6・7月の授業内容

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6/05 年度研究計画発表  山田正愛



▼『朝鮮人強制連行論文集成』朴慶植,山田昭次監修(1993年)より、林えいだいさんによる聞き書き、「まっくら −朝鮮人強制労働の実態−」(福岡)をまとめた。

◆ 産業戦士
 北九州市八幡東区高槻ニ丁目に住む沈石萬さんは1940年12月3日、故郷である全羅北道に父親と奥さん、子供2人を残して日本へと出発した。沈さんの父親は「炭鉱では米飯を腹一杯食える。賃金は一日3円というから一生懸命働いて家族に送金しろ。」と喜んで沈さんを見送った。  沈さんは日炭高松炭鉱所の第二古賀訓練所に入所した。強制連行して来た朝鮮人には3ヶ月間の訓練機関が設けられ、到着してから3ヶ月間坑内作業を中心として、炭鉱の仕組みや作業道具、坑内道具、坑内用語等について教育した。又、徹底して皇国臣民化教育がなされた。
・ 訓練所内での皇民化政策
 朝5時に叩き起こされ。訓練所の広場に集まり君が代を歌わされる。労務係が皇国臣民の誓詞を書いた紙を掲げ「一つ、我等は皇国臣民なり…・」と一節を読み、みんなに復誦させた。「日本が勝つためには石炭が必要である。諸君は産業戦士として、国のため天皇陛下の為に働かなければならない。天皇陛下のお蔭でご飯を食べて生きておることを忘れるな。お前達は天皇陛下の赤子として、お国のためご奉仕する、これが忠義というものだ。事故にあって死ぬことがあっても即ちこれは名誉の戦死であり、敵と戦って死ぬ事と同じだ。喜んで国のために生命を投げて働いてくれ。もし日本が戦争に負けるようなことがあったら、アメリカは日本人を皆殺しにすると言っていることを知っているか。」このような内容の演説を毎朝聞かされる。その後しだいにノルマの発生や月2回の特別残業(24時間労働)をさせられ労働内容は厳しくなっていった。

◆ 稼働率九九パーセント
 太平洋戦争が激化すると、労働力不足のために労務の募集係を増員して坑夫の供給地である南九州の農村や、朝鮮半島に専属の募集係を派遣して人狩り作戦をとった。その結果全坑夫の65パーセントが朝鮮人坑夫によって占められた。まさに石炭生産の主力は朝鮮人坑夫だったのである。「朝鮮におる時、彼らは食うや食わずの生活をしているから粗食には慣らされておる。問題は彼らの使い方にある。それさえちゃんと心得ていれば彼らほど強健で便利なものはない。…(中略)いくら疲れたと言っても、翌日は叩いても強制的に坑内へ追いやる事だ。絶対に休ませてはならない。途中で一日でも手を抜いて休ませたら、それから先は一切だめだ。朝鮮人をこき使うコツというものがあることを頭に叩き込んでもらいたい。」と、労務係はこのような教育を受ける。要するにノルマを減らしても継続してやらすことを強調した。強制連行して来た朝鮮人に対しては外出を一切認めなかった。病気や怪我をしても、医師の診断書が無いと休めないので普通の頭痛や腹痛等は無視され、外傷や骨折等目で見てわかるものに限られた。
 1941年後半になると、単に石炭増産せよと掛け声だけでは坑夫たちが動かないと知った政府は増産督励のために"黒十字章"を制定した。ナチスドイツの黒十字章をまねたもので、模範坑夫にこれを与えた。これが2つになると商工大臣表彰があって、帰りには伊勢参拝や京都、奈良見物というおまけがついた。しかし、朝鮮人坑夫たちはこれを冷ややかにうけとめていた。

