坂倉裕治
(1)
ふだん気にとめることなどほとんどない日光も,プリズムを通して色とりどりのスペクトルに分けられると,あらためて人の関心を引くようになる。よほど注意しなければ見ることのできない透明な光線を目に見えるようにするプリズム。これとよく似た働きを,学問についても指摘できる。同じ光線でも,プリズムの角度や密度によって光線の屈折が異なり,色合いに変化が生じてくるように,同じ対象であっても,政治学,経済学,倫理学など異なった学問によって,さらには,ひとつの学問領域の内部でも採用する方法によって,見えてくる図柄が随分異なってくる。現れた図柄を比較しながら,それまで当たり前のこととして疑うことさえなかった自分のものの考え方(広い意味の文化)を相対化するような,ある種の感覚を養うことは,学問の効用としてどれほど強調しても十分ではないと思う。おそらく,大学で学問に触れるということの意義は,当該分野の専門知識を習得することそれ自体にあるのではなく,その学問が鍛えあげたプリズムを通してものごとを見ながら,その学問が洗練させてきた感覚に触れることにある。プリズムの些細な操作を通じて現れる多様な図柄を比較していくと,学問に対して自分がどのような距離をとってかかわっていくのか,自分の生活の中で学問という道具をどのように利用するのかというスタンスを,ひとりひとり選びとっていくように強いられる。学問は自分が詳しく調べてみたいと思う対象を写し出すための,道具にすぎない。そして,対象に応じて,顕微鏡,望遠鏡,虫眼鏡・・・と使い分けるように,学問にあっても,様々な手法を使い分けることが必要である。そこで,学生の皆さんには,自分の専門を深く掘り下げていくこととならん
で,隣接領域について(浅くてもよいから)なるべく広く学んでもらいたいと思う。
以下,皆さんの参考になることを希望しながら,私自身の研究とのかかわりで,ごく簡単な見取り図を示してみたい。道徳教育や生活指導にかかわりをもつであろう問題をサンプルとして,教育思想史研究を通して得られた概念装置というレンズあるいはプリズムごしに眺めてみようという試みである。
(2)
毎年,四月になると,かなりの数の大学生(特に1年生)が,居酒屋から救急車で病院に運ばれる。そこで,あまり無茶な飲み方をしないように「指導」する役割が教員に回ってくる(立教でもこういうことがあるかどうかは,分からないけれども)。ここで理屈をこねて問題が解決するなら話は簡単だ。なかには「だから酒は体に悪いから飲むべきではない」などと理不尽なことを言いだす先生まで現れると聞く。バッコス神の忠実な信徒(?)
としては,とうてい納得できない。からめ手にまわろう。自分の下宿でひとりで飲んでいて,二日酔いになることはめったにない (せいぜい失恋したときぐらいだろう)
。まして,ビール瓶を一気飲みするなどというのは考えられない。なぜ,ひとりきりのときには絶対にしないことが,コンパではごく普通にみられる光景になるのだろうか。確かに,皆にはやし立てられると,断るのはそう簡単ではない。しかし,頼まれもしないのに,自らすすんで一気飲みをする人もみかけるはどういうわけだろう。コンパのように集団の中で人がとる行動は,ただ酒が好きだという生理的な欲求だけでは説明がつかない。もし,酒が好きで生命を危険にさらすほど飲みすぎるというなら,それは教師の「指導」などでは対応できない大変な病気であり,専門医に相談するべきであろう。そういうケースは稀れで,たいていは,他人に笑われたくない,嫌われたくない,その場の雰囲気から浮きたくない,ヘンなヤツだと思われたくない・・・といった不安が,無茶な飲み方をさせるのではないだろうか。そうだとすれば,こうした不安が,生命を危険にさらすことへの恐怖よりも強く働いていることをこそ,問題にしなければならないであろう。
