証明力評価に関する一考察


『刑事司法への市民参加』(高窪古稀祝賀論文集)pp.111-128

証明力評価に関する一考察   立教大学教授 荒木伸怡

 一 はじめに
 二 従前の議論
 三 論理法則と経験則
 四 証拠の証明力評価
 五 おわりに

一.はじめに
 冤罪・誤判を防止するために、刑事手続に関わる多種多様な項目について、
解釈論・制度論・運用論などにわたり、実務家および研究者から、さまざまな
提言がなされてきている。研究者の一人として私も、さまざまな提言を行って
きた(1) 。他の提言と比較して私の提言に特色があるとすれば、それは私が経
験法学の方法論を、刑事法学の分野においても採り入れようと努め続けている
ことに由来するであろう。
 冤罪・誤判の防止と並んで、刑事手続を迅速かつ適正に進行させることも大
切であり、私は当然にこれらをも視野に入れつつ、調査研究を進めてきている
。しかし、この点が視野から外れているのではないかと思われる提言も少なく
ないようであり、裁判官・検察官による提言内容と正面から衝突している場合
もあるように見受けられる。このような場合に裁判官・検察官は、冤罪・誤判
の防止に関わるその提言内容を全面的に否定してしまいがちである。だが、冤
罪・誤判の発生を望ましいものと考えているのでない限り、わが国の刑事司法
制度の改革・改善のために、採り入れうる点は採り入れつつ、否定すべき点の
みを否定することが必要であろう。
 冤罪・誤判を生み出さないためには、例えば強制拷問による虚偽自白の内容
に引きずられなくて済むとの意味で、自白の任意性など証拠能力の制限も有効
な筈である。しかし、判例は原則として虚偽排除説を採っていて、証拠能力の
制限を緩やかに運用して証明力の判断に進んでおり、当該自白内容を信用でき
ないと判断したときに初めて、ひるがえって証拠能力が無いと判断しているこ
とが少なくない。
 このような法運用を生んでいる要因や運用の是非などは、それ自体が要検討
・解明課題の一つである(2) 。だが、事実認定の問題である冤罪・誤判の防止
との関わりは、いわば規範の問題である証拠能力の有無とよりも、事実の問題
である証明力の有無・大小との方が、より直接的である。それ故本稿では、証
拠能力についてはさておき、証明力についてのみ検討することとする。

二.従前の議論
 刑事訴訟法三一八条は「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる」と
規定して、自由心証主義を採ることを明言している。自由心証主義と法定証拠
主義とを対比すれば、証拠の証明力の判断を裁判官に委ねる自由心証主義の方
が、人格権の尊重・契約の自由・所有権の絶対性・過失責任の原則など、理性
的な判断者を想定している近代法の基本原理に合致する。しかし、証拠の証明
力の判断を全面的に判断者に委ねてしまうのでは、恣意的な判断がなされて冤
罪・誤判を生じてしまう恐れがある。それ故、自由心証主義の例外および心証
形成への制約について、論じられてきているのである。
 自由心証主義に対する明文上の例外は、憲法三八条三項の「何人も、自己に
不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科
せられない」という規定、および、刑事訴訟法三一九条二項の「被告人は、公
判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証
拠である場合には、有罪とされない」という規定である。
 これらの規定が設けられている理由は、自白を偏重することによる冤罪・誤
判の発生を防止することであり、この理由に関する限り、その表面上は、判例
上も学説上も異論はない。しかし、これらの規定の解釈や運用においては、冤
罪・誤判の発生防止に役立たないばかりでなく、かえってその発生を促してし
まいかねないのが、判例や学説の現状であると私は考えている。幾つか例を挙
げよう。
 憲法の公布・施行より後に制定・施行された刑事訴訟法に「公判廷における
自白であると否とを問わず」という文言が入っている理由は、憲法規定の解釈
として最高裁判所が、公判廷における自白には補強証拠を要しないという判断
を示したため(3) 、この点を否定すべく付け加えられたことのようである(4)
。公判廷における自白には補強証拠を要しないとする最高裁の判断は、裁判官
の面前における供述についてであれば、裁判官はその供述内容の真偽を見抜き
うることを前提としている。しかし、この前提は、神である天皇陛下の代理人
