痴漢冤罪長崎事件上告審意見書

2002年3月7日に提出され、9月26日に無視されました。

 
                              2002年2月21日
最高裁判所第一小法廷御中
                              立教大学法学部教授
                                荒 木 伸 怡
              長崎事件に関する意見書

1.はじめに
 平成13年(あ)第79号事件(長崎事件)につき、貴裁判所による裁判の有する社会的影響
および下級審裁判所における事実認定への影響の大きさに鑑み、刑事訴訟法学研究者とし
ての意見を具申することとする。
 起訴状に記載された本件公訴事実は、「平成9年10月1日午前8時19分ころから同日午
前8時32分ころまでの間、東京都練馬区桜台1丁目5番1号所在の西武鉄道株式会社西武
池袋線桜台駅から同都豊島区南池袋1丁目28番1号所在の同線池袋駅間を進行中の電車内
において、乗客O(当18年)に対し、同女着用のスカートの中に手を入れ、下着の
上から陰部を触るなどし、もって、公共の乗物において、婦女を著しくしゅう恥させ、か
つ、婦女に不安を覚えさせるような卑わいな行為をした」というものである。
 刑事裁判において行うべき事実認定の要点は、起訴状記載の犯罪が行われたか否か、お
よび、仮に当該犯罪が行われたと認定するとして、その犯人を被告人と認定できるか否か
である。したがって、この順に論じることとする。
2.犯罪事実について
 Oが当該犯罪の被害を受け始めたと検察官が主張する午前8時19分は、当該電車が桜
台駅に到着した時刻であり、その終期であると検察官が主張する午前8時32分は、当該電
車が池袋駅に到着した時刻である。しかし、本件審理経過によれば、Oは既に車内にお
いて被告人を罵倒し、その後は窓の方を向いて被告人を無視していたというのであるから、
当該犯行の終期について、起訴状の記載内容は極めてズサンである。
 当該犯行の始期に関するOの供述内容は、10月1日からの日時の経過と反比例して早
まっている。だが、スカートをたくし上げる等々の行為の始期は、実況見分調書によれば
午前8時27分であり、平成10年6月1日付けの証人尋問調書によっても、午前8時24分以
降である。検察官は、桜台駅到着以降被告人がOに身体を密着させ続けており、これが
犯行行為の一部であると主張している。しかし、この電車が江古田駅に入る際には、それ
が退避線であるために大きく揺れる。また、この電車が江古田駅から出る際にも、それが
退避線からであるために大きく揺れる。そして、この点は、私を含む西武池袋線の中距離
利用者にとり、公知の事実である。それ故、Oが述べたように身体を密着させ続けるこ
とは、江古田駅の前後では物理的に不可能である。しかも、江古田駅では逆方向のドアが
開いたにもかかわらず、乗り込む乗客に押されて奥へ移動したという供述となっている点
は、桜台駅以降被告人に密着されていて痴漢の被害を受けていたというOの供述内容が、	
被疑者を犯人とする供述録取書を作成したいものの現場を知らぬ検察官に示唆されて、
被害時間を前へ拡大させたにすぎない供述であることを示している。なお、Oによる供
述内容の元となる知覚や記憶が歪められていることについて、認知心理学研究者である厳
島行雄の鑑定意見書を参照されたい。
 Oは、本当に痴漢の被害を受けたのかも知れない。しかし、その被害時間は、いくら
長く見積もっても、江古田駅発車以降から、椎名町駅通過後池袋駅到着前までしかあり得
ない。しかも、Oが退避行動をとっていないこととの関連でその被害時間は、平成9年
10月4日の実況検分調書に記されているように、椎名町駅直前から池袋駅到着前まででし
かあり得ないのである。
3.被告人が犯人であるか否かについて
 Oは、犯人の手を払いのけた後に、Oの斜め後ろにいたという理由で被告人の手を
掴んだのでしかなく、その手を掴まれた者と痴漢犯人との同一性は、手を掴むという行為
によっては何ら担保されていない。すなわち、Oは掴み易い位置にあった手を掴んだに
すぎないのであり、他方、痴漢行為の真犯人であれば、推知されにくい位置から手を伸ば
して痴漢行為を行うと共に、払いのけられれば直ちにその手を引っ込めてしまうものなの
