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キリスト教教育の根幹にあるものは、「いのち」を大切にすることです。「いのち」とはと、いくつかの語源辞典を紐解いてみましたが、その由来は定かではありません。しかし、「い」は「息の力」、「ち」は「霊の力」を示し「生存の根源となる霊の力」という意味ではないかという説が一般的なようです。聖書でも「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記二章七節)と書かれています。つまり、生きる根源である「いのち」は、自分の力を超える何か特別なもの(something great)、神さまから来る息の力によって生かされていることなのだと、多くの人々が昔から感じとっていたことに、間違いはないでしょう。そして、そうであるならば、この地上に神さまから「いのち」を与えられた私たち一人一人は、誰が何を言おうとも無駄な存在は一切なく、神さまの意志のもとに生かされている、かけがえのない大切な一人であるということです。つまり私たちの住むこの世界に、有用な一人として置かれたということです。
すると「学ぶことの意味」は何でしょうか。時の流れを考えてみましょう。過去→現在→未来と進む流れは一般的な感覚かもしれません。しかし神さまからのミッションに生きる「いのち」の時の流れはそうではなく、将来→現在→過去へと流れているのです。神さまから、今あるこの私に将に向けられて来た「時」があるのです。それをどれだけどのように掴み取ることができるか、掴み取る手の力を、感性を、どれだけ自分のものとすることができるのか、つまり過去化させない努力、掴み損ねて無駄にしない努力が、今、学ぶということに繋がるのではないでしょうか。「いのち」の受け取り手として、必要な一人として、この世界に置かれたということは、未だ来ない曖昧模糊としたところへ手探りで向っていることではないのです。「日本が、そして世界があなたという存在を必要としている。そして何よりも神さまがそう期待しておられる。」このことを生徒たちが見極めることのできる手助けを私たちはしたいと思っています。
カーペ・ディエム(carpe diem ラテン語)という言葉があります。英語ではseize the dayと訳されます。今日という日を大切に、迫りくる時を見事に掴み取ることのできる人となって欲しいと思います。
2012.04.10
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