2003年 振り返り

BSAとボランティア
BSA担当 司祭 柳 時京
四年間のすべてをこめて
理学部 物理学科 4年 小沼 健一
BSAの七不思議
理学部 化学科 生命理学コース 4年 天野 仁至
「ボランティアサークルの一歩上を目指して」
コミュニティ福祉学部 コミュニティ福祉学科 3年 野末 和弘
「青春の烽火(ほうか)」
経済学部 経営学科 3年 武村 剛泰
「存在」
社会学部 産業関係学科 3年 恩田 和英
自分との戦い
コミュニティ福祉学部 コミュニティー福祉学科 2年 伊井 勇人
2003年 ふりかえり
法学部 法学科 1年 中島 正敬
編集後記





BSAとボランティア

BSA担当 司祭 柳 時京

 BSA第8支部の担当チャプレンになってからほぼ一年が経った。この一年間を振り返ってみると、週一回の定期ミーティングを含む様々な活動があったが、その中で一番記憶に残っているのは、やはり幾つかのキャンプである。
  春と夏、2回のどんぐり牧場キャンプ、夏の終わり頃行った東松山キャンプなどを通して、BSAのメンバーはつらいワークを中心とした厳しい生活を体験してきた。ゆったりとした普段の生活やキャンパス・ライフから一変して、キャンプ地に行き、現地の人々との交わりと共にワークをする。これらのキャンプを経験する間に、一人一人の中で、漠然としていた「ボランティア」の本来の意味や、BSAの原点ともいえる「祈祷」と「奉仕」について少しずつ気付いてゆく貴重な経験をしたと思う。キャンプというスタイルは、昔からのBSAの伝統を受け継ぐにもっとも相応しい形での活動である。

 しかし、私たちは、どんぐり牧場の畑での草刈作業や東松山の伝導所での風呂作りなどに携わったのだものの、それらの仕事を担う働き手としてのこれとした資格や技術を持っていたわけではない。それでも、私たちをありのまま受け入れてくれたそれぞれの施設や教会の関係者に深く感謝したい。作業をするには人数も少なく、十分な訓練など受けたこともない私たちが、与えられた仕事を成し遂げたとは思えない。当然のことではあるが、すぐに結果が出るわけでもなく、すぐに私たちの腕が上がることもなかった。これでも手伝いをしたといえるのかとの不安もあったのだ。それにもかかわらず、いつも私たちを励ましてくださり、結果よりは「何かやりたい、何とか役に立ちたい」という私たちの気持ちを尊重してくださった方々のやさしい心に深く感謝すべきだと思う。
 私たちは、あくまでもボランティアとして出来るだけの仕事を精一杯することが大切だと思う。
  もう一つ、今年の活動を通して覚えておきたいことは、何よりも、一人だけではあったが、今年度の新入隊員の入隊・宣誓式を行うことが出来たことだ。このことにも心から感謝したい。今後も隊員の人数に関係なく、私たちBSAのモットーである奉仕の働きに誠意を持って臨むことが大切だと思うのだ。
 全員が承知の通り、Paul Rucsh(ポール・ラッシュ)師により日本聖公会に紹介され、立教大学にも男子学生を中心としたチャペル団体として結成されたこのBSAは「祈祷と奉仕」を二本柱として、創設以来、大学やチャペルの歴史的な流れと共にその活動を絶えることなく続けてきた。言ってみれば、立教大学のチャペル団体の中で、さらには多くの学生団体の中で最も長い歴史と伝統を持つ団体なのである。今から30年前チャプレン室から発行されたチャペル を見ると、「BSA第8支部」という題目の下に「夏には立教大学那須キャンプ場でのワーク・キャンプ、毎月の精薄児童施設『滝の川学園』での子供会と労働奉仕を通し、『祈祷と奉仕』のモットーをもって、『神と国との為に』の立教建学の精神をつらぬく活動をしています」(Your Chapel、1973より)と書かれている。その時にはBSA第5支部とBSA第16支部もあり、祈祷やワークなど奉仕を中心とした活動方針を持ちながら、それぞれ少しずつ異なる活動をしていたようである。

