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2005年8月
田中治彦(立教大学、開発教育協会)
「援助」及び「国際協力」は言うまでもなく、開発教育のメインテーマである。開発教育は今から30年程前に、「なぜこの地球社会には深刻な貧富の格差が存在するのか」を問うことと、「それを解決するためにはどうすればよいのか」を考えるところから出発した。ここでは後段の「援助・国際協力」について考えるが、その際のポイントは3つある。
ひとつは援助や国際協力を扱う学習において、その結論は「ものやお金を贈る」ことでよいのか、ということである。実際の国際協力学習においては、必ずしも募金で終わってはいないであろうし、「皆で援助についてよく考えてみよう」というような問いかけで学習が終わることも多いであろう。オープンエンドの学習は開発教育ではよくあることではあるが、その場合も指導者の側がある程度の方向性や見通しをもっていなければ、説得力のある授業とはならない。そこでまず、国際協力学習の進め方はどうあるべきなのか、について考えてみたい。
第二は「ひと=ボランティア」の問題である。筆者は2003年から一年間タイのチェンマイに滞在していた。その間に実に多くの日本の人々が「ボランティア」を志望してきた。しかしタイのNGO活動の現実を知ると、ボランティアということがそう簡単ではないということに気づく。ことばの問題がネックではあるが、それ以上に開発や援助の基本的な方向性が変化しているからである。ボランティアの人々はほとんど「慈善型援助」を念頭においているが、タイのNGOはすでに10年以上にわたって「参加型開発」を志向している。参加型開発において外国人ボランティアが活動する余地は限定されている。そのため、日本人ボランティアが直接現地に来てお金と時間を無駄にしているだけでなく、しばしば現地のNGOに迷惑かけることになる。タイに来る前に開発と援助の基本的なことについては学んできてほしいと強く感じた。しかしながら、これまでのDEARにはそのための十分な教材や機会の提供がなかったことも確かである。参加型開発を理解し、NGOやボランティアの役割がわかるような教材について考えてみたい。
第三に、参加型開発が国際開発の主流となった現在、プロジェクトの現場で行われている活動は教育学習活動が中心となる。なぜなら参加とは村人の参加であり弱者の参加であるので、彼らのエンパワーが必要だからである。そのため参加型開発においては参加型の学びが頻繁に行われる。DEARは過去10数年にわたって、イギリスの開発教育やグローバル教育に学びながら参加型のワークショップを開発してきた。昨年8月にチェンマイで行われたセミナーなどで、DEARが行っている参加型学習とタイの学校や村落レベルで行われている参加型の学習とが極めて近いものであり、しかも相互に学ぶ点が多いことが判明した。すなわち、私たちが日々行っている開発教育の実践は、そのままアジア各地で行われている参加型開発に直接つながる。それは双方が教室や地域において「参加型社会を作るための参加型学習」という共通のコンセプトで活動しているからである。DEARは今、「国連ESD(持続可能な開発のための教育)の10年」を契機に「アジア太平洋の『学び』のネットワーク作り」をひとつの活動目標にしているが、そのことの意味を考えてみたい。
「貧困観」をめぐる問題
それでは援助・国際協力学習においてこれまでどのような教材やカリキュラムがあっただろうか。最初のまとまった教材は田中が1994年に著した『南北問題と開発教育』(亜紀書房)であろう。このなかには「貧困の悪循環」と「バングラデシュを救う9つの方法」という二つのワークがある。次に、DEARが作成した本格的な教材としては『援助と開発』(開発教育協議会、1995年)がある。これはイギリスのNGOである「War on Want」によって制作された『ダッカからダンディへ』をもとに、その一部を翻訳して日本で使えるように加工したものである。この教材の特徴は「開発とは何か」を問いかけるワークが何度もあり、その後に「援助」のあり方を考えさせる構成になっている。
もうひとつ検討すべきは、APICの制作による『開発教育・国際理解教育ハンドブック』(国際協力推進協会、2001年)である。これは開発教育のさまざまなワークショップの手法を紹介したものである。最後の結論として「どのように国際協力したらよいか」という問いかけがあり、援助の具体的な方法を考えさせる内容となっている。2005年現在の国際開発の現状を見るときに、この3つの教材・カリキュラムはいずれもいくつかの問題点が含まれているので順に見ていこう。
