卒業特集〈第三弾〉

フィールドを駆けた15人の男たち

―出口・中元・寺屋・高木・浅見・野崎編―


  寂しいもので、この特集も最後となった。ラストを飾るのは、主将を務めた出口、全試合でゴールを守り抜いたGK・野崎を含む6人の男たちだ。








出口卓弥にとってのホッケーとは
思い通りにいかない時も味方を信じたり、味方が調子悪い時は庇ったり。自分がもう1つ成長するためのスポーツ。

  振り返ること、出口が3年生の時。2016年のことだ。2部2位まで上り詰め、数十年ぶりに1部への入れ替え戦への切符を手に入れた。歴史は大きく塗り替えられた。しかし1部の壁は厚く、早大を相手に奮闘するも、2―4で敗北。1部で戦う夢は絶たれた。
  当時主将を務めていた青柳(2016年度卒業)は引退時に、「超えられるものなら、超えてみろ」と挑戦状を残し、ホッケー部を立ち去った。
  その後、フィールドを任せらたのが出口だった。先輩たちを「超える気持ちで」と思いながらも、今まで主戦力となっていた先輩たちの勇退の影響力は大きかった。不安だった。
  けれど彼には大きな味方がいた。同期である。出口の代は、幸運にも15人のプレーヤーに2人のマネージャーと人数が多い。しかしその反面、意見は17人分出てくる。出口は、任命時、目指す主将像をこう挙げた。「僕は今までの主将と違って、目立つタイプではない。同期がいっぱいいるので独りよがりにならないように」。「何か決めるにしても、同期の意見が大事」。歴代の「ついてこい」という主将像ではなく、近くに16人がいたからこそ「みんなでやろう」というスタンスが、構築され目標とした。そして、彼は1年間かけて体現することになる。

  春リーグには、SO戦(サッカーでいうPK戦)を乗り越え、19年ぶりに2部優勝。秋には、一橋大と熱戦の末、2部優勝決定戦まで駒を進めるも、春に叩きのめした東大に敗北し2部2位に。けれど、2季とも、1部へと挑戦することができた。出口が掲げていた「チーム一丸となって勝つ」というテーマは、達成された。

  引退時に、青柳が残した“言葉”の返答をもらった。「それは春で超えたんで。結果は出せたので、超えたぞ!」とにんまり。肩の荷がやっとおりた。

  そして次世代に、新たな挑戦状を残す。「2部優勝をずっと狙えるチームをこれからもずっとつくってほしい、入れ替え戦への道を途絶えさせないように」。出口は自分たちが達成できなかった“1部”を後輩に託した。出口は、温かく見守り続ける。

  出口にとって初めてのリーダー経験となった1年間。主将をやって、今までなかった思考や思い通りにいかなかった時も味方を信じることや、味方が調子悪い時は庇ったりともう一回り成長できた。
  支えの存在にも気づいた。全体を見渡す出口を、副将だった市野は支えた。「僕よりも引っ張ってくれて、僕が全てに目を駆けている分、かけきれない部分をカバーしてくれた。チームを鼓舞する声を出してくれたりも」。2人のバランスは絶妙だった。また、ディフェンスをまとめていた兼頭にも感謝する。彼のそばには、いつだって心強い仲間がいた。








中元駿介にとってのホッケーとは
自分を成長させてくれた場

  中元は、1年生から試合に出場。その時期から公式戦に出場していたのは、数少なく、「選んでもらった分には責任があるので、その責任や重責は担って」きた。責任の二文字は常に付きまとっていた。中元はずっと同じディフェンスがポジション。ラストシーズンの秋リーグでは特に「ある程度何かを後輩にも残すためになにかいいプレーをしようかな」と心がけた。
  中元は、「もともと我が強くないタイプ」と自己を評価。「周りを生かすためにはどうするべきか」を念頭に置いて、目を配りながらプレーしてきた。そうした心配りは、人間性も成長させた。ホッケーからの気づきは、何かの形で還元して社会人になっても生かすという。 中元は立教新座高校の出身。同期には、中元以外にも9人もの内部進学生がいた。それゆえ、長いと10年目の付き合いになるメンバーも珍しくなかった。オフには毎年キャンプや海に行った。仲は、とてもじゃないほどよかった。
  そして、そんなわちゃわちゃした同期についてきた後輩に感謝する。「なかなか背中で引っ張るってことしかできなかったんですけど、その中でもついてきてくれました」。最後になっていいチームができたと中元は実感した。
  最後に自身にとってのホッケーを尋ねると、「大学はそれしかやってないので、何かと比べるのは難しい…」と前置きしながら「ホッケーや同期を通じて、自分を成長させてくれた場です」と言い切った。4年間の学びを胸に、春から新たな地で奮闘する。







