| 『有明海の生き物たち』 佐藤正典編、海游舎 有明海での海苔への漁業被害が深刻だそうである。アサリもだめだし、高級寿司ネタに使われるタイラギ(貝)もほとんど取れなくなった。あの諌早湾の内奥部を閉め切った潮受け堤防のせいである、と私は思っているが、「それは”科学的に”証明されたわけではない」、と農水省は言っているそうだ。だが、こんなときは素朴に「やっぱりあれが悪い」と思うのが庶民の健全な”科学的感覚”というものである。私はあの”ギロチン”を見たとき、有明海ほどの潮の干満の大きな内海で、最奥部の豊かな干潟をあの規模で消滅させることが、どれだけ湾の生態系に悪影響を及ばすかを、それこそ”素朴な”生態学者の感覚で感じとったものである。 そんな折り、有明海の生物相についての本が出版された。有明海とはどんなところか、その固有性と成立の歴史からはじまって、その生物多様性を保全するための提言まで、21人の研究者が分担執筆したものである。 この本によると、有明海には23種の有明海特産種が生息しているという。ムツゴロウやワラスボ、ヤマノカミといった魚類は日本では有明海にしか分布していない。アリアケヒメシラウオやウミマイマイなど、有明海以外には世界のどこにも分布していない、つまりここで絶滅すれば地球上から永遠にその種が失われる貴重な種類も生息している。地味な本ではあるが、読んでいくにつれ、有明海の豊かな生物多様性と固有性の高さが、いまさらながらすごいものだと思えてくる。日本で、有明海ほど、固有性の高い内湾は存在しない。 生態系は、多種多様な生物のネットワークとして成り立っているのであり、ある生物が珍しいから、それだけ守りましょう、ということは論理的にも成り立たない。有明海固有の生態系を守り、維持していくために、今、何が必要か。諌早湾において、20世紀末ゼネコン日本を象徴する最後の”野外実験”の結果が明らかになりつつある現在、その答えはおのずと明らかだろう。無能な農水官僚と族議員に、税金を無駄に使われた我々にも当然言いたいことはあるが、新しい世紀に、国家賠償責任を問う裁判の原告席に座るのは、ムツゴロウをはじめとして、この本に出てくる有明海の生き物たちでなければならない。 『鳥類生態学入門』 山岸哲編著、築地書館、本体価格2500円 昔、「鳥では飯は食えない」とずいぶん多くの人から言われた。もちろん鳥といっても焼鳥屋のオヤジや養鶏場の経営ではなく、鳥の研究を志した場合、と言うことである。私もずいぶん長い大学院生活と無給の研究者生活をおくったから、たしかに「鳥では飯が食えない」のは事実であった、と思う。現在でも日本の大学には鳥類学の研究室は一つもないのだから(アメリカの大学では鳥類学科を持つところさえある)。 だが、状況は徐々に改善されつつある。大学や博物館で鳥の研究ができるところがここ十年でずいぶん増えた。それはこの本の編著者の山岸哲氏が果たされた役割に負うところが大きいように思う。氏は日本における鳥学の確立と発展にこれまで一貫して大きな努力を払ってこられた。たとえば前書きの中で、山岸氏はこの本を中・高校生の自由研究から大学生の卒業研究に、そして修士コースの大学院生やアセス関係の研究者に役立てて欲しいと書いておられるが、そこには日本における若い研究者層を掘り起こし、鳥学の市民権を確立しようとする氏の願いが強くあらわれている。 ところでこの”中・高校生の自由研究”という部分を、人は何気なく読み飛ばすかも知れないが、これはとても大事なことではないだろうか。自然史諸科学を志す学徒にとって、中・高校時代における学問への動機づけは極めて大切である。少年時代に小鳥を撃つことから動物学に惹かれていったダーウインを例に挙げるまでもなく、山岸氏をはじめとして日本の鳥学をリードする研究者たちを見れば、かれらがほぼ例外なく、十代の頃から鳥と自然への興味を培ってきたということがわかる。これは長野で中学校の教員生活をおくった経験を持つ山岸氏だからこそ書けたのだと思う。 何はともあれ、こうした本が書店に並び、若い人がこの本で鳥類生態学の勉強ができる時代、つまりなんとか”鳥で飯が食える”時代になったことを、山岸氏と共に喜びたい。 『環境思想の系譜』 小原秀雄監修、阿部治ほか解説、東海大学出版会、各3605円 昔はエコロジスト=生態学者=変人という図式が世間の理解だったように思われるが、最近はグリーンピースから野鳥の会会員まで、環境問題に何らかの関心を持ち、何らかの形でそれを行動に表わしている人はすべてエコロジストだと言える。だが、こんなにエコロジストがいるのに、環境問題は一向に解決されず、自然保護運動がなかなか有効な成果をあげないのはどうしたわけなのだろうか。 私はそれを日本のエコロジストの思想と歴史的思考の欠如(簡単に言えば勉強不足)だと考える。たとえばディープエコロジー、ソーシャルエコロジー、エコフェミニズムなどの主張を正確に理解している人はどれだけいるのだろう。もちろん誰でも自然や環境に関する自分なりの漠然とした考え方は持っている。だがそれがどのような環境思想の中に位置付けられるのかをはっきり意識している人は少ないのではないか。私はこの本は、今の日本で、自然保護や環境保全に関心のある人が、自らの思想を自分で再確認するために読むべき本であると思う。 全3巻からなるこの本は、全体として人類史と環境思想、環境と科学技術、政治と環境思想、経済パラダイムの再考、社会派エコロジーの思想、環境と倫理、ディープ・エコロジーと自然観の変革、エコロジーと女性、宗教・芸術と環境観、日常生活と環境思想の10部からなり、アメリカの環境保護論者や自然科学者、哲学者、経済学者などによる合計39論文が収められている。これだけのメニューがあれば、私のようなものぐさエコロジストは好きなところだけ読んで満足できるし、何冊も本を探さなくても、環境保護の思想がどのような歴史を持ち、現代の環境保護運動に引き継がれてきているのかを容易に理解することができる。もちろん大学教員が学生に環境問題を講義する時にも、大変役に立つのは言うまでもない。(1995年8月号) 『フィンチの嘴』 ジョナサン・ワイナー著、樋口広芳・黒沢玲子訳、早川書房、2200円 私はオウム・ウォッチャーである。けれどオーストラリアに住んでいるからといって、モモイロインコやキバタンばかり見ているわけではない。オウムと言えば、そう、あの新興宗教なのだ。まあろくでもないやつらだが、この事件でただひとつ、日本人にとって有益だったと思えることがある。