「成る」ということ
恩ちゃん 04/1/12 |
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今日、成人の日を迎えられた方々に「おめでとう!」 これを執筆している日は1月12日、成人の日。全国で152万人が成人として、今日を迎えられたそうです。 「成人」という言葉をみてみると、「成ルレ人ニ」ということだから(だよね?)、言葉を補えば、「一人前の人に成る」ということでしょうか。 僕も1年前、この成人の日を芸術劇場で行われた成人式に参加して過ごしたことを思い出します。とは言え、目当ては立教学院諸聖徒礼拝堂オーガニスト・伊藤純子先生のオルガン演奏を聴きに行くという、成人式そのものではなかったのですが・・・。 そんな成人式では某H先生の説教張りに長い話の中に「皆さんは今日晴れて、大人の仲間入りをするわけですが・・・」という言葉を耳にします。では、これを読んでくれている貴方にお聞きします。あなたは「大人ですか?」 「大人ではない」と思った人、それは何故ですか?歳がハタチに達してないから?一人前じゃないと思うから?責任を取るのが嫌だから? それでは逆に「大人だ」と思った人、それは何故ですか?これも歳?なんでしょう?・・・そして、聞きたいのは、自分が大人に“成った”のはいつだったと思うのかということです。 昨日の主日礼拝では香山チャプレンが説教をしてくださいました。昨日は教会暦では「主イエス洗礼の日」とされています。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日ですが、当然ながら説教も「洗礼」がテーマでした。キリスト教での洗礼は、すなわち「信仰告白」を意味します。自分はクリスチャンとしてイエスの生き方についていきます。ということです。つまり、クリスチャンに“成る”ことを示すわけです。しかし、香山先生の問いかけは、皆さんにとって、クリスチャンに“成った”のはいつだったのでしょうか?というものでした。この問いかけにはとても深いものを感じました。やはり、洗礼を授かったときだと言う人もいるでしょう。しかし、洗礼を授かった後も尚、“成る”時を待っている人もいるのではいかということでした。そして、逆を考えれば洗礼に授かっていなくても、すでに“成っている”人もいるのではないかと、考えることもできるのではないかと思ってみたりもするのです。(けして「洗礼」を軽んじるわけではないので一応断っておきますが・・・) 「成人」ということ、「クリスチャンに成る」ということ、この2つを例に挙げても、「成る」ということはなかなか奥の深いテーマです。 さて、いつもまとまりのない文章を書いてしまう恩ちゃんは、また違うところに話を飛ばしたくなっちゃいました。ドライバーについて・・・。僕は車の運転が好きなんですけど、車を運転しているとつい、「お前免許持ってんのかよ!!」と心の中で叫んでしまう場面にしばしば遭遇します。急に割り込まれたり、細い路地の角に駐車されていたり・・・とにかくいっぱい!誰もが教習所に通い、運転免許証の交付を受けてドライバーに“成って”いるわけですよ。まったく!!いやいや、言いたいことっていうのは、何かに「成る」というのは何らかの、免許なり、証明証を受けるなり、式典などの儀式を行うなりをすることがけっこう多いですよね。それは社会的秩序の維持のためだったり、社会的共同体へメンバーとして迎え入れる上で、その成員への示しのためだったり・・・。でもそれを受ける当の本人にとって、本当の意味において「成る」ということは、それとは一線を引いたところに問題があるんじゃないかと思うんです。 運転免許証を交付されて自分はドライバーに“成った”と言うこと、洗礼を授かって自分はクリスチャンに“成った”と言うこと、二十歳の誕生日になって、また成人式を迎えて自分は“成人”したと言うこと、どれもけして間違ってはいない。けれども、それだけで本当にいいの?そう言いたいのです。周囲から、社会から与えられたものだけで“成った”と言い切ってしまうことはなんとも寂しくはありませんか? 自分なりの価値観に基づいた定義を持って「成る」ということが大切ではないでしょうか。今日は成人の日なので、そこに戻りましょう。人に成るとは皆さんにとって、どういった価値観に基づいた定義の上に生きることですか? こんなこともたまには考えてみるのもよいものです。 |