有本真紀
この小冊子では,それぞれの専
門分野について紹介し,○○教育学,教育○○学のすすめを書くのが通例です。しかし,私からみなさんにおすすめすべきことがあるのか,あるとすればそれは
何か,どうもそこから抜け出せそうにありません。「すすめ」とは程遠いのですが,ここでは私が教育研究に携わるスタンスと迷いを,率直に語りたいと考えま
す。
まず,専門分野を問われたとき,「音楽教育」と答えるまでには幾許かの躊躇があります。他には一言で答える術がないものだから,仕方なくそう答えている
というのが本心です。しかも,それは正確な表現ではないという思いが残ります。相手はそれで「ああ,音楽の先生ですね」と納得するようですが,この「音楽
の先生」に抵抗を感じるのです。別の言い方,例えば「ピアノを教えています」なら,まったく疑問はありません。ピアノの弾き方であれば,私にもある程度教
えられるからです。しかし,私は「音楽」を教えているだろうか,それは教えられるものだろうか,と考えたとき,簡単に「音楽の先生」を自称するわけにはい
かないのです。−あまり本題から脱線したくはないのですが,誤解されることが多いので一言。「ピアノの弾き
方」は「技術」だから教えられるが,「音楽」は「心」だから教えられないなどという,あまりに皮相的な問題を云々しているのではありません。
そこには,「音楽」とは何かという,実に根源的な問いがあります。大袈裟かもしれませんが,「人はなぜうたうのか」への問いは,「人はなぜ生きるのか」
にも匹敵するほどの命題なのです。そして,私/我々は何をもって「うた(音楽)」と定義し,人のどのような行為を見て「うたっている」と解釈するのでしょ
うか。バッハやモーツァルトの曲が「音楽」だというのは,私/我々にとって自明のことです。浪曲や清元も,ジャンルは違うけれど「音楽」に含めるのが当た
り前になっています。ラップもバリ島のケチャもモンゴルのホーミーも,「音楽」であると認識する人が多数だと思います。では,声明(しょうみょう)やコー
ランを唱える声,チャルメラや物売りの声,夜回りの拍子木はどうでしょう。これを「音楽」とする人は,若干少ないのではないでしょうか。祈りと音楽は,叫
びと音楽は,語りと音楽は,合図と音楽はどこまで同じで,どこから区別されるのでしょう。こうして考えてみると,私/我々のいう「音楽」はいかに歴史と社
会に規定されたものであったか,また,それはいかに曖昧な区分であったかと気づくのです。
音楽についてそんなことを考える必要などない,音楽は考えるものではなく,するものだ。なぜうたうのか?うたいたいからに決まっている。−もちろん,そうです。しかし,いくらかでも「教育」を考えようとするならば,そして,その「教育」の中に音楽も含ま
れるとするならば,「音楽」への問いを避けては通れないのです。
もう少し「教育」寄りの視点から,「音楽」への問いを立ててみましょう。新生児が出す声は,ほとんどが泣き声ですが,次第にいろいろな種類の声を発する
ようになります。喃語といわれるものもその一つです。これを,「意味のない言葉で,いずれ意味を持つ言葉を話すようになるための発声器官の訓練」と捉える
こともできます。しかし,高さや長さをさまざまに変化させて発声する様子は,何か意味のある言葉を「話して」いるように感じさせることがあります。同じよ
うに,「うたっている」としか思えないような発声に出会うことがあります。では,ヒトはいつから,どのようにして「うたう」ようになるのでしょう。これ
は,発達の大きなテーマでありながら,子どもの発声のどこからを「うたう」行為として捉えるのかという,大人の側の問題でもあるのです。
さて,ここまで「音楽教育」という言葉を使ってきましたが,私の専門分野をより正確に表すなら,「音楽科教育」という言葉が適切です。「学校で行われて
いる教科としての音楽」についての研究です。無論,教科としての音楽についても,数え切れないほどの問題が指摘されてきました。その一つ一つを検討し,改
善していかなければならないのは当然ですが,それ以前に気になるのは,人々のもつ「音楽」に対する「常識」です。
