第四回:「一年前から」

取材:ボクシング部担当  記事:北尾


  やっとのことでたどり着いた会場の中、乱れた呼吸を整えて周りを見てみると、窓際のベンチに座っている彼の姿を見つけることができた。いつものように応援に駆け付けたOBの隣に腰を下ろしている彼は、紺色のナイロンのブルゾンにジーパンという普段通りの格好で身を固めている。しかし、服装以外は普段通りというわけにはいかなかった。いつも見せてくれるやんわりとした静かな笑顔は浮かんでおらず、表情は何となくこわばっている。そして、どこともいえない空間を見つめるその瞳は、まるでピントが合っていないかのようだった。とにかく、その日の彼は、いつもの"試合前"の彼とは全く違った様相をしていたのだ。
  2009年11月15日、この日オープン戦に出場するボクシング部、そしてデビューを迎えるある一人の選手を取材するために新宿から中央線で30分ほど下った日野という場所に来ていた。一度も行ったことのない場所での試合だったため、会場の入り口に着いた時には予定の時刻をオーバーしていた。もう試合が始まっているかもしれないという不安があったが、目の前にいる彼の様子からは、試合前の選手を包む恐怖とも高揚ともとれる独特の空気を感じることができる。

  どうやら彼、"岡田博喜"の『初めて』は、まだ始まっていなかったようだ。




  岡田は大学からボクシングを始めた初心者だった。同期には高校時代に全国の舞台を経験していた関東と福岡、そして同じく大学からボクシングを始めた水谷がいた。アマチュアボクシングの世界では、その危険性を考慮して1年以上協会に登録した選手以外は試合をできないことになっている。岡田は一年後に控えるトーナメント戦に出場するべく、日々の練習に打ち込んでいった。

  しかし、入部から半年後の10月末、岡田の足に違和感が生まれた。

  イップス。
  診断の結果は、筋肉の怪我でも骨の怪我でもなかった。
  その違和感は、精神的な部分が原因となり発病する運動障害からきたものだった。
  「『絶対に〜しなきゃいけない!』って考えすぎるのが良くなかったみたい。考えてるつもりはなかったけど…、無意識かな…」
  それ以降、岡田は同期たちの活躍で徐々に活気を取り戻していくボクシング部を尻目に、いつ訪れるかも分からない自身のデビュー戦のための練習を重ねていくことになった。



  焦って会場まで来てみたはいいが、試合が始まったのは到着後20分ほど過ぎてからだった。出場する選手数が多く、岡田の順番が比較的後の方だったこともあり、当初の予定より時間が遅くなることになったのだ。会場に掲示されてある紙を見ると、この日戦う相手が工学院大の小林という選手に決まっていた。名前も顔も知らない選手。この結果が恵まれていたのかそうでないのかは分からなかった。
  リングまで行ってみると、着替えを終えた岡田はすでに頭にヘッドギアを着け、拳にグローブをはめ、いつでも試合に臨める状態になっている。しかし、相変わらず表情は硬い。こんな状態で果たして試合になるのだろうか…。そんな心配をしながら試合開始を待っていると、セコンドについているのが水谷だということに気がついた。



  水谷は岡田にとっていつだって「カッコいい」存在だった。
  4月に文京区大会で初勝利を飾ったときも、6月にトーナメント戦で唯一2階級に出場し昇格の立役者になったときも、8月に全日予選で自分より競技経験の長い選手たちを次々と打ち破り、最後には北京五輪出場者とも拳を交えるまでになったときも…。足のせいで、いつも試合を外から眺めることしかできなかった岡田にとって、同じ初心者の水谷がリング上で躍動する姿はすごく「カッコいい」ものだった。

  岡田がまだ1年の時、「来年のライト級に出るのはお前だ」と周りから言われ続けてきた。しかし、現実は足の調子が一向に良くならず、入部してからただの一試合も出場することができなかった。一時は選手として闘う自分が想像できず、トレーナーとしての道も考えたほどだった。

  「焦りもあったし、悔しさもあったのかもしれない」
  去年の4月に同じ場所にいたはずの水谷は、今や自分のずっと先を走っていた。
  しかし、肝心の自分はというと、思うように足が動かず、前に進むことすらままならない。
  発病から一年近く経っても、いまだに岡田の競技生活は不透明なものだった…。


