまぎわにシンジにエヴァに乗るように懇願する。シンジはそれでも乗ろうとしないのである。最後まで戦おうとしない少年主人公というのは、今までにあったのだろうか。


失われた少年期

 

 シンジ少年がエヴァンゲリオンに乗って戦いたくない、戦えない理由は何であろうか。シンジには3歳のときに大きな「喪失」体験がある。シンジは物心ついて間もなくの頃母親ユイを「失う」。ユイはエヴァンゲリオン初号機に乗って実験をしている最中に精神も肉体もエヴァに融合されてしまった。シンジの目の前から突然母親が消えてしまったのである。さらに、彼は父親碇ゲンドウの知り合いの「先生」の家に預けられて、父親からも切り離されるという二重の喪失体験をもっている。

 アニメではシンジの子どもの頃の回想シーンが何度か出てくるが、それは教室でひとりチェロの練習をする穏やかな場面であり、そこには友だちと一緒に元気に遊んだりけんかしたりするシーンはない。思春期にさしかかったシンジは、「活動性」「友人との人間関係」という少年期の発達課題を十分にクリアしていないばかりか、母親を失うことにより「外部世界との基本的信頼」という乳幼児期の発達課題をも十分満たしていない。

 外部社会とつながることのできないシンジには、自分が人類のために働く、人の役に立つことができるなどとはとても信じられない。最初の戦闘で使徒を倒したとき、シンジはミサトから「あなたはひとに誉められる立派なことをしたのよ」と告げられても、それを受けいれることができない。シンジには世界どころか自分自身すら受けいれることができないのである。


変わらぬ季節

 

 エヴァンゲリオンの舞台である2015年の日本は一年中が「夏」であり季節というものがない。これは2000年におきた「セカンド・インパクト」により南極大陸が消滅して地球が温暖化したためである。

 ネルフがある第3新東京市は箱根のふもとに作られた人工都市であり、すべての高層ビルを地下に格納することができる。捕獲した使徒からクローン技術で作ったとされるエヴァンゲリオンにしても、新東京市にしても21世紀の科学技術の賜である。しかし、この物語からは科学技術への賛美も、未来の発展への期待も感じられない。鉄腕アトムからガンダムにつながるロボット・アニメとの基本的な違いである。

 人類は使徒の襲来におびえる存在であり、使徒をすべて倒したとしても高々現状を維持するにすぎない。そこには「夏」しかない停滞した世界が続くだけである。こうした状況設定は、バブル崩壊後方向性が見つけられない1990年代の日本社会を反映している。

 シンジがエヴァで戦うことを躊躇する理由は、この戦いに大義がないからでもある。大義がない、というのは正確ではないかもしれない。人類を滅ぼす敵と戦うのはこれ以上ない大義である。しかし、彼らを滅ぼしたところでよくて現状維持、滅ぼせなければこちらが滅びの道を転落する。

 「西洋に追い付き追い越せ」とか「技術立国」というような大義が失われつつあるにもかかわらず、目前の試験や受験のために勉強しろと尻をたたかれる子どもたち。一生懸命走ったところでそこに「ニンジン」があるわけでもない、しかし勉強しなければ転落の恐怖はある。シンジ少年に共感する若者たちの心情はこんなところにもあるように思う。


ふがいない男の子・元気な女の子

 

 「あんたバカァー。敵がきたら戦うに決まってるじゃないの。」

 使徒との戦いを逡巡するシンジに対して、ひたすら威勢がいいのはエヴァ2号機に乗る少女アスカ・ラングレーである。使徒との戦いで真っ先に飛び出していくのもアスカである。シンジはアスカや零号機に乗る綾波レイが危険に陥ったときに助けに回る存在。シンジは仲間の危機という個人的な動機がないと戦えないのである。

 シンジ、アスカ、レイらの上官である葛城ミサトは29歳の独身女性、ネルフの心臓であるコンピュータ「マギ」を操作するのは科学者の赤木リツ子−この物語は重要なポストに女性を配置する。彼女らもそれぞれ心に悩みや傷を抱えながらも、ネルフの一員として機敏かつ果敢に行動する。それにひきかえシンジ少年は・・・

 中学校でも生徒会をしきるのはもっぱら女子、という現代若者世界のジェンダーの状況がここにも反映している。エヴァンゲリオン関連のホームページのなかに登場人物の人気投票コーナーがある。ここで人気ナンバー1は「綾波レイ」、そして「アスカ」「ミサト」と続く。シンジは何と4位である。脇役が主人公を押しのけて人気を獲得する例はこれまでのアニメにもしばしば見られたが、さすがに4位というのは今までなかったことではないだろうか。