最も代表的な「常識」は,「音楽は本来文字通り音を楽しむためにあるのに,学校では音学や音我苦になっている」というものです。しかし,漢字の「楽」本来の字義には,「楽しい」という意味はないのです。一度
解字の載っている大きな漢和辞典を引いてみてください。「楽しい」の意味は,後から付加されたものだということがわかるでしょう。こう言うと,「やはり音
楽が専門の教師は理論や技術ばかり重視するから楽しくないのだ」と反撃されるかもしれません。もちろん,「音楽=楽しい」の一面をもつことは認めますし,
楽しい音楽の授業を目指すのも大切ですが,ここで言いたいのは「音楽=楽しい」と単純化して捉えるだけで良いのだろうかということです。
また,「音楽は数学などと違って,答えが(一つでは)ない」というのも「常識」です。確かに,一つの曲に何種類もの名演があります。一つのジャンルに無
数の名曲があり,またそれぞれのジャンルに優劣をつけることもできません。その論法を押し進めていった結果,音楽は「なんでもあり」,または「個人個人の
趣味の問題」として片付けられてしまったように思います。どんな演奏もどんなジャンルもすべてが「平等」で,差があるとすれば,それはただ好き嫌いによる
もの。好き嫌いであれば,他人には踏み込めない領域。−かくして,学校では「楽しければ,なんでもあり」と
いう「画一的な理念に則った」音楽の授業が志向されることになります(実現されているとは言いませんが)。
誤解を恐れずに言うならば,音楽にも答えはあるし,その答えに誤差の範囲はあるものの,かなり限定されたものだと,私は考えています。むしろ,究極の,
高い次元においては,答えは一つだと言い切って良いかもしれません。答えが見つかりにくいということと,答えがないということとは不等号です。しかし,人
々の間では,「答えは一つではないということにしておく」と都合が良いのでしょう。「価値相対主義」の中で,判断を保留(放棄)し,何もかも認めていく方
が,教師としても楽なのです。
これらの「常識」は,音楽の「コワさ」が実感できたときに,初めて揺らぐのかもしれません。音楽の楽しさは容易に実感できても,「コワさ(感情的な次元
ではない)」はなかなか難しいのでしょう。抽象的な表現になりますが,最近は,その「コワさ」を伝えることが,私の仕事なのかもしれないと思っています。
「音楽の楽しさやすばらしさを分かちあう」などという,奇麗事ではすまされないと考えるからです。「コワさ」を伝えることができたら,その時にはためらわ
ず「音楽の先生」を名乗りたいと思います。
音楽科教育における実践的な問題について,ここではほとんど語ることができませんが,心に刻んでおいてほしいのは,かつて音楽科がインドクトリネーショ
ンの手段として用いられてきたことです。このことを含め,音楽・唱歌教育史には学ぶべきことがたくさんあり,それは音楽科に限らず教育全般の問題,広く捉
えれば社会や歴史にも迫る切り口となり得るでしょう。子どものころ,意味もわからないまま繰り返し歌ってきた歌が,その人(たち)の感じ方や思想・信条に
も影響を及ぼしているのです。関連して,今日的なテーマとしては,音楽の教師なら必ず直面する「君が代」問題,広げて考えるならば「共通教材」の問題もあ
ります。これらは,一方で教科の存在理由,教育目標論に繋がりますし,他方では教科カリキュラム論,教材論に通じます。もちろん,目の前の子どもと音楽を
介してどうかかわるか,授業の中で生起するできごとをどう読み解くか等々,問題は際限なく存在します。教育全般あるいは他教科にも通じる部分と音楽科固有
の問題が絡み合って,ことはなかなか複雑です。「音楽科教育」は,「歌って楽器を叩いて楽しみ,CDを聴いていやいや感想文を書く」だけではない,実は大
変奥の深い領域なのです。
もう一つ,私が関心を寄せている領域は教育評価です。評価のコワさは,誰もが経験的に,充分思い知っていることでもあり,その重要性についても認識され
ています。しかし,そのわりには誤解も大変多いのです。私たちの経験の中では,あまりにも,評価と競争とが結びつけられてしまったため,「評価」が徹底的
