猫魔みゃう氏の生活と意見

今回は「科学的食肉生産の是非」についてです。

 

(1)集中管理飼育

 

  牛や豚、鶏といった食肉にされる哺乳類や鳥類の飼育法が、北半球の多くの国々やオーストラリア、ニュージーランドなどではきわめて効率の高い集中管理飼育とされていることはよく知られています。育種法に始まって、人工交配の方法、消費者の味覚にかなった肉質を得るための飼料および飼料添加物の開発などは、今日の農畜産学や農芸化学の高度の進展なしには考えられません。また、効率本位の考え方のもとに行われる集中管理飼育は、動物生理学や動物行動学の与える知見、そして何よりも、感染症防止のための抗生物質大量投与を可能とする疫学の驚異的な進歩があってはじめて実現したものといえます。記憶に新しい動物のクローン出産が、農場で大規模に現実化してゆくのも遠い先のことではないのかもしれません。さらに、屠殺を経て解体され食肉とされるまでの過程は、鎌田慧氏の『ルポ屠場』(岩波新書)に描かれているように、まさに「オートメイション化された加工工場」のそれを思わせるものとなっています。

 

(2)大量生産のリスク

 

  私たちが日々恩恵を受けている食肉は、このようにある意味では目につきにくい地味な現代の諸科学の所産だといえます。しかしここには、いくつかの見過ごすことのできない重大な問題が潜んでいます。

  第一に、先年イギリスで「狂牛病」と呼ばれて一大騒動となったたぐいの、消費者の健康への影響という問題があります。効率本位の考え方というのも、消費者のとどまるところを知らないかのような欲求を満たすためのものにすぎません。食品という私たちの生命に直接的に関わらざるを得ない商品の安全面において、需要を満たすための大量生産が、それと背中合わせのリスクをもたらすわけです。人についてもそれ以外の動物についても、ペニシリンの発見を契機とする感染症対策の飛躍的発展が福音であったことは否みようがありません。にもかかわらず研究者たちは、新発見の抗生物質をあざわらうかのように出現する新手の病原微生物への応接にいとまがないのが実状であり、さらに悪いことには、人為的手段によって淘汰されてゆく過程で生き残る耐性株微生物の悪性度ははかりしれないものとなるおそれもあります。

 

(3)南半球の飢餓問題

  第二に、食糧供給の問題ほど、もてる北半球ともたざる南半球との対比を露呈するものもありません。北の人々が飽食を続ける間に南の人々が次々と飢餓で倒れている現実は、史上最悪の倫理問題というほかないでしょう。この地球規模の大問題に立ち向かおうとするならば、北の国々の食肉生産は根本的に再考されねばなりません。

  多方面から指摘されているとおり、家畜飼料を得るために必要とされる広大な牧草地や畑地を考慮するならば、畜産はタンパク源を得る手段としてはきわめて効率の悪いものです。そこで、もし富める国の人々が肉食の習慣をあらためるならば、飼料生産に当てられてきた牧草地や畑地は、植物性タンパク源としての、大豆をはじめとする豆類の畑地への転換が可能となります。いくつかの試算によれば、南半球の飢餓問題はこれによってほぼ解消するそうです。

  とはいっても、少なくとも現在の飽食日本では、人々の意識をこの方向へ向けるのもなみたいていではありません。人々の肥大する一方の欲望に現代科学が大きな力を貸し与え、それによって一度味をしめた欲望は、とどまるところなくエスカレイトしてゆきます。人間の理性は、この悪循環をいつしか断ち切れるのでしょうか。


(4)動物たちの権利

  第一および第二の問題では、その視野にあるのはあくまで人間でした。第三の問題として、動物たちの権利をめぐる議論を挙げておきたいと思います。地球環境破壊が焦眉の問題として回答を迫られているいま、私たちは環境保全のうえからも、地球上のパートナーシップを考え直す必要があります。これまで人間本位でなされてきた環境保全策は、その多くがめぐりめぐって人間のためにならない結果を招いてきました。本当に人間のためということを考えた場合も、おそらく人間中心主義は捨て去られるべきなのではないでしょうか。人間以外の生物種にも生きる権利を認め、人間と彼らとの共存可能な環境を求めてゆくべきでしょう。この問題を最初に真摯かつ本格的に考えたのは、18世紀から19世紀にかけて活躍したイギリスの哲学者、ベンサムでした。ベンサムは、人間がパートナーシップを認めるべき基準を、高次精神能力としての理性や知性に置かず、むしろ発生学的には低次の「苦しむ能力」に求め、そのような能力をもつと思われる動物の殺害に反対しました。今日の生物学的知見に照らせば、魚類以上の脊椎動物は、人間と同型ではないかもしれませんが、何らかの苦しむ能力をもち、それに対応する脳神経系を分化させています。ベンサムはおおよそこのような主張から、おそらく史上最初の科学的菜食主義者のひとりとなりました。