寺屋知輝にとってのホッケーとは
一生付き合っていく仲間が出来たかな

  入部時の当時のチームは、2部で2位、3位、4位あたりで、入れ替え戦に行くことを考えたこともなかったという寺屋。しかし、2016年秋リーグ時に入れ替え戦の光景を目の当たりにして「ああ、こういうことかと思った」。そこには、違う景色が広がっていた。 学年が上がり4年生になると、“当たり前ではないはず”の入れ替え戦に春も秋も行くことができたのは、嬉しかった。
  そしてここまでの道を開いた一つ上の代に感謝を述べる。「去年の秋に先輩方が入れ替え戦に行くことが出来る可能性を作ってくれたというか。去年の秋に入れ替え戦に行ってなかったら、今年入れ替え戦に行けたかも分からないですし。去年の先輩方には本当にお世話になったと思います」。寺屋は同時に、「入れ替え戦に行くのを続けなきゃ、今年も入れ替え戦に行かなきゃという気持ちになれたのも、3位4位で甘んじていたらいけないという気持ちになれたのも、一個上の先輩に色々教えて頂いたおかげです」と続けた。

  後輩に臨むことは、「自分達が出来なかった1部昇格をやってほしい」。希望を伝えたうえで、「試合に出てないメンバーとかは実戦経験がすくないからどんどん試合に出て経験を積んで。練習と試合は違うので、メンタルとか相手のかけあいとか。そこを試合に出て練習して、本番で出るようなチームを作ってほしい」とアドバイス。彼もまた、立派な先輩だ。

  寺屋にとって、ホッケーとは一番良い仲間に出会えた場所。「一生付き合っていく仲間が出来たな」という寺屋。きっと他の同期も同じ思いのはずだ。







高木昂大にとってのホッケーとは
一番得意なスポーツ

  高木はずっとサッカーをやってきた。初心者でも試合に出ることができるのは魅力的だった。「やるなら試合に出て活躍したいという風に思っていた」。練習場である富士見総合グラウンドのホッケー場は、人工芝。練習環境も整っていることも、入部の決め手であった。4年間のプレーを通じて、「自分自身サッカーが一番得意なスポーツだったのですが、どんどんホッケーに変わっていって」とまで成長を遂げた。
  しかし、ラストシーズンであった秋。高木は手をけがしてしまい、出場が難しくなった。「70分間フルで出たのはこの試合(入れ替え戦=駿河台大)しか無くて」。3年生からスタメンで出て、年を重ねるごとに成長を実感できた。「(秋に)もっと試合に出たかった」というのは、高木の率直な言葉だった。しかし、ラストシーズンであった秋。高木は手をけがしてしまい、出場が難しくなった。「70分間フルで出たのはこの試合(入れ替え戦=駿河台大)しか無くて」。3年生からスタメンで出て、年を重ねるごとに成長を実感できた。「(秋に)もっと試合に出たかった」というのは、高木の率直な言葉だった。

  高木は、この1年間、後輩を「プレーの面」から引っ張った。「プレーで勇気づけたりとか、後輩たちにプレーを見せてプレーで教えたりだとか。そういったことをやってきたから、それが受け継がれていって、来年以降も本当に頑張ってもらいたいなと思います」。後輩にも自分が行った施策を試みるよう願う。

  そして、特に思い出なのが3つの試合だという。
  1つは2016年度の秋リーグで入れ替え戦出場をかけた戦い(=武蔵戦)だ。この試合は、70分間で勝敗が決まらずSO戦(サッカーで言うSO戦のようなもの)で勝利した。高木は自らのスティックで、勝ち越しゴールを決めた。「自分がチームに貢献できているのだなということも、自分がチームの中で大きなウエイトを占めているのだなということも実感して。責任感も持ったし、ゴールを決められたのも嬉しかった」。当時の喜びを噛みしめる。
  2つ目は、2017年度春リーグの優勝決定戦(=東大戦)に勝ったこと。そして、3つ目は、秋リーグの入れ替え戦出場をかけた一橋大戦にSO戦で勝利したこと。

  立大は、SO戦と因縁深い。優勝や入れ替え戦出場をかけた大事な局面で毎度、緊張感漂うSO戦へ進む。高木は、一橋大戦の時も、SO戦のシューターとして抜擢。そこで「2回決めることが出来て、自分がチームに貢献出来ているんだなって嬉しく思った」と最高学年になっても自分の立場を理解するきっかけとなった。

  新体制が始まったばかりの2017年1月。高木は抱負を語っていた。「フォワードなので、ゴールとゴールに直結するプレー、例えばアシストとか。そういうのを練習でもこだわっていきたい」。この抱負は、見事に達成された。試合でも色濃く出た。

  数多くのゴールを決めてきたからこそ、後輩に求めるものも高い。「自分より上手くなってほしい。自分を超えろという感じです」。高木を超えるものは出てくるのか―。新体制が楽しみだ。








浅見太紀にとってのホッケーとは
自分を上手く成長させてくれたもの

  ラストのリーグで、2部内で敢闘賞に輝き、ベストイレブンにも選ばれた浅見。そんな彼がホッケーを始めたきっかけはあまりにも意外すぎた。「友達と新歓に行って、4年生の主将さんと話が合って、体験に行って。「名前書けよ」って言われた紙に名前を書いたらそれが入部届けでした(笑)」。ホッケーの始まりは、あまりにひょんなことだった。