である裁判官の判断には誤りはありえないという「神話」でしかない。公判廷
における自白は、捜査過程で自白を強いられ、それに抗しきれずに自白して犯
人の役柄を担い始め、その役柄を果たし続けて来た被告人が、公判廷において
もその役柄を果たし続けているにすぎないのかも知れないのである。
 自白に補強証拠を要する範囲について、罪体の重要部分であり、かつ、罪体
には被告人と犯人との同一性を含まないとするのが、判例・多数説である。す
なわち、被告人を有罪と認定するためには最低限、捜査過程において作成され
た被疑者の供述録取書(自白調書)の他に、窃盗罪であれば何者かに盗まれた
という被害届けがあれば良く、殺人罪であれば、故意の証明を自白調書に譲り
うる場合には、被害者の死亡およびその死因が他殺である証拠があれば良いの
であって、後は事実認定者がそれらによって確信の心証を形成したか否かによ
ることとなる。しかし、録取されている供述内容がたとえ迫真性に富んでいる
としても、所詮は取調官が書き取った供述録取書でしかない自白調書の存在の
みから被告人が真犯人であると断定するのでは、冤罪・誤判を発生させる恐れ
が大きい。
 そこで、供述の時点では捜査機関にとり未知であり、かつ、真犯人でなけれ
ば知りえない事項が録取された供述内容中に含まれている「秘密の暴露」があ
れば、被告人が犯人であることに間違いなく、また、その供述内容に信用性あ
りと扱われている。しかし、例えば「幸浦事件」のように、たとえ自白調書に
記された場所から死体が発見されたとしても、捜査機関にとり未知であったと
は限らず、真犯人でなければ知りえない事項ではないこともある。供述録取書
には、取調べの日付と場所が記されているものの、時刻の記載はないので、そ
の供述がなされた時刻は不明である。また、検察官が弁護人に開示して法廷に
提出する証拠は、効率良く有罪を立証するために取捨選択した後の証拠でしか
ないので、たとえそれらを日付順に並べ替えてみても、捜査の進行状況の詳細
までは判明しない。しかも、たとえ真犯人でなくとも、捜査の進行状況の大筋
などをマスコミや口コミを通じて知りうることが少なくない。したがって、よ
ほど典型的な例を除いて、被疑者の取調べ状況の可視性が極めて低い現状を改
善しない限り、「秘密の暴露」に該当すると判断可能な供述はほぼありえない
と考えるべきであり、「秘密の暴露」という用語が一人歩きして安直に使われ
てしまっている現状(5) を改めるべきであろう。
 自白偏重による冤罪・誤判の発生を防止すべく刑事訴訟法三〇一条は、「第
三百二十二条[被告人の供述書または供述録取書]及び第三百二十四条第一項
[被告人の供述を内容とする他人の公判準備または公判廷における供述]の規
定により証拠とすることができる被告人の供述が自白である場合には、犯罪事
実に関する他の証拠が取り調べられた後でなければ、その取調を請求すること
はできない」と規定している。ところがこの規定について、証拠調べの順序を
規定しているにすぎないとしか解していない学説が少なくない。しかし、自白
調書でない証拠を先ず取り調べよという規定は、先ずそれらにより心証を形成
してから自白調書を取り調べよという規定である。したがって、自白調書でな
い証拠から先ず形成すべき心証の程度が問題とならざるをえないのであり、冤
罪・誤判の防止のために、何人かの犯罪により結果が発生したことについては
証拠の優越程度、被告人と犯人との同一性については一応の証明程度の心証が
、補強証拠のみによりまず形成されなければならないと、私は考えている(6)。
 共犯者の供述を「共犯者の自白」と呼び、補強証拠を要する自白には共犯者
の自白を含むと解する学説がある(7) 。しかし、共犯者の供述の有する冤罪・
誤判の危険性は、犯人でない者を犯人とし、かつ、中心人物に仕立てる「ひっ
ぱり込みの危険」であるから、被告人と犯人との同一性につき補強証拠を不要
としたままにこのように解しても、冤罪・誤判防止の効果がありうるかは疑わ
しい。これに対して判例は、共犯者の供述を証拠能力の有無のみが問題となり
、証明力の判断には制約の無い独立の証拠と扱っており、論理的には筋が通っ
ている。とは言え、ひっぱり込みの危険にも対処せざるをえない。そこで、八
海事件の第三次上告審判決は全員一致で、共犯者の供述にはひっぱり込みの危
険があることを明示し、吉岡供述を除いては、阿藤らが犯人であることについ
ての証拠が存在しないことを指摘した(8) 。すなわち、小法廷判決であるもの
の最高裁判所は、「ひっぱり込みの危険」に対処するための事実認定の法則を
