南北問題と開発教育


貧困の悪循環−開発問題の本質

田中治彦『南北問題と開発教育』(1994)第1章より

最終加筆  1998年3月17日


ポイラ村のモシュミ

貧困の悪循環

貧困とは何か?

人口の圧力

農民層の分解

黄金のベンガル

植民地支配とジュート生産

パキスタンというくびき

いばらの道

「ダッカからダンディへ」

[注]


 南北問題および開発問題の原因は遠く植民地時代に求めることができ、その構造は各国の国内事情と国際経済とが絡みあって複雑である。この複雑な問題を誰にでもわかりやすく解きほぐすのが開発教育の課題でもある。バングラデシュを例にとって開発問題および南北問題の本質にできるだけ迫ってみよう。

 バングラデシュは国連の基準で後発発展途上国(LLDC)に分類される貧しい国である。1971年にパキスタンより独立して以来、日本とも近い関係にある。バングラデシュのある農村に住む子供たちの生活を見ながら、貧困とは何か、開発とは何かということを考えてみたい。

 

ポイラ村のモシュミ

 ポイラ村(人口約2万人)に住むアクタール・モシュミは小学校4年生の女の子、スジャータは14才の女の子である。彼女らの一日の生活をまず追ってみよう。モシュミは朝6時頃に起きて、7時には学校に行く。隣村のテロスリー小学校までは30分かかる。手には数冊の教科書とノートを持っており、カバンはない。学校では長椅子と長い机に4〜5人が座っている。小学校は5年間でしかも二部制である。午前11時までが小学校、その後がハイスクール(第6〜10学年)である。スジャータはハイスクールの在学生なのでまだ来ていない。

 スジャータの朝は忙しい。水汲みに牛の乳絞り、弟たちの朝食も作る。モシュミと交替で学校へ行く。ハイスクールでは英語の授業が行われている。学校から帰ってきたモシュミは近所の子供たちを集めてお話しをしたり、字を書いたりしている。子供たちの中には貧しくて文房具を買えなかったり、親の農作業を手伝うため学校に行かない子もいる。子どもは貴重な労働力なのである。学校から帰ってきた子供たちは大きい子も小さい子も一緒に遊ぶ。木登りをしたり、タコ上げをしたり、池で水浴びしたり、またサッカーも人気がある。

 夜、ポイラ村には電気が来ていないのでランプの光の中で食事をする。食事は大体ごはんにカレーをかけたものである。これにダルと呼ばれるスープが付くこともある。食事は手で食べる。食器はアルミなどの金属製で、食後は枯れ草をタワシ代わりに、土を洗剤代わりにしてきれいに洗う。お風呂の習慣はなく、池や井戸で水浴びして体を洗う。

 バングラデシュの人口(約1億人)の約8割が農業を営む。ポイラ村では農業はほとんど手作業である。田んぼに水を供給するために足踏み式のポンプを使用したり、川の水を「振りざる」で二人で用水路に汲み上げる。唯一の動力は牛である。皆が農地をもっているわけではない。地主がいて小作人として土地を耕したり、最近は「土地なし農民」といって人の土地を耕して日当をもらう農民が増加している。しかし、一日働いても30タカ(約100円)にしかならない。食い詰めた人々は首都ダッカに出て働いたり、遠く中近東や日本に出稼ぎにいく人もいる。モシュミのおとうさんもそうした一人である。モシュミの母親は出稼ぎに行っている夫に手紙を書くために今字を習っている。村では字を覚えたい大人のために夜識字学級が開かれている。それでもバングラデシュ全体では識字率は30%にしかならない。

 

貧困の悪循環

 モシュミたちの生活を紹介しているのはバングラデシュで活動する日本のNGO「シャプラニール−市民による海外協力の会」が製作した開発教育ビデオ『わたしの国・わたしの村−バングラデシュ』である。(1) モシュミらの生活の中からポイラ村が抱える課題について考えてみよう。以下は、1994年2月に豊田市国際交流協会などの主催で行われた国際交流指導者研修会の参加者約10名に考えてもらった内容である。ポイラ村の問題点を探る前に参加者にはこのビデオを見て気付いたことを述べてもらった。