◆ 外国人捕虜
 1943年4月、シンガポールから第一陣の外国人捕虜が移送されて来た。朝鮮人坑夫たちは「我々は戦争して捕虜は敵として憎いが、人間には変わらない。だから諸君も同じように扱ってくれ。」と言われる。日本人側の指導員や坑夫たちはどういうわけか捕虜に対しては寛容な態度をとった、と沈さんは指摘する。それほど朝鮮人差別は徹底していた証明でもあろう。  日本の植民地化政策によって朝鮮語を使用しることが禁じられたが、そうかといって日本語を話せる朝鮮人坑夫は少なかった。そのため、現場ではさまざまなトラブルが起こった。分隊長から命令された場合意味がわからず立っていると、「貴様、坑木を持って来いと言っているじゃないか!」と怒って殴りつける。言葉がわからなかったからと弁明するが、朝鮮語のテンポが早いので反抗しているように受け取られまた殴られた。しかし、このように叩かれているばかりではなく日本人にはむかい殴りかかっていくものもいた。もちろんそうした場合は厳しく処罰された。

◆ ストライキ
 朝鮮人坑夫達を悩まし始めたのは食糧不足で、1943年の後半になると脱脂大豆が混入され みんな栄養失調気味で坑内労働に耐えられなくなった。坑夫病と言われるビタミン不足からくる坑内脚気と、関節炎や神経痛等で休む者が増えた。激しい労働の割に食糧不足で、彼らは日に日にやせ衰えていった。残業も増え、不満はくすぶり続けいつ爆発するかわからない状態となった。1943年11月7日、日炭高松炭鉱第一坑片山第3訓練所でストライキが起こった。  事件が起こったきっかけは、内勤の労務係が訓練所に置いてあった米俵を他の場所に運び出したことであったが、それまでに朝鮮人坑夫たちの不安はみなぎっていた。それは食糧不足や低賃金、そして2年の満期がきても約束通り帰国させないことなどである。この内勤の労務係によると、米に虫がついていたから配給所へ持っていって交換するつもりだったと言うが、朝鮮人側は見つかった所が自分の住む独身寮の前であったこと、又、米は朝鮮人の人数が多いからすぐに食べてしまい虫がつくようなことは考えられないと双方の説明はくいちがっていた。  朝鮮人たちのこの暴動は戦時体制下で起こっただけに大きな影響を与えた。警察部隊が派遣され、捕虜、中国人労働者、朝鮮人坑夫を対象に警備が強化された。この日炭高松炭鉱のストライキと暴動は連鎖反応を起こし、違う炭鉱へも広まっていき次々に激しい暴動となっていった。  1944年になると続けて坑内事故が発生、同胞が5,6人死亡した。逃亡者がどっと増えて半数の50人に減ってしまった。「私たちは今まで逃亡することばかりしか考えなかった。逃亡すろことが果たして解決につながるのかどうか、それよりも集団の力で坑内の安全を保障させ、待遇改善の要求出すべきではないかという結論に達しました。」先の暴動の半年後、再びストライキが起こった。そして前に要求していたが、未解決のままであった労働時間の短縮と坑内保安の整備の2点に加えて、
一、 炊事婦と朝鮮人は同じ人間だから言葉使いを改めよ。
一、 飯の時には必ずみそ汁をつけること。
この4点の要求が受け入れられない限り、無制限のストライキを続行すると言って全員が参加した。
憲兵が3人、特高が5人やってきてリーダー的役割を担った者のみが故郷に強制送還された。

◆ 契約期間の延長
 契約期間の延長をめぐってどの訓練所でもトラブルが起きた。朝鮮人坑夫は一日でも早く解放されたかったし、炭鉱側にとっては訓練所から出したがらなかった。関係者にたずねると、2年間というのは暗黙の了解であり正式契約はしていないと答えた。「新しく朝鮮から強制連行してきても半年から一年というものは全く使いものになりません。それよりも炭鉱に慣れた朝鮮人の方が戦力になる。」
実際朝鮮へ募集に行くと現地での手続きや経費、募集にかかる労力は大変なものでそれを考えると期限延長してくれることを炭鉱側は望んだ。その為、特別手当てを出すとか、故郷への里帰りの費用を出すと言いあの手この手で彼らを帰そうとはしなかった。しまいには連絡船が不通になったので朝鮮に帰るのはsきらめろと嘘を言って継続させた。