まず、第一の「貧困の悪循環」であるが、これは数人のグループに分れて、各グループがシャプラニール制作のビデオを見ながら、その映像に写ったものをカードに書き出し、それらの因果関係を作っていくというワークである。これによって、教育、栄養、低収入などの間の「貧困の悪循環」を理解することを目的としている。その後に「悪循環」を断ち切るためにはどうしたらいいかを考えて、プロジェクトを作る。「バングラデシュを救う9つの方法」はランキングによって、自分たちがバングラデシュの開発のためにできることを順位づけるというワークである。
ところが問題はここ数年、「貧困の悪循環」が必ずしも完成しないケースが出てきた。ビデオに出てくるバングラデシュの村の状況を否定的に見ない人が多くなったからである。「村人にやる気がある」「NGOが入っているだけまし」「果たしてこの村は『貧しい』と言えるのだろうか」などの意見が増えてきた。
すわわち、このワークの前提としていた「貧困観」に問題がある。ノーベル賞を授賞したアマルティア・センは、貧困を欠乏としてではなく社会関係としてとらえるべきとしている。ジョン・フリードマンは貧困を「欠乏」としてではなく、「剥奪」として理解すべきと述べている。このワーク自体が1980年代までの「欠乏としての貧困観」をベースに作られていた。1990年代の後半になると、「欠乏としての貧困観」から離れたところから発想する参加者が増えていったのだと考えられる。
「援助観」の問題
次にWar on Wantの『援助と開発』(開発教育協議会刊、1995年)を検討しよう。この中に「援助国になる」というワークがある。自分が援助する立場になったときに3つのプロジェクトからどれを選ぶか、という学習活動である。それらは「土地を平等に分配しようという運動」「みんなのための健康1990」「交通、鉄道網の開発」である。それぞれに賛成意見、反対意見が付けられていて、グループごとにプロジェクトの善し悪しを検討する。受益者は誰なのか、決定する際の重要な要素は何か、優先すべきことは何か、などを話し合うように指示してある。
このワークはバングラデシュの開発の状況を理解し、援助とは何かを考えるための優れた教材である。しかしながら、他のワークも含め基本的に1980年代の国際開発の状況を反映していて、その時代の制約から逃れることはできない。要するに、「村や国をよくするために、外部からお金と技術を投入して、プロジェクトを作る」という発想が根底にある。これを現場に即して言えば、「優秀なワーカーが村に入っていって、村人とともに村の課題を発見し、その解決のためにプロジェクトを作る。その際、資金、アイデア、技術は基本的には外部から持ち込む」という手法であり、1980年代に南の各地で行われた「プロジェクト型開発」を題材としている。
プロジェクト型開発では、村人の意見をよく聞く、というレベルの参加度はあるが、共同で意志決定するとか、村人に決定をゆだねるというより高い参加のレベルには到達していない。参加型開発と呼ばれるそれらの事例は解説では触れられているものの、実際の教材には反映されてはいない。
最後に検討するのはAPIC(国際協力推進協会)制作の『開発教育・国際理解教育ハンドブック』である。ハンドブックが発刊されたのが2001年ということもあり、フォト・ランゲージ、ランキング、PCMなど開発教育の優れた手法が数多く紹介されている。一方で、このハンドブックは制作委員会に文科省、外務省、JICA、国際協力銀行からの代表が加わっていることもあり、政府の政策意図を反映した内容となっている。
開発教育は「知る、考える、行動する」というキャッチフレーズがあるが、この「行動する」という部分でAPICハンドブックは非常に明快である。それは第3章に「すぐできる国際協力」という節があり、だれにでもできる国際協力の事例として次の11例が上げられている−書き損じハガキ、使用済みテレホンカード、使用済み切手、衣服を送る、マンスリープレッジ・マンスリーサポーター、外国コイン、募金、国際ボランティア貯金、絵本、中古CD、ベルマーク・ロータスクーポン。
