祝・グルージャ盛岡入団!!

菅本岳〜立大の歴史にその名を刻んだ男〜






   ッカー選手。人々の憧れの的である。プロになって、日本代表に選ばれてW杯で活躍したい――。サッカー少年たちは希望に満ちた未来を語り、そしてその多くが壁にぶつかり、志半ばで諦めていく。夢を実現することができるのは選ばれた一握りの選手だけだ。

    菅本が高校時代まで培ってきた技術は、大学に入っても通用するものだった。1年次から右サイドハーフとして出場機会を得ると、チームの攻撃を牽引した。しかし、チームの調子が上がらない。前シーズンでは確かに関東まであと1歩のところなで迫ったチームの面影はそこにはなかった。1年間のリーグ戦の中でも浮上のきっかけをつかめなかった立大は、その年2部降格。順調に経験を積んでいたかに見えた菅本にとって、入学当時に思い描いていた未来とは異なる現実だった。

    2年目、2部での戦いを余儀なくされた立大。そこでも、菅本は攻撃の中心だった。それまでより低いカテゴリーでのリーグ戦。相手は格上の立大に対して守りを固めることで勝ち点1を取りにくる。そこで勝ち抜くことは、決して簡単なものではない。立大は相手の割り切った戦い方に手を焼く。「ぎりぎりの試合をものにする力がついた」。菅本は、2部での戦いをこう振り返る。自力の差で勝る立大は着実に勝ち点を積み重ね、1年での1部復帰を成し遂げる。もう1度、関東が目指せる。

    菅本にとって大学生活3シーズン目となった2015年。彼が関東リーグでプレーするには、必ずこの年に昇格しなければならない。並々ならぬ思いとともに挑む。シーズンが始まると、立大は快進撃を見せる。前半戦を終えて2位と奮闘。菅本も数々のゴールでそれに貢献した。しかし、後半戦でチームは失速。あと少しのところまで見えていた参入戦出場を目前で逃した。昇格は、叶わなかった。翌年も東京都1部で戦うこととなった立大。同時に菅本の関東リーグでプレーするという夢も叶わずして潰えることとなった。




    ここで菅本に大きな葛藤が生じる。「このまま東京都リーグにいてもいいのだろうか」プロを志す彼にとって、大学生活最後の年を東京都リーグで過ごすことは望ましいこととは言えなかった。

    そんなとき彼のもとにある選択肢が転がり込んできた。オーストリアへのサッカー留学だ。オーストリアのチームに加わり、そこでトライアウトを受けることで契約を目指す。上手くいけば即プロサッカー選手としての道が用意されるというものだ。しかし、その挑戦は同時に立大サッカー部を離れることを意味する。「このままチームを離れても良いのか」彼の中に大きな葛藤があった。しかし、仲間たちは背中を押してくれた。そして何より菅本自身のプロになりたいという思いに嘘はつけなかった。6月、可能性を信じて菅本岳は海を渡る決意を固めた。



めての海外生活が始まった。右も左も分からない異国の地での一人暮らし。言葉も通じない環境での挑戦に最初は戸惑うことが多くあった。しかし、だからこそ今まで以上にサッカーに向き合うことができた。菅本が籍を置くことになったチームはオーストリア5部。海外就労ビザを取得するには、2部以上のチームと契約する必要があった。「リバイブ」。タックル後すぐに立ち上がるという意味でディフェンスの際に叫ばれるようになった言葉だ。それはどん底の状態から抜け出し快進撃を続ける立大象徴しているようだった。

    欧州の選手たちのプレーする中で、フィジカルや、ハングリー精神の差を痛感した。「サッカー観が大きく変わった」。自分に足りないものが明確になることで、彼は確実にレベルアップを重ねていった。しかし、それでも現実は厳しかった。2部のトライアウトを受けるも、結果は全て不合格。契約を勝ち取ることができないまま、ビザの期限だけが過ぎていく。絶望の淵に立たされた。

