開発教育の20年

 

2003年2月

田中治彦

 


見た者は伝えねばならない

 

 開発教育協議会が発足した1982年当時、私は日本国際交流センターで民間の国際協力の仕事に携わっていた。仕事の半分は日本国内で個人の募金を集めたり財団などの助成を探すこと、そして後の半分はアジア各地にあるNGOの助成先を探すことであった。エキサイティングであったのはもちろん後者の仕事であり、毎年一月程度アジア各地を回ることが出来た。フィリピン、タイ、インドネシア、バングラデシュ、ネパールなどの国々の、それも人の行かないような僻村やスラムを訪れることは、まさに驚きと感動の連続であった。

 マニラで保健活動しているAKAPというNGOを訪問したときのことである。AKAPはマニラ最大のスラムであるスモーキー・マウンテンでスラム住民のために診療所を開設していた。AKAPの事務所からジープニーを3回乗り継いでトンド地区に向かう。その日診療所では、子どものための予防注射が予定されていた。私は、今日の食べ物にも困っているスラムの住民が、果たして子どもの予防注射など受けさせるのだろうか、と疑問に思っていた。

 スモーキー・マウンテンはゴミの山の中にあるスラム地域なので、近づくと鼻をつく匂いがする。ジープニーを降りて診療所に向かう。すると人々が長い列を作っていた。その列の横を歩いていると、ある婦人が私のシャツをひっぱって自分の子どもの頭を指差してしきりに何かを訴えている。よく見ると子どもの頭には赤い発疹があちこちに出来ている。私は仕事柄できるだけ質素な格好で訪問したのだが、それでも私を医者と勘違いしたのであろう。言葉が通じないしもちろん医者でもないので、私は申し訳なく思いながらも手を横に降りながらその場を離れざるを得なかった。

 スラムの人々は次々と子どもに予防注射を受けさせていた。長い列であったので最後尾の人はおそらく1時間以上はしんぼう強く待っていたであろう。自分も日本に1歳の子どもがいたときでもあり、子どもを思う親の気持ちはどこでも変わりないのだな、という今思えばごく当然のことを感じるとともに、言いようもない恥ずかしさと感動を覚えた。貧しい人々は無知であって衛生や健康に関心をもつことなどないだろうという勝手な思い込みと、そしてスラムの人々に予防注射の大切さを伝えてきたAKAPの長年の努力に対してである。

 今でこそスタディ・ツアーが盛んに行なわれていて、お金と意志があれば誰でも気軽にアジアのスラムや農村を訪れることができる。しかし、当時はそのようなことができる人間は限られていた。私はこうした数々の現場を見てしまった者として、その想いを日本の多くの人々に伝えねばならない、と考えた。これが私の開発教育の原点となっている。


初期の開発教育

 

 当時、開発教育に関わった人たちの間には私と同じように、アジアやアフリカで何らかの原体験をもつ会員が多い。初期の開発教育の担い手には、青年海外協力隊のOB・OGや国際協力NGOの関係者が多い。また、YMCAやガールスカウトなどアジアや世界の組織と交流がある社会教育団体の人々も開発教育に関心を示していた。教育団体としては珍しいことであるが、教員の参加者が当初非常に少なかった。この頃の開発教育は「低開発の原因と構造を理解して、解決に参加する態度を養う」ことを目標に掲げてはいたが、実践レベルになると自分たちの体験をビデオやスライドとともに語る、という「辻説法」のようなものであった。

 当時、開発教育が日本の学校に採用されることについてはほとんど絶望的とも思えた。当時の学習指導要領は蟻が入る隙間もないほど強固であり、開発教育のような批判性の強い新しい教育内容が入り込む余地などないように感じられた。開発教育には答えが複数あり、しかも場合によってはそれが「未来」に存在する。受験戦争の最盛期でもあり、○×に慣れた学校教育が開発教育のような答えのはっきりしない教育活動に関心を向けるとは到底考えられなかったし、関心を向ける先生がいたとしてもどうやって学校教育に取り入れてよいのかとまどうことが多かった。。