◆ 坑内事故
 戦争の末期になると炭鉱の資材が不足して、坑木の変代わりに竹を使用することもあった。石炭統制会から配給される鉄材がストップして、鉄枠や鉄の支柱を使わないので落盤事故が多発した。炭車のワイヤーローブも半年で交換しなければならないが、そのまま1.2年使うので老朽化して切れ炭車の暴走事故が起こって尊い命が次々と失われた。落盤事故に合い、左足が使えなくなったものがいた。病院に入院していたが怪我人が急増したので退院しろと言われ、完治しないまま訓練所へ帰った。
すると、労務係助手がやってきて「明日から入坑しろ」と言われ拒否すると、「お国のために働くんだ。片足怪我したくらいで甘えるな。ただ飯を食うつもりか!」と叫んだ。そうした労務係助手の態度は同胞の反発を買い、「あの奴らそのうちに殺してやる」と彼らは平気で言った。朝鮮人坑夫たちの恨みは炭鉱の幹部には向かわず、現場の労務係助手に向けられた。炭鉱側にには石炭増産のためには一人や二人の朝鮮人坑夫が死んでもかまわないという論理が根底にあった。一人死ねば一人強制連行すればいいと人間一人の命を消耗品と考え、事故の面にも限らずいろんな面に差別をしてきたのである。

◆ 炭鉱ちひどいもんよ
 事故死すると炭鉱側は朝鮮の出身地の面役所に電報を打ち遺族が来るまで社宅の空いた所に遺体を安置した。仲間達は仕事から帰ると通夜の訪れた。関釜連絡船の船の欠航等で一週間以上も遺族が来れずだんだん遺体が腐敗して悪臭が漂った。連絡船の欠航のため遺族が来れなくなり火葬にして労務係が朝鮮の実家まで遺骨を届けた。どの労務係も遺骨を届けるほど嫌なことはなかったと告白する。「坑内の事故で死ぬるのは、みんな朝鮮人の人よ。一番危ない所ばかり、ガスで息ができんところばかりで働かせる。…」社宅に家族で住んでいた者たちは主人が死んでしまうと、炭鉱側に今すぐ社宅を出て行けと言われた。残された家族たちは朝鮮に帰るしかなかったが、朝鮮にかえっても働く場所はなかった。
 死んでいく同胞たちを見て、朝鮮へ帰ろうと逃亡をはかった。しかし、途中で労務係に見つかると連れ戻されひどい拷問やリンチを受けた。そのせいで息を引き取るものも多かった。それでも彼らは逃亡を繰り返したのである。100人強制連行して来ても、最後には25人しか残らなかったと言う。
 8・15の解放によって、日炭高松炭鉱では捕虜1060人、勤労報国隊1500人、朝鮮人3500人が一度に職場を離れた。朝鮮人坑夫早く祖国へ帰ろうとしたが、帰国船の手配がつかず訓練所に釘付けになった。炭鉱の幹部は水上舎監に、朝鮮人は帰国させないで入坑させろと命令した。「あなたたちは何を考えておるのだ。朝鮮は解放されたんだ。もし彼らを働かせるようなことがあったら、大変な暴動が起こると思いなさい。…」と叩きつけるように言った。怒った彼はその日のうちに下関に行き、闇船をチャーターして全員を数回に分けて帰国させた。
 今、当時の労務担当者に会って強制連行の証言を求めると、嫌がって拒否されることの方が多い。大部分が「戦争中だから仕方がなかった。」と答える。すまなかったという反省の言葉を聞いたためしがない。彼らには朝鮮人を強制連行して、過酷な坑内労働をさせ数多くの生命を奪ったことの加害者責任の自覚というものがない。長い間の植民地支配と、今日も続く南北分断の反省を感じないところに、日本人の朝鮮に対する差別の根源を見る思いがする。