 「子どもたちが真剣に授業を受けていた」「教室の机が一人にひとつづつない」「二部制の授業」「女性の服装(サリー)がとてもあざやか」「子どもが農作業を手伝っている」「家族の人数が多い」「家族全員が一同に食事」「子どもがやせている」「手押しポンプの井戸」「夜はランプ生活」「お皿をわらで洗っていた」「働いている人は女性と子どもが多い」「夜の識字学級に多くの主婦が参加」等など。やはり日本との違いに目が行く。物質的な貧しさと子どもや女性の元気さが印象的だったようである。

 この村の問題点と課題を各参加者にカードに記入してもらい、それを分類した。多くの項目が出されたが、その主なものを分類すると次のようになる。

 

 [収入]収入が少ない。労働にあう収入が得られない。

 [人口]人口の増加。人口問題への無理解。

 [農地]地主制度の存在。農民でありながら自分の土地をもっていない。

 [産業]農業しか産業がない。

 [農業技術]機械化が遅れている。適正技術の導入の不足。

 [住居]住宅が貧弱。

 [健康]食事の質が悪い。トイレがないので不衛生。健康・衛生対策の遅れ。

 [教育]教育施設・設備の不足。教育者の不足。

 [成人教育]識字率が低い。成人の再教育不足。

 [災害]サイクロン等の防災対策の遅れ。被災者に対する国の補償制度がない。

 

 次に、これらの項目の因果関係を矢印で結んでいく。矢印は錯綜して相互に関係しあい最終的に図にはループが出来た。貧困だから食事の質が悪く栄養状態がよくない。そのため病気にもかかりやすく、労働にも支障をきたす。その結果生産は上がらずますます貧しくなる。貧しく子どもの労働力に頼らねばならないから子どもを学校にやることができない。学校に行けないから新しい技術やアイディアを取り入れることができず生産性は向上しない。そのためやはり貧困からは抜け出せない。児童労働に頼らねばならぬので子どもの数を確保しなければならない。そのため人口はますます増加して、一人当たりの農地は狭まっていく。従って生産は減少する。

 どこから始めても巡り巡って戻ってきてしまう。それぞれが原因となり結果となってより悪い方向へ進んでいく。これを「貧困の悪循環」という。貧困の悪循環はポイラ村のみならずバングラデシュ全土で、あるいは第三世界全体に見られる現象である。ポイラ村の開発を考えるならばこの悪循環をどこかで断ち切らねばならない。国際交流指導者研修会では、自分たちがポイラ村の委員会になったつもりでこの村の最大の問題点、ネックとなっている課題を一つだけ選んでもらった。長時間の議論の末、このグループでは「教育」をとりあげることとし、具体的な計画作りを実施した。

 さて、実際のバングラデシュの村では一体どのような事業が行われているのであろうか。約20年間の活動実績をもつシャプラニールでは、長い試行錯誤を経て現在では、@収入向上、A教育、B保健衛生の3本柱で事業を展開している。

 

貧困とは何か?

 『わたしの国・わたしの村−バングラデシュ』のビデオを見て、その中にバングラデシュの農村ののどかな生活を発見したがとりわけ「貧しい」とは感じなかった、という意見もあった。果たしてモシュミやスジャータは自分たちが貧困であると感じているであろうか。そこで「貧困」について少し考えてみたい。南アジアの研究者である中村尚司はその著『豊かなアジア、貧しい日本』の中で、従来考えられた貧困の3つの基準を紹介している。(2)

@ 所得基準

 小遣帳や家計簿から国民所得勘定まで、個人や社会の活動に必要なものすべて金額で表示し、カネを基準に貧富を区分する方法である。……国際連合、世界銀行、国際通貨基金などの国際機関では、一人あたり国民所得(GNP)の額に応じて、貧富の程度を分類している。

 A 栄養摂取基準

 価格によって表示される所得水準やGNPが経済生活の実態を必ずしも正しく反映するものではない、という反省から生まれたのがこの基準である。生命維持に不可欠な栄養物の摂取量を基準に、貧しさの程度を判定しようというのである。通常、一日あたりのカロリーや蛋白質の摂取量に、幼児死亡率や平均寿命を加えて、絶対的貧困の線を引く。……

 B 生活資料水準

 生命を維持するだけでは人間の生活とはいえないので、栄養摂取量以外の生活に必要な諸資料を含めた基準である。適当な食糧、住居、衣服、家具など個々の家庭に必要なものと、飲料水、公的輸送、医療教育、文化施設などの社会的なサービスとに分かれる。」

