Ein Gev Excavations 日本聖書考古学発掘調査団

表 紙 | 発掘の背景 | 調査団の構成 | 作業風景 | 文 献


発 掘 の 背 景

エン・ゲヴについて

エン・ゲヴの遺跡はガリラヤ湖東岸のキブツ・エン・ゲヴ敷地内に位置している。キブツ・エン・ゲヴには湖西岸の町ティベリアから観光船が出ており、観光コースの一部になっている。遺跡は周辺にバナナ畑などの広い農地をもつキブツの居住区北西端に位置し、現在の湖岸線からごく近いところにあるなだらかな丘の地中に埋まっていた。南北に長い遺跡の南部分にはすでに住宅等が建てられており、発掘はほぼ遺跡の北部分に限定されている。遺跡全体の大きさは必ずしもまだあきらかになっていないが、 遺跡丘 (テル) として現在の地表に表われている部分や、これまでの発掘の成果などから、少なくとも南北に約250m、東西に約120mの規模をもっていることがわかっている。湖を背に東を望めば、ゴラン高原の急斜面の中にヘレニズム・ローマ時代にこの地域の中心都市だったヒッポスを頂にもつ山影が見える。遺跡のアラビア語名はヒルベト・エル・アシェク Khirbet el-`Asheq


エン・ゲヴの古名
「エン・ゲヴ」という名は現代の地名であり、古代文書には登場しない(エン・ゲヴにまつわる地名いろいろ)。1961年にイスラエル人によるごく短期間の発掘が行なわれ、鉄器時代に城壁をもつ相当規模の町であったことがわかったため、聖書に言及されるアフェク Aphek が現在エン・ゲヴとして知られている遺跡を指しているのではないかと考えられた。旧約聖書にはアフェクと呼ばれる町が三つ出てくる。そのうちで一番有名なのは、テル・アヴィヴ近郊のローシュ・アインにあるアフェク・アンティパトリスだが、エン・ゲヴとの関係が考えられているのはもちろん別のアフェクである。

列王記上20章はアラムの王ベン・ハダドがイスラエル王国の首都サマリアまで攻め寄せ、一時は軍を収めたが、再び侵攻してアフェクに軍を集結させたという出来事を伝えている。当時のイスラエル王アハブはそれを平野で迎え撃ち、アラム軍はアフェクに逃げ込み、降伏する。アラムは現在のシリアにあった王国だが、このイスラエルとアラムの戦いでアラム軍が逃げ込んだのがエン・ゲヴに残されている町だったのではないかと考えられているわけである。この出来事は前9世紀前半ないし中葉のこととされている。

    ヒッポスを通る道を上ってゴラン高原を上りきると、フィック Fiq というアラブ時代の廃墟がある。その近くにはその廃墟の名から名付けられたキブツ・アフィック Afiq があり、古代名アフェクがエン・ゲヴに比較的近いところに保持されていると考えられることもエン・ゲヴをアフェクとする推論の根拠のひとつである。エン・ゲヴとフィックでは高原の上と下、距離にして6キロと少し離れているが、地名が長い歳月の中で移動することはさほど珍しいことではない。

    そのアラブ時代の廃墟周辺にイスラエル王国時代の痕跡はないが、フィックからゴラン高原を少し下りた斜面の中腹にあるテル・ソレグ Tel Soreg ではイスラエル王国時代の居住が認められ、一時はここがアフェクではないかとも考えられたが、発掘の結果、聖書の記述にあうような要塞ではなかったことがわかったため、この仮説は放棄された。最近ではガリラヤ湖北岸のベトサイダ Betsaida で発掘が進み、やはりアフェクとの同定が試みられている。

もしエン・ゲヴがアフェクであるとすれば、一時はアラム人の町であったことになる。いずれにしてもエン・ゲヴが当時イスラエル、アラム両国の境界地域に位置していたことは間違いないだろう。アラムの文化については多くはわかっていないが、北方の文化との関係も興味のもたれるところである。