▼ まとめ・感想
 日本は戦争に勝つために、天皇を利用して国家を一つにまとめようとした。天皇のために働け!天皇のために勝たねばならない!と。そしてそれを植民地化した朝鮮人たちにも強制した。日本人でもない朝鮮人が植民地化された日本のために働いたり、戦争に勝たなばならないと思わせるにはいい方法だったのかもしれない。しかし、皇民化政策は結果としてうまくいったと言えるのだろうか。日本人にはともかく朝鮮人にはあまりそうであったように思えない。生まれてからずっと日本で育っている私達でさえ日本は居心地が悪いなと感じることもある。ましてや、当時の人々は強制的に朝鮮から連れて来られたのだから、朝鮮人たちに天皇のために忠誠を尽くせと言うことは非常にばかげた話のように思える。それと相俟って朝鮮人達は肉体的にも信じられないほどの暴行や拷問を受け、またさまざまな差別を受けてきた。それは賃金や働く場所、労務係等の彼らに対する接し方に顕著に表れている。日本人が朝鮮人達にひどい仕打ちをすればするほど彼らの不満と、民族的は高まり彼らは団結し日本人対してストライキ、暴動を行った。日本の皇国臣民化政策という、精神的支配に対して朝鮮人たちはどのように感じ、どのような抵抗をしていたのかについて関心を持ったのでこれからそれについて調べていくつもりだ。
 

6/12 年度研究計画発表 







6/19 休講 6/28のシンポジウム参加をもって、授業に変える。



 

6/26 ビデオ鑑賞 





7/03 新羅建国神話の構成要素1 金敏子



以下の文は、三国史記 新羅本紀 第一 第一代 始祖赫居世居西干の記事である。

始祖 姓朴氏 諱赫居世 前漢孝宣帝 五鳳元年甲子 四月丙辰 一曰正月15日 即位 號居西干 時年十三 國號徐那伐 先是 朝鮮遺民 分居山谷之間為六村 一曰閼川楊山村 二曰突山高虚村 三曰觜山珍支村 或云干珍村 四曰茂山大樹村 五曰金山加利村 六曰明活山高耶村 是為辰韓六部 高虚村長蘇伐公 望楊山麓 蘿井傍林間 有馬跪而嘶 則往観之 忽不見馬 只有大卵 剖之 有嬰兒出焉 則收而養之 及年十餘歳 岐嶷然夙成 六部人 以其生神異 推尊之 至是立為君焉 辰人謂瓠為朴 以初大卵瓠 故以朴為姓 居西干 辰言王 或云呼貴人之稱

「三国史記」の冒頭によると、六村は朝鮮の移民が山間に分かれて作られたものであると書かれている。その六村の(「三国史記」では六村は六部の前身であると記述されている)長の一人である蘇伐公が、楊山の麓 蘿井のそばの林間で新羅の始祖王である赫居世を見つける。