 中村はこれらの基準が結局モノやカネが十分にあるかという常識を超えるものではない、と指摘した上でこれらの基準で貧困を判定することの妥当性に疑問を呈する。(3) 「貧困が貧困として意味を持つのは、個々人の力ではどうすることも出来ない外的な諸力によって、経済的に従属させられている社会関係においてである。単なる従属的な社会関係一般が貧困を生むのではない。経済的な従属関係が貧困を生み出すのである。」

 西川潤はその著『貧困−21世紀の地球』において、現代の日本のサラ金問題、高齢者問題、受験戦争などを取り上げて貧困を「生活の不安定性の増大」と捉える。また日本の富とアジア諸国の貧困とが裏腹な関係にあることを指摘した。その上で貧困を次のように説明する。(4) 「わたしたちはさきに、『貧困』を『最低限度の生活を維持できない』こととのべ、つぎに『生活不安』にさらされる相対的(二次的)貧困、または権利の剥奪に発する新しい貧困問題をこれに加えた。」文章前段は中村の示した従来の3つの基準に相当するものであり、後段は「経済的に従属させられている社会関係」に類する説明である。

 モシュミやスジャータが「貧困」であるか否かは、その食べ物や衣類が粗末であるかどうかではなく、彼女らが自らの人生を自らの手で切り開いていける条件があるかどうかに関ってくる。中村は「貧困から抜け出す道は、狭義の経済学が説くような経済成長でもなければ経済開発でもない。従属的な経済関係を断ち切り、自立するため内発的発展の道を選ぶよりほかないのである。」と述べる。 (5) これは開発とは何なのかということや、政府やNGOの国際協力の方法にも関る問題であり、後の章において詳細に検討することにしよう。

 

人口の圧力

 バングラデシュの貧困問題を考える際、過去30年余りの急激な人口増を見逃すわけにはいかない。一般に人口は産業の発展に伴い図のように変化する。すなわち、高出生率、高死亡率の第T局面から、高出生率、低死亡率の第U局面に移動し、生活水準の高まりとともに低出産率、低死亡率の第V局面へと移行する。第Tと第V局面においては人口は停滞ないしは微増である。死ぬ人の数よりも生まれる子どもの数が多い第U局面では人口は増加する。日本はわずか100年の間にこの3局面を駆け抜けてきた。江戸時代、日本は死ぬ人の数も生まれる人の数も多い第T局面で人口は約3000万人で停滞していた。ところが、明治以降の近代化の中で、食料の生産性の向上、工業化による生活水準の向上、教育の普及などの要因により死亡率が急速に下がり人口増加が始まった。この増加は1960年代の高度成長期まで続き日本の人口は1億人を超えた。その後、子どもの家計負担の増大、女性の社会進出などの要因により少子化が進み、人口は微増に転じている。現在では、21世紀における日本の人口の停滞と高齢化が深刻な問題としてとりあげられていることは周知のとおりである。

 1951年以降のバングラデシュの人口推移は高出生率、低死亡率という典型的な第U局面である。バングラデシュが東パキスタンであった1950年代から、先進国で開発された殺虫剤や薬品によりマラリア、黄熱病、天然痘、コレラなどの死に至る病が制圧されていった。また公衆衛生計画の導入により乳児死亡率に改善が見られた。ところが、高い死亡率に打ち勝つために高い出生率を維持しなければならないという長い間の慣習、人々の価値観そして社会制度は容易には変わらない。このため、1961年(東パキスタン)の5522万人から、1991年の1億799万人まで過去30年間で人口は倍増した。現在でも子どもは一家の貴重な働き手であり老後生活の唯一の頼りである。バングラデシュの人口が低出生率、低死亡率の第三局面に移行するにはまだまだ時間がかかる。(6)

 

農民層の分解

 バングラデシュの領土(14.4万平方キロメートル=北海道の約2倍)のほとんどはガンジス、プラフマプトラ、メグナの3大国際河川とその支流によるデルタ地帯である。ベンガル・デルタを豊かにしているのはこれらの川が毎年繰り返す洪水である。水流は季節によって大きく変化し、4月頃の最低であった水位は雨季を経て7〜8月に最高水位に達し、乾季に入って徐々に低下する。稲作は主としてその氾濫原を利用して行われ、水は伝統的に天水に依存してきた。(7)