一緒に生活をしている人たちから物笑いになることが,死ぬことよりも恐ろしいと感じられる場面は,近代以降の多くの社会システムに広く見られることである。否,こうした不安をことさらにかきたて,操作することを通じて,一定の社会秩序と生産性の向上を図ることが,近代の政治学や経済学の最重要課題であったとさえ言えるのである(たとえば,アダム・スミスの同感論を参照)。人が生きながらえることだけが問題なら,必要なものには自ずと限度がある。けれども,私達の目を引くのは,むしろ,自分の生存のために必要なものを越えた贅沢品なのである。ある仲間集団の中で生活しようとすると,ブランドものを身にまとうことを諦めることは,昼食をたべずにがまんすることよりもずっと難しくなる。なぜなら,それらがその集団で認められるための,一種のパスポートとして機能しているからである。それはちょうど,「文明化された社会」のパスポートとして,ある種のライフ・スタイル,立ち居振る舞い,言葉づかい,消費文化,学歴などが機能しているのと,そっくりである。
毎日,家族のために食事を準備している主婦はあまり注目されない。世間の目を集めるのは,人並みはずれた技量の持ち主であり,微妙な味つけや飾りつけの繊細さを競う特別の舞台が整えられさえする。こうした競争がどれほど進んでも,だからといって人間の欲求がより効果的に満たされるわけではない。もはや技芸は,人間の物質的欲求を満たすための単なる手段ではなくなり,技芸の洗練それ自体が称賛の対象となり,自己目的化している。ここに,そもそも手段にすぎなかったもの(技芸)を大切にするあまり,そもそも目的であったもの(生存や幸福)を犠牲にするという本末転倒が生じるのである。
ここには,特定の時代の特定の集団の中で個人のエゴが生み出す不可解な行動が観察される。たとえば,人並みの生活がしたいと欲するのは,生理的欲求ではなく,文化的欲望である。技芸が洗練されればされるほど,人々の間で享受される技芸の成果には量的にも質的にも差異が大きくなるので,人並みの生活がしたいという欲望は激しくなっていくのだが,そこには,他人に劣っていたくないという欲望,すなわち,他人に優越したい,他人に抜きんでたいという欲望が屈折した形で伺える。近年の教育史研究は,学校教育制度が爆発的に拡大したことの背景として,子供の教育が親の虚栄心やプライドの対象となっていったことを指摘している。学校で獲得される「教養」が称賛の対象となり,他人との差異をはかる指標として意味を持ってくると,それが「何の役に立つのか」(人間の生存や幸福の手段としてどう役立つのか)は問われなくなり,自己目的化していく。さらには,「教養」そのものよりも,「教養」を身につけたと認定する手続きと証明書に関心が寄せられるようになる。
私達が目の当たりにしている,いわゆる「教育現場の問題」は,とりわけ「逸脱行動」などと呼ばれ,異常な事柄として捉えられる問題は,実は近代の社会システムが構造的に生み出しているものなのである。
(3)
明治維新以来,日本は近代化=西洋化=合理主義をめざしてきた。それが,日本のかかえる問題に対する特効薬だと考えられたからである。しかし,あらゆる薬には副作用がある。否,効用と副作用というのは,人間の都合による多分に恣意的な区別である。効用の面ばかりに注目して「良い薬」と評価したり,副作用の面ばかりをみて「悪い薬」と考えるのは,早計な判断であろう。ところが,教育について語られるとき,(「非行」や「逸脱行動」を示す青少年の「未熟さ」に何らかの「援助」を与えることによって「健全育成」を図る,といった言説に伺われるように)しばしば善玉と悪玉が仕分けされる傾向があったように思われる。善玉とされた思想家や実践例にも副作用がないとはいえない。また,従来の教育学では特殊な事例として隅によせられていた事柄も枝葉末節として切り捨てられない問題でありうる。
近年,各教科とならんで教育課程を構成する道徳や特別活動(学級活動,生徒会活動,クラブ活動,学校行事)の領域から,学校教育のあり方を吟味・検討し,人間形成の視点から学校教育を捉え直そうという試みが重ねられている。こうした文脈の議論にみられる大方の期待は,自主性と協調性の「調和ある育成」を図ることにある。また,日常の生活習慣からいわゆる非行や逸脱行動への対処という問題まで広範囲にわたる生活指導や教育相談の重要性が認識されるようになったことには,学校がかかえる今日的な問題(不登校,いじめ,不適応など)への対応が特に期待されている。当該領域について学問的な立場から検討することは,「学校の役割と責任」の範囲を吟味・検討するきっかけとなると考える。ここでは,二つの論点を指摘したい。