正面から判示したのであり、冤罪・誤判の防止のために画期的な判示内容であ
った。
 ところが、その後の判例は、共犯者の供述の有する「ひっぱり込みの危険」
に、正面から対処することを止めてしまっているように思われる。また、学説
においても、八海事件の第三次上告審判決の意義を正面から認めて補強証拠に
関する理論を発展させようとしている者は、未だ少数のままでしかない。ただ
し、司法研修所は「共犯者の供述の信用性」に関する司法研究員報告を編集・
出版しており(9) 、この点に関する裁判官教育の必要性・重要性を認識してい
ると思われる。
 自白の証明力の評価については、「任意性のある自白の信用性がたやすく否
定されるものではない」としている「直観的主観的手法」と、「自白の内容を
客観的証拠を重視して吟味する」「分析的客観的手法」とが対比されており、
「自白の信用性の評価という点では、冤罪を防ぐという実践的な法技術の意味
で、分析的客観的手法が、直観的主観的手法よりも優れた方法であることは明
らかである」と主張されている(10)。また、司法研修所は「自白の信用性」に
関する事実認定教材をも編集・出版している(11)。私は、自白を信用してしま
いがちな裁判官を対象として、その心証形成を制約しようとするこのような学
説内容や裁判所による努力の必要性・重要性を、否定するものではない。しか
し、裁判官が自白を安易に信用してしまいがちであること自体を制約する必要
もあると、私は考えている。
 自由心証主義の下で裁判官が形成すべき心証の程度について、刑事裁判にお
いては「疑わしきは被告人の利益に」の原則ないし「無罪の推定」の原則があ
り、合理的な疑いを容れない程度の高度な心証ないし確信の心証が形成されな
い限り、被告人を有罪と認定してはならないとされている。しかし、このよう
な制約の付し方には、事実認定者である裁判官の心構え論として以上の効果を
期待し難い。何故なら、被疑者段階において作成された自白調書である供述録
取書と現場遺留物証が指し示す犯人像とが矛盾する事案において裁判官が、現
場遺留物証よりも自白調書を信用し、それにより確信の心証を形成しえたとし
て有罪判決を下した場合にすら、そのような事実認定を制約不可能だからであ
る。
 しかも、現場遺留三物証の血液型がAB型であるにもかかわらず、B型および
O型のみである元少年達が犯人ではありえないと認定して破棄差戻しとした草
加事件最高裁判決について、それが民事事件の判決であることを捉えて、「非
行(犯罪)事実を認定する少年審判においては『合理的な疑いを超える証明』
(確信、九〇%以上の確かさ)が充足された筈であるのに、『証拠の優越』(
五一%の証明)で足りる民事裁判において少年審判の結論が覆される事態が生
じた」(12)、「草加事件の少年審判は適法に確定し、終了した。民事裁判で別
の結論が出されても、現行法制度上は、民事訴訟で原告が敗訴したことを意味
するだけであろう」(13)と述べることにより、自白を偏重した恣意的な心証形
成を制約しようとするのではなく、かえってそれを推奨しようとする刑事訴訟
法研究者まで存在しているのが、わが国の現状である。
 しかし、「合理的な疑いを超える証明」ないし「確信の心証」という用語は
、実務および学説において、被告人を有罪と認定するには限りなく一〇〇%に
近い心証が必要だという意味で用いられている。また、たとえ民事訴訟であっ
ても、請求原因の有無自体が正面から争われている事案において裁判所は、「
証拠の優越」ではなく「確信の心証」ないしそれに極めて近い心証により、判
断している。そして、これらも同時に、わが国の現状なのである。
 自由心証主義が恣意的な事実認定を許すことになってしまわぬよう、「論理
法則」や「経験則」に反する事実認定は許されず、合理的心証形成でなければ
ならないと述べる教科書が少なくない(14)。事実認定に際して従うべき規範の
一つとして「論理法則」や「経験則」を想定しうるとすれば、それに反する事
実認定が行われた場合には刑事訴訟法三七九条に規定されている「訴訟手続の
法令違反」となるので、相対的控訴理由の一つとなることとなる。それ故、恣
意的な事実認定を制約するためには、自由心証主義に対する制約は補強法則の
みであると主張するよりも、「論理法則」や「経験則」という制約も存在する
と主張することの方が望ましい。しかし、これらの内容に具体性を持たせてい
るのでなければ、単なる建前論や心構え論にすぎない効果しか有しえないであ
ろう。

三.論理法則と経験則
 まず、「論理法則」を裁判規範と扱うことについて。私自身は大学における