 ベンガル地方の伝統的農業は20世紀初頭までには新たな開墾地がなくなってしまい、長いこと停滞してきた。農業生産の成長が始まったのは1950年代半ばからである。農業生産が増加する要因は技術革新によるものであった。それまで洪水の際水没しない高位地だけで作付された稲が中位地や低位地に進出して雨季に二期作が可能となった。品種改良によって二期作に適した品種が開発されたことによる。1960年代の中頃からは「緑の革命」により潅漑が可能な地域では乾季にも作付ができるようになった。最初はフィリピンの国際稲作研究所で開発されたIR品種が普及したが、後にバングラデシュ稲作研究所が開発したBR品種に移行していった。これで雨季だけの二期作に比べて約2倍の収量を得ることができるようになった。1970年代末より主要食糧穀物の増産率は年率3%を超え、人口増加率(1981年で2.32%)を上回るようになった。

 にもかかわらずバングラデシュ農村の食糧事情が好転しないのはなぜであろうか。緑の革命による高収量品種は潅漑、化学肥料などを必要とする。これを賄うのは米の販売収入であるから、高収量品種の導入は穀物生産の商業化を押し進めた。潅漑が可能な農家とそうでない農家、水を供給できる農家とそれを買う農家との間で次第に格差が拡大する。これに人口急増による農地の細分化が加わることにより農民層の分解という現象が生ずる。零細農民や土地なし農民が増加したのである。食糧が増産される一方で、農村の貧富の格差の拡大という現象が同時並行で起きているのがバングラデシュの現状である。(8)

 

黄金のベンガル

 日本におけるバングラデシュのイメージはおそらく「貧困」に結びつくものであろう。しかし、バングラデシュは歴史的に見て決して貧困の代名詞ではなかった。1913年にアジアで初めてノーベル文学賞を授賞したベンガル詩人ロビンドロナト・タゴールはこう唄った。(9)

 

  わたしの黄金のベンガルよ、

   わたしはあなたが好きで好きでたまりません。

  あなたの空、あなたの風は、

   わたしの胸の中にある笛をいつも鳴らしてくれます。

  ああ、お母さん、早春のあなたのマンゴー林が放つ香りは

   わたしの魂を夢中にさせてしまいまいます。

  ああ、お母さん、

   わたしは死ぬほど幸せです。 

  お母さん、晩秋の

   あなたの実り多き田畑に

  わたしはお母さんのすてきな笑顔を見ましたよ。

   ・・・

 

 黄金のベンガルを貧困の代名詞にしてしまったのは誰なのか。この問いを解く鍵はこの国の歴史の中に存在する。現在のバングラデシュは1971年に独立した若い国である。その前は東パキスタンと呼ばれ1947年に独立したパキスタンの一部であった。それ以前は大英帝国の支配するインドの中のベンガル州であった。英領ベンガル州には現在のインド領西ベンガル州も含まれる。バングラデシュの近代史を語る時には、その英領植民地時代に遡る必要があろう。(10)

 

植民地支配とジュート生産

 イギリスのインド亜大陸における領土的支配はベンガルに始まる。1757年イギリスはブラッシの戦いに勝ち、フランスに代わって商業的覇権を確立するとともに1765年に東インド会社がベンガルの太守の財務権限を奪いとる。イギリスはその後次々とインド各地を植民地化し、1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を鎮圧して58年にインド全土の直接統治を開始する。1877年にはヴィクトリア女王がインド皇帝となり、「インドは女王の王冠にちりばめられた最も大きな輝かしい宝石」と言われるようになる。

 早くからイギリスの植民地となった東ベンガルは植民地経済のあらゆる特徴を備えている。ムガール帝国の宮廷や広く海外にまで知られていたダッカのモスリンは19世紀半ばまでに衰退してしまい、代わってヨーロッパへの輸出用や植民地インド内のイギリス系工場向けの藍やジュートなどの工業原料作物の生産地に変えられた。そのため原料の生産は奨励され商業も発展したが、工業の発展は意図的に押さえられた。藍生産の中心は1980年代にビハールに移り、それ以降ジュートのみが世界市場向けの商品となり作付けられた。ジュートはさまざまな物資の運搬に用いる梱包材として19世紀後半に世界市場に登場した。

