11月の授業内容

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 11/12 強制連行ついて 福西 啓



           1910年 韓国併合→朝鮮植民地化
1938年 国家総動員法
1939年 「国民徴用令」公布→強制連行開始
      「朝鮮人労務者の重要産業への移入」(「労務動員計画」)が決定され、炭鉱、
       鉱山および土建業への集団的連行となる
      内務・厚生両次官名義の通牒「朝鮮人労務者内地移住二関スル件」によって
      同年度は8万5千人の集団的移入が各企業に認可される
      「朝鮮人労働者募集要綱」→「募集」方式の連行
1942年 「朝鮮人内地移入斡旋要綱」→「官斡旋」方式
       朝鮮総督府は朝鮮労務協会や朝鮮労務者輸送協議会をつくり、綿密な計画
       のもとに連行が進められる
1944年 「一般徴用」方式

*日本内への動員数(1939〜45年間)  石炭山  約60万人
                      金属山  約15万人
                      軍需工場 約40万人
                      土建業  約30万人
                      港湾荷役 約5万人  計約150万人

強制連行された朝鮮人の労働における差別

*賃金       円 銭
月収平均 日収平均
日本人 77.26 3.89
朝鮮人 69.90 3.37

  月収50円以下で朝鮮人は約75%、日本人は18%、70円以下で朝鮮人は88%、
日本人は約40%であった。さらに現金では支払わず、無条件に貯金させられた。

*労働条件   北海道A炭鉱民族別・職種別比率

坑内夫 坑外夫
A炭鉱 朝鮮人 95%  5%
日本人 68.9 31.1

  朝鮮人労働者の90%を最も過酷な労働である坑内夫で占めている炭鉱が多かった。

*その他

  宿舎・食事においても日本人より悪く、病死の大半は栄養失調が原因だった。

このように朝鮮人の労働者の労働条件を悪くすることで日本の労働者の条件も引き下げることができた

《参考文献》 「在日朝鮮人・強制連行・民族問題」 朴慶植 三一書房 1992年




 11/19   『都管七箇国盒』の図像解釈(1) 宮谷 信光



都管七箇国盒とは

一九七九年、中華人民共和国陜西省西安市内西安交通大学構内から、唐代のものと見ら
れる六花形の蓋甲をもつ三重入子式の銀盒が出土された。銀盒は外側から都管七箇国盒、
鸚鵡文盒、亀甲文盒の順に重ねられ、亀甲文盒の内部には水晶の珠二粒と瑪瑙の珠一粒が
入っていた。『都管七箇国盒』は高さ五センチ、径七・五センチ、鍛造による六花形で、やはり
六花形の高い圏足がつく。蓋甲は高く盛り上がり外縁の花形にそって六分され、中央部と各花
に人物像が打ち出されて、それぞれに注記が刻まれている。
まず中央には「崑崙王国」の国名と、「将来」「都管七箇国」の二語、各花には上中央から
時計回りに、それぞれ「烏蛮人」「婆羅門国」「土蕃国」「疏勒国」「高麗国」「白拓□国」という
国名、あるいは民族名が刻まれ、「婆羅門国」と刻まれた区画には、「呪錫」の語も刻まれる。
また、蓋と身の口縁部には十二支の動物図像が打ち出され、それぞれに対応する時刻銘が
刻まれていた。
この『都管七箇国盒』についての研究は、それを初めて紹介された張達宏・王長啓両氏
の報告があり、蓋甲に打ち出された人物像の検討を含む田中一美氏の専論がある。さらに
外山潔氏は『都管七箇国盒』と同じような人物像が表現された舎利容器の図像を解釈され
る中でこれにふれられ、そのほかにもこの特色ある図像に言及した論考は少なくない。
これらの研究などから、深津行徳氏は『都管七箇国盒』の七カ国の人物像を「舎利八分図」
だと指摘された。その中で「都管七箇国」を中国周辺の仏教国七カ国とする田中氏の推論
をより進め、『都管七箇国盒』の図像は舎利配分者を中国皇帝とすることによって仏教が中
国を基点として弘法されたと主張していること、そしてそうであれば「都管七箇国」は単に中
国周辺の仏教国を並べたわけではないであろうと問題提起をされた。
この問題提起に基づき、数ある中国の周辺国の中からこの七カ国が「都管七箇
国」としてこの銀盒に刻まれた理由について考えていきたい。