それはこれまで宗教というとなんとなくうさん臭いと思いつつ、共産主義者と橋本治以外は誰も宗教がうさん臭いと面と向かって言えなかったのが、この事件は彼等がとんでもない奴等だったということと同時に、ひょっとしたらどの宗教も本質的にはああいうものではないかという疑念を多くの日本人に抱かせたことである。 「それがこの書評と何の関係があるんだ」と言われそうだが、この本で扱われているグラント夫妻の研究こそ、進化論をものの見事に実証した研究だからである。聖書の一言一句が科学的真実であると信じるキリスト教原理主義者は、口を開けば「進化が起こったのを見た人はないでしょう」という。「チンパンジーがタイプライターを打って、シェークスピアの小説が書けますか(突然変異では進化は起こらない)」ともいう。かれら創造論者は(意外に)近代主義者である。かれらは実験室で実証できるものだけが科学だと思っている。そのくせ数日で進化してしまうウイルスや人為的な選択圧を与えればあっと言う間に原種とまったく違った形質を作り出せる育種は進化ではないと思っている。かれらを論破するには野外のせきつい動物での実証的研究が求められていたのである。この本で扱われているダーウインフィンチの研究の見事さは、まさに野外においても進化は目に見えるし、実証できるものだということを示した点にある。上陸さえ困難な絶海の孤島、ガラパゴスのダフネ島で20年に渡って続けられたグラント夫妻のダーウインフィンチの研究は、そのロマンとともに、ダーウイニズムの最終的勝利を告げるものであり、現代進化学の地平を開くものである。(1995年11月号) 『フェロモンの謎』 William C. Agosta 著、木村武二訳、東京化学同人、4200円 フェロモンとは同種同士のコミュニケーションに使われるニオイ物質のことである。たとえばゴキブリの集合フェロモンやアリの道しるべフェロモンなどは比較的よく知られたものだろう。だがフェロモンの範囲はもっと広い。たとえば配偶子(精子と卵子)同士が合体するのにもフェロモンは用いられている。 私たち人間は多くのほ乳類が用いることの出来ない色彩感覚を獲得したかわりに、匂い感覚をほとんど失ってしまった。だが私たち人間にもフェロモンは作用している。共同生活をしている女性同士の月経周期の同調はフェロモンの作用によっていることが最近わかったばかりだし、その周期が規則的になるのを進めているのは男性の分泌するフェロモンだという事実も明らかになっている。 面白いのは、自然界にはフェロモン擬態があることである。ある種のガの性誘因物質そっくりのニオイを出してそのガのオスをとらえるナゲナワグモ。ハチのメスに似たニオイを出して、ハチをおびき寄せて花粉を運んでもらうランの一種などは、あっと驚くような共進化の産物である。 では鳥ではどうか。残念ながら鳥ではこれがフェロモンだと言うものは見つかっていない。翼を持って空に舞い上がった鳥には化学的コミュニケーションの必要性は薄いのかも知れない。しかしマガモのメスの尾腺の成分が繁殖期に変化することやウミツバメ類やアホウドリ類などの強い体臭と嗅覚系の発達を考えると、鳥も種類によっては何らかのフェロモンを用いている可能性が高い。鳥とフェロモンの関係はまだ研究されていない未知の領域である。 この本はこれまでにわかっている種々の動物・植物・細菌のフェロモン利用について、豊富な事例を絵や写真で平易に説明している。そして何がわかって何がわかっていないのか、フェロモン研究の最前線を紹介するとともに、「この生き物がこんなことをしているのか」という、自分が知らなかった不思議を発見する喜びを満載した本である。(1996年2月号) 『共生とは何か』 松田弘之著、現代書館、2369円 共生という言葉はかつては「クマノミとイソギンチャクの共生」とか、「豆科植物と根粒菌の共生」とか、純粋に生物学の一概念を表すものであった。その”共生”という言葉が、なぜか今、ちまたではやっている。生態学者や生物学者だけでなく、環境保護論者や哲学者さらには政治家までが”共生”を口にするようになった。だがどれだけの人が共生の概念をはっきり理解しているのだろう。 一般に共生とは”お互いが利益を得る麗しい関係(双利共生)”と思われている。だが共生はそれだけではない。この本の中で著者は多くの人たちが漠然と抱いている共生感の修正を促している。共生とは双利共生だけではない。場合によっては寄生関係でさえ、”共生”なのだと著者は言う。それは寄生者を徹底的に排除できない場合、宿主は寄生者とどこかで折り合いをつけねばならないからである。異質なもの同士が、お互いの利益を増やす、またはそれ以上損をしないために折り合いをつけてくらすこと、それが著者の言う共生の概念である。「共生とは異質なものと共存するための概念」なのである。 第2章では著者は細胞内共生、掃除共生、消化共生など、生物界における様々な共生関係をあげて、”共生”の実像に迫る。第3章では生態系の安定性、生物の共存の仕組みをわかりやすく説明し、第4章では地球共生系という仮説に立ってラブロックの「ガイア仮説」を批判している。そして第5章の「持続可能な共生社会」で、水産庁の主任研究官でもあった著者は、なぜ魚資源の乱獲が起こるのかを論じ、「高く売る漁業」を人類に「安全な蛋白源を(多く)供給できる」漁業に転換しようと説く。そのために「漁業を国有化しよう」という著者の提言は説得力がある(私はこの章がいちばん面白かった)。21世紀を真の意味での共生の世紀にしようと説く著者はロマンあふれる数理生態学者である。 (1996年6月号) 『野生動物救護ハンドブック』 野生動物救護ハンドブック編集委員会著、文永堂、8240円 鳥のヒナ達が巣立つこの季節、私のところにもヒナが持ち込まれたり、知人から問い合わせの電話が入ることが多い。まったく鳥なんか研究していると「上田さんは鳥肉は食べない」とか、「傷病鳥はあの人のところへ持ち込めば助けてもらえる」とか、思われてしまっている。成りゆき上、引き受けてしまえばそれなりに手を尽くして、セッカやスズメを野外に帰したこともあるのだが、救護はまったくの自己流だったから、死なせてしまった鳥も多い。だからこの本を読んで、「ああ、昔、ゴイサギのヒナを殺してしまったけど、あのとき、こうしておけばよかったのだな」とか、「ひょっとしたらあのとき、この本があったら死なせずにすんだかも」と反省しきりである。 