一般教育科目の一つとして「論理学」を履修し、記号論理学の入門程度までは
学んだ経験がある。しかし、司法研修所を含む教室でまたは自習により、論理
学を学んだ法曹、とりわけ裁判官が、多くいるとは思われない。その結果、た
とえ論理法則を制約の一つと解しても、大前提である要件・効果、小前提であ
る本件事実、結論である当該判決という、いわゆる法律三段論法に従うという
論理法則のみを、裁判官に要求することにしかならない。しかし、証明力評価
との関連で関わりがあるのは、要件・効果をそのように解するに至る論理や、
本件事実をそのように捉える論理である。すなわち、法律三段論法に従ってい
ることは、冤罪・誤判を生み出しにくい判決の必要条件の一つではあるものの
、その十分条件ではないのである。
 次に、「経験則」を裁判規範と扱うことについて。「経験則」に反する事実
認定は許されず「訴訟手続の法令違反」となるという、主張の意図は理解でき
るし共感もできる。しかし、それと同時に、「経験則」という用語の意味内容
やそれが実際に果たしている機能をも、問い直して見る必要があると思われる。
 まず例をあげよう。1)死刑になるかも知れない事件であるのに短時間の取り
調べで自白してしまっているのだから、被告人は真犯人であるに違いないとい
う判断は、短時間の自白という事実に対して、冤罪者は自白せず否認を貫くも
のであるという「経験則」を適用して導き出されている。また、2)たとえ捜査
段階における自白を重視していても、それは自白内容の真実性を確認済だから
なのであって、検察官の主張・立証の内容は正しいという「経験則」があり、
それと矛盾する物証などには偽造の疑いなどがあるし、それと矛盾する公判廷
での被告人の否認供述は虚偽である可能性が高い。更に、既に前述したが、3)
自白調書の証明力評価は、その「経験則」上、主観的・直観的に行うべきでな
く、客観的・分析的に行うべきである。
 これら三例に示した内容は、「経験則」であるのか否か。もしも「経験則」
という用語を、経験諸科学の調査研究により見出された法則という意味で使う
のであれば、3)の使い方をも含めて、いずれの例も経験則を適用しての判断で
あるとは言い難いと、私は考えている。1)の使い方では、客観的な調査結果に
よる裏付けを欠いており、判断者の単なる思い込みにすぎない法則を、「経験
則」と呼んでいる。自白することにより生じる利害得失を判断して行動を選択
する筈である「市民」を想定するのであれば、このような法則が成り立ちうる
のかも知れない。そして、例えばベッカリーアが「犯罪と刑罰」において展開
した立論内容は、それを前提としている。しかし、無実の者でも自白させられ
、いわゆる自白調書を作成されることがあり、死刑判決が予測される事案にお
いても同様であることが、冤罪・誤判事例の検討から明らかになってきている
。しかも、無実の者が取調べにより自白に至り、かつ、それを維持しその内容
を詳細にして行くメカニズムも解明されているのが現状である(15)。すなわち
、1)のような判断を「経験則」による判断と考えることは、判断者の無知をさ
らけ出す以外のなにものでもなく、しかもその効果は、冤罪による死刑執行に
も至りうるのである。
 2)の使い方について、自白事件をも公判廷の審理により扱っているわが国の
裁判官は、九九・九%以上の事件において、法廷において検察官が行う自白を
重視した主張・立証内容は正しいという経験を積んでいる。しかし、否認事件
、それも裁定合議の否認事件に限定すれば、検察官がそれを信用している捜査
段階における自白が虚偽である比率はかなり高くなる。すなわち、捜査段階に
おける自白を重視した検察官の主張・立証は信用できるという「経験則」があ
ると考えるのは間違いであり、自白事件と否認事件とを区別せず、かつ、当該
裁判官個人の経験のみを前提としているが故に、裁判官に生じている錯覚にす
ぎないのである。捜査段階で録取された自白内容と矛盾する物証の方が偽造で
ある事案も、ありえない訳ではない。だが、わが国における被疑者の取調べ過
程はその可視性が極端に低いのであるから、物証と矛盾する自白内容の方が虚
偽であることが多いであろう。
 3)の使い方は、自白偏重による冤罪・誤判事例の経験を踏まえて、その発生
を防止すべく裁判官の間で伝承されてきたという自白内容の証明力評価方法を
、「経験則」と呼んでいる。しかし、自白内容の証明力評価方法を重視するの
は、直接証拠と呼ばれる自白を、間接証拠と呼ばれる物証などより重視してい
るからではなかろうか。すなわち、科学的な思考方法を採るのであれば、分析
