『電脳社会の日本語』講読
(内的自己・外的自己ともにナショナリズムか)
「こうした不出来な道具(漢字)を使っていると、国家の近代化が遅滞せざるをえない(P.92)。」
「(日清戦争後)後進国中国の文字に頭脳が支配される(P.94)。」
結局、漢字廃止論もまたナショナリズムの産物であった(P.95)。日本は国際社会で生きていくために欧米を過剰に崇拝し模倣する外的自己と、過激な排外主義に走る内的自己に分裂したという精神分裂症になぞらえられた。漢字廃止論もまた外的自己表現にほかならないのである(P.95)。
ちなみに漢字廃止論を文教行政の内部に植えつけたのは、上田萬年である(P.96)。彼は1900年の小学校令改正で国語科を 創設。精力的に活動したが、内的自己を代表する人々の反撃をまねいた(P.100)。
上田の後、その構想を保科孝一が引き継いだ。彼の主導で「常用漢字表」と「仮名遺改定案」がまとまる。しかし、1942年「標準漢字表」の答申により再び拝外派の憤激をまねく(P.102)。上田=保科路線の前に立ちはだかってきた内的自己のナショナリズムは日本敗戦とともに吹き飛び、アメリカ占領軍がやってきた。アメリカ側の漢字禁止の意図は、児童たちが同程度の学力に達する時間を短縮できる(P.104)という考えもあるが、漢字が日本軍国主義をまねいた元凶であるとみなし、漢字を禁止することによって戦前の政治宣伝との接触を禁じるのに大いに役立つということもあった。
将来の漢字全廃を念頭においた措置(P.105)として、1946年11月の国語審議会による当用漢字表によって使用する漢字の「範囲」を限定した。しかし、急激な漢字排斥にはさすがに反対が出た。
当用漢字に続き、当用漢字音訓表・当用漢字字体表が公示され、この三表を総称して「当用漢字」と呼ぶのが一般的になった。しかし、その結果、かえってわかりにくくなったため、違和感を感じる国民が多かった(P.107)。当用漢字表に対する批判は高まり、結局、国語審議会の第七期において、ついに漢字仮名まじり文を日本語の正統の表記とすることを認めるにいたった(P.108)。1966年、文部大臣は国語審議会に問うよう漢字表の見直しを諮問し、常用漢字表は1981年10月、内閣訓令として告示された(P.110)。表の性格については「漢字廃止派と伝統派の攻防がつづき、結局は伝統派の主張が反映された、より制限色の弱い「目安」となった。
JISは5年ごとに見直しをする。1978年施行のJIS基本漢字は1983年に最初の更新期をむかえたが、三つの理由から改定が必要とされた。そのうちの一つは、1981年に告示された常用漢字表と漢字が追加された人名漢字表である(P.112)。しかし、このJIS基本漢字の83改正で中心的な役割を果たした野村雅昭は漢字廃止論者であった。結局83改正は常用漢字表に違背しているといわなければならない(P.117)ものになり、データベースは目茶苦茶になった。
ISO 2022は当時の貧弱なパソコンには荷が重すぎた(P.122)。すくなくとも、日本では、JISローマ字カナとJIS基本漢字という二つの文字コードを共存させられれば十分だったのである。そこでこの二つの文字コードを共存させるために生まれたのがシフトJISであった。シフトJISは普及するが、そのことにより83改正の混乱をいっそう深刻にした(P.124)。
業界アンケートにより、ほぼ半数が漢字追加を望むという結果を受け、通産省は1987年にあらたなJIS原案委員会を発足させ、委員長に83JISの野村雅昭をすえ、主査に田島一夫をとりこんだ(P.127)。田島はJIS批判派と目されていた人物で、JISの文字セットでの文字不足の深刻さを実感していた。委員会では、途中野村が委員長を辞任、田島が委員長になり、審議を続けた。そして5801字から成るJIS補助漢字が誕生した。JIS補助漢字はしばらくの間日陰の存在であったが、ユニコードとミュールにより、施行後10年にしてようやく普及期をむかえようとしている(P.130)。
(文責:成田)