  動物たちの権利をめぐる問題は、食肉生産法が「科学的」であろうとなかろうと生じうる議論です。しかし、屠殺の方法自体が、あらかじめ電撃を与えるなど現代科学の力を借りて私たちの心理的抵抗を軽減しており、そのような点でも19世紀以前とは変化が見られます。また、背後に地球環境問題まで控えているという意味でも軽視はできません。しかし、何よりも私は、この問題を人間理性の試金石として捉えたいと思っています。1996年度の海外研究時に、渡英して知り合った多くの哲学者や哲学科の学生たちがヴェジタリアンであることに私は驚きました。帰国後この問題を英米文学科のセミナーなどでも取り上げて考えてゆくにつれ、これは現代科学文明にともなう諸問題の典型例であると思うようになりました。科学文明の問題とは、おそらく科学自体に内在するものではなく、結局のところ科学技術と私たちの欲望との関係において生まれるものだからです。なお、この動物たちの権利に主眼を置いたヴェジタリアニズムの運動は、道徳哲学者の山内友三郎氏(大阪教育大学)、法哲学者の森村進氏(一橋大学)ら、日本の大学人の間でも推進されようとしています。


(付)日本に特殊な差別の問題の観点から

  鎌田慧氏の著書に詳しいように、わが国の食肉供給の担い手である屠場労働者には、いわゆる被差別部落出身の方々が多数おられます。その方々が、きびしい労働に従事しながらも、腕を磨いて職人芸の域にまで達し、その仕事と技術にプライドをおもちであることは、鎌田氏のルポルタージュからも、また、記録映画「人間の街」からも明らかです。

  しかしその一方で、彼らが日本国憲法で保障されている職業選択の自由を行使して、その結果屠場やなめし皮工場に勤めているのでないことも事実です。日本の歴史のある頃から今日まで存続している政治的な差別構造によって、特定の地域の住民がこれらの職業に囲い込まれてきたのです。私が「人間の街」を見ていちばん衝撃的だったのは、映画に登場するおそらく私とあまり変わらない年齢の方が、読み書きの習得を挫折させられていた事実でした。

  私はこの日本に特異な差別構造を打破するためにも、肉食を考え直すことが有効だと考えています。わが国におそらく古来よりあったタブーの領域は、死者・犯罪者・動物にまつわるものでした。江戸時代、あるいは明治に入ってからも、死者の腑分けや犯罪者の捕縛の仕事は被差別部落民に割り当てられていました。しかし今日ではそのようなことは想像もつかなくなっています。死者と犯罪者をめぐるタブーと、そのタブーゆえの職業の囲い込みは消失したのです。残るは動物をめぐるタブーのみですが、特定の人々に対する屠場労働への囲い込みも、私たちが肉食を再考することで消え去るのではないでしょうか。

長めのおまけ−ヴェジタリアンになるために。

(1)ヴェジタリアンはヘルシー

  まず最初に明言しておきますが、ヴェジタリアンはとても健康によいのです。畜肉やトリ肉はやめても、魚は食べる(ペスコヴェジタリアンといいますが、フィッシュタリアンとか、ノン・ミートイーターとも呼ばれます)なら、いっこうに心配はいらないのは言うまでもありません。魚もやめるが、乳製品や卵はとる(ラクトオヴォヴェジタリアンといいます)という方針でもいっこうに問題は起こりません。乳製品や卵もやめるヴィーガンになると、必須アミノ酸の摂取量に注意が必要になります。ヴェジタリアンがいかに健康的か、また、ヴィーガンの注意点などは、畏友蒲原聖可氏の『ベジタリアンの健康学』(丸善ライブラリー、1999年)をお読みください。専門医が詳しくわかりやすく説明してくれます。

(2)フィッシュタリアンはかんたん

  具体的に私の経験からしても、フィッシュタリアンになるのはわけはありません。外国ならヴェジタリアン・バーガーがあるのに日本にはそれがないハンバーガー・ショップですら、フィッシュ・バーガーは必ずあるでしょう。おそばやさんの、かつおだしを使っためん類もO.K.ですしね。(だしといえば、納豆はだしのついていないのも売られています。)それに比べると、魚をやめるのはやや困難です。私も家では魚を食べなくなってしばらくたちますが、出先でおそばやさんくらいしか見当たらないときとか、職場でお寿司しか出ないパーティもありますので、完全に断ってはいません。