 原料のジュートは一般農民によって各自の農地で生産された。商人はこれを買い集め、イギリスのダンディに送った。そこで原料ジュートは紡織されて世界各地へ出荷された。19世紀末頃からはカルカッタ周辺でジュート工場の建設が進み(ほとんどがイギリス資本)、ジュート加工品を輸出するようになった。特に第一次大戦を契機にベンガルのジュート産業はめざましく発展しダンディの生産を追い越した。ジュート景気は東ベンガルの農民に貨幣収入をもたらし、東ベンガルの豊かさが言われるようになった。タゴールが「黄金のベンガル」と唄ったのはこの頃である。ところが、1929年に始まる世界大恐慌は世界の貿易量を激減させ、当然商品の梱包材であるジュート需要も減った。これまでの好景気で商品経済に巻き込まれていたジュート作農民にとって打撃はことの他大きかった。第二次世界大戦中の1943年のベンガル大飢饉が彼らの惨状に追い撃ちをかけた。

 東ベンガルがパキスタンの一部として英国から独立する時、この地域の工業化水準は極端に低かった。独立時東パキスタンには335の工場しかなく、そのほとんどが農産物の加工工場であった。イギリスはベンガルを工業原料の供給地としてしか見なさなかったのである。こうした経済構造はモノ・カルチャーと呼ばれ植民地支配から脱した国々の経済発展の足枷となるものである。現在もバングラデシュはジュート産業が最大の輸出産業である。現在の日本とバングラデシュはほぼ同じ規模の人口を擁する。日本は江戸時代に鎖国をし幸運にも植民地支配から逃れたため独自にさまざまな産業を発展させた。そのおかげで現在も味噌、しょうゆから自動車、コンピュータに至るまで様々な生産活動を行い諸外国と貿易摩擦を起こすほどの黒字を計上している。もし、仮に1億の日本人がこの国土で米とジュート生産だけで食っていけといわれたら、我々の生活水準はどうなるか想像してほしい。植民地経済の遺産とはそういうものなのである。

 

パキスタンというくびき

 英領インドから分離独立した東パキスタンは喜びもつかのま、今度は西パキスタンの植民地的存在となった。図は東パキスタン時代の物流である。ジュート輸出による外貨収入は西パキスタンの機械・原材料輸入に充当された。政府は国内産業育成のために外国製品に高い関税をかけた。そのため東パキスタンで消費する物資はすべて西パキスタンから買わねばならなかった。自分たちが作った製品の代金は「西」で使われ、その上「西」の消費財を買わされるという植民地そのままの経済構造であった。

 さらに東パキスタンの主要工業であるジュートおよび綿工業の大部分は西パキスタンの財閥の資本か、政府開発公社と組んで投資したものである。その利益は「西」に送金され、「東」に再投資されることはなかった。このため、独立当時はほぼ同水準であった一人当たりのGDPは1970年には1対1.6に拡大した。

 植民地的な支配は文化にも及んだ。もともと東ベンガルが西パキスタンとともに同じ国を作ったのはイスラム教という共通の宗教をもっていたからである。インド独立に当たってはヒンズー教とイスラム教との対立が極点に達しており、宗教上の共通性のみで同じ国家を形成した。しかし、それ以外は民族的にも言語的にも共通点はなく、むしろインド領になった西ベンガル州と文化と言語を共有する。

 パキスタン政府は西パキスタンの共通語であるウルドゥー語のみを国語として東パキスタンにも押しつけようとした。1952年2月21日これに抗議する学生に警官が発砲して4名の犠牲者を出した。この事件がバングラデシュの言語ナショナリズムの原点となった。1966年にはアワミ連盟が6項目要求を掲げ、東の自治権の確立を主張した。1970年12月、パキスタン始まって以来初の民主主義的選挙で東パキスタンの自治権確立を主張したアワミ連盟が東パキスタンのほぼすべての議席を獲得した。これに対して政府は軍事的弾圧を強行し、インドが東ベンガルの軍事支援に乗り出したことから内戦状態となった。1971年12月16日に「東」は解放戦争に勝利しバングラデシュの独立を達成した。

 

いばらの道

 独立を達成したバングラデシュではあったが現在に至るまで政治的に安定せず、初代首相で建国の父と言われたムジブル・ラフマンを含め2人の国家指導者がこの間暗殺された。政治体制も社会主義、軍事独裁、民主主義と揺れうごきながら、果たしてその実態がどれほど変わっているのかわかりにくい。