    海外でもがく菅本の裏で、彼の抜けた立大サッカー部は勝ち点を積み重ねて関東参入戦圏内に入る戦いぶりを見せていた。海外での挑戦も思うような結果を得ることができなかった菅本は、リーグ戦終盤に帰国を余儀なくされた。一方で、チームは参入戦出場権を獲得着実に目標の関東昇格へ進んでいた。しかし、1度チームを離れたことから菅本の参入戦への出場は認められなかった。「一度離れて迷惑をかけた分、貢献したい思いが強かった」。

    その思いとは裏腹に、立大は参入戦で実力を発揮すると、最終節を残してグループリーグ首位につける。最終節は神奈川県王者・産能大。この試合、1点差の敗戦以上の結果を収めることが、立大の昇格決定戦進出条件。圧倒的有利な状況で試合は始まった。グループリーグ特有の緊張感に襲われながらも、前半の2失点からなんとか1点を返し、後半ロスタイムへ突入。ピッチの外から試合を見守る菅本も、固唾を飲んで試合を見守る。あと少し――。  

    試合が終わった。そしてピッチには、泣き崩れる立大イレブンの姿があった。昇格決定戦まで、残り1分というところで痛恨の3点目を許す。まさに、悲劇だった。試合後、菅本は悔しさを押し殺して選手たちの健闘を称えた。それでも、彼には悔しさとはまた別の感情も沸き上がっていた。「やっぱりサッカーはおもしろいもっとサッカーを続けたい」。

    参入戦敗退から数日、グラウンドに姿を現した菅本は、またボールを追いかける。先のことは分からない。それでも大好きなサッカーを簡単に諦めることはできなかった。グルージャ盛岡を始めとする数チームのトライアウトに参加。なんとか自分の進む道を切り拓こうと必死だった。その中で、多くのことを感じた。「技術はまだまだだけど、スピードは通用する」。確信は無いが、やれることはやった。彼のサッカーを続けたいという思いは揺らがなかった。そして菅本にある連絡が入る。トライアウトから1ヶ月が経った日の出来事だった。


写真提供:グルージャ盛岡




   2016年12月21日、19時。J3・グルージャ盛岡の公式サイトで新加入選手の発表が行われた。「菅本岳選手 新加入のお知らせ」。この瞬間、立大サッカー部創部史上2人目、直接の輩出は初となる立大出身Jリーガーが誕生した。「自分はプロになれないんだと思っていた」。上手くいかないことは数えきれないほどあった。それでも、彼は確かに自分の力でプロ入りを勝ち取った。グルージャ盛岡は、彼を「既存選手と遜色ないプレーを披露し加入に至る」と評価。戦力として必要とされた何よりの証拠だ。高校時代の友人からは、「まさかお前がサッカー続けるとは」と驚かれることもあったと言う。しかし、菅本岳のサッカーに対する情熱は絶えず燃え続けていた。その思いが、こうして報われた。



   こがゴールではない。菅本のサッカー人生の新章が幕を開ける。「目指すのは1番上」。向上心は尽きることはない。一歩ずつ、確実に歩みを進め、J1の舞台を目指す。これまで以上の困難が待ち受けていることだろう。それでも、立ち向かう覚悟はある。「まずはスタメンで出ること、そこでグルージャの勝利に貢献して、J2に上がりたい」。グルージャ盛岡の背番号19は、自分が成し得なかった関東昇格への思いものせて、チームに貢献することを誓った。Jリーガーが誕生したことは、立大サッカー部にとっても大きな影響を与える。良い選手が来るきっかけにもなっていくはずだ。これから立大はさらに大きく、強いチームへと進化していくだろう。今回のプロ誕生は、間違いなくその起爆剤だ。立大の歴史にその名を刻んだ菅本。立大を背負って戦った紫の勇者が、自慢のスピードと溢れんばかりのサッカー愛を携えて、憧れだったJリーグへ羽ばたく。

(3月11日/取材・編集=鈴木育太)





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