的客観的手法と呼ばれている内容のうち、たとえ間接証拠と呼ばれていようと
客観的な証拠である現場遺留物証などと矛盾する内容の自白調書に証明力のあ
りよう筈はなく、自白調書の分析を更に行う必要はないのである。なお、この
意味で証明力のありよう筈のない自白調書について、直観的主観的に証明力あ
りと判断することは、科学的な思考方法と明白に矛盾するのである。
 犯行状況などについて、客観的な証拠により再現可能な範囲は自ずと限定さ
れざるをえない。捜査段階で録取された自白調書や公判廷における否認供述の
証明力評価が問題になりうるのは、その範囲内で、すなわち、自白調書の他に
証拠がない部分についてである。この点に関連して、被告人と犯人との同一性
について、たとえこのような事案であっても、何の補強証拠もないままの積極
的な認定が許されるべきでないと前述した。しかし、冤罪・誤判の防止をと述
べる研究者が多いにもかかわらず、残念なことに私見は少数説でしかない。そ
れ故、私見によれば起こりえない事態である、捜査段階で録取された多数の自
白調書のみから、被告人と犯人との同一性を認定する方法についても、本稿で
論及しておかざるをえないと思われる。
 このように考えてくると、自由心証主義の下ではあっても恣意的な事実認定
を許さぬことを目的として用いられている「論理法則」や「経験則」という用
語が、その目的に叶う機能を十分に果たしているとは思われない。とりわけ、
「経験則」という用語は、それを裁判官が用いることにより、恣意的な事実認
定を隠蔽したり正当化したりすることすらありうる用語である。そして、もし
もこのような事態を生じた際に、たとえそれを「訴訟手続の法令違反」として
控訴しえるとしても控訴審において、法令としての効力を有するのは裁判官が
適用した「経験則」と控訴人が主張する「経験則」とのいずれであるのか、い
や第三の「経験則」があるのかという論争が起きてしまうであろう。
 経験諸科学の調査研究により見出された法則という意味で「経験則」という
用語を用いるという共通理解が法律家の間に存在せず、各人がそれぞれの思い
を込めてこの用語を用いているのが現状であるから、法解釈の場合と同様にそ
の決着は、控訴審の裁判官の有する価値観により付けられることになる。すな
わち、もしも弁護人が経験諸科学の調査研究により見出された法則という意味
での「経験則」を示したとしても、控訴審の裁判官がそれに全く理解を示さず
、自分の価値観に基づいて選択した「経験則」により結論を出すこともありう
るのである。その結果、恣意的な事実認定を制約すべく研究者が教科書等に「
経験則に反してはならない」旨を記述しても、ほとんど実効性が無いのである。
 私は、このような状態に至ってしまっている理由の一つは、「経験則」とい
う用語が経験諸科学の発生・発達前から、法律家の間で用いられてきた用語で
あり、いわゆる手垢にまみれた用語となってしまっていることだと考えている
。それ故、現状に対して、新たな造語により対応することも考えられない訳で
はない。しかし、経験諸科学の発達やその調査研究成果の蓄積を横目でにらむ
とき、証拠の証明力評価なり心証形成なりについて、従前の発想を転換すべき
時期に、そろそろ差しかかっているのではないかと思われる。

四.証拠の証明力評価
 証拠の証明力評価についてはこれまで、挙証責任の問題と絡めつつ、確信の
心証・蓋然的心証・証拠の優越・一応の証明などの用語を用いて説明されてき
た。すなわち、事実認定の役割を担う者が両当事者の攻撃・防御を観察して抱
いた心証の程度が、例えば、確信の心証に至れば有罪・そうでなければ無罪と
いう論理と共に、論じられて来た。また、陪審制度の下で、有罪評決には全員
一致が必要か、多数決で良いのかの論議も、その論じられ方としては、抱くべ
き心証の程度に関する論議とほぼ同一である。
 証拠の証明力の有無・程度を、事実認定の役割を担う者が抱いた心証の程度
により決めることは、合理的でありかつ説得力を有するであろうか。「少年達
の自白調書があり、その内容により確信の心証を抱いたので、犯人は少年達で
ある。少年達の血液型がB型およびO型であり、他方、現場遺留三物証が血液
型AB型で分泌型を示していることは、少年達が犯人であることと矛盾しない。
精液と毛髪は別の機会に着いた可能性がある。唾液は被害者の体垢と混合して
AB型を呈している。」草加事件の抗告審および民事控訴審が採るこのような論
理に、合理性および説得力があると思えないのは決して私のみではあるまい。
では何故、合理性および説得力が無いのであろうか。
 思うに、供述証拠であれ非供述証拠であれ、直接証拠であれ間接証拠であれ
