田中研究室・南北ネットワーク


北タイのNGO活動の歴史と課題

特に参加型開発・参加型学習に着目して

 

 2006年3月25日   

田中治彦(立教大学)


 『立教大学教育学科研究年報』第49号(2006年1月、107-122頁)所収の同名の論文の元原稿です。

 タイ王国におけるNGO活動の歴史については、本国においてもまた日本においてもほとんど研究は進んでいない。とりわけ、その一地方であるチェンマイを中心とした北タイのNGO活動の歴史についてはこれまでまとまった研究がなかった。1) 2000年に北タイのNGOのネットワークの現状が鳥瞰できる書籍が発刊されたことによりこの分野での研究の端緒が開かれた。2) 本稿では、同著や関連の書物をてがかりとし、さらに北タイでのNGO関係者へのヒヤリングをもとに、北タイにおけるNGO活動の歴史を概観し、それらの活動の現状と将来の課題を明らかにするものである。とりわけ、1980年代後半以降、北タイのNGO間で強調されてきた「参加型開発」の理念や「参加型学習」の手法に注目しながら考察を進めていきたい。

 

1.タイのNGO活動の歴史 

 

 まず、タイ王国全体のNGO活動の歴史について概観しておきたい。3) タイのNGOの歴史を記述した文献には、タイの「NGOの祖」としてひとりの人物が登場する。それはプワイ・ウンパコーンである。プワイはタイ国立銀行総裁を努めた後、タマサート大学の教授となり経済学部長時代の1969年に「タイ農村開発運動(TRRM)」を設立した。プワイは学生たちを農村開発に参加させるために翌1970年に「タマサート大学ボランティア・センター(TGVC)」を設立。同様のプロジェクトは東北タイのコンケーン大学においても1986年に始まり、またプワイもその後「クロン川総合農村開発プロジェクト」においてマヒドン大学、カセサート大学、タマサート大学の学生たちを参加させる。タイにおける初期のNGOはこうした学生のOBたちによって始められており、現在に至るまでタイのNGO界でのひとつの人脈を形成している。

 プワイ以前にも現在のNGOにつながる団体は存在していた。それはひとつは王室系、福祉系といわれる団体である。もっとも早い例では1893年の設立となるタイ赤十字協会(TRCA)がある。また、1958年設立のタイ・ガールガイド協会は、バンコクに身売りされるくる少女を救済し職業訓練を施す活動を1960年代から展開している。また、欧米のキリスト教系のNGOの活動も早くから行なわれていた。特に北タイでは山岳民族を対象としたキリスト教の布教活動には長い歴史があり、これらの団体のなかにはNGOを作って布教とは別に村の生活向上に関する活動を行うところも現れている。

 タイでは1973年に学生運動に端を発した民主革命がおこり、それまでの軍事独裁政権を倒した。この時期から76年までが「民主主義の実験」の時期であり、それまで放置されていたタイのさまざまな社会問題に目が向けられた。労働組合、人権団体そして農村開発のNGOなどが設立され、またそれらに関する法律なども整備され始めた。しかしながら、1976年の反クーデターにより再び独裁政権の時代に戻り、民主革命の活動家はバンコクから追われ北部の森林地帯に逃れた。

 1970年代には現在のタイのNGO界を代表する団体が誕生している。人口地域開発協会(PDA、1974年)、開発アジア文化フォーラム(ACFOD、1977年)、ドゥアン・プラティープ財団(DPF、1978年)、児童財団(FFC、1979年)などである。

 

スラムの子どもたちに教えるプラティープ先生(プラティープ財団提供)

 

 1980年代前半の5年間はタイのNGOの発展期であり50を超える新しいNGOが設立された。これには3つの理由がある。ひとつは1980年頃よりタイ政府の政策の転換があり、民主化勢力に対する弾圧を緩めたことである。政府は都市に戻った旧民主化勢力の人々に「罪を問わない」としたため、森林より戻った人々がその後NGO活動に加わっていった。弾圧のおそれが薄ぎNGOの設立も増加した。第二の要因は、1970年代後半からのインドシナ難民問題である。カンボジアの内戦により大量にタイ国境に逃げてきたカンボジア難民に対して欧米各国は積極的に援助活動を展開した。外国のNGOは難民キャンプを支援するなかで、その周囲の東北タイの農民も同様の貧困の状況にあること発見する。レッド・バーナ(ノルウェー)、セーブ・ザ・チルドレン(英国)、CUSO(カナダ)などのNGOはタイの農民やスラム住民に対する支援活動を同時に展開するようになる。インドシナ難民を機に結成された日本国際ボランティア・センター(JVC)やシャンティ・ボランティア会(SVA)なども同様にバンコクを拠点として活動を展開する。外国のNGOの精力的な活動にタイ社会も刺激を受けて、独自のNGO活動を始めるのである。その内容は農村開発に限らず、スラム改善、保健衛生、適正技術など多岐にわたった。

