現在の研究課題

今回は「メタファー論」についてご紹介します。

(1)メタファーの問題とは?

  詩や小説が好きなことと関係するのでしょうが、年来メタファー(隠喩)という言語現象に関心を抱いています。哲学史の上でも、「肉体は精神の牢獄である」(プラトン)、「単子には窓がない」(ライプニツ)、「人間は人間に対して狼である」(ホッブズ)、「理性は感情の奴隷である」(ヒューム)等々、メタファーの例には事欠かず、近年ではイギリスのマイケル・ダメットが、『言語の海』という印象的な題名の論文集を出しました。科学の分野においても、「ビッグ・バン」や「利己的遺伝子」などはメタファーと見なしてよいでしょう。蛇足ながら、「肉体は牢獄のようなものだ」とか、「人間は狼みたいだ」とか言うとそれはシミリー(直喩)と呼ばれます。

  私がこの何年かで書いたメタファーにちなむ論文は、未発表のものも含めて3つありますが、ある言語表現がメタファーとして機能するための条件は何か、われわれはどうしてある表現をメタファーと判断するのか、メタファーと判断された表現はいかにしてその意味を理解されるのか、さらには、メタファーという言語現象が存在する意義は何か、といった問題に取り組んでいます。

(2)相互作用説

  考察の出発点としては、イギリスの文学理論家のI.A.リチャーズや哲学者のマックス・ブラックが提唱した「相互作用説」を手がかりと考えています。その説によれば、プラトンの例ですと、第一義的には「肉体」が「牢獄」というフィルター(これもメタファーですが)を通して見られることにより、本来の意味を拡張することになるのですが、第二義的には、「牢獄」も「肉体」を通して見直されることが不可避に起こり、その意味を豊かにする、というのです。この説はあいまいなところも少なくありませんが、言葉の意味の拡大・変化についての説明をも与えようとしているところが私には魅力的に映ります。科学哲学者のマリー・ヘッセや科学史家のトマス・クーンも相互作用説に好意的です。

(3)意味論と語用論

  メタファーを含む表現の多くは、たとえ外国語に逐語訳されても同じメタファーとして働きます。このことからブラックは、ある表現をメタファーの事例としているのは、音声パタンでも文法形式でもなく、その表現の意味であると考えて、メタファーを意味論圏内の言語現象と捉えています。ドナルド・デイヴィドソンは、ある文をメタファーだと判断するための標識を、その文の真理値が常に偽となるところに求めています。肉体は牢獄ではないし、人間は狼ではないというわけです。これも、言語と世界との対応、およびその対応の有無で決まる真偽という概念に依存する点で意味論的な思考と言えます。

  ところがジョン・サールは、メタファーを含む表現は、それが用いられる状況での発信者の意図を考慮せずには説明不可能である、とのきわめて穏当と思われる意見を述べています。言語使用者の意図をも考察の必要条件として要請する議論は語用論と呼ばれますが、ディヴィドソンはむしろ受信者の解釈を重視する点でサールと対立する語用論者の側面も合わせもっています。

(4)認知意味論

  メタファーに関して、語用論の領域に足を踏み入れずにどれだけのことが言えるのかを見定めようとしている、というのが私の研究の現状です。しかし意味論という枠組も論者によって少しずつ使われ方が異なります。デイヴィドソンら、今日の哲学の主潮流を成す人々は、文の意味をその真理条件と同一視します。ある文の意味がわかるとは、その文が真になる条件がわかるということだとされるのです。  

  それに対して、ジョージ・レイコフ(驚いたことに、デイヴィドソンもサールもレイコフも皆カリフォルニア大学バークレィ校に所属しています)を旗頭とする認知意味論の一派は、言語の意味を理解するためには、それに先立って概念を理解していることが要求されると考えます。理論の根底に、「概念」という古めかしいものを設定しているわけですが、彼らの言う概念図式、あるいはイメージ図式といったもの、例えば「力」、「接触」、「内と外」などの図式が、いわばわれわれの身体に埋め込まれているというのは、体感的に納得可能な議論です。言語の意味の発生の場は、そのような概念図式ないしイメージ図式が埋め込まれた身体という基盤を抜きにしてはありえず、概念がいわば発生論的に了解されていてはじめて言語の意味が理解される、それは特にメタファーという言語現象に関して顕著である、というのが彼らの主張です。例えば、われわれはおおまかには袋状の3次元の身体を有しています。その事実によってわれわれはほぼ一様に、「容器」のイメージ図式を言語使用に先立って獲得しています。「肉体は牢獄だ」というメタファーは、牢獄から肉体へと「容器」のイメージ図式が投射されることによって成立している、とされるのです。この説に対してもいろいろ疑問は生じますが、積極的に身体的基盤を認める点で、脳神経科学をはじめ他の認知科学の分野からも支持が得られるのではないでしょうか。