一方、三国遺事  巻一 紀異 第一 新羅始祖 赫居世王の記事には次のように見える。

辰韓之地 占有六村 一曰閼川楊山村 南今曇巖寺 長曰謁平 初降于瓢○峰 是為及梁部李氏祖[弩禮王九年置 名及梁部 本朝太祖天福五年庚子 改名中興部 波濳東山村屬焉]二曰突山高虚村 長曰蘇伐都利 初降于兄山 是為沙梁部[梁讀云道 或作○ 亦音道]鄭氏祖 今曰南山部 仇良伐麻等烏道北廻徳等南村屬焉[稱今日者 太祖所置也 下例知]三曰茂山大樹村 長曰倶[一作仇]禮馬 初降于伊山[一作皆比山]是為漸梁[一作○部 又牟梁部孫氏之祖 今云長福部 朴谷村等西村屬焉]四曰觜山珍支村[一作賓之 又賓子 又氷之]長曰智伯虎 初降于花山 是為本彼部崔氏祖 今曰通仙部 柴巴等東南村屬焉 致遠乃本彼部人也 今皇龍寺南呑寺南有占墟 云是崔侯古宅也 殆明矣 五曰金山加里村[今金剛山栢栗寺之北山也]長曰祗沱[一作只他] 初降于明活山 是為漢岐部裴氏祖 今云加徳部 上下西知之兒東村屬焉 六曰明活山高耶村 長曰虎珍 初降于金剛山 是為比部薜氏祖 今臨川部 勿伊村○仇○村闕谷[一作葛谷]等東北村屬焉按上文 此六部之祖 似皆従天而降 弩禮王九年始改六部名 又賜六姓 今俗中興部為母 長福部為父 臨川部為子 加徳部為女 其實未詳  前漢地節元年壬子〔古本云建虎元年 又云建元三年等 皆誤〕三月遡 六部祖各率子弟・倶會於閼川岸上・議曰 我輩上無君主臨理蒸民 民皆放逸 自従所欲 盍?有徳人 為之君主・立邦設都乎 於是乖高南望 楊山下蘿井傍 異気如電光垂地 有一白馬跪拝之状 尋?之 有一紫卵〔一云青大卵〕馬見人長嘶上天 剖其卵得童男 形儀端美 驚異之 浴 於東泉〔東泉寺在詞腦野北〕身生光彩 鳥獣率舞 天地振動 日月清明 因名赫居世王〔盖郷言也 或作弗矩内王 言光明理世也 説者云 是西述聖母之所誕也 故中華人讃仙桃聖母 有娠賢肇邦之語是也 乃至?龍現瑞産閼英 又焉知非西述聖母之所現耶〕位號曰居瑟邯 〔或作居西干 初開口之時 自稱云 閼智居西干一起 因其言稱之 自後為王者之尊稱〕

大まかな内容は「三国史記」とあまり変わらないが、「三国遺事」は辰韓六村の長たちの名前と六村の地(「三国遺事」記述当時)の説明がある。このように記述内容に若干の差異が見られるが、二つの記事に共通する事は、六村の長たちつまり辰韓地方の原住民と初代新羅王朴赫居世との関係は薄いということである。

また新羅には、赫居世王の朴氏以外に第四代昔脱解王、第十三代味鄒王という昔氏、金氏を名乗る王の伝説も存在する。一つの王朝が3つの姓を持つなどという現象は、高句麗・百済には見られない。

2)高句麗建国神話との比較

高句麗の始祖である東明聖王の出生に関する神話は以下の通りである。

北扶餘の王解夫婁の後に東扶餘を継いだ金蛙が、太白山の南、優渤水で河伯(水神)の娘柳花に出会う。柳花は天帝の子、解慕漱と名乗る者が熊心山の下の鴨緑江にある家に自分を誘い情を通じたのちに、立ち去り再び戻らず、父親である河伯(水神)は柳花が仲人も立てずに情を通じた事を叱って、優渤水に流した。と来歴を語った。不思議に思った金蛙が柳花を部屋へ閉じこめたところ、日光が(彼女を)照らした。身を避けても日光が追ってきて照らした。それにより身ごもり一個の卵を産んだ。大きさが五升ほどもあった。犬や豚にやると食べようとしない。道に棄てると牛や馬が避けて通る。野原に棄てると鳥獣が覆い守ろうとする。仕方なしに母親へ返した。母親が物で包むと一人の子供が殻を割って出てきた。年わずか7歳で成長し、一人で弓を作り百発百中するほどの腕前であった。国の風俗によく弓をいるものを朱蒙といったので、それで名前にした。

3)百済建国神話との比較

百済の始祖である温祚の父は鄒牟(ツム)といい、或いは朱蒙ともいったが、彼は北扶餘から難を逃れて卒本扶餘に到った。卒本扶餘の王には男の子がなく、娘が3人いたので、朱蒙が普通の人でないと知ると次女を妻に与えた。その後扶餘王が薨ると朱蒙がその後を継ぎ、二人の男の子が生まれた。長子を沸流といい、次男を温祚といった。ところが朱蒙が北扶餘にいた時に生まれた子の類利がきて太子になったので、沸流と温祚の二人は太子に入れられないのではないかと恐れ、臣下と百姓を連れて沸流は弥鄒忽へ温祚は慰礼城に王都を定めた。弥鄒忽は地が湿っぽく、水が塩辛いので安居の地としては適していなかった。沸流は弟のいる慰礼城にいってみた。民の生活は安らかで都邑も安定していた。それを見た沸流は悔やんで死んだ。そのため彼の臣民は慰礼城に帰属した。後に国号を百済と改めた。