  浅見はこの1年間、「楽しい思い出ばかりでしたね」と振り返る。「負けたのが少ないというのもありますけど、それでも接戦で勝ったりした試合が多かったので。色々戦略も練って、練習して、こういう攻撃で点を取ろうというのも形になって、結果に結びついて。自分達が考えていたことが結果に結びついたので良い1年だったと思います」。浅見の言うよう、1年間で行われた12回の試合中、7回も勝利を収めた。

  浅見は立大ホッケー部を、「ショートカウンターからしっかり攻める、というような。守りよりも攻めのチーム」と位置付ける。特に秋季リーグでは、自分たちのカラーを出せたという。
  浅見の印象に残るのは、それはやはりSO戦があった試合だ。「延長戦で戦っている最中が一番やっている側も楽しくて」。浅見は、SO戦で毎回メンバー入りを果たした。春の優勝時に最後の決定打を放ったのも、秋の入れ替え戦出場権を勝ち取ったのも、彼だった。「もちろん緊張もしますけど、でも一番楽しく駆け引きとかができたのは印象的です」。

  浅見はどうしてここまで肝が据わっているのか。過去のインタビューを見返すと、その謎が解けた。
  数年前まで、「みんなで(パスを)繋げていこうみたいな、みんなで底上げしてチームの連携で勝とう、みたいな」風潮だった。でも試合中には結局、フィールドの上では自分ただ一人。「個人で来られて、個人で孤立して(相手と)個人の対決になっちゃうと今まで勝てなかったので、それで結局(相手の高いレベルの)個人技で(繋げたパスを)崩されて」いくのを試合で体感した。
  いきついた答えは、「個人技で勝てなくちゃ戦えない」。浅見は、敵と一対一でも奮闘できるプレーヤーになるべくしてなった。そうした3年生の時の気づきが、彼をここまで“肝の据わったプレーヤー”にさせたのだろう。
  彼にとってのホッケーは、「自分を上手く成長させてくれたもの」。ホッケーをやっていなかったら、こんなに楽しい大学生活もなかったと浅見は断言する。「ホッケーありきの大学4年間だった」。彼らしい振り返り方だ。








野崎哲司にとってのホッケーとは
最高の学び場

  唯一、全試合にフル出場した男がいる。それは、ゴールキーパーの野崎だ。
  今まで1年生から3年生までは、ほぼほぼ試合に出れず試合を見つめていた。しかし、今年になり、環境がガラッと一変。「フルで試合に出場しているんですよ。なので、ホッケーを味わいつくした1年」となった。
  ゴール前では仲間たちが必死にディフェンスする。けれど最後にゴールを守るのは、ただ一人野崎だけ。責任は重大だ。しかし、野崎はどんな時も守り続けた。
  「自分で言うのもあれですけど信頼されていたのかなと思います。GKってとても重要なポジションですし、このチームのGKは“お前しかいない”というような雰囲気にもなっていたと思います。自分がチームに信頼されているなと感じた1年間でした」。そこには、チームメイトからの絶大なる信頼があった。

  印象に残る試合は、やはり秋リーグで入れ替え戦出場をかけた一橋大戦。SO戦へと突入した試合だ。70分間の試合中は、「守る時間の方が長かった印象」。SO戦へともつれ込んでからは、とにかく緊張した。「でも仲間がここまでやってくれたのでそういうわけにもいかなかったですね」。仲間の存在が、緊張を勇気へと変えた
  総計11回。野崎がゴールに立った回数だ。あまりに長い戦いだった。SO戦中、野崎は幾度となく自分の防具をたたいた。「自分はビビりな部分があるので気合入れましたね」。一回一回、集中力を保ちながら挑んだ。結果的に野崎は8ゴールをくい止め、チームに入れ替え戦出場権を持って帰った。最強のゴールキーパーだった。

  刺激の同期にもまれた日々も思い出深い。競技からも、チームからもたくさん学びが転がっていた。野崎にとって、ホッケーは「最高の学び場」というのは合致する。


  ≪編集後記≫
  ホッケー部男子を取材し、2年が経った。私はこの4年生が3年生の時から、取材していた。それゆえ、彼らをフィールドでみれないのに寂しさを感じる。
  彼らのインタビューを読み返して思ったことがある。それは、ここまで熱中するものに出会える人は幸せだということだ。なんとなくや偶然で始めたホッケー。何度も辞めようかと悩みながらも、彼らは4年間フィールドに居続けた。その事実や彼らの生き様が、かっこよく、心を動かされた。
  彼らは4月から、異なる地へ一歩を踏み出す。次のフィールドもきっと、輝かしいものになるように。私は、願う。


















(3月31日/編集=小林桂子、取材=谷崎颯飛、都馬諒介、小西修平、小林桂子、繻エ由佳)