 このような認識は開発教育協議会の多くのメンバーに共通していたように思うが、協議会が催す全国研究集会やセミナーの雰囲気は極めて明るく楽天的と言ってもよかった。開発教育が世界の民衆の貧困からの脱出という極めて思い課題を背負っていて、それゆえに非常にやりがいのある「現代のフロンティア」であった。また、多く人はアジアの農村やスラムの人々と直接間接に関わっていて、そのリアリティがまわりの冷淡なまなざしを跳ね返していた。また、アジアの草の根の人々の「明るさ」や「暖かさ」をもらっていたとも言えよう。


転機となった1989年

 

 私は1989(平成元)年から1年間英国に留学し、同地の開発教育関係者とも交流してきた。帰国したときに日本での開発教育をめぐる環境がまったく変っていたことに驚いた。この1年の間にベルリンの壁が崩壊し、日本のODAがアメリカを抜いて世界一の額となり、国際理解を強調した新しい学習指導要領が告示された。それまで開発教育を説明してもけげんな顔をされたり無視されることが多かったし、また開発教育という用語に対して弁解じみた説明を強いられていたが、帰国してからは開発教育の説明は従来よりすんなり受け入れられたばかりか、実際の教材や講師の派遣を求められることが飛躍的に増大した。

 1990年代の開発教育は1980年代のそれとはさまざまな点で異なっていた。まず、その担い手は青少年団体や国際協力NGOのみではなく学校の教員、地域の国際交流協会、環境・人権・ジェンダーなど国際協力以外のNGO、公民館などいわゆる行政社会教育へと広がっていた。さらに、開発問題自体が他のグローバルな課題と深い関係をもつことが認識されるに連れ、国際教育、グローバル教育、環境教育、人権教育など類似の教育活動と開発教育とが深い関わりをもつことになった。かつては南北問題といえば開発教育の独壇場であったのが、今度は逆にこれら地球的課題を扱う諸教育活動のなかで開発教育はいったい何を主張するのかが問われていた。

 また、1980年代後半からの50万人とも言われる外国人労働者の大量流入によりもはやアジアや開発問題は「遠い南の国」のことではなく身近な問題になりつつあった。アジアの現実から日本の課題を理解するのではなく、地域から発して世界を理解するための知識や手法が求められていた。


地域セミナーと総合学習の導入

 

 こうした時期にあって開発教育協議会は1993年から「開発教育の定義再考」のプロジェクトを立ち上げ、全国研究集会で3年間にわたって新しい状況化での開発教育の目的、内容、方法を明らかにしようとした。本誌の表紙裏にある開発教育の説明は1997年から使用されているものである。

 また、1993年には外務省との協力のなかで、長野、大阪、岡山の3地域において開発教育地域セミナーを開催した。これを皮切りに毎年全国6か所で地域セミナーを開催した。それまで主として首都圏と関西圏で展開されていた開発教育がこの地域セミナーによって全国津々浦々に広がっていった。2002年度までに全国44都道府県で開発教育地域セミナーが行なわれている。

 これらのセミナーでは、ワークショップと呼ばれる参加型の学習形態が意欲的に導入されていった。当初は欧米で使われた教材の翻訳であり、日本の土壌に合わないものや、意味がよくわからないものも多く含まれていた。が、次第に取捨選択されて現場で使えるものだけが残っていった。これらの成果は後に『わくわく開発教育−参加型学習へのヒント』(1999年)としてブックレットにまとめられ、今でもロングセラーを続けている。

 文部省の中央教育審議会は1996年の答申で、学校五日制を完全実施するとともに、各教科の時間数を大幅に減らし、代わりに「総合的な学習の時間」を設けることを提言した。2002年度から導入されることになる総合学習の時間の内容としては「国際理解、情報、環境、福祉・健康」が例示された。ここに至って開発教育がめざす内容が、学校教育の正規のカリキュラムの中に位置づく可能性が大きく広がったのである。

