大きな慈愛


いくら投げられても飛ばされてもあきらめずにぶつかり続ける。何度も一番を申し込む。勝者もまた相手を投げ飛ばすものの常にいたわりの気持ちを持って当たる。地道に鍛錬を重ねることで生まれる一動作の美しさ。それを土俵上で発現する相撲の真骨頂を見せつけられたその後で "立教大学相撲部"のドラマがあった。

新座体育館の一室に、時間が止まり静けさをたたえたかのような空間がある。立教大学相撲場。コンクリートの体育館の中に土の空間、丸い土俵、神棚や数々のレリーフ、板間張りの壁に心が落ち着き、自分が"個"であるという妙な感覚に陥る。3月27日、われわれは相撲部の稽古(けいこ)を取材した。

土俵を囲みしこを踏む部員たち
選手たちがまわしを着け、土俵を囲むと相撲場の空気は静けさから一気にピンと張り詰めたものに豹変(ひょうへん)する。選手たちは自らの動きの一挙手一投足を丹念に確認していく。妥協という文字は存在しない。「本気でしこを踏むとしんどいものだ」というよう、片足を大きく上げ地面を踏むしこは、かつて「てっぽう、すり足とともに極めれば十両になれる」といわれるほど奥が深い。シンプルな動作だが、押されても突かれても崩れることのないバランスを基礎とし、そこに選手の体格、個性が加わってさまざまな形のしことなる。追求していけば果てのない、いってみれば完成型などないものなのだろう。選手一人一人のしこの踏み方はよく見ていると千差万別で、自分のしこを丁寧に、力強く踏んでいた。「しこを見れば、その力士の力量がわかる」。それだけしこというものは重要なのだ。

主将の石黒(営4)
しこを踏み終わると、今度はてっぽうだ。相撲場に重く響き渡る音がこだまする。選手皆が壁や太い柱に向かって、てっぽうをするさまは壮絶さを極める。人間の身体から放たれる威力はこれほどまですごいものなのかとただただ圧倒されてしまう。上腕二頭筋、腹筋、背筋の強化はもちろん、相撲の基本となる動き、腕と足をそろえる練習となるてっぽう。明治以前の日本人は右手右足そろえて歩いていたということからも日本の伝統、国技としての相撲、というものを再認識させられた。

すり足に移ると、選手たちは自らの足の運び方を意識しながら土俵の端から端へと次々に渡っていく。しこ、てっぽうもそうだが彼らは身体の動かし方一つ一つに余念がない。身体の動きそのものを丁寧に鍛錬し磨いていくことで、彼らの腕の出し方、足の運び、そして集中した表情からはある種の厳かさ、さらに芸術性が現れてくる。人体の神秘性に美的感覚を感じずにはいられなくなる。日本古来に発祥した相撲が現代においても変わらず存在し続け世界に広がっていく背景にはこのような競技としての面だけでなく、人類に共通する美意識、芸術としての面もあるのかもしれない。

全力の立ち合いを見せる新入部員・坪井(済1)
ここまでの相撲における三大要素のしこ、てっぽう、すり足などを経て、これらの動きが集約された申し合いが始まる。土俵の東西からお互いに礼をもって入り、立ち合いとなる。立ち合いの際の一瞬の間合い、その瞬間に流れる静寂の中、それを破る一瞬の力の爆発。肉体と肉体、骨と骨とがぶつかる音。壮絶な痛みも伴うはずだが、臆(おく)していては負けてしまう。真正面からぶつかり合い、短い立ち合いの間に自分の持てる力のすべてを出し切る。全力でぶつかることでこれまでの自分の努力の体現となる。

稽古の締めに行われるぶつかり稽古。先輩が後輩に胸を貸し、後輩の"ぶつかり"を受けていく。まさにこの瞬間に最大のドラマが待っていた。

渡部のぶつかりを受ける望月
3月27日この日で学生最後の稽古となる望月(H21年度卒)は渡部(文2)に稽古をつけた。一年間同じ相撲部で過ごした後輩の精神的な成長を感じ取っていた。いつも穏やかな望月は立ち向かってくる渡部の姿に本気で応える。ぶつかり稽古といえども押しが弱い場合は、受け手は逆に押し返してしまう。幾度となくぶつかっていくうちに、息も上がり思うように動けなくなった渡部も、次第に押し返されてしまうようになった。そんな渡部をみて手をゆるめる望月ではなかった。「自分で押せ!」と声を荒げ渡部をにらみつける。厳しく当たり容赦することは決してなく、息も切れ切れとなり苦悶(くもん)の表情をあげながらも渡部は食らい付いていく。疲れ果てようとも倒れそうになりながらも必死で立ち向かい続ける。折れない、折れずに当たり続ける精神力は昨年の努力の果てに勝ち得たものだろう。鬼の形相となりひたすらむち打つ望月からは、明らかな渡部に対する慈しみの感情が見え隠れしていた。この日限りで立大相撲部を去る望月はあえて厳しくすることで渡部に何かを伝えたかったはずだ。望月は後輩たち皆を慈愛の心で包んでいる、そうわれわれには 思えた。

 大切な存在だからこそ厳しくする。そうしなければ伝わらないことがある。厳しさの中にも暖かい愛情があるからこそ相手も応えてくれる。本気で"ぶつかり合う"とはこのことをいうのだろう。"ぶつかり合う"ことで築き上げた信頼関係は一度本気でたたいただけにそう簡単に壊れはしない。甘えやなれ合いでは作り出し得ないきずな、人と人とのつながりの本当の意味。出会いは偶然なのかもしれない。ただのすれ違いではその間には何も生まれはしなかったかもしれない。しかし、人と人の間に生まれる"熱"を立教大学相撲部という場にて彼らは運命的に引き起こしたのだ。


(2010年4月6日・牛膓政孝)





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