これだけ多くの事例が紹介されている反面、なぜ援助するべきなのか、どのような支援が必要なのか、国際協力のプロセスはどうなっているのか、といった問題には触れられていない。「国民参加型の国際協力」を具体的に推進するためのハンドブックという製作意図が明確である。学校などの実践においては、国際協力学習の最後に「私たちができることを考えて見ましょう」と問うたときに、結局「ものやお金を贈る」ということに落ち着く例が多いのではないだろう。そのことに疑問をもっている教員は多いとは思うが、子どもたちから「募金しよう」「鉛筆を集めよう」などの提案が出てきたときに、それを否定したり別の方向にもっていくことはなかなか難しいなのではないかと思われる。
「ものや金がないから貧しい」→「ものや金を得て、開発を進め豊かになる」→「そのためには私たちがものや金を送る」という図式の「援助教育」はまだまだ多いであろう。その原因のひとつは、緊急援助と開発協力が混同されていることがある。被災者や難民に対する救援は、文字どおり「ものと金」をできるだけ早く現地に的確に投入することが求められる。これに対して、開発協力は地元住民の参加によって問題解決をめざし、その努力に対して側面から支援する、という5年も10年もかかる息の長い作業である。この両者が区別されずに教えられていることも、援助・国際協力の学習の大きな問題点であるといわざるをえない。
そこで、緊急援助ではなくて、開発協力がこれまでどのように行われてきたのか、そして国際開発の現状がどうなっているのか、について少しみていきたい。その上で、国際開発の最新の動向と日本の開発教育の現場との大きな乖離をいかに埋めていくべきかを考えたい。開発協力の歴史と現状については、筆者が1年間滞在した北タイの実情を事例として述べてみたい。
タイにおける開発と国際協力の歴史を見ていくと、大きく3つのタイプに分けることができる。ひとつは「慈善型開発・援助」であり、タイでは1970年代まではこのタイプが主流であった。二番目に「プロジェクト型開発・援助」であり、1980年代における中心的な開発協力のタイプであり、現在に至るも主流である。三番目は「参加型開発」であり、タイにおいては1990年代以降多くのNGOがこのタイプを目指している。
慈善型開発・援助
1970年代までのタイのNGO活動の初期においては、王室系、福祉系といわれる団体が中心であった。もっとも早い例では1893年設立のタイ赤十字協会がある。タイ・ガールガイド協会(1958年設立)は、バンコクに身売りされるくる少女を救済し職業訓練を施す活動を1960年代から展開していた。北タイにおけるNGO活動も、山岳民族への布教活動をしてきた欧米のキリスト教系の団体が、教育、医療などの分野を中心にチャリティー活動を行ったことに遡る。そして1970年代には海外とのつながりがある青少年組織であるYMCAやガールガイドが、チェンマイに出稼ぎにきていた山岳民族の子女を対象に支援活動を始めた。「慈善型開発と援助」の時期である。
タイのNGOのもうひとつの源流として、大学のサークル活動がある。「NGOの父」といわれるプワイ・ウンパコーン(タマサート大学経済学部長)は1969年に「タイ農村開発運動」を設立した。プワイは学生たちを農村開発に参加させるために翌年に「タマサート大学ボランティア・センター」を設立する。同様のプロジェクトはマヒドン大学、カセサート大学、そして東北タイのコンケーン大学などにも広がる。ここで育った人々が1970年代にさまざまなNGOを設立していく。
プロジェクト型開発・援助
1980年前後のインドシナ難民問題を契機に多くの外国NGOがタイに入って救援活動を行う。こうした動きに刺激される形でタイ独自のNGOが続々と設立されたのが1980年代前半である。海外の援助団体も、インドシナ難民と同様に困窮した状況にある東北タイの農村やバンコクのスラムに盛んに資金援助するようになる。バンコクでのNGOの動きとあいまって、北タイにおいても外国の資金助成のもとNGOによるさまざまな事業が開始される。
大学卒のタイの社会活動家たちが、村落やスラムに入っていって課題を発見し、プロジェクトを作るようになる。そして海外からの資金や技術を投入することでプロジェクトを実施していく。すなわち「プロジェクト型開発」である。この時期は貧しい農村の開発が共通の課題であった。北タイにおけるそうした活動の典型として「米銀行プロジェクト」を紹介しよう。