@学校における教科外教育の役割を重視しようという議論には,しばしば学歴主義や教科中心の教育(悪玉)への批判が込められている。しかし,学歴主義をめぐる問題は,学校教育システムの内部で完結するのではない。そもそも,明治期に学校教育制度が国家的事業として位置づけられて以来,学校教育が量的拡大した背景には,立身出世の元手として教育を捉える観念(これは既に「被仰出書」に示されていた)が広く受け入れられたことがある。この期待に応える形で,通信教育講座,塾・予備校の情報網と物流網が整備され,教育は既に市場で大きな消費財となっている。いわゆる有名中学,高校,大学進学はもちろん,司法試験,公務員試験,教員採用試験の準備でも,学校の授業・講義や進路指導よりも予備校や商業出版物の情報が重視されていることをみれば,初等教育から高等教育にいたるまで,いわゆるダブル・スクールの構造が認められる。とすれば,学校内での教科外教育の位置づけを変えても,学校と学校外の棲み分けがさらに進むだけであって,知識偏重は解消されるどころか,むしろ効率化される可能性がある。
A教科外教育の実践例を,教職課程での使用を想定した比較的新しい教科書を検討してみると,教科の知識学習に対して直接体験による経験学習を,偏差値中心の能力競争に対して集団的な解放感を,教師中心の一方的指導に対して生徒の自主共同活動を,受験競争に対して共同活動による仲間関係が対置されていることが多い。先に指摘した善玉悪玉論争そのものである。成功例として紹介されている事例を支えていると思われる原理として,集団に「共通の興味・関心」,個人単位,集団(班,学級,学校)単位での競争といった要素が観察される。たとえば,学芸会や部活動によって個性的な自己概念が高まったことを評価する事例研究では,活動を通じた学級や部内での地位獲得競争が動機づけ要因として働いている。これは,先に見たエゴイズムの操作技法のミニチュアにほかならない。興味=利害心や競争心は,いわゆる逸脱行動の原因ともなりうるものであり,これらを動機づけに用いる(操作する)にあたっては,その危険性を認識し,可能な限り安全装置を用意しておく必要があろう。そうした配慮を欠いたまま,投入された熱意によって特定の活動や思惟を正当化する,教育関係者によくみられる発想をも,吟味検討する必要があろう。
(4)
始業式・終業式,運動会などの多くの学校行事とともに学校単位のクラブ活動・部活動が存在しない国は少なくない。日本の学校には,諸外国と比べてあまりに多くの活動が集中し,いわゆる「学校化」が異常に進んでいることに気づかないではいられない。「なすべきこと」をあまりに抱え込んでしまうと,「実際にできること」まで
も見失いかねない。教育課程審議会等で教育内容の削減が検討され,学校のスリム化,
教育システムの柔軟化・多様化が叫ばれるようになっている今日,現在学校が担っている活動をどこまで維持し,何を学校外に開放するのが妥当なのか,特に教科外の活
動にどの程度まで教師が関与することが妥当なのかを議論することは避けられない。
道徳教育や生活指導などをいかにすすめるのかという技術論が不要であるとは思わない。しかし,教育に関心を持つ者,教育に携わる者にとってより重要なことは,なぜこうした領域の教育が注目されているのか,人々は何を期待し,何を問題にしようとしているのかを問うことを通して,学校教育そのものを相対化することではないだろうか。そして,具体的な事柄をめぐって,「なすべきこと」と「できること」との間にずれが生じてくる理由をつきつめていくことは,なぜ人間にとって教育が必要なのかを問い直すことにもつながっていくと思うのである。