 さらにタイ国自身のいびつな経済発展も大きな要因である。1960〜70年代のタイ国の経済政策は一貫して工業化による経済発展であった。バンコク周辺の首都圏のみの工業化と都市化が進み、地方や農村部は経済発展から取り残されていた。その結果バンコクの人口は当時で500万人を超えていた。第二の都市チェンマイが当時20万人程度であったから、いかに一極集中が進んでいたかがわかるであろう。バンコクにはスラム住民が100万人以上住み、逆に農村部からは人出が流出し貧困問題を解消しえずにいた。タイのNGOはこうした経済発展のひずみからくる社会問題に取組むこととなったのである。そして、経済一辺倒の開発に対して「オールタナティブな開発路線」を模索していくことになる。

 この時期、タイのNGO活動の連絡調整を行う団体がいくつか生れている。学生ボランティア活動の流れを汲むタイ・ボランティア・サービス(TVS、1980年)、NGOを支援していた知識人らによるタイ開発支援委員会(TDSC、1982年)、農村開発タイNGO連絡調整委員会(NGO−CORD、1985年)である。特にNGO−CORDはその後4支部を北タイ、東北タイ、南タイ、下部北タイ・上部中央タイに置くことになり、地方におけるNGO活動の活性化に貢献することになる。NGO−CORDは1994年には団体名から農村開発の文字を削り、タイNGO連絡調整委員会として11の分野におけるNGOの連絡調整機関となっている。


2.北タイにおけるNGO活動の発展

 

 北タイにおけるNGO活動は山岳民族への布教活動をしてきた欧米のキリスト教系の団体が、教育、医療などの分野を中心にチャリティー活動を行ったことに遡ることができる。そして1970年代には海外とのつながりがある青少年組織であるYMCAやガールガイドが、チェンマイに出稼ぎにきていた山岳民族の子女を対象に支援活動を始めていた。

 1980年代に入るとバンコクでのNGOの動きとあいまって、北タイにおいても外国の資金助成のもとNGOによるさまざまな事業が開始される。パノムワン・ヨンディーとウォルター・ティプスは、この時期の北タイのNGO活動の状況と課題について調査を行い1988年に『タイの農村民衆組織を促進するためのNGOの計画と実施』と題する報告書を発表した。4)

 この調査では当時の北タイで活動していたNGOのなかから、活動内容が地域開発であること、活動期間の長さ、住民との関わりの質、などを基準に5つの代表的なNGOを選び、スタッフに対するアンケート調査によってNGO活動の課題を明らかにしている。調査対象は農村地域教育開発財団(FEDRA)、フリードリッヒ・ナウマン財団、タイ・ワールドビジョン財団、農村地域人材開発財団(Thai-DHRRA)、チェンマイYMCAの5団体である。1980年代の北タイのNGO活動の内容を把握するために、このうちFEDRAとチェンマイYMCAの活動についてみてみよう。

 FEDRAは仏教僧侶のプッポチャナワラーポン師を中心に1974年に創設された団体であるるその主な目的は仏法精神に基づく農村開発である。この時期FEDRAの主要な活動は、回転資金の貸付け、児童ケアセンター開設、水牛銀行、米銀行の事業である。水牛銀行も米銀行も一種の信用組合づくりである。ほとんど現金収入をもたない農民は、収穫期にお米を米銀行に預ける。米銀行は米の値段の高い端境期にこれを売り収入とする。村人はそのお金を必要なときに借出すことができる。FEDRAでは女性対象の事業にも力を入れており、服飾、織物、刺繍関連の事業を行う。FEDRAの事業はこの時期のタイのNGO活動のひとつの典型であり、農民の収入向上と人材育成をめざすものであった。

 1970年に創設されたチェンマイYMCAの事業はより人材育成に力点を置いたものである。チェンマイYMCAの農村開発の手法は以下のとおりである。5) まずYMCAのスタッフが村を訪れて、村人たちに村が抱える問題は何かをたずねて回る。複数の人が同じ問題を指摘した場合、その人たちに会合をもってもらいその問題について議論するように勧める。この段階でいったんYMCAスタッフは村を離れる。村人は共通の問題を話し合うことには慣れていないために話し合いは必ずしもうまくいかない。スタッフは再び村を訪れて、再び同じ問題について話し合い解決策を見出すように勧める。この話し合いにおいては村人の中から座長を選ぶ。スタッフは側面から助言する。そして問題が特定された段階で、短期で簡単なプロジェクトを実践する。例えば、衛生的な水が確保できていない、という問題に対して、皆で村に新たに井戸を作る、というような解決策である。この事業の成功により村人は共同で作業することに自信をもつようになる。次により大きな事業に取組むときには、より多くの村人を巻き込むことができる。こうした手法には後の「参加型開発」の萌芽を見ることができる。

 

 山地農業のための研修センターにて(チェンライ県)

 

 1980年代前半は北タイにおけるNGO活動の萌芽期であり、貧困問題を抱えた村の問題に取組むべくNGOが外部から人材や資金を村に持ち込むスタイルであった。そしてそれぞれの村レベルでの経済的な自立がめざされた。この時期にすでに後の「参加型開発」の試みは行なわれているものの、基本的にはNGOのスタッフはタイ社会における高学歴者であり、経済開発を優先した政府の施策を批判したものの基本的には「上から下」という構図は共通するものがあった。そのため1980年代後半になると、タイのNGO活動は大きな課題に直面することになる。