  うちのネコたちもフィッシュタリアンです。ペットフードの危険性についての記事を読んだのをきっかけにそうしました。畜肉やトリ肉は抽出検査を経て市場に出るわけですが、もしその抽出された部分に、2箇所以上腫瘍が見つかったらそれは廃棄されるそうです。もし、腫瘍が1箇所ならペットフードに回されるとのことでした。それで、肉を使っていない「キャット・スター」というドライ・フードを与えています。

  蒲原さんの本によると、アメリカではヴェジタリアン・ペットフードもすでに販売されているそうです。でも、日本では私は目にしたことがありません。「キャット・スター」も魚は使われています。南の国々で漁業にたずさわる現地の人々は、せっかく漁った魚も欧米や日本のペットフードにされているおかげで、自分たちの口には入らないと聞きます。言うまでもありませんが、これはペット(最近はコンパニオン・アニマルというほうがよいのかも)が悪いのではなく、彼らに食べさせている私たちの問題です。ペットフードのヴェジタリアン化に無理があるのなら、ヴェジタリアン化に無理のない人間が消費を減らすべきです。


(3)魚もやめるとしたら

  魚もやめたとき、外食で重宝なのはイタリアン・レストランです。ヴェジタリアン・カレーがメニューにあるインディアン・レストランがそれに次ぎます。私の住んでいる荻窪には、ヴェジタリアニズムで知られるセヴンスディ・アドヴェンティスト教会の経営する東京衛生病院があるせいか、ヴェジタリアン・レストランもいくつかあって便利です。インディアンの「ナタラジ」と無国籍料理の「ばしょう」はおすすめです。

  セヴンスディ・アドヴェンティストは、習志野市に三育短期大学をもつほか、ヴェジタリアン食品専門の三育食品を経営しています。どの商品もおいしくて感心しますが、たとえば袋入りの「玄米ラーメン」など、肉も魚も使っていないだけでなく、めんを油で揚げてもいないので、すっきりしていてとても美味です。というわけで、ヴェジタリアンになっても、日本ですら、カレー(ヴェジタリアン用カレー粉が売られています)もラーメンもO.K.なのです。イギリスに行けば、言われないとわからないほど肉の味のするヴェジタリアン・ハンバーガーやカツレツが冷凍食品などにあって驚かされます。


(4)豆乳・ゼラチン・ビタミン剤

  私はいろいろ試しているので変則的なヴェジタリアンなのですが、豆乳は現在は昔とは段違いにおいしいです。ですから最近牛乳も買っていませんが、でも買ったお菓子で使われていたりします。お菓子といえば私は大の甘党なのですが、ゼラチン(今は豚や牛が原料です)を使ったゼリーやムースがひっかかるので、ケーキの選択肢は狭くなりました。それはちょっと悲しいです。また、ゼラチンがだめでちょっと困るのは、ビタミン剤などのサプルメントを買いにくいことです。たとえば、ビタミンE剤でゼラチンを配合していない商品は日本では見かけません。でも、アメリカの「ピューリタンズ・プライド」というサプルメント・メーカーは、ヴェジタリアン対応で、インターネットでかんたんに注文できます。

 

(5)皮革製品・化粧品・医薬品  

 

  動物倫理からヴェジタリアンになると、皮革製品も使えなくなりますが、靴もバッグも人工皮革や布製を買うようにしています。化粧品などは、動物実験をしないBODYSHOPやミス・アプリコットのものを選んでいます。石鹸も、探すと牛脂を使っていないものがあります。医薬品は今はまだ動物実験をしていますから、なるべくお世話にならないようにするしかありません。そのためにもヴェジタリアンになるのは理にかなっています。

 

(6)ヴェジタリアン・ソサイエティと機内食  

 

  最後に、イギリスに本部のあるヴェジタリアン・ソサイエティのサイトをご覧になることをおすすめします(このサイトからリンクされています)。イギリスでは、冷凍食品からお菓子まで、ヴェジタリアンの食べられる食品には、ヴェジタリアン・ソサイエティお墨付きのVの字が印刷されていてとても便利ですので、あちらへ行かれたときには、スーパー・マーケットでぜひお確かめ下さい。

  そうそう、イギリス(ではなくてもいいのですが)へ行くための航空機の予約の際、機内食にヴェジタリアン・フードを予約してみることもおすすめします。機内食って、ヴェジタリアン・フードや療養食も含めると、10種類くらいあるんですよ。そしてそういった通常食以外のメニューのほうが先に出されるのがふつうです。待たされなくてすむうえ、特にアジア系の航空会社ですと、ヴェジタリアン食にも、エイジアン、インディアンなど複数用意されていて楽しめます。チケット店で予約してもらって、さらに搭乗手続きの際、確認したほうがよいでしょう。