 最初にエヴァンゲリオンをヤマト、ガンダムに続く少年アニメの系譜に位置づけた。しかし、この物語は敵との戦いよりも、内部の者どおしの心理の葛藤をもっぱら描いている点で、むしろ少女マンガの系譜に位置づけるべきであるという意見もある。


「僕はここにいていいんだ」

 

 紆余曲折はありながらも、24話までには襲来してくるすべての使徒を倒すことに成功する。ここでゼーレが目指していた「人類補完計画」が発動されるはずであったのだが、最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では突然シンジ少年の内面の心理劇が展開される。このような終わり方に、放映直後から視聴者の賛否両論の声が渦巻き、結果的にエヴァンゲリオンをブームにまで押し上げた。

 暗い部屋でシンジが自問自答し、登場人物とのやりとりが続く。

シンジ「逃げちゃダメだ!」

レイ「どうして逃げてはいけないの?」

シンジ「だって逃げ出したら誰も相手にしてくれないんだ! 僕を捨てないで。お願いだから、僕を捨てないで!」

 

シンジ「僕のことを好きな人なんかいないんだ。」

アスカ「シンジなんか大嫌い!」

レイ「嫌いよ」

トウジ「おまえなんか嫌いや」

シンジ「皆、僕のことが嫌いなんだ。」

 

ミサト「あなたのことをいたわり、理解できるのは、あなた自身しかいないのよ」

レイ「だから自分を大事にしなさい」

シンジ「そんなこといったって、自分がないんだ! わからないんだ! 大事にできるわけないよぉ!」

 

  こんなやりとり延々と続く。そして場面は突然、ごく普通の家庭の朝の風景となる。母ユイが父ゲンドウに朝食を出している。シンジは幼なじみのアスカに起こされる。アスカ「いつまで寝ているの。もう学校へ行く時間よ。」シンジはアスカと学校に出かける。そして教室に行くと、転校生の綾波レイが入ってくる。色めきたつ男の子たち・・

 

シンジ「そうだ、これもひとつの『世界』。僕の中の可能性。今の僕が僕そのものではない。いろんな僕自身があり得るんだ。そうだ、エヴァのパイロットではない僕もあり得るんだ!」

 シンジは今までの固定した自分ではなく、別の見方もできるのではないかと気づく。

シンジ「僕は僕であっていいんだ。僕はここにいたいんだ。」

シンジ「そうだ、僕はここにいていいんだ。」

 

 シンジがそう叫んだ瞬間、これまでの登場人物がシンジをかこみ「おめでとう」と言いながら拍手をする。「僕はここにいていいんだ」とシンジが初めて自分の「居場所」を見出すところで物語はひとつの結末を迎える。いらいらするほどに成長感のないシンジではあったが、ここでやっとシンジは自分の過去を「補完」し、自立への一歩を踏み出すのである。もちろん、この自立の意味は80年代までに見られたそれとはおおよそ違ったものになるであろう。

  何と、庵野秀明監督は14歳のシンジ少年に「僕はここにいてもいいんだ」の一言を言わせるために、第3新東京市の地下にネルフの重厚な基地を作り、エヴァンゲリオンを3体完成させ、17もの使徒に地球を襲わせ、25回に渡ってエヴァと使徒との戦いを放映してきたのである。「新世紀エヴァンゲリオン」はこれまでのアニメの世界からとは桁違いに破格な、まったく新しいタイプの物語であることが理解されよう。


寂しき社会

 

 新世紀エヴァンゲリオンにはもう一つの結末がある。テレビの終末に対してファンから大変な抗議があったことを受けて、2本の映画が製作される。その最終回「Air まごころを、君に」では別のエンディングが示される。

 ゼーレの司令官でありシンジの父でもある碇ゲンドウが「人類補完計画」を発動する。人類補完計画とは「できそこないの群体に過ぎない人類を、完全な単体に人工進化させる」目的で行なわれる。人類補完計画は、おそらく捕獲した使徒であろうと思われるリリスと、ユイとリリスのクローンであるレイの肉体を利用して行なわれる(といっても何のことやらわからないであろうが)。

  補完計画が発動されると、すべての人間はその形を失い液状化する。そして肉体も精神もリリスの中に融合していき、すべての人類が一つに溶けこんでいく。その過程で、シンジとレイが融合しようしているシーンがある。レイはシンジに馬乗りにまたがっていて、すでに手と腰は融合を始めている。

 

シンジ「僕は死んだの?」

レイ「いえ、全てがひとつになっているだけ。これがあなたの望んだ世界、そのままよ」

シンジ「でも、これは、違う。違うと思う。」

レイ「他人の存在を今一度望めば、再び、心の壁が全ての人々を引き離すわ。また、他人の恐怖がはじまるわよ」

シンジ「いいんだ」

 