FEDRA(農村地域教育開発財団)は仏教僧侶のテプカウィー師を中心に1974年に創設された団体である。その主な目的は仏法精神に基づく農村開発であった。この時期FEDRAの主要な活動は、回転資金の貸付け、児童ケアセンター開設、水牛銀行、米銀行の事業である。水牛銀行も米銀行も一種の信用組合づくりである。ほとんど現金収入をもたない農民は、収穫期にお金の代わりにお米を米銀行に預ける。米銀行は米の値段の高い端境期にこれを売り資金とする。村人はそのお金を必要なときに借出すことができる。例えば、家族が病気になったとか、婚礼でお金が必要なときとか。日本でもかつて「結」や「講」と呼ばれる相互扶助組織があったがこれに似ている。
FEDRAでは女性対象の事業にも力を入れており、服飾、織物、刺繍関連の事業を行いた。FEDRAの事業は、農村の貧困問題を解決しようというこの時期のタイのNGO活動のひとつの典型である。その主な目的は、農民の収入向上と人材育成をめざすものであった。
参加型学習の模索
1980年代前半は北タイにおけるNGO活動の萌芽期であった。貧困問題を抱えた村の問題に取組むべくNGOが外部から人材や資金(ほとんど外国の資金)を村に持つ込む「プロジェクト型開発」のスタイルが基本である。そこではそれぞれの村レベルでの経済的な自立がめざされた。基本的にはNGOのスタッフはタイ社会における高学歴層であり、経済開発を優先した政府の施策を批判してはいたが、基本的には「上から下」という構図には共通するものがあった。そのため1980年代後半になると、タイのNGO活動は大きな壁に直面することになる。すなわち、大学卒の優秀なNGOスタッフがその知識と技術をそのまま村レベルに導入しようとしたため、結局村人たちにはプロジェクトの意味が理解されず、技術も地元のニーズに合わず、結果的にプロジェクト自体が不成功に終わるというケースが多く現れた。これに加えて1980年代はタイ経済の高度成長期でもあり、NGOがめざした政府の経済開発路線とは違う「オールタナティブな開発」モデルを作り出す時間的余裕も与えられないままに、北タイ社会は急速な経済成長の波にさらされてしまったのである。
この苦い経験から北タイのNGOは「ローカル・ウィズダム(伝統知)」を重視して、村人の参加のもとにプロジェクトを進めるように方向転換することになった。しかしながら、当時のNGOには参加型開発の理念はわかっても、どうやってそれを実現してよいのかという「手法」がなかった。そこで、NGOをバックアップしていたチェンマイ大学のドュシット・ドゥアンサーやチャヤン・ヴァッダナプティらのグループは、1989年から3か年かけて、参加型開発の提唱者であるロバート・チェンバースらをタイに呼び、PRA(参加型農村調査法)、PLA(参加型学習行動法)などの参加型開発の具体的な手法を学ぶ採用することに努めた。
参加型開発へ
1980年代のNGO活動の目標にはある共通性が見られました。それは「貧困の撲滅」であり、そのために主として農村の開発やスラムの改善に重点を置いていた。しかし、1980年代後半からの急激な経済成長により、問題状況が大きく変化して、NGO活動の目標も見直さざるを得なくなってきた。それまでタイ社会に広範に顕在していた「貧困」から、都市と農村、タイ人と少数民族、都市近郊と僻村などの間の「貧富の格差」へと問題状況が変化したからである。従って問題も個別具体化することになり、NGOの活動領域も対象によって細分化される。また、経済成長が著しい都市部にあっては、環境汚染などの先進工業国と共通するような新たな課題も生じてきた。
北タイにおいては、1990年代に入ってNGOが活動する分野は、従来の農村開発に代わって、エイズ、山岳民族、環境、の各分野であった。特に、北タイにおけるエイズ問題は深刻であり、国連、タイ政府、外国NGOの支援のもとに多彩な活動が展開された。1993年にはチェンマイYMCAにおいて「エイズ予防におけるNGOの経験」というセミナーが開かれて、会議後、参加23団体によりNGOAIDSというネットワークが結成された。
それまではNGOによる啓発と治療支援が活動の中心であったが、この後にはエイズ感染者自身による相互扶助活動が盛んになる。1996年頃からはNGOのエイズ支援活動は新たな段階に入る。この時期にはエイズ問題は一部の同性愛者や性産業従事者のみの問題ではなく、一般の人々にも感染が広がりつつあった。そこで、HIV感染者を隔離してケアするのではなく、地域のなかでケアする方向性が打ち出された。感染者組織も北タイにおいて157グループを数えるようになり、各地域に広がりを見せていた。NGOは感染者ネットワークと住民組織の支援を中心に行うようになり、参加型開発の手法を取り入れた『エイズとともに生きる』が刊行された。
