アジアの世界文化遺産 アンコール遺跡

 世界遺産条約は1972年にユネスコ総会で採択され、現在まで440の世界遺産が登録されている。詳細はユネスコ世界遺産リストや『ユネスコ世界遺産』(講談社、1996-)、『世界遺産』( TBS系)などをご覧いただきたいが、東南アジアではインドネシアのボロブドールの寺院群やタイのアユタヤ、フィリピンの聖堂群、ベトナム、フエの遺跡群などがリストアップされている。こうした中で日本人に最も馴染み深い、東南アジア文化遺産といえばカンボディアのアンコール遺跡だろう。

 アンコール寺院を祇園精舎と思い違えて参拝した江戸時代の森本右近太夫の故事を嗤うよりも、実際アンコールの伽藍の前に立つ者は、その後300年を経て先人の憶えた強烈な感動を味わうことができる。彼の地を「再発見」した16世紀のヨーロッパ人宣教師たちも同様の感想を持ったらしく、「世界の七不思議」だとか「アトランティス」だとか言われ、果ては建設者としてアレキサンダー大王やトラヤヌス帝の名が挙がる始末だった。植民者として足を踏み入れた仏領インドシナ初代総督ボナールはアンコールを目にして「この貧しい地はかつて栄光の地であった。復興も夢でない」という感想を洩らし、そうした見方はフランスのカンボディア進出の論拠となった。

 アンコール朝はクメール人の立てた王朝で、9世紀から600年ほど続き、最大版図はインドシナ半島の中央部で現在のベトナム、ラオス、カンボディアに渡った。アンコール遺跡はこの間に建てられた石造建築群で、現在の首都プノンペンの北西300キロのシェムリアップ州に、主要なものだけで60以上の遺跡がある。中でも完成度が高く、有名なアンコール・ワットは12世紀前半に建立された寺院である。

 カンボディアの近代以降における受動的な在り方が、外来者にとって強烈な驚きだったアンコール遺跡(=アンコール朝)を自他ともに巨大なものと認識させ、フランスをはじめとする研究調査もアンコール中心で、サンボールプレイクック遺跡群を持つアンコール朝以前は「プレ・アンコール時代」、ウドン遺構を持つそれ以後も「ポスト・アンコール時代」と呼ばれるに過ぎない。

 こうした国際的に注目度の高いアンコール遺跡の現実的修復に、日本国政府隊(Japanese Government Team for Safeguarding Angkor: JSA)がユネスコ文化遺産保存日本信託基金を財源として取りかかったのは1994年以降だが、それ以前にフランス隊、インド隊、上智隊などがそれぞれの理念に基づいた修復を行なってきた。

 JSAでは1994年以前に保存修復学、建築史学、石材工学等の見地から、アンコール地域の主な遺跡の比較調査を行い、保存・修復の対象を13世紀の王都であるアンコールトムの中心寺院であるバイヨンの北経蔵、同じくトム内の王宮前広場東側のプラサート・スープラとそのテラス、前述アンコール・ワット内の外周壁内北経蔵の3遺跡に絞り込んだ。ここではこれら3遺跡について紹介してみたい。

 プラサート・スープラは、アンコール・トムのほぼ中央、王宮前の広大な広場の東辺にあり、王宮テラスに平行する遺構で、南北に長いテラスと12基の塔からなる複合建築である。王宮正面から「勝利の門」へ至る東西に長い道路がこの遺構の中央を貫き、6基ずつの塔を持つ南北2つのグループに区分している。うちそれぞれ5基の塔が広場側を向き、西に面して王宮と向かい合っている。一方、2分する中央道路に最も近く面して、南北それぞれ1基の塔がある。いずれも外観は3層の構成で、正面に前室を付属させた塔建築である。

 プラサート・スープラとは綱渡りの踊り子の塔という意味で、向かい合う王宮から王が本当にそうしたアトラクションを眺めたかは詳らかでないが、王宮前広場全体としては、雄大かつ独自な構成を持ち、近代カンボディア史においても、1950年代に現シハヌーク国王が収穫祭等の伝統行事を行うなど由緒ある場所である。近年フランス極東学院(EFEO)が、広場西側に当たる癩王のテラス、象のテラス等の修復工事を行っており、前者は三島由紀夫の作品などで日本人にも馴染みがあるが、一方でその正面、広場の東側は手付かずで、特に12基の塔は崩壊、劣化の状況が著しく、塔の前面のテラス部分も後世の度重なる攪乱によって原型を留めない状況である。中でも北群は池側に向かって沈下、建築石材の劣化などにより倒壊の危険がある。この危険を防止し、適正な保存措置を講ずること、そしてテラスの復原整備をはかることにより、以前にも増して国家的行事ができ、人々の憩の場となる空間として再生することが修復の目的であり、何よりカンボディア自身から望まれている。

 バイヨン寺院はアンコール・トムの中心寺院であるが、その位置はトムの中心とは微妙に、しかしはっきりと視認できるかたちでずれている。ジャヤヴァルマン7世時代(1181〜1201年) に建立されたこの寺院は、はじめ大乗仏教の寺院として建立したとされるが、後にヒンドゥー教寺院に変更され、さらには南方上座部仏教寺院や土着信仰の場として使用され現在に至っている。四面に顔を持つ多数の仏塔や改築を繰り返した結果の特異な構成により、世界建築史上でも特筆すべきものとなっている。