7/10 新羅建国神話の構成要素2 金敏子



三姓交代

1)上代の王統譜

先に述べたように三国の中で新羅のみ姓が3度交代する。この特異な現象を分析するには 新羅上代の王統譜を見る必要がある。

朴氏 @始祖A南解B儒理D婆沙E祇摩F逸聖G阿達羅
昔氏 C脱解H伐休I奈解J助賁K沾解M儒礼N基臨O訖解
金氏 L味鄒P奈勿Q実聖R訥祇S慈悲21?知22智証

昔氏の初代の王は第四代で、また一旦朴氏の王にかえり、第九代から昔氏の王に戻り、金氏の初代の王は第十三代で、また一旦昔氏の王にかえり、第十七代から金氏の王に戻る。ここで金氏と昔氏の違いは、金氏には第十三代(初代)王の前に、六代の祖名が伝えられている事である。

三姓を始祖神話をもって比較してみると

―時間的順位

   三国史記                          三国遺事
朴氏 辰韓六部のひとつである高墟村長蘇伐公によって見出された         辰韓六部の祖達によって、見出された。
昔氏 朴氏始祖の治世中、辰韓阿珍浦に至り老母に取養され南解王に登用された。 南解王時に、阿珍浦に着いた。
金氏 昔氏脱解王の治世中金城の西、始林に見出された。

―出世の形式

三国史記                              三国遺事
朴氏  天降した紫卵(青卵)から生まれる。
昔氏 二重出世→海より漂いついた櫃の中から出てくる。前身は龍城国で卵から生まれた
金氏 金車・金輿の場合も→天より降れる金の櫃より生まれる。

―出自の問題

三国史記  三国遺事
朴氏 天から降った
昔氏 海外の一国から漂着した
金氏 天から降った
―出世の場所

三国史記  三国遺事
朴氏 楊山の下蘿井の傍らの林間に出現
昔氏 東海阿珍浦→吐含山→月城
金氏 金城の西、始林

―姓について 三国史記                三国遺事
朴氏 辰人瓢為朴 以初大卵如瓢 故以朴為姓   ←同じ
昔氏 @櫃が来た時、鵲が飛んだので「鵲」を略した。 A月城に入る際、瓢公に「これは昔の吾の家である」と言った事に因る。
金氏 金櫃から生まれたため姓を金氏という。   ←同じ

いずれも漢字姓から作られた伝説であり、姓の由来は始祖伝説の要素としては弱い。

となると、歴史的時代に存在したとされる第十七代奈勿王の持つ姓氏である、金氏を確実に存在したものと考えて、金氏の初代王の前に存在するといわれる六代の祖を説く事が重要になってくる。第一代朴赫居世から味鄒王間での間を、姓別に世代を数えれば、朴氏は五代で終わり、昔氏は7代、味鄒王と同列に位する者は儒礼王である。つまりそれ以前は五代となる。すると金氏の以前六代の祖も当てはまらない事もない。

ここで三姓の始祖を一次的なものでないと考えてみる。新羅は新羅王から始まるのではなく、初めに辰韓にいた、六部の長たちに因って朴氏の王が見出されたのである。六部に際しても、史記は「朝鮮の遺民」とその出所をはっきりさせているが、遺事は「六部=六村の長の天降」と説いている。新羅の起源は、文献上「六村の長の天降」以上は遡る事は出来ない。となると、始祖姓(と言われる)朴氏に限らず昔氏、金氏全ての始祖は六村の長という事も考えられる。 もうひとつ注目すべきなのは、三姓のつながりである。昔氏の初代の王は朴氏の婿であり、金氏の初代の王も同じく昔氏の婿なのである。また、朴氏の王から昔氏の王に移っても、一代で再び朴氏に戻り、朴氏を数代経たのち再び昔氏へ還る。昔氏から金氏へも同様の形式を取っている。