私たちはなぜ野生動物を助けるのだろう。それが絶滅に瀕している貴重な種類ならいざしらず、スズメやツバメを助けても、その個体が野外で生き延びてくれる保証はないし、そんなものは感傷的な自己満足にすぎないと言う人だっているだろう。だが野生動物の救護を考えるとき、「極めて個人的な感情による人道的行為」と「その行為が果たす公共的な役割」は区別しなければならない。それは救護が個人的な感情からはじまった行為だとしても、それが組織的におこなわれるならば、その個体が属する種について、単なる野外での観察だけからは得られない生物学的な情報、またその野生動物を脅かす要因についての情報が得られ、科学的な保全の対策が立てられる。野生動物の救護は単なる個人的な感傷を越えて、生物の多様性の保全に重要な役割を果たすだろうと著者たちは説く。 ほ乳類ではコウモリからクジラ・イルカ類まで、鳥類ではアホウドリからヒタキ類まで、そしてウミガメ類まで、数多くの野生動物の救護の実際を多数の写真や図を用いてわかりやすく解説している。行徳野鳥観察舎の蓮尾さんはじめ、実際に行政の救護施設や動物病院で野生生物の救護に関わっている第一線の人たちの手になるこの本は、野生動物の救護に関わる人たちにとっては必読の文献と言える。 (1996年8月号) 『保全生物学』 樋口広芳編、東京大学出版会、3296円 テレビや新聞でも、生物の多様性という言葉を目にすることが多くなり、トキを絶滅から救うことに感傷以外に何の意味があるのかとか、パンダがいなくなったって我々の生活に何の影響があるのか、などという人も少なくなってきた。多様な生物の存在そのものを守ることが人類の生存にとって必要不可欠のものであるという認識が広がりつつある。そうした世界的流れの中で、保全生物学という学問が産声を上げた。 保全生物学。それは自然界における生物の多様性の保全という視点から、生態学、行動学、遺伝学、生理学など、あらゆる分野の生物学を動員した新しい応用科学の一分野である。これまでたとえば生態学や行動学の研究者は、自然保護や希少生物の保護に関心は持ちつつも、その多くは自分のやっている学問は応用科学ではなく、基礎科学であると思っていたと思う。だが応用科学と基礎科学の間にはそんなに明確な一線が引けるわけではない。一見、基礎的で保護などに役立ちそうになかった研究が、希少種の保全に決定的に重要な役割を果たした例は、ニュージーランドのチャタムヒタキやアメリカのホオジロシマアカゲラの研究など、数多くある。役に立つか役に立たないかがはじめからわかっている研究などないわけだが、保全生物学の誕生はテーマに困っている多くの研究者に、研究の新しい道筋を豊富に展開してくれたと言えよう。 この本は保全生物学とは何かを、生物の多様性、生態系の保護、希少種の保護、野生動物保護における飼育繁殖の役割、普通種の問題などについて、これまで自分の専門分野の学問を通して、生物の多様性の保全に取り組んできた6人の研究者が分担執筆したものである。どの章も非常に具体的でわかりやすい。しかもきちんと世界と日本の最新の研究成果をフォローしている点がすごい。今後、保全生物学関係の書物は次々と出版されるだろうが、この本はそう簡単には古くならない本だと言える。(1996年11月号) 『太古の海の記憶ーオストラコーダの自然史ー』 池谷仙之・阿部勝巳著、東京大学出版会、3811円 「オストラコーダ?何やねん、それ?」と大方の人は聞き返すだろう。何せ、ワープロの変換キーを押しても「雄虎こーだ」となるくらい、のものだからである。介形虫の仲間(甲殻類カイムシ目)と言われてもさらに謎が深まるばかりで、一向に想像のしようがない”虫”、というのが第一印象だった。けれどオストラコーダが、あのウミホタルの含まれる目だとわかって、ちょっと親近感が湧いてきた。 この本の形式はとても面白い。専門書というと堅い読み物と思われるかも知れないが、この本は世界のオストラコーダ研究をリードしている2人の著者の往復書簡なのである。「ゲゲッ、なんやそれは!」と、ふたたび驚かないで欲しい。中村雄二郎と上野千鶴子の往復書簡には及ばないとしても、それなりにとても楽しめてしまう本なのである。 文章はスウェーデンに家族をつれて留学した阿部さんから池谷さんへの手紙から始まる。オストラコーダの研究史からはじまって、オストラコーダの生活史からその形態の意味、古生物学上の意義、世界のオストラコーダ研究者の人物像、飼育や研究の苦労話も含めて、2人の手紙の中身は縦横無尽に展開していく。 だいたい難しいことを難しく書くのは誰にでもできる。科学が細分化した現在、その分野、その材料は自分しか知らないからである。難しいことを誰にでもわかるように書くこと、これが研究者に求められていることである。この地球上にはこんな生き物もいるのだよ、そして研究っていうのはこんなにロマンに満ちたものなんだよ、と池谷さんと阿部さんの手紙はやさしく語りかけてくれる。 「新しい自然史科学へ向けて地球科学と生物科学の統合がまさに始まろうとしている」という、帯のコピーはちょっとおおげさかもしれないが、生物多様性が大きく取り上げられつつある今、地球上にこんなにも多様に展開した壮大な生命たちの歴史をひもとこうとする科学は、新しい科学でなければならないと思うのである。(1997年2月号) 『哺乳類の生態学』 土肥昭夫・岩本俊孝・三浦慎悟・池田啓著、東京大学出版会、本体価格3800円 日本の哺乳類研究は鳥と同じく遅れている。一部の害獣、つまりネズミとか林業に害を与えるシカやカモシカについては林業試験場などを中心に応用的な研究があったが、益にも害にもならない動物、イリオモテヤマネコとか、タヌキとかについては、ほとんど研究者がいなかった。だいたい中・大型の動物は追跡するだけでも大変である。肉食獣はほとんど夜行性だし、草食獣は行動圏は広いし、日本は山ばかりで追っかけるにも体力はいるし、獣と人の摩擦は社会問題となるしで、てきぱきと仕事を進めて、論文を生産して、就職しようとする若手にとっては、中・大型の哺乳類には、まず近づかない方がいい、というのが時代の趨勢であったのだ。このあたりの事情を第一章で、4人の著者を代表して土肥昭夫さんが述べている。だが時代は変わってきている。たとえば1950年以前に日本で出されたほ乳類の論文が155編しかないのに、それ以降、一〇年ごとにほぼ倍々で増え続け、80年代の10年間では816本、食虫類からクジラまで、質・量ともにすぐれた論文がどんどん生産されるようになってきている。