に嫌われ,排除すべきものとされることがあります。一方で,競争社会で生き残るために,あるいは教師に残された唯一の切り札として必要悪だとされることも
あります。逆に,評価のもつ,励ましや子ども理解の側面だけをクローズアップする捉え方もあって,評価のあり方さえ改善すれば教育は良くなると信じられて
いたりします。測定の流れを汲んでいる経緯から,従来は主に心理学の分野で扱われてきた評価ですが,教育方法学,社会学,哲学などさまざまな分野からの切
り込みが可能ですし,必要でもあります。大変難しいけれど,取り組み甲斐のあるテーマの一つであろうと思います。私が大学院での研究テーマを評価に決めた
とき,ある先生から「評価をやるのは,教育をサカサマから見るということだから,おもしろい。だが,そんなことをやるのはよほどの臍曲がりに違いない。」
という「評価」をいただきました。教育評価は,本来教育学科の誰もが学ぶべきことだと思いますが,臍曲がりであるという自覚のある人は,是非深く考えて下
さい。(ようやく「すすめ」になったでしょうか。一つくらいおすすめしないと,本当に臍曲がりだと思われそうですから。)
さて,教科教育を考えるには,その教科の依って立つ学問・芸術分野に関する知識・技能と,教育に関する知識・考察の双方が不可欠です。しかし,言うは易
く,これほど難しいことはありません。音楽と教育,一方だけでも一人の人間が学ぶに充分余りあるのですから,二兎を追う者の譬えを引くまでもないでしょ
う。それでも,やはり,一方を欠いての教科教育は成立しません。
ところが,教科教育はその基盤となる学問・芸術の分野からも,教育学からもあまり暖かい扱いを受けていません。例えば,音楽の専門家からは「ああ,教育
の人ね」と言われ,教育学の専門家からは「ああ,音楽の人ね」と見られます(この「ああ」のニュアンスが文字ではうまく伝わりませんが,ネガティブな響き
を含んでいます)。どちらも,それぞれの専門の立場からすれば,教科教育は何とも中途半端に見えるのでしょう。私立の音大では,ピアノ科や作曲科などの他
に「教育科」があって,それは「ピアノ科や作曲科(これらを総称して「本科」と呼ぶことさえあります)の受験に失敗した人が行くところ」というイメージが
あるらしいのです。一方,国立大学の教育学部では教科ごとの講座制をとっていますが,音・美・体・技の専攻生は主要教科といわれるものの専攻生より姿勢を
低くしていたりします。また,どの教科でも教科教育法(教材研究や各科教育論)は,その教科内容を専攻した人なら,あるいは長年現場でその教科を得意とし
て教えてきた人ならば,誰にでも教えられると思われており,安易に担当するケースも少なくありません。
大変残念ながら,現実にはそのようなことがあるのです。しかし,繰り返しになりますが,教科教育を担当するには,教科の内容についてはもちろん,子ども
の発達や心理,指導方法,評価などについて総合的に考えられなければなりません。そういう意味で,私は一生をかけて「音楽科教育の専門家」を目指したいと
考えています。それには,音楽を教えるという営みに関する,「理論」と「実践」と「実技」の3本の柱が必要です。
しかも,この実技は,ひとつの楽器ができるというのではなく,音楽科教育で取り入れたい楽器や歌のすべてにわたってという条件が要求されるでしょう。
我ながら,あまりに高い目標だと思います。無論,これだけ手を広げてしまえば,どれも中途半端になってしまうことは自覚しています。でも,焦る必要もな
いし,気負うこともないと思っています。ともかく,日々音楽を伝えていきたいし,人の営為としての教育について考えていきたいのです。それには,音楽と教
育の両方に片足ずつ乗せて,バランスをとりながら歩いていくしかないようです。そんな危うい歩みですから,誰にもすすめられるというものではありません
が,少しでも関心をもっていただければと願っています。
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