立教大学 総長 西原廉太立教大学理学部創立75周年、誠におめでとうございます。2024年は立教学院創立150周年でもあり、まさしく二重の喜びです。立教大学理学部の淵源は1942年末の部長会において「工業学校創設」が話題になったところに㴑ると言えます。従来あった医学部設置構想が頓挫し、それと入れ替わる形で本学における理科系拡充策の一つとして提案されたものですが、その背景には、戦況が悪化する中、私立学校、とりわけ文系大学の整理、改廃という圧力が強まり、理工系学部の創設はいわば立教大学の生き残りのために必須とされたということがあります。1943年8月の理事会には「立教理科専門学校」の設立計画が提出され、全会一致で承認、同日付けで文部省に申請されました。1944年3月、最終的に設置が認可されますが、その際の学科は地質探鉱科、工業数学科、工業理学科、工業経営科の4学科で、修業年限は3年でした。開設時点での地質探鉱科には、金属専攻、石油専攻、石炭専攻の3専攻が設けられていたということですが、私自身、京都大学工学部金属工学科の出身ですので、感慨深い歴史でもあります。立教理科専門学校は、1945年4月から校名を立教工業理科専門学校に改め、工業理学科を工業物理科に変更、新たに工業化学科を設置しますが、敗戦後、地質探鉱科、工業物理科、工業数学科は募集を停止し、1948年までは工業化学科と工業経営科の2学科体制となり、1950年3月をもって立教工業理科専門学校は廃止となります。この決定の過程は同時に、戦後の新生立教大学の再建と連動したものでした。1946年5月、戦中閉鎖された文学部が再開され、同年6月に新総長として佐々木順三先生が就任されます。佐々木新総長は、立教学院を再建するにあたって、戦前の状態に回帰させるのではなく、かつてタッカー総理が提唱した通り、立教大学をリベラルアーツに基づく真の総合大学へと発展させることを願いました。そのためには、理科専門学校をただ廃止するのではなく、新生立教大学の重要な柱として「理学部」へと昇格させることが不可欠であると考えられたのです。佐々木総長は、理科専門学校の講師として来られていた理化学研究所の杉浦義勝先生に、新理学部建設委員会委員長の重責を依頼、キリスト者でもあった杉浦先生は、立教大学が大切にするキリスト教教育や建学の精神にも深い理解と共感を持たれ、そのような大学での理学部創設のために教員人事、施設・設備の充実、文部省折衝等も含めて獅子奮迅の働きをなされ、ついに今から75年前の1949年3月25日、立教大学理学部は正式に認可されたのです。興味深いのは、文部省への当初の申請段階では、「理学部」ではなく「文理学部」であったことです。また、新制大学申請書にも、聖路加国際病院と連携して医学部を設置する場合には、「文理学部」の理科系学科前期には「プレメディカル課程」を含めることも記載されています。最終的には「理学部」という形での出発となったものの、立教大学理学部はそもそも、まさしく本学の高度なリベラルアーツ教育・研究を体現する使命が与えられ05総長祝辞理学部創立75周年をお祝いして
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