2003年8月19日、故・ギル・コーヴォ氏の追悼会がキブツ・エン・ゲヴ主催で行われました。遺跡での「ギル・コーヴォ記念考古学公園」建設を示す掲示の除幕式につづいて、場所をキブツ内のコンサートホールに移し、キブツの若者がギルさんの好んだという「シナイの歌」を歌い、生前ギルさんがキブツの人たちに遺跡の説明をしている8ミリ映像などが流されました。発掘隊を代表して、テル・アヴィヴ大学のコハヴィ教授につづいて、月本団長も壇上でスピーチをし、発掘隊で集めた基金がアニータさんに手渡されました。式典の最後には発掘隊の世話係をしてくれているエフラトさんの追悼文が読まれました。以下に訳出いたします。(2003年9月29日)




ギルがエンゲブに思い描いていた大きな夢は1990年に始まりました。モシェ・コハヴィ教授がガリラヤ湖周辺とゴラン高原の発掘調査(「ゲシュルの地」プロジェクト)を決めたとき、日本の発掘調査団によるエンゲヴ発掘にイスラエル側から協力する人物としてギルを選んだのです。

日本の調査団は1990年から1992年、それに1998年にはゴラン高原の上にあるキブツ・アフィクを宿舎に、毎朝エンゲヴを発掘するために高原から降りてきていましたが、ギルとエンゲヴとの関係は夏が来るたびに深まっていきました。考古学の発掘はそれ自体が感動的なものですが、遺跡とそれに関わる人々へのギルの思いは年々強くなっていったのです。

1999年の発掘シーズンが始まる前、キブツ・エンゲヴにはすでにホステルが完成していました。私たちはギルに宿舎をエンゲヴに移したらどうだろうかと提案しました。ギルは大喜びできっぱりとその提案を受け容れてくれました。

1999年と2001年に日本の調査団はエンゲヴを宿舎としましたが、去年(2002年)はご記憶のとおり、まさに直前になって発掘は中止されました。日本隊がエンゲヴを宿舎とするのは今年で3年目ですが、発掘は始まってから7シーズン目を迎えています。

日本隊への協力者としてギルを選んだコハヴィ教授の選択は全く正しいものでした。日本語ができないのに日本の方々と話をして通じ合う才能、日本の独特な文化を理解する才能、そして日本の文化とイスラエルの文化、そしてキブツ・エンゲヴ独特のやり方を結び合わせる才能 ── ギルの才能は驚くべきものでした。

ギルはエンゲヴにそれは大きな愛情を注いでいました。この土地を愛し、風景を愛し、そして、人々、雰囲気を愛していました。人々と個人的な友情を結び、興味を示した人すべてに興味を示していました。ホールの楽屋で使っていたベッド ──「アルミニウムの家」にあった、あの独特なベッドです ── はギルのお気に入りで、決して別のものにしようとはしませんでした。シーズン中は必ず一度、コンサート・ホールの舞台に上って、ホール中から反響してくるような大声をあげて遊んでいました。それは彼をいつも感激させていました。キブツの活動を気にかけ、キブツの子供たち、若者たち、年寄りたちのことを気にかけていました。ギルは発掘シーズン以外には国内外で測量機器の販売をして生活していましたが、彼が大きな愛情を注いでいたのはエンゲヴの発掘だったということもできるでしょう。

ギルは特別な感じのする人でした。とても控え目でありながら、多くの様々な分野について多くの知識をもった人でした。そして、人を引き立て、自分より人を大切にしていたように思います。ギルと接したことのある人は誰でも、自分がギルにとって特別で大切なかけがえのない人なんだと感じていたことでしょう。すべての人からその人の最もよいところを引き出していました。それが彼独特の愛すべき人柄でした。

ギルのエンゲヴへの愛情はもちろん、奥さんのアニータとふたりのお子さんリアとミハエルへの愛情に優っていたわけではありません。2001年のシーズンが終ったとき、ギルは出産を控えた我が家へ興奮を隠しきれない様子で帰っていきました。そして、その数ヶ月後、健康に問題が生じ始めたのです。検査、手術、治療の日々 ── ギルもご家族の方々も最初は楽天的でした。皆さんも、そして私たちも。

2002年の発掘シーズンが近づいてきたとき、ギルはいつも通り準備に取りかかりました。日本とのやりとり、キブツへの連絡、情報の確認……。最後の計画は車いすでエンゲヴに来ることでした。つきっきりで介護をしていたガイに付き添われて。厳しい条件はあったものの、彼がエンゲヴにいられる態勢が整えられました。時間は過ぎていき、病状は悪化していきました。

2002年のシャブオート(6月上旬のユダヤ教の祝祭)の間にギルはガイ、アニータ、それに子供たちといっしょにエンゲヴにやってきました。暑い日であったにもかかわらず、ギルは私たちを発掘現場へ連れ出し、そこから古いニワトリ小屋を利用した発掘用具置場の倉庫にも行きました。ギルはエンゲヴに、そして発掘にお別れを言いに来たのです。すでに彼は知っていたのでしょう。私たちは信じたくありませんでした。

7月中旬、計画では発掘が始まることになっていた2週間前、私はカエサリヤのギルの家を訪れました。ギルは愛する家族とたくさんの友人たちに囲まれて、居間で横になっていました。

「エフラト、ギルを起してみて。もうずっと眠ったままなの。」アニータが私に言いました。私はギルのそばに行って、彼の手を握って言いました。「ギル、私よ、エフラトよ。エンゲヴから来たのよ。」すると、ギルは目を開いて、起き上ろうとしました。

「エフラト、着替えてエンゲヴに行かなくては。日本のみんなが来る前に、やっておかなくちゃいけないことがまだ山ほどあるんだ。」

私は「もう外は暗くなっているから、明日にしましょうよ」と彼に言いました。その年の発掘が政治上の問題、治安上の問題から中止になったという知らせが日本から届いたのはその一週間後でした。そして、発掘が始まるはずだった日、ギルは亡くなりました。

アニータ、ダニー(ギルのお兄さん)、ご両親、親戚の皆さん、それに友人の方々、ギルと私たちの物語はこの先も続いていきます。ギルは私たちに文字で書かれたのではない遺書を残したのです。私たちは愛情をもってそれに従わなければならないでしょう。ギルがその生涯でなし得なかったことを、彼に代って、彼に敬意を表しつつ、私たちが成し遂げられるかもしれません。

すでに計画の初段階について私たちは関係者と会議をもちました。テル・アヴィヴ大学の考古学研究所、日本の発掘調査団、イスラエル考古局をはじめとする政府関係者、それにエンゲヴ観光事業部などのキブツの組織、ご家族の皆さん、たくさんの友人の方々の協力の下、その夢は実現できると私たちは信じています。

ここにギル・コーヴォ記念考古学公園の建設は始まりました。

ギルを愛し、彼に敬意を表し、彼への哀悼の意を捧げる
キブツ・エンゲヴのメンバーを代表して

エフラト・ベン・ヨセフ



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(c) 2003 日本聖書考古学発掘調査団 Japanese Expedition