  オープン戦5週間前、ボクシング部は早稲田大学とのスパーリングを行うことになっていた。スパーリングは実戦に近い、得るものの多い練習だ。しかも相手は強豪・早稲田ときている。きっと多くのものを得ることができる…。けれど、このチャンスを前にしても岡田はあまり気分が乗らなかった。それもそのはず、足がまだ治っていなかったのだ。さらに、そのころの岡田は慢性的に調子の悪い自分の足に嫌気がさし、練習をしていてもネガティブなイメージばかりを頭に浮かべるようになっていた。この日も試合前から頭の中で描いていたのは「楽しくない」自分のボクシングについて。そんな調子で早稲田の選手に勝てるはずもなく、スパーリングの結果は完敗。またいつものように、思い通りに足が動かないことを痛感させられることになった。

  しかし…
  「ほら、やっぱり負けたよ。楽しくねぇなぁ…」。岡田はスパーリングが終わった後も悲観的な考えばかりを頭に浮かべていた。するとそこに何かを見破ったのか、監督から檄が飛んだ。

  ――お前のボクシング楽しくなさそうなんだよ! もっと楽しめよ!

  新鮮な言葉だった。
  ハタチになったばかりの若者が、自分の思うようにいかないで悩んでいる。現実はこうも上手くいかないものなのか。ちっとも楽しくないじゃないか。しかし、そんな現実を味わってきたはずの大人が、自分に「楽しめ」と言う。岡田にはこのことが不思議に感じられた。そして…、

  「そこからわりと動くようになったんですよ。足が」



  ゴングが鳴った。
  開始と同時に岡田はリング中央まで行き、体を丸めて低い体勢からのボディージャブを放つ。最初の一発で牽制に成功すると、そこから猛烈なラッシュが始まった。右、左、右、左…。休むことなく連打を浴びせる。最初は相手の小林も応戦してきたが、それをものともせず徐々にロープ際まで追い詰めていった。
  「30秒けいかー!」。応援席から声が飛ぶ。その数秒後、岡田の放った右ストレートが正確に小林の顎をとらえた。バランスを崩し、思わず上体を後ろにのけ反らせる小林。それでもまだ打とうとする岡田。間にレフェリーが入り、一度試合が中断される。小さく右手でガッツポーズ。最初のダウンを奪ったのは岡田だった。

  あの岡田がリングで戦っている。そして確実に相手を圧倒している。ロープ越しに見る彼の顔は、外から試合を眺めていた時とも、トレーナー転向を考えていた時とも、全く違った表情だった。

  応援席からは拍手が起こった。しかし同時に「白!白!…白!」という声。慣れていないのか岡田が間違えて自分のコーナーに戻ってしまっていたのだ。それを見たOBが岡田に正しいコーナーを色で指示したというわけだ。その時、あることを再確認させられた。目の前で相手を圧倒しているこのボクサーは、紛れもなく『初心者』なのだ…。


  「やれるんや」。正しいコーナーに向かいながら岡田は思った。今まで試合に一度も出られなかった自分のパンチが相手に通用するのだろうか。今までの練習は正しかったのだろうか。開始のゴングが鳴った時、岡田は『試合』というものへの漠然とした不安を感じていた。しかし、最初のパンチが当たった時、そしてダウンを奪うことができた時、そんな不安は必要のないものだったと理解することができた。
  「やっぱりやれるんや」


  十数秒後、試合は再び開始された。
  しかし、もう不安は無かった。あとは出し切るだけだった。

  そして…

  「ボックス、ストップ!」
  試合開始から1分19秒後、再び試合を止めたレフェリーは、岡田のRSC勝ちを告げた。
  応援席からはこの日二度目の拍手が起こった。セコンドについていた水谷は大きくガッツポーズをした。
  そして、岡田は自分の勝利を確認すると、拳につけていたグローブを外しながら、静かに自分のコーナーへと戻っていった――。



  試合後、クールダウンを終えた岡田に話を聞いてみたいと思った。今日を迎えた気持ち、戦っている最中に考えたこと、そして勝った瞬間にいったい何を思ったのか……。ずっともがき続けた岡田が、やっと試合に出ることができ、そして見事RSC勝ちを収めたのだ。聞きたいことはいくらでもあった。しかし、試合後すぐでは疲れてあまり言葉が出ないに違いない。今日は簡単に試合のことだけ聞いてみよう…。

  ――あのラッシュは、試合前から考えていた作戦だったんですか?

  すると、岡田は照れくさそうにこう答えた。

  「一年前から考えてました」

  やっと岡田が笑った。




(第四回:7月1日)


プロフィール
名前 岡田 博喜(おかだ ひろき)
生年月日 1990年2月6日
学部学科 経済学部経済学科2年
出身校 金沢大学教育学部附属高校(石川)





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