12月・1月の授業内容

Home へ戻る

 12/03 『都管七箇国盒』の図像解釈(3) 宮谷 信光



           吐蕃を中心に見た『都管七箇国盒』

  「白拓□国」を除く六カ国と中国との位置関係を見ると、中国の東にある高麗、南方に
位置する崑崙、そして西方の吐蕃、婆羅門、疏勒、南詔に分けられる。
  この中で、西方の四カ国は、その中心に位置する吐蕃と唐との敵対関係について触れる
ことで結びつけることができる。唐初に成立した吐蕃。六三〇年代に始まり八四〇年代の吐
蕃分裂までの間、戦いと和睦を繰り返した唐と吐蕃の対立関係の中に、南詔、疏勒、婆羅門
の三カ国は巻き込まれていたのである。吐蕃は中国王朝と盟約を結んだ回数が最も多い非
中国勢力であり、七度も盟を結んでいる。これらの盟の本質は両国間の境域を確定すること
にあり、これだけの期間にわたり唐とその領域をかけて争った吐蕃は、唐に対する最大の敵
対勢力であったといえるだろう。南詔はその吐蕃の影響下にあり唐への侵入を行い南方の脅
威となった時期もあったが、唐と吐蕃が最後に盟約を結んだ八二一、八二二年には、唐と友
好的な関係にありともに吐蕃に対していた。また疏勒は七世紀に唐の支配を受け、亀茲に安
西都護府が移されると、安西四鎮の一つとして西方との交渉に大きな地位を占めた。だが『資
治通鑑』唐紀第二〇一巻に
「夏,四月,吐蕃陷西域十八州,又與于?襲龜茲撥換城,陷之。罷龜茲、于?、焉耆、疏勒四鎮」
とあるなど、吐蕃と境を接していることから、その標的となることも多く、唐と吐蕃との戦いの場にも
なっている。そして婆羅門だが、吐蕃の南隣に位置しその国境を侵すこともあった。
ところで東方に目を転じてみると「高麗国」とあらわされる高句麗、新羅は、隋王朝が高句麗遠征
の失敗が原因で唐王朝にとってかわられたり、唐と新羅の連合で百済、高句麗を倒したはずが
結果的に朝鮮半島全体を新羅が支配することになったりと、「高麗国」も唐に敵対した東方の
一大強国であった。つまり『都管七箇国盒』に描かれたこれらの国々は、仏教国だからといって
必ずしもずっと中国と友好的な関係にあったわけではないのである。だからこそ「舎利八分図」とし
て中国が中心となり仏教が弘法されたと主張する必要があったのではないだろうか。


 12/10   『都管七箇国盒』の図像解釈(4) 宮谷 信光



  『都管七箇国盒』が作られた九世紀後半には「都管七箇国」のどの国も中国と友好
的な関係にあった。だが過去にはその国々も中国と対立する関係にあったのである。この
『都管七箇国盒』には、仏教によって中国を中心とした世界がこれからも安定、平和であ
るようにとの思いが込められているように思う。もしくはこれらの国々が中国に従う正当
性を、中国を仏教の中心とすることから説明しているともとらえることができるだろう。
「都管七箇国」は単に中国周辺の仏教国というだけではなく、唐と激しく対抗した吐蕃、
高麗の二大強国を中心にした中国の周辺国であった。中国がその後これらの国々を従えて
いくときに、中国が文化の中心であるという中華思想に、これらの国々が信仰していた仏
教を組み込むことで、理論的に支配の正当性を主張できるようになる。この『都管七箇国
盒』からは安史の乱以降の財政難などから、軍事的にではなくできれば文化的に、仏教を
中心に周辺国の頂点にたっていこうとする、そんな意図が読み取れるのではないだろうか。

 

 12/17  宮谷信光氏の発表に対する討論



「崑崙」は隋唐時代には今日のインドシナ半島からボルネオあたりまでの広い範囲の総
称で、林邑(現ベトナム)・真臘(現カンボジア)など、象に象徴される国の人物が描かれ
たと田中氏はされている。だが『冊府元亀』巻九七〇外臣部・朝貢三に景龍三年三月に崑
崙国が朝貢したという記事があり、また真臘・林邑の両国とも朝貢の記述がその国名通
りになされていることから、真臘・林邑とは別の東南アジアの国であったのではないかと
考える。また『資治通鑑』唐紀第二〇三巻唐紀十九にも「崑崙國在林邑南,去交趾海行三
百餘日,習俗文字與婆羅門同。」とある。象に象徴される東南アジアの国であるが、林邑・
臘といった国がその内部に含まれる可能性はあっても、それと同一ではなかったのでは
ないだろうか。

