支部員は語る
〜花ちゃん編〜






障害を持つ人を「障害者」と呼ぶことへの違和感
〜どんぐり牧場でのワークを通して〜

花ちゃん 03/11/12

 ボランティアサークルの部長をやっていると、よく「BSAはどんなボランティアをやっているんですか?」と聞かれます。そのときの返事として「知的障害者が養鶏などをしてそこを生活の拠点としている、「どんぐり牧場」という施設に春と夏、ワークをしに行っています。」と答えます。そしてそう言った後、私は自分の言ったことに何か気持ちの悪さを感じます。それはどういうことなのでしょうか。
 それはおそらく、どんぐり牧場で働いている彼らを仕方なく“知的障害者”とレッテル貼りしたことからくるものであるように思います。私はどんぐり牧場で彼らと共に生活しているとき、彼らを“知的障害者”だと感じることはありません。たしかに、彼らと最初に会ったときはそのことを意識しましたが、何日も生活を共にしているとそんな言葉はどこかに飛んでいってしまいます。彼らが持っている障害は、そのまま彼らの個性となって私の前に現れます。だけれど、彼らの持っている障害だけで彼らを規定するようなことはしません。なぜなら、それは彼らが持つたくさんの個性のうちのたった一つにすぎないからです。
 先ほど、「彼らを仕方なく“知的障害者”とレッテル貼り」すると言ったのは、彼らをそう呼びたくないのに、そう呼ばざるを得ないからです。他に適切な言葉がないからです。「知的障害」という言葉の悪いところは、その言葉を使うことによって私たちと彼らとの間に見えない壁を作ってしまうところにあるように思います。もっと言うならば、別の次元の存在の人であるかのように彼らを捉えてしまうように思います。
 「障害者」という言葉への批判として、「障害」という字の意味がマイナスだから「しょうがい者」と、ひらがな表記にしようというものがあります。私は「障害者」という言葉を問題視する意味で良いことだと思いますが、だからといってそうすることによって問題の本質は解決されないとも思っています。「しょうがい者」といくらひらがな表記にしようと、口に出して「しょうがい者」と言うとき、「障害」という言葉を連想せずにはいられないと思うからです。それは「個人の意識の問題だ」と言う人もいるかもしれませんが、それならなおさらであります。「しょうがい者」という言葉より「障害者」という言葉の方が人々の間に内在化されていますので、個人の意識の問題であるならばなおさら、「障害」という言葉を連想する人の方が多いと思います。
 障害者ボランティアをしたことのある人ならばたいていの人が感じるであろう、「障害者」という言葉への違和感。それはただの言葉じりの問題ではなく、もっと深いものが関係しているように思います。ボランティアを通じて発見した“違和感”という名の宝物を、そのまま金庫にしまっておくか、それとも社会というオークションにかけるか、それは私たちにかかっているだと思います。


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