  余談ですが、認知意味論の学派は、一般にチョムスキーの生成文法学派と対立していると見なされるのが通常です。しかし、チョムスキーらが言語獲得装置とか普遍文法といった先天的な概念装置を想定しているのと同様に、レイコフらも言語使用に先立つ概念図式を想定しているという意味では、ともに言葉に対する心のアプリオリズムに与している、と言えるでしょう。


(5)その他の潮流

  『メタファーの意味論』という著書のあるサミュエル・レヴィンという論者は、レイコフらの枠組で扱いうるメタファーがあまりに日常的なものに限定されがちなのを不足と見なしています。確かに、レイコフとその高弟、マーク・ジョンソンの共著書は、「われわれがそれによって生きているものとしてのメタファー」といったような題名で、そうなるとそうそう突飛で常人には思いもよらないような文学的メタファーは、はじめから捨象されていても不思議ではありません。レヴィンは、真の意味で創造的な文学作品中のメタファーを、可能世界意味論を援用して解釈する道を模索しています。私はその行き方に関心をもっていますが、まだまだ行き先は見えていません。また、冒頭に科学の世界でのメタファーの例を挙げましたが、科学の内部でメタファーに積極的な位置づけを与えることができるのかどうか、という問題にもやがて解答を見出したいと思っています。



特別付録:哲学の素(テツガクノモト)

はじめに

 私もいつの間にやら、いそじにさしかかり、1冊の著書も含めて公表した駄論も20を数えようとしております。これまでにひとさまからいちばん尋ねられることの多かった質問は、「なぜ哲学を勉強するようになったのか?」というものでした。そこでここいらでそのお答えを書いてみようかと思い立ちました。「なぜ?」という問いに対応する動機づけの形の答えでは必ずしもないかもしれませんが、少なくとも私が日々とりとめもなく考えてきたこと、あるいは考えていることのルーツは、以下のいくつかのエピソード記憶にあるような気がします。

1. 高校時代の英語の授業

 当時の先生に、大野照男氏という若くてハンサムで少々病弱そうでかなり変わった方がいました。大野先生は「変形文法」とやらを武器に、恣意的でない科学的な英文解釈を教室で説いておいででした。教科書の英文で、なるべく長くて構造の複雑なやつを、ご自分は黒板に、われわれはノートブックに1行で書くのです。やたらと長いのをうまく1行におさめると、「よく書けたね」とか言ってほめてくれました。そしてそのときはそんな言い方は知りませんでしたが、例のトゥリー・アナリシスを淡々と進め、与えられた文の深層構造に到達するといかにもとの文の意味がとりやすくなるかをあかず毎時間示してくれました。69年から72年のことですが、これってもろに「標準理論」ですよね。たぶんその頃には、ご本尊のチョムスキーは、意味表示を深層構造に求める方針を捨てて「拡大標準理論」に向かっていたはずですが、それにしても大野先生がわれわれ高校生に与えた影響は小さくなかったと思います。樹状分析に夢中になる生徒は何人もいましたし、私の知るかぎりでもおひとり、生成文法の研究者になられて、先ごろ愛知県立大から早稲田に移った女性の方がいます。その後大野先生は大学に移られて、先年東京国際大を定年になられたと聞きました。私が予備校生だったときに出された『変形文法と英文解釈』(千城、1973)は、けっこう宝物にしています。

  余談ですが、私のようなできの悪い生徒は、(当時の言い方では)「変形文法」をフシギなものだなあ、とちょっとキツネにつままれたみたいな思いで勉強していたものです。そしたらその後予備校に行くと、本職は大学で英語を教えている講師陣の中に、「変形文法」に敵意をむき出しにする人々がいることに気づいて驚きました。「英語にディープ・ストラクチャーなんて、そんなものはありませんっ!チョムスキーなんて大ウソツキのコンコンチキです!!」とか言ったりして。それは「学問」の複雑怪奇さに触れた最初の経験だったのかもしれません。

  関連する本:1972年に、チョムスキーを囲んで、全米の錚々たる哲学者たちが喧々轟々の議論をした大掛かりなシンポジウムが催されました。その記録、Language & Philosophyには、素晴らしい註と解説のついた信頼できる翻訳書があります。フック編、『言語と思想』(研究社)です。今となっては古色蒼然たる感は否めませんが、私が最も刺激を受けた本のひとつです。哲学者の中には、生成文法をよく理解しているとは思えないような人もいて、それでも元気に議論したり揶揄したりしているのは、それはそれでなかなかオモシロイような気がします。