まだまだ若手の就職の状況は厳しいが、それでも未来に光は見えてきている。 この本は九州大理学部の生態学研究室の小野勇一さんのもとで哺乳類研究を行ってきた4人の若手研究者(現在は中堅)が共同執筆したものである。全体の構成は第一章に続いて、第二章繁殖(三浦)、第三章個体群と生活史(三浦)、第四章採食(岩本)、第五章性選択(三浦)、第六章社会システム(土肥)、そして第七章哺乳類の将来で池田啓さんが保全生物学を展開する。総花的な構成ではなく、それぞれの分野の研究者が、最新の哺乳類研究の成果をかなり深くまとめていて、一昔前の一般的な生物学・動物学の教科書とはひと味違った構成になっている。 鳥学分野でも同じことが言えるのだが、この本を読んで日本でもようやく本格的に近代科学としての哺乳類学が確立してきたとの感を持った。今後、哺乳類学をこころざす若い人たちが輩出することを期待したい。(1997年5月号) 『花と昆虫がつくる自然』 田中肇著、保育社、本体価格2400 円 ミツバチは花から蜜や花粉をもらうかわりに、遠くの花に花粉を運んでやる。花粉の媒介者と花はこのように持ちつ持たれつの”共生関係”にあると、ここまでは小学生でも知っている。だが問題はその次である。花も楽をしたいし、ミツバチも楽をしたい。双方とも利己的に自分の最大限の適応度を追求するとき、進化はそんな場面でこそ働くのである。だから花とミツバチの関係はけっして”麗しい共生関係”ではない。花はミツバチに持って行かれる蜜をなるべく少なくしたいし、花粉も効率的に他の花のめしべに運ばれるのならいいが、ミツバチの巣へ持ち帰られて、幼虫のエサにされてしまう分はなるべく少なくしたい。一方、ミツバチは使うエネルギーはなるべく少なくして、大量の蜜や花粉を集めたい。こうして、花と花粉媒介者の間に、”双方共に楽をしたいがゆえの共進化”が起こっていく。保育社エコロジーガイドの1冊のこの本は、そうした花と花粉媒介者の共進化関係を、美しい写真とわかりやすい解説で読者の前に生き生きと展開してくれる。 著者の田中肇さんはプロの研究者ではなく、貴金属の細工を本業としている。その本業のかたわら、野外に出ては花を観察し、撮影し、その構造やフェノロジーについて思索をめぐらすナチュラリストである。それくらいなら誰にでも出来そうである。だが田中さんのすごいところは、こうして野外で得たデータを、きちんとまとめて学会誌に発表する情熱だと思う。田中さんが送粉生態学やフェノロジーについて書いた論文や本の数は、その数と質の高さにおいて、そこらのプロの生態学者顔負けである。植物生態学者は数多い。だが多くの生態学者はテーマとした植物の種や群集を深く探求するというアプローチを取り、田中さんのように、花の進化という観点から、花そのものを対象に研究を進めている研究者は少ない。 生態学や進化学などの自然史諸科学は本質的に帰納的側面の強い科学である。田中さんのような自然に対するセンスと情熱を持ったすぐれたナチュラリストの出現を若い世代に期待したいものである。 (1997年8月号) 『保全生物学のすすめ』、リチャード・プリマック著、小堀洋美訳 文一総合出版、本体価格3800円 前にこの欄で樋口さんたちの保全生物学の本を書評したとき、「今後、保全生物学関係の書物は次々と出版されるだろう」と書いたが、あっと言う間にまた”保全生物学”をタイトルにした本がでた。それがこの本である。 全体を第一章・保全生物学と生物多様性、第二章・生物多様性の危機、第三章・個体群と種のレベルでの保全、第四章・生物群集レベルでの保全、第五章・保全と持続可能な発展の5つにわけ、それぞれの章でさらに詳しく生態学や遺伝学の成果を駆使して保全生物学の全容を紹介している。 文一総合出版から出た本だから持ち上げるわけではないが、一読してなかなか中身の濃い、それでいて使いやすい本だと思った。前の本は日本で生物の多様性の保全に取り組んできた6人の若手研究者が分担執筆したものであったが、この本は合衆国のリチャード・プリマック教授が実際に大学で学生のテキストとして使用している最新の教科書の翻訳である。教科書である点、体系的によくまとまっているし、扱っている分野も材料も広く、世界各地の具体例から話を展開している点、また図表が多いのも、その分厚さにも関わらず読みやすい本に仕上がっている要因だと思う。 武蔵工大で環境学、海洋微生物生態学を教える小堀洋美さんの訳もこなれていて、用語も科学的に厳密に訳されている点、専門外の翻訳家や翻訳になれない専門家が訳した訳本の弱点をみごとにクリアしている。39のコラムで、日本における保全生物学の話題を随所に取り上げている点も、本書を単なる翻訳書に終わらせておらず、好感が持てる。 ところでアメリカで保全生物学会ができたのは1985年という。日本でも生態学などの分野の研究者が保全に目を向けつつあるが、まだ学会設立までには至っていない。今後、日本でこの分野がどう発展するか、楽しみである。これから保全生物学に取り組む学生や院生にとって、この本はまたとない入門書になってくれるだろう。もちろん、各地で自然保護に取り組んでいる人たちや、アセスの関係者、さらにはこれまでは開発を進める側であった、政府や企業のシンクタンクの研究者にも、今後、環境負荷の少ない、持続可能な開発とはどのようなものであるかを知ってもらうためにも読んでもらいたい本である。(1997年11月号) 『庭にきた虫』 佐藤信治著、農山漁村文化協会、本体価格1857円 「うちの庭にもいっぱい虫がいるけれど、そんな虫のどこが面白いの?」と言う声が聞こえてきそうである。だが、それが面白いのである。 著者の佐藤信治さんはながらく機械設計をやってこられて、定年後の現在は、お孫さんたちと悠々自適の毎日である(と想像する)。だが佐藤さんはその本業のかたわら、30余年にわたり、子供さんたち、お孫さんたちと庭に出ては虫たちを観察し、撮影し、その生態についての記録を残して来られた。この本にはテントウムシ、アゲハ、セミ、カタツムリ、カマキリ、ジョロウグモ、クサカゲロウ、ウスバカゲロウについて、ありふれた虫たちだが、どんな図鑑にも載っていない、詳細な、そして意外なかれらの生活の記録がつづられている。 佐藤さんは、子供たちの疑問を大切に、それを一緒になって考え、虫たちの生態や行動の不思議を解きあかしていく。