朝日新聞「論壇」 2001年2月14日朝刊
田中治彦 立教大学教授(社会教育学)
大騒ぎをする若者とこれに対して告訴や一喝する首長をめぐって21世紀最初の正月は「成人式」論議でいつになく盛り上がった。私は本紙などの議論を見ていてその中に重要な論点が欠けているのを感じていた。それは、私たちの日本社会は長く20歳をもって「成人」とみなしてきたが、果たしてそれでよいのだろうか、という疑問である。
成人式論議が高まった背景には、首長に代表される「大人」の側が若者に対してついにキレた、ということもあるが、それ以上に一連の17歳事件のように現在の若者に対する理解のしにくさとその裏にある「大人−子ども」関係の変化を微妙に感じているからではなかろうか。
新成人となった若者たちは、すでに物質的な豊かさを達成した1980年代初頭の日本社会に生れて育った。豊かな社会によって、若者が遊びやファッションの世界で自由に自己表現し行動することが可能になった一方で、「西洋社会に追い付き追い越せ」という明治以来の日本社会の明確な目標は失われていた。
そればかりか、昨今の日本は右肩上がりの経済成長期とは違って、若者にバラ色の未来を約束してくれるわけではない。それまで磐石と思われた大企業が倒産し、将来を嘱望されている若手官僚すら役所を離れていく時代である。それでいて当面「食うに困る」わけではないので、現在に生きる若者は典型的な「現在志向」であり、「将来に備えて耐えるよりは、今という時間を大切にしたい」という価値観の持ち主が主流派である。
そのため大人が「教育目標」を設定して子どもをそこまで「到達」させるという従来の教育の手法が通用しなくなった。子どもたちは馬の目の前にぶらさげられた「ニンジン」である教育目標自体を疑問視しているし、到達しても「ニンジン」はないだろうと疑っている。しかも、大人自身が「目標」を掲げることにすっかり自信を失っている。
それでは私たちはどのように若者たちと対峙したらよいのであろうか。結論を言えば、それは「教育」と「指導」から、「かかわり」と「参画」への発想の転換である。成人式に話を戻すならば、式の企画、運営、評価の一連のプロセスに若者自身が参画し、しかも大人は彼らに迎合するのではなく意見を戦わせながら彼らに「かかわる」ことが大切である。
そして若者の参画の課題を突き詰めていくと、日本社会が設定している20歳という成人年齢が適切であるかどうかという問題に突き当たる。私は選挙権と少年法の規定を共に18歳に引下げて、権利と義務のバランスをとりながら成人の年齢を18歳とすることが望ましいと考えている。そうすることにより、21世紀の日本社会における大人と子どもとの関係が大きく変化し、より大きな自由と責任をもつ若者が増えるであろう。これにより文化活動において若者の自由な発想と表現が一層広がり、若者が行政や産業の意思決定に参画することによって、日本社会は再び活気ある社会として再生することが可能となろう。また深刻な青少年問題についても、年齢の近い若者自身が解決策を考え実行することで展望が少しでも見えてくるであろう。
もちろん、そのためには幼稚園から高校までの学校教育においても、児童・生徒の参画が可能になるような教育活動と学校運営がなされ、責任ある参画のための教育がなされなければならない。
成人式はもともと通過儀礼であった。これを20歳という、短大生をのぞけば何ら節目とならない年に行うことにそもそも無理があった。「18歳成人」を実現して、9割の若者が高校を卒業して進学ないし就職する18歳の年に成人式を行えば、成人式の風景もおよそ今とは違ったものになるだろう。
「子どもと若者の居場所の構想−『教育』から『関わりの場』へ」(学陽書房、2001年4月)の序章の内容を、成人式論議にからめて書いてみたものです。
同じ紙面には「競走馬の年齢の数え方の変更」の記事があり、笑ってしまいました。
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