、それぞれの証拠は証明力の有無・大小を具有しているのである。それ故、事
実認定の役割を担っている裁判官がそれを無視して証明力の有無・大小を恣意
的に決めることを許しては、過去に起きた一回的犯罪事実の解明を妨げ、冤罪
・誤判を生み出すであろう。また、経験諸科学により既に解明されている法則
を無視しつつ恣意的な法則を創出して判断することについても、同様である。
 草加事件における現場遺留AB型三物証は、血液型AB型で分泌型の犯人像を示
している。精液と毛髪が別の機会に着いた可能性があるとは、これらは証拠と
して自然的関連性を有しない、すなわち、精液と毛髪にはそもそも証拠能力が
無いという判断である。しかし、処女膜が現存している中学三年生の被害者が
、スカートの内側に血液型AB型で分泌型の精液を付着させるような関係を持ち
、その後そのスカートを身に付け続けたままに行動して、更に血液型がB型お
よびO型の少年達から強姦未遂および殺人の被害を受けたという事実を裁判所
が認定している根拠は、捜査段階における少年達の自白は信用出来るという判
断のみである。
 形式論上は、裁判所が行ったのは捜査段階における少年達の自白に基づく判
断なのであるから、刑事訴訟法三一七条の証拠裁判主義には反しない。しかし
、スカートの内側の精液が別の機会に付いた可能性があるという部分の事実認
定は、証拠裁判主義に反して何の証拠も無いままに行われており、かつ、その
ような事態が生じる確率が低過ぎて、内容的にもあまりにも非常識な事実認定
である。血液型がAB型の毛髪については、別の機会についた可能性もありえな
い訳ではないものの、犯人の毛髪が抜けて被害者のブラウスの上に落ちていた
と考える方が自然である。
 被害者の乳房から唾液を採取する際に、被害者の体垢が唾液に混じることは
ありうる。しかし、採取した唾液の分析に際して、そのような事態をも前提に
した法医学上の法則をあてはめ、唾液自体がAB型を示しているというのが検査
技師の判定であり、その後に行われた法医学者による鑑定結果である。少年達
の無実を明らかに示しているこの事実について、体垢中のA型の血液型物質が
B型で分泌型の唾液と混合するとAB型を呈するという恣意的な法則を勝手に創
出してそれを適用し(16)、少年達が犯人であることと矛盾しないと認定するこ
とは、あまりにも非科学的な事実認定である。
 草加事件において、恣意的な法則を勝手に創出したのは、公益の代表者であ
るべき検察官である。すなわち、検察官は先ず、被害者の体液(汗)と唾液と
が混合してAB型を呈したという報告書を作成して裁判所へ提出した。ところが
、被害者が非分泌型であることに気付き五日後に、被害者の体垢と唾液とが混
合してAB型を呈したという報告書を作成し直して、裁判所へ提出している。裁
判所が、このようなものでしかない検察官作成の報告書に依存して、恣意的な
法則を適用した理由はおそらく、検察官の主張・立証への全幅の信頼であろう。
 草加事件には、現場遺留AB型三物証の他にも、死体が発見された残土置場に
おけるタイヤ痕・足跡痕の存在と少年達との不一致、自白によれば被害者を乗
せていた筈の車両の車内およびトランク内から被害者の痕跡が一切発見されな
いなど、豊富な物証が残されている。タイヤ痕について捜査機関は、取調べの
過程で殺害場所を、アスファルト舗装された道路上とし、そこから死体を発見
場所まで運んだという、現場での再現実験によれば運搬がかなり困難であると
判明している内容の自白調書を作成している。しかし、足跡痕の不一致につい
ては、車内に被害者の痕跡が無いことについてと同様、何の説明もなされてい
ない。
 裁判所は、捜査段階で作成された自白調書の内容と矛盾する物証については
、その有する客観的な証明力を排斥すべく、その存在を無視してしまう。他方
、密室で作成された供述録取書でしかない自白調書の内容については、容易に
それを信じた事実認定を行う。このような事実認定を裁判所が行いうる現状を
放置するのでは、草加事件と同様に明白な冤罪・誤判を必然的に生じ続けるで
あろう。
 刑事訴訟法学研究者は、証拠の証明力評価の問題に対しても正面から取り組
むべきであると、私は考えている。再審問題についてかつて盛んに論じられた
、独立評価説か総合評価説か、総合評価説において評価変えが許されるか否か
などは、正に証明力評価の問題であった。生じてしまった冤罪・誤判を救済す
ることは大切である。しかし、冤罪・誤判を生じさせないことの方がより望ま
しい筈である。証拠の証明力評価を規制する法的枠組としては、「経験則」と
