アメリカにおける大量殺戮と、「報復」について



アメリカにおける大量殺戮と、「報復」について

 9月11日、アメリカのニューヨークとワシントンにおける大量殺戮事件は全世界を震撼させました。マスメディアが全世界的にニュースを流し、映像が連日映し出されています。しかし、日本の各テレビ局は「専門家」と称する人々が登場し井戸端会議的なとりとめのない話を繰り返していたかと思うと、最近ではアメリカの政府とマスメディアが提供する「臨戦態勢」の雰囲気作りに乗っかり、日本政府の「協力」の姿勢を無批判に報道しているかのうように見受けられます。

 わたしたちがまず、犠牲者に関心を向けるべきことは言うまでもありません。6000人以上といわれる人々が亡くなっています。一人の人間の死は、その家族、友人、かかわっていた仕事など、おびただしい背景とのかかわりの中でその波紋を広げていきます。数千という数は、そうした一人一人の死のできごとを無感覚に受けとめかねない数字です。しかし、人の命は数字でまとめ上げることのできないもの、尊く神秘的なものに他なりません。わたしたちは、殺された人々の死、失われた命を覚えることからはじめなければならないでしょう。もちろん、私たちは死んでいった「テロリスト」たちのことも忘れることはできません。自分たちの主張のためには無関係な人を殺すことをいとわず、多くの人を巻き添えにし、憎しみの心をもったままに死んでいったかれらの死は、あまりに悲しいのです。

 「悪に悪を返さず、善を行え」これは、ローマの信徒への手紙におけるパウロの言葉です。パウロは「悪に負けることなく、善をもって悪に勝て」と教えます。このたびの大量殺戮は言うまでもない悪ですが、しかし、この悪の力に打ち勝つのは「善」であって、それが第二第三の「悪」であってはなりません。アメリカ政府は、今回の犯行の首謀者をビンラディンであると断定し、報復を公言していますし、彼をかくまっているといわれているタリバンに対しても、アメリカは武力で攻撃するといっています。

 首謀者を特定し裁きにかけるのは当然のことですが、ブッシュ大統領は事件直後から「戦争」という言葉をつかっています。そしてメディアも「戦争」という言葉をつかってはばかりません。彼らがこぞって「戦争」というのはなぜでしょうか。これは事態の深刻さ、規模の大きさを表現するレトリックではないはずです。普通、だれであれ人の命を奪うと「人殺し」といわれます。被害者が加害者を殺しても、それは殺人であり、近代的な法律はこのような私的な報復、私刑、リンチを認めていません。しかし、「戦争」といわれる状態においては、敵対国の人間を殺してもそれは人殺しの罪には問われません。「一人殺すと殺人犯、十人殺すと殺人鬼、百人殺すと英雄」といわれるように、人殺しと英雄の境目を決めるのが「戦争」という言葉に他なりません。

 「仲間を殺した相手を殺してもいい」というのは有史以来ながく受け継がれてきた報復の論理でした。しかし、ハムラビ法典の時代以降、「もしだれかの目を傷つけたら、罰として目をえぐりだし、歯を折ったならば、罰として歯を折られる。決してそれ以上の報復をしてはならない」という、過剰な報復を禁ずる倫理が生まれたのです。

 今ブッシュ政権がしようとしているのは、「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典的な報復の論理なのでしょうか。アメリカに対する攻撃に対しては相手組織、支援国家を含めてそれらすべてを排除する、テロの根を根絶する。これがアメリカ政府の一貫した主張です。しかし、仮にビンラディンが首謀者であったとしても、彼一人を殺してテロがやむと考える人はいないはずです。タリバン政権が崩壊し、それで反米テロが終わるとは思えません。この戦いは周辺国も巻き込むような戦争にならないという保証が、いったいどこにあるでしょうか。ブッシュ政権が主張する「正当な報復」は、実はハムラビ法典が禁じた過剰な報復、復讐ではないのでしょうか。