国際ボランティアの課題
タイのNGOの歴史をみると、1970年代までの「慈善型開発」、1980年代の「プロジェクト型開発」、1990年代からの「参加型開発」への志向というようにまとめることができる。もちろんこれはかなりおおまかな分類で、今でもプロジェクト型は主流であるし、NGOによっては依然慈善型も存在する。とくにそれは日本を含めた外国のNGOによく見られる。
タイのNGOの開発戦略がこのように大きく変化する一方、海外からボランティアを志望する人々の意識は「慈善型」の時代からさほど変っていない。筆者がチェンマイに在住していた1年の間にも多くのボランティア志願者が日本からやってきた。しかしながら、参加型開発をめざしている現在のタイNGOにおいては、外国人が活躍する余地は限られている。住民中心でプロジェクトを考えていくので、タイ語それも北タイ語は不可欠である。NGOのオフィスワークもあるが、その場合には最低限のタイ語と英会話が必要である。タイで日本人ボランティアが活躍するためには、こうしたコミュニケーション能力に加えて、参加型開発の理念と手法への理解が必要である。従って、海外でボランティア活動を志望する方々には、まずは日本国内でNGOのボランティアやインターンとして参加して経験を積むか、スタディツアーなどの形で現地を見ておくことをお薦めしたい。さもないと、現地に来ても貴重なお金と時間を無駄にするばかりか、現地のNGOに迷惑かけることになるのである。
教材「貧困と開発」
国際開発の分野での開発論や援助の考え方が大きく変化し、また「貧困」概念についても捉えなおしが進むなかで、それに対応した開発教育の教材や実践のあり方を考えていかねばならない。DEARでは、これらの課題に応えるべく2001年に「貧困・開発・協力」研究会が作られた。そして足掛け4年の検討を経て、今年『貧困と開発−豊かさへのエンパワメント』という教材集が完成した。
この教材は、新しい貧困観と開発の動向に応えるべく作成されたものである。教材作成の中心となったDEAR理事の小貫仁はこの教材のポイントについて次のように語っている。「開発とは貧困からの脱却であり、それは当事者のエンパワーメントからはじまります。したがって、開発とは多様な概念ですが、それは”欠乏としての貧困”を含む”剥奪としての貧困”をどう捉えるかによるのです。」
『貧困と開発−豊かさへのエンパワーメント』は9つのワークからなる教材集である。この中から「レーダーチャート貧困」を紹介しよう。これは、貧困を「お金やものがないこと」としてではなく、「社会関係により本来個人がもっている力が剥奪されていること」として捉えなおしたジョン・フリードマンの貧困モデルの教材化である。
フリードマンは「貧困」の要素を「資金」「労働と生計の手段」「情報」「知識と技能」「社会ネットワーク」「社会組織」「生活空間」「余剰時間」の8つとして、それらの要素において個人が本来もっている「力(パワー)」が狭められたときに、それを「貧困」と呼ぶとしている。この「力(パワー)」は能力でもあり権力でもある。社会的な力学によってこの力が奪われている以上、貧困から抜け出すためにはその力を回復(エンパワー)しなくてはならない。本人が力を回復できるように間接的に支援するのがNGOの仕事であろう。単にお金やものを与えてもそれだけでは力の回復にはつながらない。お金やものが、労働と生計の手段の獲得や、情報・知識・技能の獲得、さらにはそれにより社会ネットワークが形成されたときに、初めてエンパワーされ貧困から抜け出す道が開かれるのである。
「レーダーチャート貧困」では、上の8つの要素にみあったカード2組(日本とバングラデシュ)を読みながら、それをもとにチャートに書き込んでいくというワークである。そうして見たときに果たしてバングラデシュと日本とどちらが貧困なのか、あるいは貧困の質はどう違うのかが見えてくる。小貫は「貧困は南の国々だけの問題でない。エンパワーメントを必要としているのは、実は私たち自身でもある。その共有と支え合いの発想こそが真の協力につながるのです」と述べている。
「される側」から見た援助
次に、筆者自身が北タイでの経験をもとに作成した教材「『される側』から見た援助(仮題)」を紹介したい。これは、「参加型開発」の理解とそれに対する国際協力のあり方を追求した教材であり、「モノや金の支援」で終わらない国際協力学習をめざしている。
「『される側』から見た援助」はまだ製作中ではあるが、基本的には表1のようなワークから成る教材である。