その場でわからなければ次の日、そして次の年、何年にもわたってひとつの疑問に答えを与えようとする姿勢はまさに研究者のそれである。 ひとつひとつの虫たちの生活を実によく見ておられるなと思う。たとえばジョロウグモ。私はまだジョロウグモの産卵を見たことがない。それもそのはず、ジョロウグモは晩秋から初冬にかけて、深夜、巣から遠く離れた葉陰に卵嚢を形成するのである。息子さんと2人で午前1時半までジョロウグモの産卵につきあうその情熱に、おもわず「すごいな」とうなってしまった。 「うちの狭い庭にだって、生き物たちの世界が無限に広がっているんだな」ということを再認識させられるとともに、研究で飯を食ってるプロとしては、負けてはいられない、という思いで襟を正させられる本である。同時に佐藤さんのような自然に対する情熱を子供たちと共有しようとするナチュラリスト父さん、ナチュラリストじいさんがいっぱい出てきたら、日本の子供たちはもっと豊かに、伸びやかに育っていくのにと、この本を読んで思った。 (1998年2月号) 『多雨林と火山-インドネシアの自然と人々-』 児玉茂著、古今書院、本体価格9500円 熱帯アマゾンやアフリカの自然についての書物は訳書も含めてかなりある。それに比してお膝下の熱帯アジアに関する書物が少なすぎる、という思いを持つのは私だけだろうか。インドネシアの”ほとんど知られていない赤道地域”の森を歩き、ほとんど登られていない熱帯の山へ登ってみたいと思い立った児玉さんは、”インドネシア360”という計画を立て、丸1年をかけてインドネシアの島々への”探検旅行”を試みる。この本は一人の地理学徒が見たインドネシアの森と山々、そしてそこに住む人々との心暖まる交流の記録である。 児玉さんは地理学が専門とはいえ、熱帯の生き物の名前にはかなり詳しい。紀行文中に出てくる鳥もほぼすべて正確に同定できているし、巻末の文献表には、マレーシアからニューギニアまで、鳥の図鑑類が23冊もあげられている。その中には鳥学会発行の『台湾の鳥類相』や、山階鳥研の『世界の鳥の和名ー太平洋諸島篇ー』まであげられていて、内容への信頼感が高まる。また巻末に載っている動物名、植物名などの項目ごとの索引や、インドネシアの山々についてのデータ一覧表は役にたつ。熱帯雨林の写真をバックに噴煙を吹き上げている火山の写真をつかった表紙カバーを見ていると、豊かな自然が息づいている熱帯アジアに出かけたくなる。扉の献辞の「心配ばかりかけている母へ」という素直な言葉にも、著者の人柄があらわれていて、とても好感が持てる。値段はちょっと高いが、インドネシアの自然を訪ねようと計画している人には必読文献と言えよう。 ただし、平和な日本にいて、私たちは、インドネシアが軍事独裁国家であることをつい忘れてしまいがちである。イリアンジャヤや東チモールは準内戦地帯である。スラウェシなどでは大規模なトランスミグラシ(人口過密の島から、他の島への移住政策)による先住民との抗争も頻発している。一般の住民は皆親切で人なつっこい一方で、軍と警察、役人の権限は強大で、都会から離れた地方へ行くと、不愉快な監視と制限がついてまわることも覚悟せねばならない。一部の観光地を除いては”お気軽バードウォッチング”気分では出かけない方がいい。(1998年4月号) 『生物系統学』 三中信宏著、東京大学出版会、本体価格5600円 昔、私が所属していた研究室は昆虫分類の研究室であった。「分類学なんて・・虫の名前を調べるだけでしょ?」という生意気な学生の発言に、研究室の院生は「上田君、名前を調べるのはただの同定、その種の(形態学的)形質を調べて、近いグループごとにまとめて分類・記載するのが分類学、そしてこれが大切なのだが、その種が進化してきた道筋、つまり近縁種との類縁関係をあきらかにして、進化的に正しい系統樹に基づいて分類するのが”自然分類”であり、系統分類学なんだよ」と、かんで含めるように教えてくれた。「ふむふむなるほど」と、私はそれ以上深く考えることもなく、最近まで来たような気がする。しかし考えてみると、系統と分類は別の概念である。私に説明してくれた院生も、系統と分類を別の概念として、はっきり分けてとらえていたとは言い難い。 系統というのは、地史的時間の中で、その種の依ってきたる道筋である。系統学はいかにその歴史を正確に科学的に推定するかの学問である。だが、日本ではこれまで分類学の本は沢山書かれているのに、系統学の本は書かれたことがなかった、と著者は指摘する。分類学の本はたくさんあって、みなそれなりの分類体系を奉じているが、その分類体系が真に系統に基づいたものであるかは、検証不能であった。日本の多くの分類学者は系統分類を口にしながらも、系統の推定を真剣に行なってこなかったし、科学的な検証に耐えうる系統推定法の開発も行なってこなかったからである。 だが、流れは変わった。進化を扱う生物学諸分野は、信頼できる系統データなくしては何も言えなくなってきている。そしてこの分野のコンピューターソフトも充実してきて、形態形質やDNAのデータさえあれば、系統樹は「小学生にでもきっと描ける」時代になった。しかし大切なのは系統樹をお気軽に描くことではなく、”科学的な検証に耐える系統推定”なのだと著者は言う。この本は日本ではじめての系統学の”系統的な(しかもオリジナリティに富んだ)教科書”である。まあ、とにかくすごい本である。(1998年10月号) 『花の自然史』、国松俊英著、金の星社、本体価格1200円 私はギンリョウソウをはじめてみたとき、「なんだ、こいつは?」と思い、それからしばらくは草と名前はついているが、これはきっとキノコの仲間に違いないと思っていた。だがギンリョウソウが立派な被子植物であることを知った今も、なぜギンリョウソウは葉緑体を持たないのかとか、林の暗いところで咲いていて、誰が花粉を運ぶのだろうとか、種子はどうやって散布されるのだろうかなど、漠然とした疑問をそのままに今まで来てしまった。その疑問が、この本を読んでやっと解明された。大変得した感じである。 昆虫にとって白い花は滅多にないという。なぜなら私たちが見ている白い花のほとんどは紫外線を吸収しているので、昆虫にとっては紫外線の補色である青緑色に近い明るい色に見えているらしい。その中でギンリョウソウはなぜ白い花をわざわざ咲かせるのだろうか。ギンリョウソウが白いわけ、誰が花粉を運ぶのかは、読んでのお楽しみとして、共進化に興味のある私としては、特に第一部と第二部が面白かった。