交 通 の 要 衝
現在でもガリラヤ湖の南端から東岸に湖岸を巡る道が通っているが、古代においてもこのルートは主要な交通路のひとつであったと考えられている。湖の南端にはヨルダン渓谷北部の主要都市ベテシャン Beth Shean から、あるいはガリラヤ山地を横断して地中海岸のアッコ Akko/Acreなどの港湾都市からの道が繋がっていたと考えられている。

その道はエン・ゲヴ付近でゴラン高原へ登っていく道に分岐する。このルートの途中にはヘレニズム・ローマ時代の遺跡ヒッポス Hippos がある。ヒッポスは「十都市 デカポリス Decapolis」のひとつであり、この地方の国際都市だった。丘というより山といった方がいいほどの高さの場所に神殿の跡が残っている。この山の姿はエン・ゲヴからもよく見え、このヒッポスが栄えていたであろう時代と対応する居住はエン・ゲヴでも発見されている。

ゴラン高原に登るルートはエン・ゲヴから北に6キロほどのところにもうひとつあり、現在はこちらが主要なルートになっているが、古代においてはいずれも主要なルートだったと考えられる。 いずれもゴラン高原から流れ落ちるワディに沿った道である。ゴラン高原に上ったあと、この道はさらに東に向かい、その後北上して古代アラム (現シリア) の中心都市ダマスカス Damascus に繋がっていた。

また、湖上交通も重要な役割を担っていたものと考えられる。ガリラヤ湖の水位が下がる時にはかつて用いられた桟橋の残骸が湖岸のあちこちに表われる。多くは漁師が使ったものと考えられるが、東岸のエン・ゲヴ、テル・ハダル、北岸のテル・キンロット Tel Kinrot、南岸のベト・イェラフ Beth Yerah、東岸のテル・レケト Tel Reket (ローマ時代以降はティベリア) など、それぞれの時代に栄えた湖岸の町々は船による往来をも利用していたと見ていいだろう。



発 掘 調 査 の 背 景

エン・ゲヴ発掘調査団の発掘はテル・アヴィヴ大学のコハヴィ教授 Prof. Moshe Kochavi (写真左) による「The Land of Geshur Project (ゲシュル・プロジェクト)」の枠組みの中で行われている。1960年代に本調査団の母体となっている発掘調査団 (団長:故 大畠清 東京大学名誉教授) がシャロン平野北部の遺跡テル・ゼロール Tel Zeror を発掘して以来のコハヴィ教授との交流から、鉄器時代にこの地域の中心だったと考えられるエン・ゲヴ遺跡の発掘が提案された。コハヴィ教授の調査計画は初期青銅器時代から鉄器時代を中心にゴラン高原とガリラヤ湖東岸の文化を総体的に調査しようとするもので、エン・ゲヴの他に、テル・ハダル Tel Hadar、テル・ソレグ、ロジェム・ヒリ Rogem Hiri、レヴィヤ Leviah といった遺跡がアメリカやフィンランドのグループの協力の下に発掘されている。 このうち、テル・ハダルとテル・ソレグは時代的にも距離的にもエン・ゲヴに近く、各遺跡相互の関係についても調査の関心は向けられる (写真:コハヴィ教授と第一〜三次調査団々長の金関恕教授)。なお、「ゲシュル」という地名は、ダビデ王の長子アブサロムが抗争を逃れ、母方の実家であるゲシュルに亡命したという旧約聖書の記述 (サムエル記下13章37-38節) などで知られるガリラヤ湖東岸とゴラン高原の一部を含む豪族の領土を指すものと考えられている。

エン・ゲヴは1961年にヘブライ大学のB・マザール Benjamin Mazar を中心とするイスラエル人のグループによって初めて発掘された。その時の調査は二週間程度の短いものだったが、遺跡の南端と北西辺で鉄器時代の城壁や聖所らしきものが見つかった。本調査団による発掘は金関恕 天理大学教授 (当時) を団長に1990年から1992年まで行われたが、しばらく休止し、1998年に月本昭男立教大学教授を団長に再開され、99年、2001年、03-04年とあわせて8シーズンにわたる発掘調査が行われた。2004年夏のシーズンをもって日本隊による発掘はひとつの区切りをつけることになった。


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(c) 2002-2004 日本聖書考古学発掘調査団 Japanese Expedition