ワーク1 バーン村にて
ワーク2 NGOをつくる
ワーク3 バーン村に入る
ワーク4 プロジェクトを選ぶ
ワーク5 される側から見た援助
ワーク6 参画のはしご
ワーク7 山下町タウン・ミーティング
ワーク8 「参加」のレーダーチャート
ワーク9 わたしたちにできること
ここでは、ワーク1「バーン村にて」をご紹介しよう。
あなたのグループはチェンマイ発の2泊3日のトレッキングに参加しました。1日目、チェンマイから3時間バスに乗り、そこで象にゆられて1時間、さらに山道を3時間歩いて、ようやくバーン村に着きました。ここはカレン族の村で、電気も来ていない山の中の村です。あなたたちには、村はずれにある木と竹で編んだ簡素な宿舎に泊まります。夜、村の人たちが作ってくれた夕食を食べているときに、あるメンバーがこんなことを言い出しました。
「私、さっき村の学校まで散歩したらこんな看板を見つけたの。英語だったんだけど・・ 『この村の学校はお金がなくて備品や教材も買えずに困っています。学校は教員も少なくとても劣悪な条件にあります。あなたの10ドルがあれば、もっと子どもたちに教具を買ってあげられます。どうかあなたの善意を村の子どもたちのために分けてください。』そして、名前が書いてあって・・『アイコ・ナカムラ』・・日本人じゃないかしら?」
(中略)
この話しを聞いたあと、あなたのグループのメンバーのひとりが、自分たちも学校に寄付をしようと提案しました。そこで、あなたのグループで次のことを話しあってください。
1. 学校に寄付することに対する賛成意見、反対意見。
2. アイコの活動についてどう考えるか。
このワークを実際にやってみると、議論が深まるに従って実にさまざまな問題点が出てくる。10ドル(約1100円)という手軽なお金、学校の備品という有用な用途ということもあって最初は寄付しようというひとが多い。しかし、話している内にさまざまな疑問が出てくる。村の人の話しでは、アイコは大学のバザーで集めた20万円を一度村に寄付している。
「20万円にしては買ったものが少なすぎるのでは」「サッカー・ボールやバレー・ネットは村の文化と合うのか」「村の予算に比べて額が多きすぎるのでは」「用具よりも正規の教員がいないことの方が問題」「教育以外に考えるべきことがありそう」「この村だけでいいのか、他に貧しい村もあるだろう」「そもそもアイコなる人物は実在するのか」などなど。
このワークは国際協力学習の落し所と考えられていた「ものや金を贈る」というところから出発するところに特長がある。最初にモノや金を贈ることの意味を考え、それをきっかけに村の開発や国際協力の内容や方法に入っていく。国際協力学習が「モノや金を贈る」ことで終わるということは、その学習自体が「慈善型援助」の援助観から抜け出ていないからである。モノや金を結論としない学習を作るためには、国際協力ということを「慈善型援助」や「プロジェクト型援助」の枠組みではなく、「参加型開発への協力」としてとらえなおしたときに初めて先が見えてくる。すなわち、日本の教室であれタイの村であれ、ともに「参加型社会」をつくるために「参加型学習」をやっているのだ、という共通の目的があってこそ、文字どおり国際「協力(力をあわせる)」になるという視点こそが大切なのである。
この教材は、その後アイコさんとトレッキングのグループがNGOをつくることになり、再度バーン村に調査に入ることになる。そして参加型開発を学びながら、自分たちにできることを考えていく。全体として、学習が進むたびに学習者と村とが次第に近づいていくように構成される。村人を開発に参加させる、というよりも私たち自身が村にアプローチする(参加していく)方法を学び、参加型開発を理解するのが主な目的である。最後には立場を換えて、自分に身近なところの開発問題を考えるワークが置かれている。
DEARの国際交流
最後に国際協力と開発教育との新しい関係について考えてみたい。従来、開発教育にとって国際協力はひとつの重要な学習テーマという位置づけであった。そして国際協力活動そのものは、JICAや国際協力NGOが担っていた。DEARの団体会員には国際協力NGOが多く参加しており、私たちはNGOから開発の現場での生の情報やさまざまな課題を学ぶことで開発教育を内容を豊かにしてきた。