たとえば第2章の「ユリ属植物の多様な花の色と系統関係」や、第4章の「花のにおいの進化を探る:モクレン属植物を例に」では、色やニオイを用いた植物の系統進化が論じられており、化石に残らない色やニオイさえ、現代の系統学は研究対象に出来るのだと、えらく感心してしまった。 また第5章の「カンアオイの花生態」では、カンアオイはどうもキノコバエをだまして花粉媒介をさせているらしいとか、第6章の「夜の送粉共生系」では、昼間の世界以上に蛾やコウモリたちが花粉媒介に活躍している様子が、生き生きと語られていて、読んでいて、とても楽しかった。 第III、第IV部が面白くないというわけでない。第III部では、花の形態・構造と性表現の様式について、第IV部では花がいつ、どんな風に開花すればいいかという問題に焦点をあて、花が進化してきた道筋をたどっている。さまざまな対象と分野の研究者が「花」という切り口で、被子植物の進化を語ったこの本は、卒論や修論に取り組もうとする研究者の卵にとって、こんなにも面白く、まだ分かっていないことがあるのだよ、というメッセージをいっぱい送ってくれている。(1999年5月号) 『生物学の歴史』 チャールズ・シンガー著, 時空出版、本体価格15000円 世の中には、派手な本もあれば、地味な本もある。この本など、まさに地味系の1冊だろう。原題は『A history of biology: to about the year 1900』。オックスフォード大学で科学史を講じていたチャールズ・シンガーの手になる”知る人ぞ知る”大著の翻訳である。 紀元前4世紀のヒポクラテスから、アリストテレス、プリニウス、ガレノスと、ギリシャ時代から近世ヨーロッパまで、シンガーは忠実に生物学史をなぞっていく。そして1900年、メンデルの法則が再発見された年で、記述は終わっている。これだけなら無味乾燥な生物学の歴史の教科書と思われてしまうかもしれない。だが、生物学史上の出来事と人物、そしてその背景についてのシンガーの緻密な時代考証と生き生きとした筆致は、読んでいて読者を飽きさせない。スワンメルダムやレーウェンフクといった、なじみの生物学者に加え、ベーコン、デカルト、カント、ダヴィンチなど、普通、私たちが生物学者とは思わない人物までも、生物学史上に位置づけたシンガーの慧眼はなかなかのものである。それにしても著者の博学ぶりには恐れ入る。私は、アリストテレスがダーウィンにも匹敵する優れたナチュラリストだったということを、この本を読んではじめて知った。扉に書かれた「どんな自然物にもきっとなにか驚くべきことがあるもの」というアリストテレスの言葉こそ、生物学の原点であり、科学の原点である。 遺伝子組み替え、クローン動物、ヒトゲノム解読。現代生命科学の最先端はすでに神の領域にまで踏み込みつつある。70年も前に出された、19世紀までの生物学史の本が、もうすぐ21世紀になろうとするこの時代に、なにか意味を持っているのだろうか。だが、そうした時代であるからこそ、私たちは、生物学が歩んできた道筋を静かに振り返るべきなのではないだろうか。 唯一最大の難点は値段が高いということである。15000円というと、ちょっと学生には買えない。社会人なら買えるかというと、私も正直言って5000円以上の本は躊躇する。売れないだろうな・・と思ってしまう。こんな売れそうにない本を出した時空出版はエライ!。売れる本を出すのは商売である。売れないけれど、いい本を出すのは文化である。この国の出版文化は、こうした良心的な出版社が支えているのだとつくづく思う。 (2000年1月号) 『多様性の植物学(全3巻)』 岩槻邦男・加藤雅啓編,東京大学出版会、本体価格各4600 円 ”生物多様性”。今では研究者のみならず、誰もが使っているこの言葉だが、この言葉が学術論文以外ではじめて使われたとき、これは自然保護の有力なキーワードになると、多くの自然保護活動家は感じたはずだ。そして実際に、この言葉は一気に市民権を得て広まった。理由は簡単である。それは生物多様性を維持しなければならないと言う論理(ではなく、倫理と言ってもいい)こそ、これまで「天然記念物なら守るが普通種なんてどうなってもいい」、「オオタカさえいなければ里山を破壊しても構わない」という開発側の論理に、唯一、対抗できる自然保護の論理だったからである。 さて、多様性というと、筆者も含めて大方の読者は、いわゆる”種の多様性”を思い浮かべるだろう。たとえばある地域に何種類の生物がすんでいるか、という尺度は、多様度のひとつの指標である。もちろんそれで間違いはないのだが、ここ10年の多様性研究はこの枠を大きく超えて発展している。ところで、洒落ではないが、私は多様性研究そのものが、本質において多様性を内包していると思う。つまり多様性研究には多様なアプローチがあるということである。このことは編者も意識しているらしく、編者は前書きで、生物多様性研究について、『遺伝子多様性』,『種多様性』,『生態的多様度』の3つの側面を強調している。それは種の多様性を実現させているのが「DNAの塩基配列の違いに起因する」遺伝子の多様性であり、生物はその種1種だけで存在しているのではなく、生態系のネットワークの中で他種と共存しているのだから、それぞれの生物がお互いにどのような関係を持ちつつ、全体として生態系の多様性を維持しているかという考え方である。安易に多様度イコール種の多様性と固定的に考えていない編者の姿勢には好感が持てる。ただ、「すべての多様性はDNAの塩基配列の違いに起因する」と編者は言うが、たとえば双子の双方がまったく同じ性格の人間に育つことがないように、環境と生物の相互作用に起因する、遺伝子によらない生物(集団)の多様性については、編者はどう考えているのだろうか。 また多様性をどう定義するかの問題はあるが、動物の方が植物より多様性において勝っているのではないだろうか。たとえば植物は、編者の言い方なら「景観をつくって生きている」ので、『景観の多様性』とか、『形質の多様性』という焦点のあてかたもあるが、もしこれが動物なら、ここに『行動的多様性』や『社会的多様性』も、当然入ってくると思う。植物だから、3巻でそれなりにまとまったシリーズになっているのだが、動物なら、その10倍を費やしてもなお多様性の全体像にはせまれないのではないだろうか、と思う。 1つ1つの論文は独立しているが、各巻の第一章にはすべて編者の岩槻氏による巻全体の概観がまとめられている。