である。Oが電車内で被告人をののしっていた際に、真犯人はそのそばにいて、恐らく
ほくそえんでいたに違いない。
 突然に手を掴まれた際に被告人は、一瞬間を置いて「すみません」と言っている。第一
審および控訴審は、Oと同様にこの言葉の意味を痴漢行為への謝罪と捉えて、被告人と
犯人との同一性を示す証拠の一つとしている。しかし、周囲の乗客に鞄が触れたり身体が
触れたりすることが不可避な通勤電車の中で、周囲の乗客の一人から不快感を何らかの行
動で示された場合には、仕方がないだろう我慢せよと睨み返してはならず、「すみません」
とか「失礼しました」とか「ごめんなさい」とか言ってしまうことが、身の安全を守る
ために必要不可欠な知恵である。何故なら、不快感を行動で示したこと自体が、その乗客
の精神状態が幾分正常でないことを示しているからである。それにもかかわらず、被告人
の「すみません」という言葉を、発覚して捉えられた痴漢行為の自認および謝罪と捉える
ことには、用いられた言葉が軽すぎる点、および、その捉え方に飛躍がありすぎる点で、
無理がある。通勤電車に慣れていないOおよび裁判官達は、このような場面での日本語
の使われ方におそらく無知なのであろう。すなわち、「すみません」という車内での言葉
は、痴漢犯人と被告人との同一性を示すものではありえないのである。
 被告人は、電車から降りてから駅員の方へ向かう途中でもOに対して、「すみません」
と言っている。この言葉は、名前を知らぬOに対する呼びかけの言葉でしかない。O
および裁判官達はこの言葉の意味をも、痴漢行為への謝罪であると捉えている。しかし、
もしも被告人が痴漢行為の犯人であるとしたら、駅員に突き出されないようにするため
に、このように軽い謝罪のみを意味する言葉しか発しない筈はない。被告人は、身に覚え
がなく痴漢犯人と扱われているとは思わないが故に、Oが何をどのように誤解している
のかを尋ねるために、Oに対して「すみません」と呼びかけたのである。
 被告人により車内とホームで発せられた「すみません」という言葉の意味について、通
勤電車に慣れておらず、しかも、法律家でしかない裁判官達が、発せられた場の情況を前
提としない解釈を行うのでは、冤罪・誤判を生じてしまうことは不可避である。
 池袋駅における柱のそばで行われた会話の内容について、Oと被告人との間には齟齬
がある。Oは、被告人が背広の内ポケットから財布を取り出そうとしつつ「お金ではい
けませんか」と述べ、「お金で解決するんやったら駅員さんには言わんわ」と応じたと主
張する。これに対し被告人は、「私は何もしていませんよね」と述べたと主張している。
裁判官達はOの主張を事実であると認定し、痴漢犯人と被告人との同一性を示す証拠の
一つとしている。しかし、自由心証主義の下においても、客観的証拠に反する事実認定は
許されない。被告人の背広の内ポケットには財布は存在しなかった。また、その場所の騒
音の調査結果が存在しており、その騒音の中では会話の内容を相互に聞き取れなかったに
違いない。すなわち、池袋駅のホームにおいて被告人が金による解決を申し出たというの
は、Oの単なる思い込みにすぎない。それ故、被告人が金銭による解決を申し出たとO
が主張する池袋駅のホームにおける会話を、痴漢犯人と被告人との同一性を示す証拠の
一つと扱うことは、自由心証主義の下でも禁じられている、客観的証拠に反する事実認定
である。
 痴漢犯人と被告人との同一性の有無を判断するには、被告人の両掌および全指から鑑識
採取テープで採取した付着物の内容如何という客観的証拠が重要である。検察官提出の鑑
定結果によれば、付着物中に無色ダル入り科学繊維10本が含まれており、これを本件被害
当時Oが着用していたパンティーの構成繊維である無色ダル入り科学繊維と比較観察し
たところ、両繊維は極めて類似しているという。しかし、第一審における玉川寛治証人の
証言により、両繊維は太さが異なる繊維であることが明らかになっている。
 この点につき第一審判決は、「弁護人は繊維関係の鑑定を問題にしているが、右鑑定の
結果は結局不明というものであり、当裁判所も右結果を事実認定の証拠として採用してい
ないものであるから、右主張も当たらない」と判示している。しかし、繊維鑑定の結果を
排除したこの事実認定は、明白な誤りである。当該繊維10本が他に付着する機会が無い場
合に、もしも両繊維が極めて類似していれば被告人が痴漢犯人である可能性が高い。また、