 もちろん聖書は、過剰な報復を禁じた「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典的な正しさを超えて、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えています(マタイ福音書5章39節)。これは徹底的な非暴力、非戦の論理です。そしてイエスは、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」(5章44節以下)と不可能とも思える態度、愛による向かい合いを命じています。

 9月11日のあの大量殺戮事件自体、すでに報復であり復讐なのです。もしアメリカの軍事行動が実現すれば、決して許されるべきではない報復の連鎖が、今後ますます加速するに違いありません。悪に対して善で立ち向かう、アメリカは自らの「報復」はテロに対する戦いであって、「善」であると主張します。しかし、ミサイルはテロリストだけを殺すようには炸裂しません。あの湾岸戦争でも、イラクで死んだのは兵士だけではなく多くの一般市民が死に、今も生物兵器の後遺症に苦しみ、アメリカとその連合軍による「経済制裁」によって不足する医薬品のおかげで、今このときも病人が苦しみつづけています。

 アメリカが主張し、世界各国が支持しようとしている「武力行使」は悪に勝ちうる善ではなく、死と報復の連鎖をもたらす「悪」にほかなりません。「剣をとる者はみな、剣で滅ぶ」とは、逮捕を目前にしたイエスの言葉です(マタイ26章52節)。「報復をしないことが悪を容認することになる、ここで反撃しなければ、テロに屈したことになり、次なるテロを招いてしまう」。おそらくアメリカ政府と、報復を支持する人々の多くはこう主張するに違いありません。しかし、9月11日が「第一撃」ではないということを、わたしたちは常に覚えておく必要があります。メディアが報道しない数多くのテロ、大量殺戮、暗殺、空爆、経済的政治的抑圧、そのような死と暴力の連鎖の只中に、2001年9月11日があるのです。

 無差別な大量殺戮によってアメリカに反撃しようとすることは赦すことのできない残虐な行為です。しかし、このような事件の背景にはアメリカの世界戦略によって、「先進国」中心のグローバリズムによって、西欧中心、キリスト教中心の「国際社会」によって虐げられ苦しめられている人たちがいることを忘れてはなりません。テロの根絶とは、首謀者を抹殺し拠点を破壊することではなく、全世界的な正義と公平を実現することではないでしょうか。

 わたしは、アメリカがこのような報復の連鎖を断ち切る勇気と知恵を持つことを祈らずにはいられません。 少なくとも、アフガニスタンに対する武力攻撃は新たな無差別殺戮であり、報復の連鎖を断ち切る「正義の剣」とはなりえません。テロリストが「聖戦」という言葉を悪用して自己を正当化することと、アメリカが「テロとの戦い」を盾に自らを「正義」の側に置こうとすることと、何の違いがあるでしょうか。「殺されたのだから、殺してもいい」という論理は「報復の連鎖」を意味していますし、この連鎖の中で勝つのは相手を殲滅しうる強大な力を持った国家であり、しかし、この死の循環の中で、おびただしい人の命、特に弱い立場にある者の命が奪われるのです。この連鎖には勝者はなく、ただ死があるのみです。

 日本政府が、憲法が定めた通りに、戦争放棄、非戦の原則を貫くことを切に祈ります。日本は、今こそ「非戦、反戦」の国家として国際社会において確固たる姿勢を示すべきです。たとえアメリカを中心とした「国際社会」、武力による報復の論理に生きる国々からは「孤立」したとしても、反戦と平和を願う人々と連帯する道、命の道を選ばなければなりません。

2001年9月30日
立教大学チャプレン 香山洋人

 教会や市民団体も様々な声明、行動の呼びかけをしています。
 ■日本聖公会管区事務所(アメリカ聖公会からのメッセージなどがあります)
 ■カトリック正義と平和協議会
 ■ジュビリー2000

     現場からの声に耳をかたむけましょう。被害者の親からの手紙、アフガニスタンからの手紙などジュビリー2000のサイトへ.

     私の友人の関連サイトで、アメリカの新聞に平和の広告を出す運動、「グローバルピースキャンペーン」を展開しています。
     ■神戸元気村

     「報復しないのが真の勇気」と、坂本龍一がうったえています
     ■asahi.com

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