 アンコール・ワットを除く他の寺院と同様、バイヨン寺院は東を正面とし、寺院本体は正面約130m、側面約140mで、東側正面にテラスが突出し、テラスの南北には沐浴池が配されている。四周には二重に回廊が巡らされており、内回廊は十字回廊と増築されたと思われる隅回廊が配され、複雑な平面形態と呈している。また立面で見ると上部テラス、中間テラス、下部テラスの三層から成っている。

 クメール建築におけるバイヨンの特徴として、上述したような複雑な建築形態とともに、林立する人面塔、回廊浮彫があげられる。人面塔は現在のところ47棟が数えられ、原則として4面に人面彫刻を施しており、バイヨン全体で約180の人面を持つ。また、内回廊では主として門楼及び隅回廊に、外回廊では各楼を含めほぼ総てに、ヒンドゥー神話、当時の庶民や王族の生活風景、チャンパとの戦いなどを題材とする浮彫が施され、史料としても貴重なものである。

 1908年から1973年にかけて、部分的な中断期間があったとはいえほぼ継続的に、フランス極東学院(EFEO)による倒壊散乱部材の整理や部分的な解体・再構築修理、倒壊危険個所の応急修理が行われてきた。また1990年にはポーランド隊による東側テラス付近の発掘調査も実施されている。しかし現在バイヨン寺院はアンコール遺跡の中でも、全体として最も危険な状態にある遺跡であり、とりわけ北経蔵は、崩壊状況のまま高い基壇上に孤立してあるため、簡易な補修対策程度では危険防止ができない状態にあり、1996年3月には上部構造の解体が行なわれた。

 なおバイヨンに関しては、危険箇所の修復工事もさることながら、全体の保存修復計画がいずれ必要となるが、それを立案するために各専門分野からの膨大な調査研究が必要である。既に、EFEOやポーランド隊による部分的な発掘調査が行われているが、地盤基礎、建築構造などの定量的把握や構築方法、設計方法の精緻な分析は行われていない。これらの事情を考慮し、北経蔵の崩壊状況の最も激しい前後ポーチ部分の解体を伴う調査、修復工事の過程で得られる得られるデータを基礎資料として、大バイヨン寺院全体の総合的調査研究を行い、バイヨン全体の保存修復計画を策定することも日本隊の目的の一つになっている。

 アンコール・ワットはアンコール遺跡中で最も内外に知られた寺院である。全体としては差し迫った危険な状態にはないが、中央祠堂部の基壇や外回廊繋ぎ梁の剪断の修復などを巡って、近い将来根本的な対策を講じる必要がある。しかし、そのためには地盤基礎、建築構法、修復方法の問題など、極めて高度な技術的課題を突破する必要がある。一方、外周壁内北経蔵は、東西南北のポーチ部分に若干の不等沈下が認められ、屋根材等が崩落している。具体的にはポーチ部分を解体し、地盤基礎の厳密な調査の後、崩落した屋根材の再構築を中心とした修復を行いながら、その過程そのものを公開し、アンコール遺跡の保存修復のための技術的諸問題を討議、研究する国際的なオープン・サイトとする上で最もふさわしい場所であると考えられる。

 現在国際協力の現場として、諸外国により調査修復工事活動が常時行われている遺跡は、パプーオン(EFEO)、プレア・コー(ハンガリーおよびRoyal Angkor Foundation)、プレア・カーン(World Monument Foundation)、アンコール・トム王宮南東門(インドネシア)であるが、技術小委員会(ITCC)などで修復についての調整が行なわれ、アンコール遺跡修復のための国際協力活動は新しい段階に入りつつある。殊に修復の現場であるシェムリアップにいれば、お互いの現場を訪問しあったり、情報交換する機会が増えてきて、話題は自然、修復に関する技術的諸問題に及ぶことも少なくない。

 JSAでは総じて関連遺跡との比較や地域の歴史、文化の基礎研究の蓄積、また東南アジア研究と関連づけながらの修復が念頭に置かれているが、加えて、実際の修復の場では日本人専門家だけでなく、現地人スタッフ、ワーカーとして立ち働く村人、プノンペンから研修で参加している現地人大学生、日本人ボランティア学生など様々な人々の共同作業になる。

 シェムリアップ州はアンコール遺跡を持つ古都だけあって、他の都市に見られない民俗や儀礼に事欠かない。特にカンボディア正月前の3〜4月は、プノンペンから来た都会っ子の学生らと、一緒に作業する村人の結婚式や通過儀礼に招かれたり、作業の合間に修復の「先輩」である年長の村人に50年代の修復の様子を聞いたりしている。長いつきあいのはじめの、ごあいさつが終わった、と言ったところだろうか。実際話してみると、地域住民にとって遺跡は守護神ネアク・ターの棲家であったり、現役寺院として信仰の対象であったりする。また小なりといえども地方都市であるシェムリアップ市内の人々にしても、結婚式後や正月に駆けつける聖なる場所である。こうした気持ちを持つ人々と共生しつつ、国際的な修復を続けてていく環境を保って行きたいものである。

(初出:『季刊アジアフォーラム 81』アジアクラブ、1996.8)