2002年以来DEARはアジア各地のNGOやファシリテーターと直接つながるようになった。例えば、ネパールの山村で参加型学習を実践してきたカマル・フィヤル氏はたびたび日本を訪れて、その参加型学習の手法を紹介し、また日本の開発教育の実践からも学んでいった。韓国の国際協力NGO「地球助け合い運動」は、今のところ韓国で唯一開発教育の推進を目的のひとつとしている団体であるが、ここ3年間DEARや神奈川のNPO地球の木と交流している。
そして2004年8月にはチェンマイにおいて「日タイ交流セミナー−ESDのカリキュラム」が開かれた。日本側は「パーム油」「地球の仲間たち」「レヌカの学び」を披露し、タイ側は「ピン川カリキュラム」を紹介した。現地の中等学校やピン川や共有林を保全している村へのツアーも行った。このセミナーは日タイ双方の参加者から大変好評で、今年も2回目が行われる。また、北タイのNGOのスタッフや村のリーダーたちに参加型開発と学習の研修をおこなっているISDEP(持続可能教育促進研究所)とも交流した。NGOのスタッフらには「貿易ゲーム」が大変好評であった。北タイでも村レベルまでグローバリゼーションの波は押し寄せているのであるが、NGOの人たちはこれを村で説明するのに大変困っていたからである(『開発教育』51号参照のこと)。
2004年12月にはDEARはASPBAE(アジア南太平洋成人教育協議会)に加入した。ここにはアジア太平洋地域の草の根の「学び」を実践しているNGOが多数参加している。このように進展してきたアジアでの「学び」の交流ではあるが、それでは一体それらは日本の開発教育にとってそしてDEARにとってどのような意味をもつのであろうか。
参加型社会を「学び」がつくる
ここ数年間のアジア各国のNGOとの交流によって明確になったことのひとつは、国際協力の現場が急速に開発教育に近づいてきているということである。タイのNGO活動の変遷のところで見たように、北タイのNGOはそれまでのプロジェクト型開発の行き詰まりを打開するために1990年頃からPRA、PLAなどの参加型開発の手法を精力的に学び採用してきた。その間さまざまな試行錯誤がありながら、現在も参加型開発への模索が続いている。彼らが村落レベルで行っている研修や学校に取り入れようとしている参加型のワークショップは、DEARが行っているものと非常に近いものがある。
日本の開発教育においてもやはり、平成元年の学習指導要領で国際理解や環境教育が強調され、参加体験型の学びに注目が集まった1990年代初頭から参加型学習を学び始めた。日本の場合、イギリスの開発教育やグローバル教育の手法に学ぶところが多かった。その意味では北タイにおいても日本の開発教育においても同時期に参加型学習の導入を始め、同じような試行錯誤の経験をもっていることになる。先の日タイ交流セミナーでは、タイ側の参加者からは「私たちも欧米から参加型学習を学んだが、日本のそれは文化が近いだけに学ぶところが大きい」という感想があり、日本の参加者からは「タイの環境教育が、学校、地域社会、NGOの密接な協力のもとに行われていることに感銘を受けた」という感想があった。このように双方同じような経験を共有しているだけに、相互に学びあえることが多いのである。
これは単に手法が似通っているということを意味するのではない。最近、国際協力NGOの間でも、「豊かな日本のNGOが貧しいアジアのNGOに援助する」ということではなく「共通の課題を抱えた日本とアジアのNGOが、共通の問題の解決に向けて協力していく」という発想の転換の必要であるとの認識が広まっている。私たちが開発教育においてなぜ参加型学習を採用したかというと、それは単に子どもたちを楽しませる技法として行っているわけではない。参加型学習を通して、参加のための知識や技法を身につけ、参加型社会づくりを行っていくことが最終的な目標だからである。その意味で、日本の開発教育もアジアの草の根の参加型学習も、ともに参加型社会を築くパートナーなのである。
日本の開発教育が始まって四半世紀になる。第1期は、アジアやアフリカの厳しい現実を世に訴えかけた1980年代である。第2期は参加型学習のスタイルを欧米から学んで日本の土壌に合うように創り上げていった1990年代。そして、その参加型学習の手法をツールにしながらアジア太平洋に「学びのネットワーク」を築こうとしている2002年以降のDEAR。今、日本の開発教育は第三のステージを迎えようとしているのである。
この記事は「国際協力と開発教育−第三ステージを迎えた日本の開発教育」『開発教育』第52号のもととなった原稿である。(他の電子媒体への転載や長文の引用、大量コピーはご遠慮ください。)