いう用語を用いて控訴理由を「訴訟手続の法令違反」と構成することに代えて
、控訴に際しては端的に「事実誤認」と構成すべきである。何故なら、大切な
のはまず第一審において、裁判官による恣意的な証明力評価に由来する誤判を
生じさせないことであり、それでも誤判を生じてしまった場合に控訴審におい
て、その「事実誤認」を正させることだからである。
 刑事訴訟法学研究者は、経験諸科学研究者との共同研究により、証拠の証明
力の有無・大小に関する法則の解明・収集・蓄積に努めるべきである(17)。既
に解明されている法則を、幾つか挙げておこう。
 間接証拠と呼ばれる現場遺留物証と、直接証拠と呼ばれる自白調書の内容と
を比較すれば、現場遺留物証の証明力の方が明らかに大きい。それ故、両者が
矛盾するときに自白調書の内容を優先することは、明白な誤りである。
 現場遺留物証と自白調書の内容とが矛盾しないことは、とりわけ否認事件に
おいて、自白調書の内容の証明力が大きいことを意味しない。取調べの結果を
踏まえて取調官により作成されたものである自白調書の内容の証明力の有無・
大小の判断は、自白調書自体について行われるべきである(18)。
 直接証拠と呼ばれる目撃証言についても、研究成果が蓄積されてきている(1
9)。この点について、法と心理学会の有志がその設立準備段階以来一貫して、
「目撃証言に関するガイドライン」作成に務めて続けて来ていることが、重要
である。また、法と心理学会第二回大会の個別報告において、目撃者の視力と
識別可能距離について、実験の結果Y(距離m)=8.75X(視力)+3.
32という法則が明らかになったと報告されている。警察および検察官はこれ
まで、被告人の顔を識別できたという内容である目撃者の供述録取書を作成し
、それにより被告人と犯人との同一性などが目撃証言により証明できたとして
きたのであり、裁判所もまた、検察官によるそのような立証内容を信じた事実
認定を行ってきた。しかし、経験諸科学による調査研究の成果により、検察官
や裁判官による、その距離を超えていたにもかかわらず識別できたという事実
認定の誤りないし虚偽性が、白日の下にさらされたのである(20)。
 間接証拠についてばかりでなく直接証拠についても、経験諸科学による調査
研究の成果が蓄積され始めたことは、冤罪・誤判の防止にとり重要である。何
故なら、証明力の大きい間接証拠を無視や排除し、証明力の小さい供述証拠で
しかない直接証拠に依存した事実認定をもしも裁判所が行った場合、その誤り
は非法律家には明々白々なので、裁判所の行う事実認定への信頼は地に落ちる
であろうからである。換言すれば、実は自己の価値観を振りかざしていただけ
であった事実認定者の独善性が、証拠の証明力自体へ注目が集まることによっ
て、見破られてしまいつつあるのが現状なのである。

五.おわりに
 証拠能力があるとされた証拠の証明力評価を裁判官の自由な判断に委ねるの
が自由心証主義であり、理性に従った判断を行いうる裁判官像を前提としてい
た。しかし、この前提が成り立ちえない場合がありうることが徐々に気付かれ
て、事実認定に際しては論理法則や経験則に従うべしという規範が形成されて
いるのが現状である。だが、このような規範を示すことは、事実認定者である
裁判官に対して、事実認定に際しての心構えを説くという効果しか有しないで
あろう。しかも、既に手垢にまみれてしまっている経験則という用語を用いる
ことは、適用すべき経験則の内容をも裁判官が勝手に決めるという事態が起き
た際にそれを否定し難いとの意味で、有効でないばかりか弊害をも生じかねな
い。
 証明力の有無・大小についての従前の考え方は、事実認定者による評価に依
存していた。しかし、それぞれの証拠がそれぞれの証明力を具有していること
を認識すべきであり、それを無視・軽視することは許されない。すなわち、そ
れぞれの証拠が具有する証明力の有無・大小について、事実認定者に恣意的な
判断は許されないのである。
 証明力の有無・大小について、経験諸科学による調査研究の成果の蓄積は、
未だ十分ではないかも知れない。しかし、冤罪・誤判の防止は、調査研究を進
めてその成果を蓄積して行くことによってこそ、その効果を上げうる。また、
このような方策は、第一審の充実強化と矛盾せず、かえってそれを強化し補充
するものなのである。

(1) 荒木伸怡著『刑事訴訟法読本ー冤罪・誤判の防止のために』(一九九六年)
弘文堂は、私がこれまでに行ってきた諸提言の簡潔な要約でもある。
(2) 例えば、同前一五九〜一六五頁に記した内容は、この点に関する私なりの