一般に◎◎編というような本の多くは、高名な先生が編者として名前だけ貸している、という感じのものが多いが、このシリーズには編者の意気込みが感じられて好感が持てる。(2000年9月号) 『クモの生物学』 宮下直著、東京大学出版会、本体価格5200円 私はクモが嫌いである。クモを見ると、ゾワッと寒気が走る。けれどクモを恐がっていたのでは生物学者の沽券(こけん)にかかわるので、人前では平気な振りをして、小さなネコハエトリくらいならつかんで見せるのだが、ジョロウグモ(♀)クラス以上はどうしても触れない。ましてアシダカグモなどが出ると、一歩、下がってしまう。どうやら子どもの頃に、母親が家によく出没したアシダカグモを見て大騒ぎをしていたのを見て、クモに対する恐怖感を刷り込まれてしまったらしい。 クモは嫌いだが、生物学的に偏見なく見てみると、とても面白い研究対象である。その最大の理由は、クモの見せる行動的、生態的な多様性である。糸を吐いて網を張る、という多くの人がクモに抱く一般的なイメージひとつ取ってみても、円網、皿網、・・そこにはあらゆるバリエーションがそろっている。さらに網を張る、張らないにかかわらず、クモの捕獲行動も多様である。待ち伏せあり、他のクモの網への居候あり、はては粘球のついた投げ縄で獲物を捕らえる種類までいる。また、獲物を捕らえる時、天敵から身を守るために、アリから鳥までのさまざまな他の生物を欺くための視覚擬態から化学擬態まで、巧妙な擬態戦略を進化させている(くわしく知りたい人は、この本の第9章「餌利用の特殊化」を読むこと)。 クモって何の仲間?と思う人は1章から読んでほしい。最近の分類体系によるとクモ目が含まれるクモ形綱には11の目があるそうである。クモ目にもっとも近いのがウデムシ目(なんじゃこれは?)で、この2目が、サソリモドキ目(西表島なんかで石の下にいるやつ)とヤイトムシ目(刺されると灸みたいに痛いのかな?灸って、知らない人はおばあさんにでも聞いて下さい)の2つとひとくくりで近縁なのだそうだ。ついで、コヨリムシ目(知らん!)とか、クツコムシ目(わからん!)とかが出てきて、ダニ目、カニムシ目、ヒヨケムシ目、サソリ目、そしてザトウムシ目までがクモ形綱に含まれている。ついでだがクモ形綱はあの天然記念物のカブトガニ(剣尾綱)に最も近いのだそうだ。けれどここにでてくる目同士は、鳥(鳥綱)で使われる目よりもはるかに離れた分類群である。つまりクモ目とウデムシ目は、スズメ目とガンカモ目どころの差ではなく、鳥と哺乳類くらいの差があるということである。ということは、スズメとオオハクチョウは、ネコハエトリとアシダカグモくらいの差かな? ところで、この本にはクモの写真が3枚使われている。はじめの2枚は、内容上それなりに必要なものだが、234頁のクサグモの写真は、「ただ使ってみた・・・」というだけの写真のようだから、クモ嫌いの人のためには、やめていただきたい。「エッ、クモ嫌いの人はこの本を買わない」って? (2000年11月号) 『博士号とる?とらない?徹底大検証!』 白楽ロックビル著、羊土社、本体価格2900円 「末は博士か大臣か」という言葉はいまではもう「死語辞典」にでも載っているのだろうか?今の世の中、大臣はいざ知らず、博士は”末に”なるようなものではなくなってしまった。博士号はある分野の研究を、”あまり将来に悩みを持たずに”しっかり続けておれば誰にでも取れる。課程博士は博士課程のある大学院の研究室に在籍して、指導教官と”それなりに”仲良くやっておればいいし、いったん企業や公立の研究機関に就職しても、論文博士という手もある。しかし博士号がすぐに就職に結びつくわけではない。実際のところ、大学院まで行って博士号をとってもなかなか就職はない。それより修士くらいで卒業して、企業に就職した方が、少しでも研究らしいことが出来る分、いいかもしれない。とは言っても、やはり博士号がないと、少なくともまともな研究者とは認められないことは確かである。 では、理系に進学して博士号を取って、研究者になるにはどうすればいいか。そもそも自分が研究者に向いているのか。そんなことで悩んでいる若人のバイブルが本書である。日本における博士号取得の現状、学位審査の内部情報から、大学院での過ごし方、ドロップアウトした場合の進路まで、データや関係者の”証言”に基づいて、親切に書かれている。白楽ロックビルというペンネームはふざけているが、著者は学生や院生の気持ちや悩みを、よく汲み取っているなと思う。著者紹介を読むと、氏は都内某大学理学部バイオ系の助教授で、”バイオ政治学”という怪しげな(そんな学問分野はない)ことを専門としておられるそうだ。バイオ系とは、クローンとか遺伝子組み替えとか、ヒトゲノム計画とか、そんなことをやっている流行の分野(日本の生物学者の90%以上が属する)で、それなりに普遍性はあるのだが、私のやっている生態学などとは180゜違う分野である。だからこの本に書かれてある現状認識は我々鳥学者の認識とはかなり異なる部分もある。それでも研究という方面へ人生の舵を切ってみようかと思う若い人(特に大学院に入ったばかりの院生あたり)には大いに参考になる。 私も売れない鳥の本ばかり書いていずに、つぎは「こんなに儲かる生態学!」とか、「あなたも取れるノーベル賞!」というような本でも書いてみよう・・かな、と思った。(2001年5月号) 『生命の意味?進化生態からみた教養の生物学』 桑村哲生著、裳華房、本体価格2000円 著者の桑村哲生さんは魚の研究者である。私は鳥だが、どちらも行動生態学を専門としているということ、また私立大学で教えている点で、同業者である。その桑村さんが”教養の生物学”の教科書を出した。 世に”教養の生物学”と名をつけた本は多いが、大抵の教科書は高校の生物の焼き直しの域を出ていない。内容も細胞、DNA、遺伝、発生と、単に網羅的に事項を並べてあるだけで、工夫が少ない。こうした本は、もともと教員が学生に買わせて、自分が講義で楽をするためだけのものだから、生物学を専門にやっていくつもりのない大多数の文系の学生にとっては、単に単位を取るための対象にすぎず、試験のために読まされるだけで、まったく興味も湧かないことが多い。そういう本は書評でとりあげるだけ無駄というものである。 さて、桑村さんのこの本はどうだろう。この本の中味は四部に分かれている。第一部は「なぜ地球に生命がいるのか?」である。