 このようなBSAの歴史を今も受け継いでいるのがまさに現在のBSA第8支部なのだ。最近、世の中はボランティアの重要性に注目している。わが立教大学は、それに応じるように今年、ボランティアセンターを立ち上げることとなった。そして、このセンターの創立に当たって開かれたシンポジウムでは、立教大学でのボランティア活動に端を発したのはチャペルであり、その活動が日本のボランティア運動を語るときには欠かすことのできない歴史であることが明らかになった。私たちBSAはチャペルを代表する団体としてこれらの流れのなかで、長年に渡っていわゆる先駆けとしてのボランティア活動に臨んできたということを誇りに思ってよいのではないだろうか。来年度は、より多くの新メンバーを受け入れ、積極的に活動できることを祈りつつ、主イエス降臨の恵みがメンバー一人一人に豊かに注がれるよう願っている。

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四年間のすべてをこめて

理学部 物理学科 4年 小沼 健一

  世の中は広いけれど、自分の大学生活に心から満足できた人ってどれくらいいるんだろう。わからない。いや、正直なところ、あまり興味も無い。ただ、僕はたまたま大学に行かせてもらえて、BSAに入れて、大学生活に満足して、気が付いたら四年間が終わっていた。それだけの話だ。自分の幸せを人と比較する気も無い。少なくとも、僕の大学生活はこれ以上無いくらいの大成功だった。僕に関わってくれたすべての人に感謝するしかない。あなたがいたから、あの出来事があったから、僕は素晴らしい大学生活が送れましたよ、と。
この振り返りを書くために四年間を振り返ってみた。大学に入って、ずっと前だけ見て進んできて、初めて後ろを振り返った。様々な出来事。様々な想い。たくさんの仲間達との出会い。文章に直すと何枚になるかわからない。当たり前だ。大学生活の四年間はすごく重かった。だから、すべてを書き表すことはあきらめた。そのくらい、僕の四年間、BSAとともに歩んだ四年間は大切な期間だったと思う。

BSAは僕に素晴らしい経験を与えてくれた。直接的にも、間接的にも。BSAにいたから、〜に参加することが出来た、というものが少なくない。活動先とのつながり、人とのつながり、団体とのつながり、学校とのつながり。すべてのものが生きて、僕に色々なものを見せてくれた。もし、BSAに入っていなかったら、僕の大学生活はなんとなく進んで、なんとなく卒業していただろう。そう考えると、BSAは僕の大学生活の源といえる。そしてその大学生活の経験は僕の中で生き続ける。ならば、BSAの流れも確実に僕の中に流れていくのだろう。かっこよく言うならばBSAの血が流れている、という事だろう。Brotherhoodの言葉が示すとおり、BSAの仲間は兄弟なのだ。大学を卒業しても、いつでも、どこにいても、僕は立教大学BSA第八支部の人間であったのだ。そしてこの事実は、僕に自信と誇りを与えてくれると思う。
正直、辛い時もあったし、苦しい時もあった。だけど、今となっては全てがいい思い出であり、経験であるのだ。大学生活には様々な形があり、これが絶対の正解、というものはあり得ない。しかし、それでもあえて言わせてもらうのならば、僕がBSAに入った事は、確実に僕にとっての正解であったし、最後まで続けたことも正解だった。なぜなら、僕の四年間、素晴らしかったから。

別に僕は誰かのために、なんて思ってBSAをやっていたわけではない。ましてや、神のためなどでは、ない。ただただ、自分のためだ。自分が、人が喜んでるのを見るのが嬉しいから。自分が、世の中の矛盾に悩んで、何かしたいと思ったから。苦しんでいる人を見て、ほっておくことは、自分には出来ないから。自分が、何かをしているという実感が欲しかったから。だから、偉そうな事を言う気はない。ただ、BSAをやっていて本当に良かったな、と思うだけだ。BSAをやっていたから大学生活を素晴らしいものにすることが出来た。みんなに支えられて、BSAをやっていたことが僕にとって大学生活一番の思い出になる、ような気がする。

BSAは素晴らしい集団だと思う。何が、ではなく全てが。出来るなら、これからいつまでも、僕にしてくれたように、たくさんの人に幸せを届けていける、そんな存在であって欲しいと思う。そして、僕自身がそういった存在になれればなぁ、とも思う。いや、きっとなれるはずなのだ。なぜなら、僕の中にはBSAの血が流れているのだから。

これで僕の四年間があらわせたなんてまったく思えない。BSAと共に過ごした僕の四年間は、こんな紙面に描けるほど軽くは無い。だけど、少しは表現できたのかな、とも思う。
最後に、もう一度、僕の四年間の全てをこめて、この言葉を伝えたいと思う。