 経済的にも自立できてない。独立以来3次にわたる5か年開発計画にもかかわらず、一人当たりの国民所得は200ドルに達せず、食糧自給も達成していない。国際収支は恒常的に赤字で、貯蓄率も低いために国内の投資に回す財源がない。低い国民所得 → 低い貯蓄率 → 投資財源の欠如 → 低い経済成長 → 低い国民所得。これもまた経済学上の貧困の悪循環である。これを断ち切るためには外国からの投資や援助に頼るほかはない。国家予算の半分、政府開発投資の9割以上を外国援助に依存している現状であるが、それでもこの悪循環を良循環に転換するに至っていない。バングラデシュにとって日本は最大の援助供与国である。日本の側からもバングラデシュはしばしば国別援助額の上位10傑に登場する。

 

「ダッカからダンディへ」

 イギリスのリーズ開発教育センターは、バングラデシュとイギリスの歴史的関係と現状を元にして『ダッカからダンディへ』という教材を開発した。これは「開発とは何か」「ジュート製作所」「移民と移住」「女性プロジェクト」「イギリスの開発」など7ユニットからなる総合的な教材である。小貫仁(埼玉県高校教諭)らは開発教育ワークショップを行い、『ダッカからダンディへ』を元にして日本の実情に合った教材開発を共同で行っている。「ジュートとバングラデシュ」という農民一家3代が登場するロールプレイの脚本が雑誌『開発教育』に紹介されている。これまで述べてきたバングラデシュの歴史が農民の口から実感をもって語られている。(11)

 

「ロールプレイ・ジュートとバングラデシュ(脚本)」

 

 バングラデシュの農村で先祖代々ジュートを作っている男性。年齢は43才で子どもが3人。自分の土地はほんの僅かで、多くの土地は地主から借りている。だから大変貧しい生活を送っている。

 

[畑からの帰り道]

(三代目) また大洪水でジュートがとれない。でも、収穫ができても仲買人が儲けるだけで俺たちの儲けは僅かだしな。そろそろジュートの代わりに米でも作るか。それとも、町に行くか。ジャパンへでも行って働くか。それにしても、親父の時代もこんなだったのかなぁ。

 

−二代目(主人公の父)の回想シーン[1950年]−

(二代目) 新しい国というものはいいものだ。俺たちの国もやっと3年前イギリスから独立した。まぁ、目の上のたんこぶがなくなったようなもんだ。それまでは、俺たちが汗水流してつくったジュートを売って儲けていたのはイギリスだったからな。それに今度、制度が変わって、大地主の土地が俺たちのものになったんだ。自分の土地が手に入ったし、これからは一生懸命働けばいい生活ができる世の中だ。がんばるぞ〜!。

[西パキスタンの資本家登場]

(資本家) やあ、今年のジュートの出来ばえはどうだい?

(二代目) これはだんな。ジュート畑を見にきなさったのですか。今年はいい出来ですよ。

(資本家) そうか、それは良かった。

(二代目) だから、今年は少し高く買ってもらえませんか?

(資本家) それはだめだな。

(二代目) ジュートは外国にとても高く売れるって聞いてますよ。儲かっているんでしょう。少しは値を上げて下さいよ。

(資本家) あぁ、まあまあだな。だけど、その金はジュートの加工工場を建てるのに使うんだ。わが国は独立したばかりだが、これからこの国を発展させるには工業化をすすめなければならない。国が発展すれば、お前もじきにいい生活ができるようになるさ。

(二代目) でも、私は今、生活が苦しいんです。私をその工場で雇ってもらえませんか。

(資本家) それは無理だな。工場は西パキスタンに作るんだから。

(二代目) なんで、何でも西パキスタンに作るんですか。ジュートは東でとれるのに……。

(資本家) その通り。東パキスタンはジュート栽培に向いている。ジュートは外国に売れる大切な作物だ。それを売った金で工業化に必要なものを外国から買う。だから、お前たちは、ここでしっかり働いて良いジュートを作りなさい。

[資本家退場]

(二代目) [独り言]「ちぇ、これじゃあ、独立したってあんまりかわらないじゃないか。親父の頃はなぁ……。

 