生命の発生はどの生物学の教科書でも取り扱うテーマだが、これも行動生態学者が書くとよくわかって面白い。第二部「なぜ生物は進化するのか」では、子殺しを取り上げて群淘汰と個体淘汰をきちんと説明する、また動物の行動戦略についてもページを当てている。第三部「なぜ性が必要になったのか」、そして第四部「なぜ利他的にふるまえるのか」も他の生物学教科書ではまったく取り上げられたことのない大きな進化学的テーマであるが、こうしたテーマこそ面白いし、私たちが生物を理解するために、もっとも必要なテーマなのではないだろうか。 今、巷では子供たちの理科離れ、大人の科学知識の欠如が問題になっている。これだけ科学が発達したはずの21世紀日本においてである。それは科学を学ぶことがまったく面白くないからである。せめてもう受験勉強のない、大学で学ぶ生物学くらい面白くあってほしい、との願いがこの本にはこもっているように思う。 というわけで、この本は教科書としてはかなりいい出来である。同業者だからヒイキしているわけではない。おそらく私が教科書を書くなら、こういう内容で書きたい。実はいつも講義をしながら、この講義をまとめて本にしておけば、来年の講義も楽だろうし、ついでに印税が入って一石二鳥だと思っているのであるが、ついつい忙しさにかまけて、ノート作りを怠っている。そうこうするうち、桑村さんに先を越されてしまった。著者の桑村哲生さんはまめな人である。仕方がないから、来年の私の講義ではこの教科書を使おう。(2002年3月号) 『新・昆虫記ー群れる虫たちの世界ー』 ギルバート・ウォルドバウアー著、丸武志訳、大月書店、本体価格2200円 虫嫌いでなくても、虫にゾロゾロと集団で出てこられると、ぞわっと寒気が走る人は多いだろう。これが鳥なら、銀座のカラス集団とかヒッチコックの「鳥」という恐い映画もあるが、だいたいはまあ「沢山いて可愛いわね」・・で、すまされる。虫は損である。だが、群れを作ること=集合性こそ、虫たちが自然界で生きていく上で獲得した、大切な行動形質なのである。 生態学の分野で、個体数の変動を扱う分野は個体群生態学と呼ばれるが、この本の内容を学問分野で分類したら昆虫個体群生態学の入門書と言えるだろうか。この本は昆虫個体群の動態の豊富な事例に満ちている。 もっとも、著者がアメリカ人だから、基本的にはアメリカの虫の話が中心だが、メキシコで数億頭の群れで越冬するオオカバマダラの話とか、13年または17年周期で大発生する周期ゼミの話などは、日本の読者にも馴染み深いだろう。ところで、私はお恥ずかしいことに、大移動をするトビバッタはアジアやアフリカにしかいないかと思っていたが、ロッキートビバッタはアメリカでも同じように数百億匹の群れで大移動して農作物に害を与えていることをこの本で知った。 著者は虫だけでなく、鳥や他の動物の生態についても造詣が深い。虫ではないが、社会性のクモやカブトガニなど、無脊椎動物の群の話も出てくる。ニュージャージーのケープメイに、春に産卵にやってくるカブトガニの集団産卵が、北へ繁殖のために渡っていくコオバシギの個体群を支えている話などは興味深い。訳者の丸武志さんは鳥の専門家であるので、出てくる鳥の種名も正確である。 群れで一緒に何かをするというと、昔はすぐ「みんなのため」、「種のため」という群淘汰で説明されることが多かったが、セミ類のオスが集まって、いっせいに鳴き出したり、ホタルの仲間のオスが発光パターンを同調させて、いっせいに点滅を繰り返すことについて、著者は自然選択の単位をきちんと理解した上で、群れになって協調的な行動を行うこと自体が、集まる個体にとっても有利であると述べ、群淘汰の理屈を排除している。ハミルトンの「利己的な群れ」仮説も出てくる。その意味でもきちんと現在の行動生態学の科学的知識に裏付けられた本であると言える。(2002年6月号) 『タカの渡りー観察ガイドブックー』 信州タカ渡り研究グループ、文一総合出版 最近、バードウォッチングからとんと遠ざかっているから、識別本などは、まず手に取ることはない。この本も、編集部のKさんに「これ、よろしくね」と手渡されなければ、読むことはなかっただろう(信州ワシタカグループの皆さん、ごめんなさい)。だが、買って読んで、損したと思う本もあれば、もらって読んで、二倍得したと思う本もある。この本は後者である。 信州白樺峠、ここで1989年から毎秋、精力的なタカ渡りの調査が続けられている。この本は、その調査を長年行ってきた、信州ワシタカ類渡り調査研究グループがまとめた渡りのタカ類の識別ガイドブックである。だが、ただの識別本ではない。ツミとハイタカ、ハイタカとオオタカ、サシバとハチクマなど、野外で間違えやすい種類について、丹念に識別ポイントを写真で比較しながら説明していく。これをもって1シーズン(普通の人には無理だが)、野外でタカの渡りを追えば、タカ類の識別はほぼ完璧という自信がつくだろう。すぐれた識別ガイドである。 ところで、調査グループは体下面の色や模様などバードウォッチャーが普通に用いる情報に加えて、虹彩の色やそのうのふくらみまで調べている。カケスやホシガラスじゃあるまいし、”そのうのふくらみ”って何だ?と思って読んでみるとオオタカ、ハイタカ、ハチクマな どは、飛んでいるときにそのうが膨らんでいる個体がいて、直前に餌を食べたことがわかるそうだ(知らんかった!)。なるほど、朝起きて渡ってくる直前に食べているわけやね。「そんじゃ、ふくらんでない奴は、ハラペコなのかな」などと、考えながらタカを見ているのも楽しいかも知れない。時間ごとのグラフがあれば、それはもう十分に猛禽類研究のテーマとなる。 この本の中には、単なるタカ類の識別という範囲を超えて、研究のテーマがごろごろころがっているなと思った。もちろん『Birder』読者の皆さんは買いましょうね。(未掲載、幻の書評) 『ワタリガラスの謎』 バーンド ハインリッチ著、渡辺正隆訳 どうぶつ社 北米の冬の森。動物の死骸が放置されていると、あっという間にワタリガラスたちが集まって来て、死体はきれいに片づけられてしまう。そのワタリガラスたちの生態を、零下20℃にもなる、山小屋にこもって、何年にもわたって、丹念に解き明かしたのが、ハインリッチのこの本である。一流の科学者であることと、ナチュラリストのセンスを持っていることは必ずしも両立しないが、著者のバーンド・ハインリッチは、その両方をもったまれな研究者である。どこから読んでも楽しい。秋の夜長にはぴったりの本である。 |