『僕に携わってくれた全てに。ありがとう。』

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BSAの七不思議

理学部 化学科 生命理学コース 4年 天野 仁至

 BSA8には七つぐらいは不思議がある。きっとある。って言うか、百八つあっても不思議じゃない。とりあえず、その中から七つほど紹介してみたい。

1. 現役が4人しかいないのに「副支部長」という役職が誕生(復活?)した。
2. ただの一度もクリスマス実行委員をやったことがないのに、結団式も打ち上げも、行事も準備も参加してる就職先不明の人がいる。
3. 聴水寮にマイカーで行くと必ずどこか修理することになる人がいる。
4. 団体内になぜか同じ布団で眠る二人組がいる。しかも既に4回ほど。
5. 振り返りの提出が遅い人ほど良く掲示板に書き込む。
6. あれだけ可愛い子がそろってるのにチャペ団内に彼女を作れた人は極まれ。
7. こんなに素晴らしい団体なのに来年は2人しかいなくなっちゃう。

僕は、本当にBSA8に入って良かったと思ってる。過去に戻って大学生活をやり直すとしてもBSA8に入ることだけは変えないだろう。それなのにどうして2人だけになっちゃうのか?本当に不思議だ。理由はわかってるんですけどね。単に良さを十分に伝えきれてないだけです。ちゃんとあるがままを100%伝えれば…同朋100人できるはず♪
 そこで、BSA8のどこが素晴らしいかとちょっと考えてみた。昔、小沼と「信じるものは救われる」のなら信じないものは救われないのか?って話をしたところ、そんなに神もキリスト教も度量が狭いもんじゃないって僕が言ったらしい。確かに、今でもその思う。また、BSA8も同じように度量の広い、懐の広い存在だと思う。究極的に、BSA8は「奉仕をしない、ボランティアをしない人さえ受け入れる」団体だという気がする。
ボランティアサークルとしての存在を否定しているような気もするが、実際そうなんだから仕方ない。ワークをやらない、できない、そんな一見居ても居なくても良いような人でも、仲間に入りたいと言うのなら、一度仲間になったのなら、その人がワークできるようになるまで待てる。それがBSA8だと思う。仲間を損得で見ることがなく、その存在自体を喜べる、そんな素晴らしい団体なのに、なんで来年は2人なんだろう?
これからも迷える立大生のココロの居場所となれるBSA8が存続していけるように、この冬の時代を希望をもって乗り越えられるように、この言葉を送ります。

きびしい冬の中に、ある者は美しさを見る。暗さではなく、光を見ようとする。キーンと張りつめた極寒の雪の世界、月光に照らし出された夜、天空を舞うオーロラ……そして何よりも、過酷な季節が内包する、かすかな春への気配である。それは希望といってもよいだろう。だからこそ、人はまた冬を越してしまうのだろう。
きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう。なぜなら、よろこびの大きさとは、それぞれが越した冬にかかっているからだ。冬をしっかり越さないかぎり、春をしっかり感じることはできないからだ。それは、幸福と不幸のあり方にどこか似ている。
星野 道夫 著 『Michio’s Northern Dreams 1 オーロラの彼方へ』(PHP出版)より