舎利容器としての『都管七箇国盒』

  田中氏はこの銀盒の用途を、その図像の主題、三重の入子になっておりその最も内側の
亀甲文盒に小珠が入っていたこと、出土地点などから、宝応寺に納められた舎利容器であ
ると結論された。深津氏もこのことを前提に検討を進められており、ここでもこれから『都管七
箇国盒』についてまとめるにあたり、まず舎利容器としての『都管七箇国盒』について触れて
みたいと思う。
舎利容器とは仏舎利(荼毘に付された後の釈迦の火葬骨)を被覆、保護するための容器
である。田中氏はこの『都管七箇国盒』を舎利容器だとされる理由の一つに、最大の特徴
である、国尽くしとも言うべきその図像と刻銘とを挙げられる。
まず中央部の「崑崙王国」とともに刻まれる「将来」と「都管七箇国」の二語について。
「将来」は何かをもたらすという意味であり図像との関係から仏舎利をもたらすという意味
であったとされる。また「都管七箇国」についてであるが「都管」の語が何を表すかは不明
なものの「七箇国」のほうについては、この盒に図像と国名を刻まれている七カ国と考える
のが自然であるとされる。次に「婆羅門国」とともに刻まれる「呪錫」という語だが、図像中の
杖を指すと思われ、仏陀ゆかりの悪法を防ぐ錫杖であろうとされる。また、七カ国とも中国周
辺の仏教が盛んであった国であることにも触れられている。
更に深津氏は「都管七箇国」の主語を中国と考えることで、この『都管七箇国盒』では
七カ国に中国を加え、合計八カ国が表現されているとされ、この盒の図像群を「舎利八分
図」だとされた。
舎利容器は釈尊の遺骨を納めるというその用途から、はじめは簡素な容器であったのが
次第に相応の荘厳がなされ、技法の粋を尽くした巧緻、精妙な作例が多く生み出されてい
る。金、銀、銅、鉄、瑠璃などの様々な容器で幾重にも仏舎利を保護する(経典の説く釈
迦の宝棺が金・銀・銅・鉄の四重棺であったとする逸話との関わり)。「舎利八分」が仏舎
利の由来を示す逸話であることから考えると、舎利容器にこの「舎利八分」の図像が刻まれ
ることはごく自然であったのではないだろうか。だが、こと唐代の金銀器においては「舎
利八分」にあたると思われるような人物像が描かれるものは見当たらない。さらにその人
物像に、国名が注記されており、どこの国の人物を描いたのかがはっきりわかるような金
銀器はないのである。唐代の金銀器、及び舎利容器について刻銘により製造年や所有者、
用途、目的がわかるものは多くあるが、『都管七箇国盒』の刻銘はそれとはまた違う意図を
持って刻まれているのである。これがこの『都管七箇国盒』の大きな特徴であり、この銀盒
に込められたメッセージを読み取るうえで踏まえておかなくてはならない点であると考える。


  

 11/26 『都管七箇国盒』の図像解釈(2) 宮谷 信光



「都管七箇国」の図像

では「都管七箇国」とはどのような国々だったのだろうか。まず田中氏の紹介された『都
管七箇国盒』に描かれた人物像とその刻銘の確認をしておきたい。

(一)崑崙王国
    →インドシナ半島からボルネオあたりの総称、林邑(現ベトナム)・真臘(現カンボジア)
など.図像は三日月状の刀を持った騎象人物を中心に、前方には大切なものでもあるかの
ように盤上の瓶を高く捧げる者、後方には傘蓋をさしかける侍者、周囲には座したり両手に
何かを持ったりした人物など三人が配される。人々は体に丈の短い布を巻き、一方の肩を露わにする。

  (二)烏蛮人
   →雲南省からラオス・ミャンマー北部、南詔蛮(国).図は五人の男性が向き合って立ち、
三人は肩から斜めにドレープのはいった上衣と膨らんだ膝までの長さの衣を着け、条帛を
肩からたらす。五人とも頭上に鳥の羽のような先端の尖ったものを飾る。張・王両氏は左の
二人の尊者に対する接客の様子とするが、尊者らの服装は僧衣のようにも見える。

  (三)婆羅門国
    →小国の乱立したインドの総称.三人の人物の中央に大きな軍持形の瓶が置かれ、
そこに頂部が輪になった杖のようなものが立てられている。人々は膝までの長さの布を体に
巻き、布の端を肩に掛けている。左の人物は袈裟を掛け、杖を持っているので僧とみられる。
(四)土蕃国
    →チベット、一般に吐蕃と表記.図は大きな牛を二人の男性が追い立てている場面
であるが、服装は筒袖で腰から下が割れた膝までの上衣とズボンに、頭には三角の頭巾か
帽子をかぶっているようである。

(五)疏勒国
    →パミールの北に位置する、新疆ウイグル自治区のカシュガルを中心にする地方.
図は四人の男性が向き合って立つ。彼らはズボンと腰から下が割れた上着を着け、長靴を履く。
二人は腰に帯びた鞘から剣を抜き、一人は弓を手にしている。

(六)高麗国
    →朝鮮半島、高句麗、新羅も高麗と呼ばれた.ここには五人の人物が表されるが、一人
は中国風の長袍をまとって座す。侍者には団領袍に刀を帯びた人物もいるが、五人とも
鳥翼冠をかぶっている。

(七)白拓□国
    →図像から東南アジアの国と思われるが、この国名は存在しない.肩からゆったりと
流れるような衣を着て敷物上に座す人物と、その右側から何かを差し出すやや小さな人物
の二人が表される。右の人物は頭上に小さなまげのようなものを載せ、服装は崑崙国の侍者
と同じである。左の人物は一方の肩を露わにし、髪が刻まれていないため僧侶のようにも見える。

図像の内容、及び刻まれた国名は以上である。判明しない「白拓□国」については証明で
きないものの、少なくともそれを除いた六カ国は唐代には全て仏教国であった。だがそれだけが、
この七カ国を「都管七箇国」とした理由なのだろうか。唐との外交関係からこれらの国々が「都管
七箇国」とされた可能性について考えることは出来ないだろうか。