2. 代々木ゼミナールでの数学の授業

 72年のYゼミには、当時「Z会」数学科の主筆でもあった土師政雄先生がおられてすごい人気を誇り、私も心服していました。微分や集合論といった純粋な数学の理論が、ライプニッツやカントールといった創始者の名前や人生(カントールは悲しかった!)と結びつけて語られ、感動しました。私は数学も英語もからきしダメな生徒で、高校時代は授業中当てられるのに戦々恐々としていましたが、それを思い返すと、大学教員というのはつくづくいいかげんな商売だと言わざるを得ません。でも、数学自体は、たとえ問題は解けなくとも、フシギのかたまりですよね。たくさんのフシギの中でも、高校生の私が特に、「えーっ!」と思ったのは、区分求積法でした。

3. 医学校の講義

 やはり7年もいたので、その後の私の哲学的関心にあずかっているものをいくつか指摘できそうです。
@腎臓内科
  ネフローゼ症候群というのを習ったときに、最初の時間は腎臓における肉眼的病理所見を説明されて、それが「原因」であるかのような印象をもたされました。その次の時間には、光学顕微鏡下での病理所見が説明されて、そっちが本当の「原因」なのか、と納得しかかりました。そしたら最後に、電子顕微鏡下での病理所見というのが登場して、「真の原因」はこれにて打ち止め、一件落着とあいなりました。哲学も大学院まで進んだ頃、話が小さくなるほど説明力が大きくなる、という考え方を「微還元(microreduction)」というのだと知りましたが、それは私の大学院時代の主要テーマとなりました。
A精神科
月並みですが、脳と心の関係をぼおっと考えました。
B眼科
素朴ですが、なぜものが見えるのかをぼおっと考えました。
関連する本:バークリ、『視覚新論』、勁草書房
私の修士論文の1次文献であります。
 大森荘蔵、『新視覚新論』、東京大学出版会
前著の『物と心』と並んで、明治期以後の日本の哲学の最高峰。この二著は、日本の哲学も世界に貢献できることを初めて示した金字塔的作品と言えるでしょう。

4. 哲学科の講義

@柳瀬睦男先生の「量子力学の観測問題」(学部)
ほとんどわからなかったですが、わくわくしました。「シュレディンガーの猫」はその後いつまでもフシギ感が残りました。
関連する本:柳瀬睦男、『現代物理学と新しい世界像』、岩波書店

A大出晁先生の「数学基礎論」(大学院)
 まったくわからず早々にリタイアしました。最初のほうで出てきた「レーヴェンハイム_スコーレムの定理」は、その後も随所で姿をあらわし悩まされましたが、だいぶたってから少しまともに向き合う機会を得ました。
 ところで、アチラの哲学の入門書みたいのでは、哲学者を、「詩人と数学者に同時にあこがれて、どちらにもなれなかった者が選ぶ職業」である、みたいな記述をよく見受けます(この見解は、私の知るかぎり、すでにアダム・スミスにあります)。ふーん、なるほどねという感じですが、量子論理で世界的な業績をもち、私の指導教授であった大出先生は、学部の卒業論文はヴァレリーの「若きパルク」だったそうで、「同時にあこがれて両立させた稀有な例」ではないかと思います。クワインもポーの「ユリイカ」に心酔していたそうですね。
 関連する本:ワイルダー、『数学基礎論序説』、培風館
  これは初心者向けのいい本ですが、立教で活躍された故吉田洋一氏の訳語は、現在の慣用とは少し違うような気がするので、原書が手元にあったほうがよいでしょう。
大出晁、『パラドックスへの挑戦−ゲーデルとボーア』、岩波書店

B石黒ひで先生の「デイヴィドソン講読」
 私が大学院に在籍していた最後の年に、石黒先生がコロンビア大学から慶応に着任されました。その頃の私は非常勤講師稼業のおかげで院の授業にはなかなか出られず、先生の学部学生対象の演習に顔を出させてもらっていました。まさに目からウロコの時間でした。
関連する本:デイヴィドソン、『行為と出来事』、勁草書房
哲学史の上では、哲学が盛んな時期には3人の重要な哲学者が踝を接して輩出して、その期間は50年ほど続くという現象が認められます。古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスに始まり、中世のアルベルトゥス・マグヌス、ボナベントゥラ、トマス・アクィナス(トリオ50年説を教えてくれた上智のアルムブルスター師は、この3人も挙げておいででしたが、そんなにすごいのか私には?です)、近代のデカルト、スピノザ、ライプニッツ、そしてロック、バークリ、ヒューム、最後にカント、フィヒテ、シェリングというわけですね。20世紀後半のクワイン、デイヴィドソン、パトナムというアメリカ人トリオは、そのいちばん新しい例ではないでしょうか。