後輩たち、そしてこれを読んだ方々が、すばらしい春のよろこびを感じることが できますように…

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「ボランティアサークルの一歩上を目指して」

コミュニティ福祉学部 コミュニティ福祉学科 3年 野末 和弘

 去年の「ふりかえり」の結びに「来年は恩返しの1年になりそうです・・・」と書いたことを思い出します。今年、一年間BSAとして、またそれ以上にBSA支部長としてどれだけ恩返しが出来たか、と考えると正直悩んでしまいます。今年も結局、BSAに助けられた一年だったような、そんな気がします。
現在のBSAが抱える1番の課題は、「部員確保」です。1年生1人、2年生1人、3年生3人、4年生2人という数字を見ても、今年引退する私たち3年生と卒業する4年生がいなくなった後を思うと、来年はどうなるのだろうかと心配です。
4月、新歓の時期。今年は、「BSAの存続の危機がもうすでに来ているんだ!」ということを心に刻みつけて、新歓に臨みました。その危機感は私だけでなく、部員全員が共有していたこともあって、例年よりも積極的な新歓ができました。しかし、相当な決意で臨んだにも関わらず、中島君1名しかBSAに進入部員を迎えることができず、私たちの力の無さなのか、時代の流れなのか、それまでの危機感に加え、無力感までもが私を襲ってきました。
そんな無力感を希望に変えてくれたのが、メンバーでした。1名しか入らなかったという現実をしっかり受け止め、次々に対策案を出して、そして実行していくメンバーの姿勢を見ていると、知らず知らずのうちに「とにかくやってみよう!」と思うようになりました。そして、このすばらしいメンバーに出会うきっかけを作ってくれたBSAを失いたくない、と思うようになりました。
たった1名しか新しい仲間を迎えることができなかったのですが、今思おうとそのことがBSAをさらに強くさせてくれたと思います。「BSAという大切な宝物を失いたくない」というメンバー一人ひとりの想いが、BSAという絆をさらに強め、BSAのメンバーを一つにしたと思います。メンバー一人ひとりをすごく大切にし、そして一人ひとりを必要とするBSAの代々変わらない気風を今年も、逆境の中で見ることができました。
今年は支部長として様々な活動先の方々とやりとりを行いました。その中で、活動先の方がボランティアとして関わる私たちに何を一番求めているのかということを考えました。ボランティアと言っても様々ありますが、とりわけBSAのようにある期間だけ活動先に行って働くという形のボランティアでは、やれることというのは限られています。どんぐり牧場のワークでも、どんぐり牧場で働く青年たちに比べると体力も仕事の知識もありません。そのなかでこういう思いに駆られることがあります。「私たちはボランティアをしているというけれども、果たして彼らに何をしてやれることができたのだろう。もしかしたら、自分よがりになってしまってはいないか」と。私も1年生、2年生の頃、そのような疑問を持ちました。
何かをしてあげようと思うその気持ちはとても大事なのですが、その気持ちが強すぎるとかえって相手の立場というものを無くしてしまうことがあるのではないかなと私は思うようになりました。だから私は、「何かをしてあげよう」と思うのではなく、「相手と共に過ごすその時間を大事にしよう」と今では思うようにしています。そういう気持ちで相手の方と接していると、自然と相手に何かしてあげたいとも思うようになります。それはボランティアという心意気からくる、無理に「何かしてあげなければ」という思いではなく、相手の方と接している中で「何かできればいいな」という自然な思いです。私たちに求められていることは、彼らと共にワークをしたり、食事をしたり、カードゲームをしたり、語り合ったり……そういったことを通して、彼らと関わり合うことなのではないかと思います。そして、関わることを通じて、相手の方が抱える問題を自分自身の問題として受けとめることなのではないかと思います。
実はその点が、今年一年間支部長をやってきて、やりきることが出来なかった点でもあります。私は、BSAをただのボランティアサークルから脱し切ることができませんでした。どこかボランティアをすることが目的となってしまっていて、ボランティア先の抱える問題を自分たちの問題として捉えることができていなかったように思います。今年前期に作成した「立教大学生徒アンデレ同胞会趣意書」の中でも、BSA第8支部の目指すところとして「小さな『声』を大きな『声』に」を掲げました。そこでは、「我々は単に助けるだけではなく、その人たちのそばに寄り添い、社会への訴えを聞いてそれを代弁していくことを大切にする」と誓いました。ボランティアをして終わりではなく、高い問題意識を持って社会に投げかけていこうと、前期では話し合いました。しかし、そのことが今年十分にできたとは言えません。ただ、そういう風にBSAの活動を捉え直すきっかけは作ることができたと思います。これから先のBSAのさらなる展開に期待します。