三世交代については様々な考察が述べられている。
1) 三姓の交代そのものを金氏王朝の言い伝えと考える。
2) 金氏王朝の成立を同僚諸国との併合によるものという考えから、3姓交代を諸国併合の名残であると考える。
3) 歴史時代に入ってからの新羅の社会事実をそのまま現したと考える。
4) 三姓交代を造作と考える。

いずれにしろ、金氏王朝との関連は確実だといえる。

金氏の始祖を詳しく分けると以下のようになる。
@ 最古の伝説始祖;閼智
A 伝説上最初に即位したとされる始祖;味鄒
B 歴史事実と認められる最初の王;奈勿
C 統一時代初期の金石文に見える;星漢
閼智(ar-―卵、知る、開く)A味鄒(mit―本,原)については音借字によるものと判断する事ができる。B奈勿(nar―太陽)に関しては音借字的な面とはまた別に以下のような記事を見ることができる。

第二十二代智証王、於始祖誕降之地奈乙、創立神宮、以享之。(「三国史記」祭祀志)
春二月、置神宮於奈乙、奈乙始祖初生之処也。(「三国史記」新羅本紀第二十一代?知麻立干九年(487年)条)
ここでいう奈乙(na-ur)は、奈勿をさしている。二つの記事によれば、新羅人は始祖誕降之地、または始祖初生之処と伝える聖地奈乙に5世紀の終わりごろ(或いは6世紀の始めごろ)に神宮を創立したのである。このことは、「三国史記」の新羅本紀南解次次熊三年春正月条に「立始祖廟」と記述されてから、歴代の王が通例として即位元年または翌年の春正月、或いは二月に祭祀をしたとある。ところが?知麻立干七年から途絶え、前述の九年神宮創立となり、17年春正月「王親祀神宮」の記述以後、新王即位にちなんで行なわれる親祀は、始祖廟ではなくすべて神宮に於いてである。神宮創立以前奈乙で祭られた始祖は初代始祖赫居世であるといえる。しかしこれは、南解次次熊三年春正月条から?知麻立干七年の記事を後世の記事と同等に扱った場合においてのみ成り立つ。確かな事は?知麻立干代(或いは智証麻立干代)に神宮が創立されたということである。その神宮の地、奈乙と、奈勿という王名から神宮に祭られた始祖は金氏の始祖、つまり奈勿麻立干ではないのだろうか。起源的には民族信仰の神の名であったが、新羅王国成立の後、現実的に始祖名(奈勿)となり、残存して地名(奈乙)になったのではないか。

D 星漢は前述の三者とは別系統の伝えと考えられる。
文武王陵碑(神文王元年681年建立)の第一石断石に

'十五代祖星漢王、降質円穹、誕霊仙岳、肇臨(下闕。)'

という1句がある。碑の主人である文武王の出自を記述したものと考えられ、ここでいう星漢王は金氏始祖を意味するといえる。星漢の名は高麗国初の金石文「広照寺真K大師宝月乗空塔碑」(太祖二十年、937建立)にもまた見える。碑の主人である真K大師の計を記して '大師、法諱利厳、俗姓金氏、其先?林人也、考其国史、実星漢之苗、云々'とある。ここでいう星漢は、星(pior)をもって、火・光の意味を持つpurをあらわしたものであり、漢は干の対訳と考えられる。そうすると星漢は音義においては、朴氏始祖名の赫居世の「赫」「弗矩」にあたる。

新羅には三姓の他に、六部の長達がそれぞれ所有する李、鄭、孫、崔、裴、薜の六姓の記録が残っている。この問題については次の章で述べる。