『都管七箇国盒』では、あえて『冊府元亀』などでも朝貢の記述の多い林邑でも真臘でもなく
「崑崙」を選び、しかも仏教発祥の地「婆羅門国」を外周に置き、「崑崙王国」を中心に据えた。
さらに「都管七箇国」中唯一「王国」とされていることにも注目したい。「崑崙王国」は「都管七箇国」
の中でも別格の扱いを受けている。
その理由として「崑崙」と名のつくもう一つの地名が何か関連しているのではないだろうか。それは
中国古来の霊山であり、神仙への信仰の対象となった「崑崙山」である。隋唐時代において仏教と
並ぶ一大勢力であった道教の影響があったとも考えられるのではないか。また外来の仏教に対し、
中国の民族宗教ともいえる「崑崙」への信仰を中心に据えることで、より文化の中心としての中華を主
張するような『都管七箇国盒』の図像にはそんな可能性も指摘できるのではないかと思う。

唯一「国」とされていない「烏蛮人」について。大原良通氏は『南詔国王と鐸鞘』の中で「南詔国が
成立する以前の雲南地方では、?海を中心に六つの詔がそれぞれ氏族小国家を形成し、六詔として
連合国家を営んでいた。」「南詔は蒙舎詔である。(中略)他の詔より南に位置するから南詔と呼ばれた。」
「南詔国は烏蠻の建てた国である。」と『蠻書』や『新唐書』の記述から述べられている。また『旧唐書』
巻一九七・南蛮西南蛮伝には「南詔蠻,本烏蠻之別種也,姓蒙氏.蠻謂王為詔」とある。「烏蛮」民族
の中の一氏族である南詔蛮が六つに分かれていた烏蛮を統一し「南詔国」を建てたのであり、「烏蛮」
イコール「南詔蛮」ではなく、その使い分けははっきりしていたのではないだろうか。だとすれば「都
管七箇国」と「国」というように刻印で規定し、さらに『旧唐書』『新唐書』に多く「南詔(国、蛮)」という国
としての名称があるにもかかわらず、「烏蛮人」という表記をしていたのはなぜだろうか。田中氏は国家とし
て認められていなかった可能性を示唆される。だが「烏蛮」という呼称よりも「南詔蛮」の方が『旧唐書』
『新唐書』では多く使われているのであり、それならば国家として認められていなくても「南詔蛮人」とす
ればよいのではないのだろうか。そうせずに「烏蛮人」としたのは、『都管七箇国盒』が製作されたとき、
すでに「南詔国」自体が存在せずに、その地域のことをあらわすときに「烏蛮人」と表記するしかなかっ
たのではないか。『都管七箇国盒』の制作時期はその様式から九世紀中葉から後半、晩唐から五代に
かけてとされているが、ちょうどその頃、南詔は唐とほぼ命運を共にし九〇二年に滅んでいて、「南詔国」
があった地域一帯には「烏蛮人」が「国」よりも小規模な形の共同体として住んでいたのではないだろうか。
南詔でさえ国と認められていなかった可能性があるのだから、それよりも小規模になったら「国」とつける
ことはありえないだろう。制作年代の記述のない『都管七箇国盒』だが南詔国の滅亡前後に製作された
可能性もあるのではないだろうか。



 01/07 卒業論文構想発表  「仮面劇について」  大塚藍



第1章 韓国の仮面劇
1 仮面劇の成り立ち
2 「書物」に出てくる仮面劇
3 現在の仮面劇

・・・韓国における仮面劇を古代から現代へ例を挙げておっていく。現代の仮面劇では、実際に体験した
江陵端午祭の官奴仮面劇を例に挙げる。そして韓国における仮面劇の概要そして現在の仮面劇の現状
を述べる。

第2章 中国の仮面劇
1 少数民族の仮面劇

・・・現在まで中国に仮面劇はないとされていたが、発見され研究されたということを述べて行く。その礼として、
少数民族の仮面劇を挙げる。

第3章 その他の仮面劇
1 日本の仮面劇
2 その他の仮面劇

・・・韓国・中国以外の国の仮面劇とされるものを挙げる。日本のものから他の国の仮面劇を挙げていく。

第4章
1 韓国の仮面劇を中心とした他との比較
2 仮面劇とは

・・・韓国のものを中心として中国、日本、その他の国との違いや同じ点を述べる。それにより韓国特有の
慣習を述べていく。

文献目録一覧
『韓国の民俗芸能』
『江陵端午祭のパンフレット』
『仮面劇とマダン劇:韓国の民衆芸能』梁民基、久保覚編訳 晶文社
『演劇』本田安次編 有精堂
『中国少数民族の仮面劇』後藤淑、廣田律子編 木耳社
『海南仮面劇研究』 常 著 大成文化社