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「青春の烽火(ほうか)」

経済学部 経営学科 3年 武村 剛泰

 “光陰矢の如し”とは良く言ったのもので、時は既に大学3年の11月が終わろうとしている。私のこれまでの大学生活の柱は何だったかと問われると、三本柱としてB.S.A.8・華の東京六大学野球応援・旅が挙げられるが、ここでは取り合えず旅の話は置いておくことにしよう。
私の大学生活は、B.S.A.8よりも先に東京六大学野球から始まった。大学1年の春、立教応援席で初めて応援したときは、晴れて六大学の一角である立教生としてのスタートを切れた喜びを深く感じた。しかも記念すべき応援第一試合目だったその試合は、見事に慶応を4−0で下し、勝利大学の特権である校歌を相手校よりも先に歌うことができた。結局1年春のリーグ戦では4試合に応援に行き、法制との三回戦が優勝決定戦となったのだが、その試合に敗れて優勝を逃した(涙)。そして、春のリーグ戦が終わり、学生生活にも慣れた頃=6月末に、私とB.S.A.8との邂逅があったのだ。思えば、人生っていうのは、偶然に偶然が重なって成り立っているものだと思う。私が立教に入って神宮の杜で母校を応援できるのも、ある先輩の誘いでB.S.A.8に入ったのも、正に偶然の賜物である。
六大学野球とB.S.A.8の活動では、山ほど印象に残っていることがある。
六大学野球応援で、立教が逆転サヨナラ勝ちした時の爽快感は、実際に神宮で応援したものだけがわかり得る感動である。そして、各大学の応援団が繰り広げる選手を必死に応援する姿が、また感動を呼ぶ。その好例が、2年秋の法政―早稲田の一回戦である。その試合は、法政・土居(高知高―法政大―現横浜B)、早稲田・和田(島根・高浜高―早大―現福岡ダイエ−H)の息詰まる投手戦が展開され、0−0で迎えた11回裏、法政の攻撃前に法政の応援団がリーダー板に立ち、学生にこう呼びかけた。「選手のみんな、和田が打てないみたいだから、俺たちの応援の力で打たせてやろうじゃねーか」と。すると、その回の攻撃、渡辺のホームランが飛び出して、法政は歓喜のサヨナラ勝ちしたのだ!ウオオオオーーーーー(叫)、
これこそ正に応援の真髄なのだー!!パ〜オ〜!!!!。おそらく、彼ら応援団が応援する理由は、応援するのが好きだから、という単純な理由なのではないだろうか。無礼を承知で書くと、そもそも某国立T大学の場合、東京六大学リーグでの通算勝率が.148ということを考えると、応援が好きじゃなけりゃ応援団なんてとてもやっていられないのでは?、と思う.。そう!自分が好きでやっていることに深い理由など要らないのだ。“好きこそものの上手なれ”で、なぜ私がそれほどまでに六大学に魅了されるのか?、なぜB.S.A.8に居続けているのか?と問われても、究極的にはそれらのことが好きだから!!としか答えようがない。六大学野球の聖地・神宮では、いつも感動のドラマが展開される。また、B.S.A.8には温かい仲間たちがいてくれるし、ボランティアを通じて人の温もりにも触れることができる。
六大学野球もB.S.A.8も、私自身を私らしくさせてくれるものなのだ。だから自然と足が神宮、そして、B.S.A.8に向くのである。そんなわけだから残る学生生活においても、B.S.A.8と六大学野球応援は私の生活の重要な部分を形成することは間違いのないところなのだ。最後に、今年これまで一緒にやってきた仲間である、4年生ながら奮闘して活動を支えてくれたF島さん、A野さん、K沼さん、3年スタッフとして一緒にやってきた花ちゃん(N末)、そして忙しい中を時間を見つけて活動に顔を出してくれた恩ちゃん、かわゆい下級生として共に活動を盛り上げてくれたI井君とN島君、本当にありがとう!!

最後に一曲、最近ハマッテいる歌を歌わせてくれ〜!!

「都に匂う花の雲」

都に匂う花の雲
旭日映ゆる駿河台
春まだ遠き現世に
咲きしその花紅の
若き血潮に燃ゆる花
集う学舎自由あり〜♪

(某M治大学応援歌より)


※参考:東京六大学野球応援時の戦績(大学三年、秋季リーグ戦終了時点)

     勝敗:○○○●●○●●○○○○○●○●●●●○
______相手校:慶慶東法法早早早慶法慶慶東早法法早慶明東
__通算戦績:11勝9敗
(慶:慶応、東:東大、法:法政、早:早稲田、明:明治を指す)