 開発教育協議会としては、1998年度からの「中期3か年計画」のなかで、2002年度からの総合学習の導入に焦点を当てて、「開発」の理念、開発教育のカリキュラム、参加型学習、学校・地域・NGOの連携などに関する研究会を立ち上げた。これらの成果は先の『わくわく開発教育』の他、『いきいき開発教育−総合学習に向けたカリキュラムと教材』(2000年)、『つながれ開発教育−学校と地域のパートナーシップ事例集』(2001年)に結実している。また、この間身近なコーヒーやカレーなどを題材とした優れた教材が製作された。


DEARの現在

 

 中期3か年計画のなかで重点目標とされていた組織の法人化については、全国での議論の積み重ねを尊重したこともあって、2002年度に入ってから「開発教育協会」と名称を新たにして申請手続きを行った(2003年3月認証)。さてこの20年間、開発教育協議会がめざしたものはどこまで達成されたのであろうか。これからの開発教育協会(以下DEAR)の方向性を考える上でも大切なことであるので、簡単に振り返っておこう。

 『開発教育』創刊号(1983年5月刊)に金谷敏郎氏(現DEAR顧問)が「これからの開発教育の展開を考える」と題する記事を寄せている。この中で開発教育の今後について金谷氏は大きく「開発教育を深めていくこと」「開発教育を広げていくこと」の2点を提案している。「深めること」の中身としては、開発教育そのものの概念、目標、内容、教材、指導者養成などが上げられている。また「広めること」については、学校教育や社会教育の実践例を収集し関心をもつ人々の輪を広げていくことが提案されている。

 それでは当時の関係者は開発教育をどの程度「深め」「広げる」ことをイメージしていただろうか。20年前を想い起こすことは容易ではないが、私の「深める」イメージとしては「南北問題、開発問題の原因や構造が説明でき、それをわかりやすく示す教材があること」であり、また「広げること」としては「全国各地に開発教育の担い手が存在すること」であったように思う。前者については、その現段階は『開発教育キーワード51』(2002年)に表現されている。これは中期3か年計画で設定された4つの研究会活動の集大成とも言うべきものである。ここでは、地球的課題と開発理論、地球的課題を扱う教育、様々な学習活動について51項目の基本用語が解説されている。開発問題はその時代によって変化する(例えば、経済のグローバリゼーションがこのように進展することは20年前には予想しなかった)ので、持続的に研究活動を行う必要があり、いつの時点でも「これで深まった」と満足することはありえない。それでも、DEARが『キーワード51』を編纂できるだけの力量を持ちえたことは、大いに評価されてよいと思う。

 開発教育を広げるに当たって、この10年間約50回にわたって行ってきた開発教育地域セミナーの役割は計り知れない。DEARの会員も担い手も全国各都道府県に存在している。昨年8月に京都を出発した開発教育リレー・キャラバン隊は34都道府県を回って、12月7日に東京に到着した。この間、キャラバン隊は各地で自主的な開発教育を学習しているグループや地域で開発教育を推進している方々に多く出会った。それは東京の事務所では想像できない程多くの方々であり、また多様な活動であった。まだ開発教育という用語すら知らない人は多いけれども、少なくとも全国各都道府県に開発教育の担い手を、という当初イメージしていた目標は達成できたように思う。

 インドなどの街角に行くと、エンストを起こしたバスなどをよく見かける。これを動かすには多くの人が押さねばならない。そしてあるスピードに達するとエンジンがかかる。その後はバスは自分で動くことができる。しかし、このわずかなスピードを得るためには、多くの人が力を出して必至に押さねばならない。開発教育協議会の20年はまさに、力を出してバスを押してきた20年であった。バスのエンジンは点火し、これからは自力で動くことができる−2002年という年は開発教育にとってそういう節目の年であった。


アジアの開発教育ネットワーク

 

 それではこれからのDEARは何をめざしていけばよいのであろうか。昨年8月京都で開かれた全国研究集会は、私たちに多くの課題を与えてくれた。それらをもたらしてくれたのが海外からのゲストたちである。

 英国開発教育協会所長のダグ・ボーンさんは、2002年に入ってから欧州、米国、豪州の開発教育・グローバル教育会議に出席し、日本が世界ツアーの最終目的地となった。日本に来ることは2年も前に決まっていたのであるが、9・11事件以降世界のグローバル教育関係者が自分たちの活動を見直し再度強化するための会議を開いたために、世界中を回ることになったのである。そして、11月にマーストリヒトで開かれた欧州グローバル教育会議を経て、今年9月にはロンドンで世界ネットワークを立ち上げる予定になっている。マーストリヒト会議には私と副代表の岩崎氏が参加し、ロンドン会議にも日本から数人が招かれている。