もしも両繊維が一致していれば、被告人は痴漢犯人である。何故なら、本件被害当時O
が着用していたパンティーの構成繊維は、痴漢犯人であることを示す痕跡ないし遺留物
証だからである。そしてこれが、検察官がこの鑑定結果を証拠として提出した理由であろ
う。ところが、本件においては、被告人が痴漢犯人であれば付着している筈である繊維が
被告人の両掌および全指から発見されなかったことが公判廷で明らかになったのであるか
ら、痴漢犯人が用いた手が左右いずれであれ、痴漢犯人が被告人である可能性はゼロであ
るかまたは極めて低い。ここに「極めて低い」とは、たまたま繊維が付着しなかった事情
か、または、いったん付着した繊維が除去された事情をたとえ検察官が主張・立証したと
しても、被告人を痴漢犯人と認定するために必要な合理的疑いを容れない程度の心証を裁
判所は抱けない筈であるという意味である。
 被告人が痴漢犯人ではないことを示す証拠は、身に覚えがあれば事実を隠して別の遅刻
理由を述べるに違いない痴漢犯人と疑われている事実を、池袋駅から会社に電話連絡した
ことなど、弁護人が縷々説明しているように、他にも多々存在する。これらの証拠価値に
気付かないか、または、これらが偽装工作と見えてしまうことは、被告人が痴漢犯人に違
いないというOと同様な思い込みに、中立公正であるべき裁判官達もまた捉えられてい
るからでしかない。刑事手続において被害者の地位や意見が尊重されるべきであることに
異論はない。しかし、被告人が痴漢犯人であるとする被害者の主張の根拠は、本件の被害
者であるOのそばに立っていたというだけの薄弱なものでしかない。しかも、両掌およ
び全指の付着繊維もパンティーの構成繊維と異なっている。それにもかかわらず、第一審
および控訴審はOの供述のみを、「臨場感に富んでいる」など直観的・恣意的に信用し、
痴漢犯人が被告人であると認定した。このような直観的・恣意的な事実認定を行ったこ
とは、例えば前提事情である本件電車の混雑度について、正に的確な証拠があり、それに
よれば180%程度であるにもかかわらず、「これを数値で示して認識しうる的確な証拠はな
い」と判示したことなどにも現れている。
 直観的・恣意的な事実認定により発生した冤罪事件が本件であり、Oのみでなく被告
人もまた刑事手続の被害者である。そして、被告人を刑事手続の被害者にしたのは、第一
審および控訴審裁判所における、客観的証拠を無視した直観的・恣意的な事実認定なので
ある。
4.提言
 本件において下級審が行った直観的・恣意的な事実認定を最高裁判所が放置し容認して
しまうならば、下級審においてこれからも痴漢えん罪事件が続発し続けるであろう。通勤
電車の車内において女性が、周囲にいた男性の手を掴み「痴漢だ」と叫びさえすれば、そ
の男性は痴漢犯人と認定され刑事罰を受ける。しかも、その刑事罰の内容は、本件に適用
される罰金刑から、自由刑をも含むものに拡大されている。下級審裁判所が意図している
のかも知れない被害者保護も女性差別撤廃も、スローガンとしては大いに結構である。し
かし、下級審裁判所が、冤罪・誤判を生み出さないために築き上げられてきた事実認定の
諸原則を無視して、そのスローガンに従った事実認定を行い冤罪・誤判を生み出している
現状を最高裁判所が是認するのか否か。これが本件において貴裁判所が問い掛けられてい
る課題なのである。
 上告棄却により本件がもしも確定するならば、通勤電車において男性は、両手を上に挙
げた状態で、かつ、女性との身体の接触を避けていなければならない。すなわち、実際に
被害が発生しようとしまいと、女性が痴漢の被害を受けたと主張し、周辺にいた男性の手
を掴むならば、その女性の供述により、手を掴まれた男性は自由刑の実刑を含む刑事罰を
受けるというのが、本件の下級審により打ち立てられつつある判例である。その前提であ
る客観的証拠を無視した恣意的な事実認定を最高裁判所が放置し、このような判例の確立
に最高裁判所が加担することは、司法の自殺行為に他ならない。
 本件が冤罪であることを示す証拠は、下級審において既に出揃っている。貴裁判所は速
やかに口頭弁論を開き、破棄差戻ではなく無罪の判決を下すべきである。
STOP!痴漢えん罪!

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