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「存在」

社会学部 産業関係学科 3年 恩田 和英

準支部員なんていいかげんな立場でB.S.A.8に居座らせてもらって2年。今年も「ふりかえり」を書かせてもらえることに感謝したい。
去年、B.S.A.8の新しい仲間となったのは1人。そして今年もまた1人。いよいよ、このよくわからない立場の人間を除けば現役は4人という人数になった。周りはこの状況をどのように言うだろう?
4月の新歓の時期が終わりに差しかかる頃のこと。何度聞かれただろうか、「BSA、新入生は入った?」「1人入ったんだ、良かったね。」・・・そしてついでに「でも来年が心配だね。」って。
確かにやばいと言えばやばいかもしれない。でも、僕の中には根拠もなく、大丈夫だと信じている心がある。それは僕がB.S.A.8から離れたくないと思う、その理由(魅力)に起因しているように思う。
今年度に入り、ミーティングさえも曜日がさゆり会のミーティングと重なり、なかなか出席することが難しくなった。ましてや、教会のバザーや、風の子会の「外へ出よう」、そしてどんぐりワークにも参加することができなかった。B.S.A.8の一員として活動したことと言えば、たった1日だけ参加できた東松山での伝道所修復ワークと聴水寮でのバイトぐらいだっただろうか。「ふりかえり」を書こうにも奉仕活動の面ではそれは難しい。
そんな人間がたまにふらっとミーティングを訪れる。さゆり会のミーティングがたまに早く終わったときだ。普通だったらどうだろう?それまでの話の内容も改めて話さなきゃ伝わらない。そんな人間の登場は、めんどうに思ってしまっても仕方がない。でも、B.S.A.8は違う。そっと文書の伊井君がその日の議事録を目の前に持ってきてくれる。横に座った中島君は内容を一言二言教えてくれる。そして、花ちゃん武ちゃんは意見まで聞いてくれる。ミーティングの扉を開く僕の手に不安を感じさせるものは何一つないのだ。そこにはいつも変わらない顔がそろっている。時間が空けばB.S.A.8に会いに行きたい、そう思ってしまう。これがその理由だ。
人数の多い団体(本来人数など関係ないのだろうけど)にいると、ミーティングが始まるとき、誰がいないのか注意しないと気づかないことさえもあったりする。いや、それは大袈裟としても、実際のところ、ミーティングに集まって解散するまでの間、一言も会話無しに過ごしてしまうケースはある。けれど、B.S.A.8ではそんなことはまずないと言っていいだろう。全員がいないことに違和感を覚え、必ず全員と声を交わし意識している。これは当たり前のようで、事実、当たり前でないグループはけっこうあるものだ。この当たり前のことが当たり前とできているB.S.A.8のあり方が伝えることは、メンバーのお互いがお互いを必要としている、その現われだ。そんな人たちの集まりだから、B.S.A.8は魅力にあふれる団体なんだろう。人が他人を必要とすること、人が他人を想うこと、その心はボランティアをする上に、いや、人が人らしくある為のその本質だと思う。
誰ひとりとしてB.S.A.8にいなくていい存在はいない。そこに順序もない。誰もが掛け替えのない存在なのだ。物事を分け隔てること、順序をつけること、これらは僕らが生きるうえに、どうしてもしてしまうことであるし、現在の社会では必要なことであると言わざるを得ないかもしれない。しかし、僕らが多くのワークを通して感じたことは、“障害者”という言葉によってカテゴライズされた人たちのことを、けっして、分け隔て、順序をつけようとは思わせないものであった。
誰もが掛け替えのない存在。すべてが尊い命を持った存在である。それをB.S.A.8の内外に、その活動の中に感じることができる。きっとこの魅力に導かれ、人がやって来る。そう信じるものである。

