10月の授業内容

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 10/01 従軍慰安婦をめぐる論争 金由美



   戦争が終わって半世紀が過ぎたいま、日本と韓国の間には未だに解決できなかったさまざまな問題が残っている。 その中の「従軍慰安婦問題」については両国の主張が違っていて、日本の中でも論争になっている。
まず、当時、慰安婦にさせるための「強制連行」があったかどうか、それが軍によるものだったかどうかをめぐる論争が強い中、特に「従軍慰安婦」の存在を否定する自由主義史観派の一人である藤岡氏の主張と「従軍慰安婦」の存在と慰安婦に対する非人道的行為を語る義美氏の主張を検討・比較することを主な枠として書きたい。

@ 「従軍慰安婦」とは何か

   −「従軍慰安婦」、「慰安婦」、「日本軍慰安婦」などの言葉の意味。慰安婦の背景。

A 慰安婦の強制連行

   −地域別の強制連行(朝鮮、中国、インドネシア、フィリピンなど)

B 慰安婦の形態(慰安婦の状況)

   −年齢、料金、規則、建物、生活、地域、部隊、経営者など。

C 「従軍慰安婦問題」の解決策

   −補償問題(国家的、国際的レベルで)

双方の主な論争点

@ 「強制連行」

自由主義史観派:強制連行の有無にこだわり、現在までに、軍による「強制連行」を示す「公文書」という証拠は見つかっていない。だから、強制連行はなかったとしている。
だれが慰安婦でどのような被害を受けたかという史料はほとんどなく、正確に確かめようがない。しかし、それは戦後、戦争に関する多くの文書が廃棄処分されてしまったからである。

A 「従軍慰安婦」についての証言

自由主義史観派:「証言には多くの矛盾点があるので信用できない」という立場。
一つの証言の中にある「矛盾」を指摘するだけでは意味がない。その矛盾がどう起こっているのか、それによって、証言全体がどう影響を受けるのか、「矛盾」そのものについて検証する必要がある。「証言」相互を比較し、その「一致」と「相違」を検証すべきである。

B 「従軍慰安婦」という言葉

自由主義史観派:藤岡氏は「慰安婦」の存在は認めるが、当時、「従軍」慰安婦という言葉はなかったと主張。実際には従軍慰安婦の実態を否定。
当時、「従軍慰安婦」という言葉がなかったことは事実であるが、だからと言って、軍に所属していた慰安婦を否定することはおかしい。日本軍の行くところ、どこにでも連れられていくありさまは「従軍」という言葉が適切である。

 *当時、そういう言葉がなかったから使うべきではないと言うならば、歴史を書くことはできない。例えば、一次世界大戦や日中戦争、幕藩体制をはじめ、歴史で使う言葉の多くが後から作られた言葉である。




 10/08 校務のため休講





 10/15 休日





  

 10/22 ハン(恨)について 山田正愛



●<ハン>とは?
 日本語でいう「うらむ」とは異なる、韓国独特のもの。韓国や韓国人を理解するのに重要なモチーフだと言われている。

● 日本語の「うらむ」と韓国語の「うらむ」の違いは?
日本語の「うらむ」は他人、又は自分の外部の何かについての感情。望みごとが無くても、他人から被害を受けただけで持つようになる。「ハン」は自分の内部に沈殿し積もった、情の固まりである。  望みごとが無くても、他人から被害をうけただけでうらみを持つようになるが、それは「ハン」にはならない。「ハン」は他人から被害を被らなくても湧いて来る心情なのである。自分自身の願いや能力があり、それが自分の無力さのためにどうしても果たせなかった時の挫折感が「ハン」になるのである。 この「ハン」は、韓国の文学作品や、歌、映画、そして韓国人の行動にもよくあらわれている。 一言でいうと、日本語での「うらむ」は憤怒、韓国での「ハン」は悲しみなのである。

● 『忠臣蔵』と『春香伝』
元禄14年(1701年)3月14日播州赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が、江戸城内で吉良上野介義央に切りかかり、その日のうちに切腹を命じられた。元禄15年12月14日、浅野の家臣、大石内蔵助以下47名は、吉良の屋敷に討ち入り、上野介の首級をあげて内匠頭の無念を晴らした。

     『春香伝』
李朝時代(1392〜1910年)、悪代官の意に従わない娘春香が、投獄、拷問、処刑の運命にさらされながらも貞節を守り、別れ別れになってしまった身分の違う両班の息子への愛を貫いた物語。原作者や正確な創作年代、原著は明らかになっていない。春香は悪代官によって血まみれになるほどのひどい仕打ちをうけ、憎しみと復讐の念で燃える。が、しかし、この物語のねらいは悪代官への「うらみ」ではなく、その中にも依然として燃え続ける両班の息子への愛の心である。彼女は自分を血まみれにする悪代官にも、一人遠くへ行ってしまった両班の息子もうらみはしなかった。悪代官の出現はうらみではなく「ハン」の感情を増大させるほんの脇役にしかすぎないのである。男に一目でも会いたいという愛の望みと一人残された春香の悲しみが「ハン」になって彼女の心の中にただ積もっていくのであった。
『忠臣蔵』は主君への死のうらみであり、うらみの感情は仇討ちによってはじめて晴らすことができる。が、『春香伝』において春香の「ハン」は、誰かを仇討ちして晴らされるような感情ではないのだ。両班の息子との愛がかなえられなければ「ハン」はそのまま彼女の心の中に残っていくのである。

● 「ハン」はいつ生まれたのか?
「ハン」は植民地時代に生まれた言葉であると言われている。その時期、朝鮮の土地、法律、制度、慣習(風俗)など、安定した植民地政策を目的として朝鮮に対するさまざまな研究が日本政府の下でされた。その中でこの「ハン」という言葉が生まれたのではないかと言われている。

参考文献
『「恨」の中の韓国人「畏まる」日本人』 加藤英明著 (講談社 1988年)
『恨の文化論;韓国人の心の中にあるもの』 李御寧著 (学生社 1978年)