立教大学田中研究室


千と千尋の神隠し

金熊賞授賞に想う   

 

田中治彦(立教大学、開発教育協会)

作成2002.2.24.

更新2003.3.25.

  


   

第75回米アカデミー賞の長編アニメ賞に、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が選ばれました。宮崎監督は「世界は大変不幸な事態を迎えている(米国によるイラク攻撃のこと)ので受賞を素直に喜べないのが悲しい」とコメントしました。(2003.3.25.)


 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」がベルリン映画祭で金熊賞を授賞した。

 私が意外に思ったのは、海外(特にヨーロッパ)のメディアのコメントであった。この作品が評価されたのは、八百万の神が登場し文化や伝統の多様性を強調したものである、というポイントであった。また、人間としての普遍性を描いた、というコメントもあった。

 文化の多様性とか普遍性とかが授賞のポイントのようであるが、この授賞自体は極めて「相対的」なものと思う。作品が公開されたのは2001年7月。テロ事件が起きたのは9月である。以後、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった一神教による対立と紛争が深刻さを増している。アメリカは世界を善と悪に分けて、自らを善と称して傲慢さを増している。[米国は国際社会の批判をよそに、2003年3月20日ついにイラクに先制攻撃を加えました。]

 だから、この作品は「9・11以後」という時間、そして「ヨーロッパ」という空間において評価されたものだと思う。宮崎監督自身「授賞することを目的としていたわけでもない」「極めて日本的な作品を作ったつもりだったので驚いている」ととまどっている風であるのもそのためと思われる。

 私は公開当初にこの作品を見たが、環境・開発・多文化共生を扱った「もののけ姫」のような重い作品ではなく、「魔女の宅急便」や「トトロ」系の軽くて楽しい作品と感じていた。

 父親の転勤でいなか町に引っ越さねばならない千尋(彼女はタレントのようにかわいくもなくごく普通な感じの女の子である)。なぜか一家ごと異界に迷いこんでしまう。父と母はブタになってしまい、それを助けるために千尋は銭湯で必死に働く。銭湯には神々が年に1回疲れを癒しにくる。何とも奇想天外な物語である。

 コンピュータゲームと塾の生活のなかでは子どもたちが得ることのできない、ひたむきさや真剣さ、働くなかで「生きる力」をつけていくというのがメインのテーマである。さらに私が感じたテーマはもう一つあって、それは1960年代以降の日本の生活世界が失った「影」である。「影」の中には「怖れ、悲しみ、不安、死、あいまいさ」などが含まれる。あるいは「偶然、あそび、あきらめ、挫折、病い、老い、無用さ」などの要素である。学校教育という「光」が教えようとしなかった、あるいはあえて無視し敵視してきた世界である。

図 近代教育がめざした価値と切り捨てられた生活世界

 しかし、本来人間はそうした「影」を背負って生きているし、昔の子どもたちはそうした「影」とともに成長してきた。学校という「光」が強調したのは「健全、発達、進歩、有用、善、目的、自立、完成」といった価値であった。そうやって育ってきた若者たちは「自分の居場所がない」とか「自分探し」とか、自分の存在位置を確認できなくて悩んでいる。「千と千尋」は「影」のなかで千尋が必死に生き、成長している様を描いたのだと思う。

 金熊賞が、作品のなかにある多様性や人間の生き方の普遍性を評価して贈られたとするならば、私はどこか違和感を覚える。映画祭に参加していた関係者が「千と千尋は後半に上映された。皆疲れていたので、審査員はこの作品にほっとした様子だった」と語っているが、こちらのレポートの方が宮崎監督の意にかなっているのではなかろうか。

 授賞以来、おじさんたちが映画館に足を運んでいるそうである。私は公開早々、親子連れとカップルのなかでおじさん一人並んで恥ずかしい思いをしたが、今はひとりほくそ笑んでいる。

                             


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2003.2.16.