 開発教育・グローバル教育の世界ネットワークのなかで、私たち日本のDEARはどのような役割を果たすことができるのであろうか。その答えは、京都に参加したもう2人のゲストがヒントを与えてくれた。韓国の全定根氏は地球村助け合い運動で活動しており、現在日本と韓国の国際協力活動の比較研究をしている。全さんは韓国に現在ある35のNGOと国際理解関係の団体に働きかけて、韓国で新たに開発教育の運動を始めようとしている。ちょうど私たちが20年前にそうしたように。ネパールから参加したカマル・フィヤルさんは、ネパール農村の字を読めない人々でも参加できるワークショップの手法を紹介してくれた。彼のファシリテーターのやり方は参加者の多くに感銘を与えた。

 日本のDEARができること、そしてすべきことはアジア太平洋の開発教育関連の団体や個人とつながることに他ならない。韓国や台湾のように日本の20年前の状況に近い国々であれば、日本の開発教育の経験やコンセプトがそのまま参考になるであろう。他の国々の場合、連携のしかた自体も今後検討していかねばならない。例えば、グローバル教育、国際理解教育、持続可能な開発のための教育、教育開発、成人教育、などである。

 世界ネットワークに参加するなかで、アジア太平洋の開発教育ネットワークを築くこと−これが今後数年間のDEARの第一の課題である。


持続可能な社会のための教育

 

 第一の課題が世界やアジアとつながることであるとするならば、第二の課題はより深く地域とつながることである。昨年8月にヨハネスブルグで持続可能な開発に関する世界会議が開かれた。その中で2005年からの10年を「持続可能な開発のための教育の10年」とすることが提案され、現在国連において議題に上っている。持続可能な開発のための教育を担うのはその内容からして、開発教育と環境教育が中心にならねばならない。日本でも両者のNGOのネットワークが作られた。

 持続可能な開発、すなわち持続可能な社会づくりは各地域において実現されてこそ意味がある。環境教育の観点から言えばそれは循環型の地域社会づくりが課題になるし、開発教育の観点から言えば、それは国籍・民族、性別、年齢、障がいに関わらず「共に生きる」ことができる地域社会をいかに実現するかという課題になる。先に開発教育の担い手は全国各地に広がり、開発教育自体が「自力走向」できる段階に達した、と述べた。これからはDEARの事務所がある東京や大阪が主導するのではなく、各地の担い手が主役となって持続可能な社会づくりのための教育を展開し、その成果をお互い交流できるようにすることが求められる。地域に根ざした実践記録や教材が作成されて、それを交流するためのセミナーが開かれ、それらを可能にするようにDEAR事務局がサポートするようにシステムづくりが必要となってこよう。


自立した市民組織として

 

 従来からDEAR事務局と各地域の担い手とは対等な関係にあり、地域の主体性を尊重しながら地域セミナーなどを企画してきた。今後このような関係はますます大切になってくるであろう。DEARが各地域を相互につなげ、アジア太平洋のネットワーク作りを行い、世界の開発教育ネットワークに参加するということになると、DEARの事務局体制と財政基盤をより安定的なものにしていかねばならない。

 DEARが特定非営利活動法人としての認証されればDEARの社会的責任はますます大きくなる。また、2002年に大阪に第二の事務所が開設されたが、今後できれば各ブロックごとに活動の拠点を設置していきたい。他のNGO同様DEARも財政的には毎年綱渡りの状態を続けている。今後の組織の安定と各地の活動を支援するための財政基盤づくりが何よりも必要である。DEAR20周年を記念して「教育のゆめ基金(目標額1000万円)」を開始した。是非とも会員、サポーター皆さんのご支援をお願いする次第である。


原題「開発教育−これまでの20年とこれからの課題」『開発教育』第47号、2003年2月、3-7頁。


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