 シンジは自分の手で、融合していたレイの手を体から引き抜き、レイと握手をする。シンジがリリスへの融合を拒否したために、補完計画は頓挫する。すでに融合した人々の形が再び現われ始め、人類はまた「個」と「個」に分離していく。父ゲンドウが、亡妻ユイと融合せんがために策動した人類補完計画はこうしてついえていく。ラストシーンは・・・語らないことにしよう。

 この壮大なエンディングもまた、シンジの個としての自立をテーマとしていることがわかる。私は大学時代にゼミでルソーを読んだことがある。ルソーの文章なのか指導教授の言葉なのかよく思い出せないが、心に残っている一節がある。

 「人間が群れて社会をつくるのは、一人一人が寂しいからなのです。」

 人類補完計画のてんまつを見ていて、そんな言葉を思い出した。


19歳になったシンジたち

 

 1997年に映画館で公開されたときシンジは14歳であった。彼に共鳴して映画館に足を運んだ14歳たちの一部は、今や19歳となり大学に入学している。この世代(1982〜3年生まれ)には、サカキバラ少年や「17歳事件」の主人公がいて、しばしばマスコミの注目を浴びてきた。私たちは昨年、この世代を主たる分析対象とした若者論として「子ども・若者の居場所の構想」を編集し出版した。

 そして2001年後期に全学カリキュラム(旧教養科目)として「居場所の構想」をテーマとして開講した。実に580人もの学生が登録し、毎回300人以上の学生を前に講義する事態となった。全学カリキュラムの対象学生はおよそ5000人なので、その約1割を集めたことになる。

 その6回めの授業のときに劇場版エヴァンゲリオンの一部を見てもらって解説した。印象に残った授業について書いてもらったところ、エヴァンゲリオンの回を上げた学生が何人かいた。

「いちばん印象に残ったのはやはり「EVA」です。あのアニメは自分も結構好きでしたが、複雑な心理を見事に描いた前代未聞の作品だと思います。」(経営学科1年、男)

「主人公やアスカやレイなどの心的状況は私の中高生のときの心的状況と合致する点がとても多いのでこの作品はオタクに限らず奥が深い作品と思った。」(産業関係学科2年、女)

「エヴァンゲリオンを見た時に、エヴァンゲリオンの主人公像=現代の若者、宮崎駿アニメの主人公像=高度成長期の若者、という枠づけをした時、ハッとしました。私たちは宮崎アニメの主人公にあこがれたりするけど、エヴァンゲリオンの主人公に共感するんだなあ、と思った。」(心理学科2年、女)

 

 授業の後、再び全編を通して見ることにした。そしてこの正月に見終ったのであるが、何か書かねば満たされないという気持ちを強くもった。しかし、1997年以来社会現象ともなったこのアニメには映像論、若者論、精神分析などアニメとしては驚くほど広範な人々を巻き込みながら語られてきた。また、アニメのストーリーの中のモチーフが非常にたくさんあって、庵野監督自身がもて余すほどに詰め込んでいる。どこから書き始めていいものやら、パソコンに向かってはしばしため息ついたものである。

  これまでの議論といくぶんでも違ったものが表せていれば幸いである。私は多くの人、とくに若者に関わる大人の人にこのアニメを見てもらいたいと願っている。最初の数回を見て「はまれる」かどうかが勝負である。劇場版の2巻でもよいが、残念ながら総集編ではなくテレビ版を見ていることを前提として作られているので、筋を追うことは困難である。それでもアニメの雰囲気を感じることはできるだろう。

 いずれにしろ「私の補完計画」はこれで完了する。


参考文献・ホームページ

・阿世賀浩一郎『エヴァンゲリオンの深層心理−「自己という迷宮」』三修社、1997年

・五十嵐太郎編『エヴァンゲリオン快楽原則』第三書館、1997年

・特務機関調査プロジェクトチーム『新世紀エヴァンゲリオン完全解体全書』青春出版社、1997年

・阿世賀浩一郎ホームページ『「新世紀エヴァンゲリオン」論考』 http://www.asahi-net.or.jp/~tn7k-asg/index.htm

・童話作家・北村正裕の部屋『永遠のエヴァンゲリオン』 http://member.nifty.ne.jp/kitamura-masahiro/eva.htm


ブームが一段落してからエヴァ・ファンになりました。語り合う相手がいなくて寂しい思いをしています。メールお待ちしています。 htanaka@rikkyo.ne.jp


 

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