−一代目(主人公の祖父)の回想シーン−

[ぶ然とした表情でのろのろとジュートの植付け]

(一代目) やれやれ地主の奴、「小作料を上げる」だと? フン、イギリスの手下に成り下がりやがって。

[一旦作業を再開するが、ふと畑を見て、しみじみと]

 しかし、昔から地主って奴はいたが、ジュートは家のロープとか、篭とか、要る分だけつくってりゃ誰も文句なんて言わなかったそうじゃないか。

[遠くから誰か来る。あわてて畑に戻ろうとする。インド政庁の役人、早足で来て尊大そうに]

(役人)  おい、お前。いや、キミ。

(一代目) はあ。

(役人)  はあ、じゃない。地主の取り立てが終わらんと聞いて来てみたらこのザマか。何をノロノロやってるんだ?

[詰め寄って、相手の顔をさして演説調に]

(役人)  わが大英帝国は何を求めているか? 利益だ!貿易だ!輸出だ!−何が要る?−そう、輸出貨物用の袋だ!ロープだ!

[ふと考え直して]

 いや待て? 加工すりゃ儲かるんだ。よし、それはわが国でやる。お前らは原料だけでいい。さぁ、早く、ジュートだ! ジュートだ!!

[役人、一代目を追い立てるかたちで退場]

 

−回想シーン終わり−

[三代目が家に着く。地主が家に見廻りに来る]

(地主)  小作物はまだなのか。遅いぞ。ごまかすんじゃないぞ。

(三代目) いや、地主様。この間の大雨で浸水してしまって全くとれねぇんですよ。半分も持っていかれたら、生きていけないです。かんべんして下さい。

(地主)  ふざけんじゃない。さっさと持ってこい。

[地主退場。仲買人登場]

(仲買人) 今年は一山50タカだけだ。

(三代目) エッ! 去年は60タカだったじゃないですか。

(仲買人) インドやネパールのジュートと競うには、これがぎりぎりだ。最近じゃ科学繊維に押されぎみなんだぞ。安いと言ったって、俺のところに売るしかないだろ。

[三代目渋る。仲買人退場。三代目の妻、ジュート加工品を持って登場]

(妻)   あなた、これを見て。この間、隣村のいとこが言っていたんだけど、ジュートでこのような手工芸品を作ると何十倍ものお金になるんですって。ダッカに持っていけば、海外との取り引きができるらしいわ。

(三代目) 本当なのか? ジュートはそのままでしか売れないと聞いていたけどなぁ。そんな手もあったのか。昔に比べると値段も下がってきたけれど、俺にはそんなもの作れねえよ。

(妻)   何かお互いに助け合っていけるような工夫ができないかしら。手工芸品の作り方を教えてくれる所があるらしいわ。それに、お金も安く借りられて、字の読み書きも覚えられるんだって。私も行ってみたいと思っているの。

(三代目) 女は家にいるものだ。子供の世話や、水汲み、食事の支度、いろいろやることがあるだろ。

 

[注]

(1) 「シャプラニール」製作、開発教育ビデオ『わたしの国・わたしの村−バングラデシュ』

(2) 中村尚司『豊かなアジア、貧しい日本』学陽書房、1989、154〜155頁。

(3) 中村尚司「貧困」『臨時増刊世界−世界を読むキーワード』1989年7月、63頁。

(4) 西川潤『貧困−21世紀の地球』岩波書店、1983、9頁。

(5) 中村尚司「貧困」、63頁。

(6) 長田満江「人口の増加、都市化、失業」臼田雅之(他編)『もっと知りたいバングラデシュ』弘文堂、1993、192〜194頁。

(7) 前掲書、2〜36頁。

(8) 藤田幸一「農村の新しい変化」前掲書、215〜227頁。

(9) このタゴールの詩は現在バングラデシュの国歌となっている。

(10) バングラデシュの歴史については次の書物を参照した。臼田(他編)、前掲書。加賀谷寛、浜口恒夫著『南アジア現代史U』山川出版社、1977。吉岡昭彦『インドとイギリス』岩波書店、1975。東京山手YMCA『アジアの開発と私たち−インドネシア・バングラデシュ』、1984。

(11) 「開発教育ワークショップ−”もの”を使った開発教育」、開発教育協議会『開発教育』第26号、1993年3月、79〜82頁。『開発教育』24号にもワークショップ関連の記事がある。


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