仮説であると共に法解釈である。
(3) 最(大)判一九四八年七月二九日刑集二巻一〇一二頁。
(4) 刑事訴訟法の施行後にも、最(大)判一九四九年四月二〇日刑集三巻五八
一頁、最(大)判一九五二年六月二五日刑集六巻八〇六頁があるので、公判廷
における自白には補強証拠を要しないことが、判例上確立している。とは言え
、刑事訴訟法に明文が設けられた以上このような扱いは違法であり、その効果
は、憲法違反ではないので上告理由とならないことにとどまる。
(5) 例えば草加事件の民事控訴審は、1)車上荒らしの際にコンドームを入手し
たという少年達の供述に基づき、車上荒らしの被害者に事情聴取したところ車
内からコンドームを盗まれたという供述と被害届けをえられたことを「秘密の
暴露」と捉えており、また、2)事件を報道した番組を録画したという少年の供
述に基づき、自宅からそのビデオテープが発見されたことを「秘密の暴露」と
捉えている。しかし、供述に基づいてその後に作成された被害届けは、被害者
が警察に迎合しただけかも知れず、それによりコンドームの盗難のあったこと
が事実であると証明される訳ではない。しかも、仮にその盗難が事実であった
としても、(処女膜現存なので当然に)被害者の膣内から精液を採取出来なか
ったことを説明すべく作成された供述録取書中のコンドームを用いたという記
述について、その入手先を明らかにしえたにすぎないのであって、他の者では
なく少年達が殺人事件の犯人であるか否かとは、全く無関係である。2)番組の
ビデオ録画は、既にマスコミが報道している事件内容について、その少年が関
心を持っていたことを示すだけでしかなく、「秘密の暴露」ではない。これを
「秘密の暴露」と捉えることは、もしも捜査機関もビデオ録画していたとすれ
ば捜査機関が犯人だと捉えることであり、少年の供述によりビデオ録画をして
いたと判明しても、録画をした少年が殺人事件の犯人であるか否かとは無関係
である。常識を備えた市民にとってはあまりにも馬鹿らしいこの注の内容をわ
ざわざ記さなければならない程に非常識である者が少なからずいるのが、わが
国の裁判官・検察官・警察の現状なのである。
(6) 荒木伸怡「冤罪防止と裁判官の役割」警察研究五五巻七号(一九八四年)
三三頁、四一頁参照。
(7) 団藤重光『新刑事訴訟法綱要七訂版』(一九六七年)創文社二八五頁参照。
(8) 最(二小)判一九六八年一〇月二五日刑集二二巻一一号九六一頁、九七八
〜九七九頁参照。
(9) 司法研修所編『共犯者の供述の信用性』(一九九六年)法曹会
(10)守屋克彦「草加事件の事実認定についてー裁判所による手法の異なり」法
学セミナー五四七号(二〇〇〇年)四二頁、四四頁。
(11)司法研修所編『自白の信用性ー被告人と犯行との結び付きが争われた事例
を中心として』(一九九一年)法曹会。
(12)椎橋隆幸「草加事件民事最高裁判決を契機に考える」法学教室二四一号(
二〇〇〇年一〇月号)五七頁。
(13)同前五八頁。
(14)例えば、田宮裕『刑事訴訟法(新版)』(一九九六年)有斐閣二九五頁参
照。
(15)浜田寿美男著『自白の研究』(一九九二年)三一書房、同著『自白の心理
学』(二〇〇一年)岩波新書、大橋他著『心理学者、裁判と出会う』(二〇〇
二年)北大路書房など参照。
(16)草加事件の抗告審および民事控訴審は、この恣意的な法則を「経験則」と
までは明言していない。しかし、決定文・判決文の文脈上その必要があれば、
「経験則」という用語を用いたのではなかろうか。この意味で「経験則」とい
う用語は、かえって冤罪・誤判を生み出しかねない程に手垢にまみれているの
である。
(17)荒木伸怡「刑事・少年司法と心理学の可能性」法と心理一巻一号(二〇〇
一年)九三頁参照。私は、二〇〇〇年に創設された「法と心理学会」における
共同研究の進展とその成果に、大いに期待している。
(18)前出・注(15)参照。
(19)E・ロフタス、K・ケッチャム著厳島行雄訳『目撃証言』(二〇〇〇年)
岩波書店、渡部保夫監修『目撃証言の研究』(二〇〇一年)北大路書房、厳島
他著『目撃証言の心理学』(二〇〇三年)北大路書房など。
(20)警察なり検察官なりがもしも反論しようと考えた場合、彼らなりの実験を
行ってその結果を反証とすることになる。もしも両者の結果が対立した場合に
その決着は、法律学的にではなく、経験諸科学の通常の方法により付けられる
こととなる。
                          (あらきのぶよし)

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