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自分との戦い

コミュニティ福祉学部 コミュニティー福祉学科 2年 伊井 勇人

今年、一番印象に残っていることは、自ら企画から執行までを任されたどんぐりパーティだった。支部長の手ほどきのもと着実に一歩一歩当日に向けて準備が進められた。純粋に支部長に感謝の意をお伝えしたい。
 ハンドベルのコンサート為に、ピアノ教室にも通い始め音楽にも進んで触れ合った。事実、練習は以前にもまして楽しくなった。ここまでは、本当にいいスタートを切ったと思っていた。しかし、その甘さは仇となり本番に返ってくることになる。
 一部の人間からは、「おまえは、もうすでに個性的だよ」と言われるかもしれないが、自分の個性の無さに嫌と言うほど気づかされた。嫌いな食べ物、無し。嫌いな仕事、無し。逆に、好きなものも無し。Etc.… ありとあらゆることにこだわりが無いのであった。また、「はい」か「いいえ」の二者択一の場面に遭遇した時も決断をひどく嫌う為、損得に関わらず、たいてい「はい」と答えその仕事を請け負った。それでも表面的には、問題も起きず今まで生きてきた。その為、支部長から今回は、僕次第であるから自由にしていい、と言われたときは、恐怖心にかられた。
周知の常識であることだが、「自由」の裏側には、絶対に責任も付きまとうことであるからだ。 
しかし、時は待ってくれなかった。一日一日と過ぎていった。
 先輩のアドバイスを参考に、無い頭を振り絞り練り上げたプログラムを握り締めついに当日になった。もう、後には引けない、逃げは通用しない。今日の成否は僕の行動に握られている。そう思うと、自然と顔が硬直し、緊張の度合いも増していく…。
「早く来てください。」と言っていたので、先輩方、1年の中島君に集まって頂いているのに、今まで、一度も人を指示したことない僕は、何をやってもらいたいのかわからなかった。無謀にも準備一通りを自分ひとりでやろうと思っていたのであった。そんな状況を察してか、先輩方、1年の中島君は、自分で出来ることを自ら探し、こなしてくれた。その姿に、涙が出るほどのうれしさをかみ締めていた。
ここで思えば、転校、転校の連続で気心の知れた人は一人もいない。 一人の時間が多かったのは、言うまでもない。 
しかし、大学に入りBSAと出会い、本当に良かった。 BSAの部活動中には、一人になりたいのを必死でこらえて精一杯がんばった。
これからも、陰ながらBSAの輝かしい未来に精一杯貢献できたらいいと思う。
BSAのOBの方々、福島先輩、小沼先輩、天野先輩、野末先輩、武村先輩、恩田先輩、中島君今まで本当にありがとう。

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2003年 ふりかえり

法学部 法学科 1年 中島 正敬

 この1年で私が考えたことを書いておく。
 お金の心配
まずは障がい者の皆さんの、生活環境のことである。国からの援助が足りないのではないか、と私は思った。都会の中の施設は、大きくてきれいで充実しているが、逆に言うと、ぜいたく過ぎるのではないか。この施設を、もっと小さなものにして、浮いたお金を、障がい者の方がたの個人々々や、その皆さんが集う団体にまわすことはできなかったのだろうか。こういう、お金の出ししぶりは都会だけでなく地方にもあると私は思う。どんぐり牧場にも、なかなか国は援助金を出さないようだ。こまかい事情は覚えていないが、草のぼうぼうに生えた場所を刈って、前にあった家の基礎を掘りかえさなければ援助金が出ない、という話らしい。もっと、援助金の条件を下げるわけにはいかないのだろうか、ということが、私のひとつの感想である。
 言葉の通じることが分かれ目
  これは以前にも書いたことだが、障がい者という扱いは、あくまで誰か(国か)が勝手に決めたものだということである。私は「言葉の上では『障がい者は平等に扱わなきゃいけない』ということは分かっている。でも実際に面と向かってそれができるか」という興味から、この部活に入ったのだが、これは実際にできることだった。どんぐり牧場でいっしょに5日間ほど暮らしても、相手が障がい者だと意識したことは、ほとんどなかったのだ。…以上が、夏の活動の感想に書いたことだが、野末さんの話を聞いてから、ちょっと反省した。その話は自閉症の人々についてのものだったが、彼らは言葉が通じず、いきなり暴れだすこともあるという。私の経験はまだ、言葉が通じる人々に限られているから、自閉症の人々に会っても気がねなく付き合うことができるかどうか分からない。言葉が通じるかどうかが、障がい者の方がたとの付き合いの上で、大事なことのひとつかもしれない…ということが、私のふたつめの感想である。
 わたくしごと
  あとはざっくばらんに書く。私は、今年は自分が大した活動をしていないように感じた。風の子会にはハイキングだけでバザーには関わっていないし、夏はどんぐり牧場や東松山に行ったが、楽な仕事に割りあたったり、腹をこわして寝こんだりして、皆さんの役に立てなかったと思う。聴水寮も、給料の割には楽な仕事だったと感じる。
  最後に、これまでの活動の中で知り合った皆さんへ。こんな頼りない男ですが、お世話していただきまして、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。

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編集後記
 編集作業と同時に柳チャプレン、そして支部員一人一人の振り返りを一足早く拝見させて頂きました。生意気ではございますが、感想といたしましては、一人一人、BSAを通じて知り合い、ワークキャンプなどの活動を共にした同士としてふさわしい振り返りであったように思います。これからもBSAのことを宜しくお願いします。

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