おわりに

 大学院で「地道に」勉強していた頃というのは、意外と医学校で出くわしたことにたたられているようです。そのほか、精神分析や進化論などにも触れる機会があり、講義の題材にしたりはしていますが、本格的な関心というには、ずいぶんその手前でとどまっています。
関連する本:マイア、『進化論と生物哲学』、東京化学同人
何か書けるだけの知識はないのですが、でも進化論はやっぱり面白いし重要です。この本はかつて文学部の演習でテクストにして、その密度の濃い議論に魅了されました。マイアは、今日標準の「生物種」の定義を与えた鳥類学者ですね。

  ロング・スパンで鳥瞰して見ると、高校から予備校にかけての英語や数学の授業が私に残した印象は思いのほか深いようで、それらも含めて、「うーん、わからないー!」とアタマを抱えた経験というのが、まさしく私の「テツガクのモト」であるような気がします。

 

お別れ―本と師について

このサイトに書けるのもいよいよ本日(2015.10.07)かぎりです。「本と映画の話」とかぶるところもありますが、ご寛恕ください。

私のこれまでの読書遍歴で、最も影響を受けた3つの作品は以下のとおりです。

[日本文学]
1.夏目漱石、『道草』、岩波文庫ほか
2.坂口安吾、『桜の森の満開の下』、角川文庫ほか
3.大江健三郎、『洪水はわが魂におよび』、新潮文庫
短編では、「サラサーテの盤」ほかの、内田百閧フ諸作品が断然好きです。

[海外文学]
1.エミリ・ブロンテ、『嵐が丘』、岩波文庫ほか
2.ドストエフスキー、『白痴』、岩波文庫ほか
3.ガブリエル・ガルシア=マルケス、『百年の孤独』、新潮社
短編では、「犬を連れた奥さん」ほかのアントン・チェーホフ、それから「盲のジェロニモとその兄」ほかのアルトゥール・シュニッツラーの諸作品に深い共感をもちました。


学術書は和洋5点ずつ挙げましょう。

[洋書]
1.Kant,I., Kritik der reinen Vernunft.(Philosophische Bibliothek) Felix Meiner, 1976
2.Berkeley Philosophical Works.(Everyman's University Library) J.M.Dent & Sons, 1975
3.Black,M., Nature of Mathematics. Littlefield, Adams & Company, 1965
4.Black,M., Models and Metaphors. Cornell University Press, 1962
5.Gustafson,D.F.(Ed.), Essays in Philosophical Psychology. (Anchor Books) Doubleday & Company, 1964

ウィトゲンシュタインの弟子だったというマックス・ブラックには、私はずいぶん恩恵を受けています。最後に挙げたペイパーバックスは、神保町の今はなき東京泰文社で入手しました。米国では「心の哲学(philosophy of mind)」と呼ぶものを、英国では長らく「哲学的心理学」と呼んでいました。その担い手は、いわゆるオクスフォード日常言語学派の面々でしたが。同じように、米国で「論理学の哲学(philosophy of logic)」と呼ぶものを、英国では「哲学的論理学(philosophical logic)」と呼んでいましたね。

[和書]
1.フレーゲ(藤村龍雄訳)、『フレーゲ哲学論集』、岩波書店、1988年
2.フック編(三宅鴻・大江三郎・池上嘉彦訳)、『言語と思想』、研究社、1974年
3.ワイルダー(吉田洋一訳)、『数学基礎論序説』、培風館、1969年
4.マイア(八杉貞雄・新妻昭夫訳)、『進化論と生物哲学』、東京化学同人、1994年
5.大森荘蔵、『新視覚新論』、東京大学出版会、1982年


学恩深き方々に、掉尾を飾っていただきます。
Ludwig Armbruster(哲学、上智大学)
柳瀬睦男(量子力学、上智大学)
大出晁(数学基礎論、慶應義塾大学)
村田全(数学史、立教大学)
A.C.Grayling(哲学、ロンドン大学)

真にかけがえのないものを頂戴しました。厚く御礼申し上げます。
中山恒夫(ラテン文学、順天堂大学、のちに大阪大学、筑波大学)
浅見一羊(解剖学、順天堂大学、のちに聖路加看護大学)
石黒ひで(哲学、ロンドン大学、コロンビア大学を経て、慶應義塾大学)