3.中進国タイにおけるNGO活動

 

 1987年に始まった「第6次経済社会開発計画」は工業開発と観光開発に重点をおき、首都圏と地方、都市と農村の経済格差を解消することがめざされた。同年より日本や台湾からの投資が大幅に増加し、これらを起爆剤としてタイは急速な経済成長をとげることになる。この大きな変化の波は北タイにも押し寄せ、NGO活動は新たな展開を求められることになる。6)

 北タイにおいてはランプーン工業地帯の操業開始や、チェンマイを中心とした観光開発により人々の生活は大きな影響を受ける。NGO活動はいくつかの村において、政府の経済開発とは違う「オールタナティブな村づくり」をめざしていた。それは村のリソースを生かしながら、環境を保全し、住民が納得して参加し、自立できる村づくりであった。しかし、工業地帯の近隣の村や観光開発が進む地域では、村人たちに対して雇用の機会が増加し、土地の売却によって利益が出るなかで、NGOが行うオールタナティブな村作りが事実上できないケースが出てくる。7)

 そしてこのことは別の問題を生み出した。すなわち、工業や観光の開発により、土地が収容され、森が切り開かれ、水源地が汚染される、など新しい環境破壊が進行した。環境破壊は、自然の資源に生活を依存している村のひとびとにとっては死活問題となった。こうして北タイの各地で、政府や企業と村人との「資源の奪い合い」が起きるのである。

 こうした状況のなかで、NGOが進めてきた「オールタナティブな開発」の成果自体にも疑問の声があがるようになった。NGO関係者や村の人々の努力にもかかわらず、オールタナティブな開発のモデルを作り出す時間的余裕も与えられないままに、北タイの社会は急速な経済成長の波にさらされていた。政府が進める経済中心の開発とは違うNGOの開発路線が行き詰まりをみせた外部的な原因は北タイにおける急速な経済開発にあるが、一方でNGO内部にも問題を抱えていた。

 すなわち、NGOの参加型開発の活動は、村人主体の参加型開発を「上から」推進するという矛盾をもともと抱えていた。プロジェクト自体が「上から下へ」行なわれていた。すなわち、大学卒の優秀なNGOスタッフがその知識と技術をそのまま村レベルに導入しようとしたのである。結局村人たちにはプロジェクトの意味が理解されず、技術も地元のニーズに合わず、結果的にプロジェクト自体が不成功に終わるというケースが多かったのである。8)

 この苦い経験から北タイのNGOは「ローカル・ウィズダム(伝統知)」を重視して、村人とともにプロジェクトを進めるように方向転換することになった。例えば、IMPECT(タイ山岳民族教育文化協会)では、山岳民族の人たちが知っている森の中の薬草に関する知識をまとめて記録しそれを活用する、という活動を行っている。あるいはピン川保全協力協会では、ピン川沿いの村々が百年以上に渡って使用している木と石による伝統的な人工堰の知恵と知識を収集し共有するというような作業を行っている。

 しかしながら、当時のNGOには参加型開発の理念はわかっても、どうやってそれを実現してよいのかという「手法」がなかった。そこで、NGOをバックアップしていたチェンマイ大学のドュシット・ドゥアンサーやチャヤン・ヴァッダナプティらのグループは、1989年から3か年かけて、参加型開発の提唱者であるロバート・チェンバースらをタイに呼び、PRA(参加型農村調査法)などの参加型開発の具体的な手法を学ぶ採用することに努めた。9)

 

伝統的なかんがい(チェンダオ付近のピン川)


4.1990年代以降の北タイのNGO活動

 

 1980年代のNGO活動の目標にはある共通性が見られた。それは「貧困の撲滅」であり、そのために主として農村の開発やスラムの改善に重点を置いていた。しかし、1980年代後半からの急激な経済成長により、問題状況が大きく変化し、NGO活動の目標も見直さざるを得なくなってきた。それは、タイ社会に広範に顕在していた「貧困」の問題から、都市と農村、タイ族と少数民族、都市均衡と僻村などの間の「貧富の格差」の問題への移行である。従って問題状況も個別具体化することとなり、NGOの活動領域も対象によって細分化されるようになる。また、経済成長が著しい都市部にあっては、環境汚染などの先進工業国と共通するような新たな課題も生じてくる。

 北タイにおけるNGO活動は、1990年代に入り、エイズ、山岳民族、環境、ストリート・チルドレンの各分野において大きな転換があった。それらの活動について順に見ていこう。

 

4−1.エイズ関連のNGO

 タイにおいてHIVの感染者が最初に発見されたのは1984年であった。10)国がエイズ・キャンペーンを始めたのが1989〜91年である。北タイにおいてもエイズの感染は深刻な問題であり、政府機関やNGOがエイズ感染予防キャンペーンを91年頃から積極的に行った。ポスターやテレビを使ったこのキャンペーンはかえって社会の恐怖心を煽り、HIV感染者に対して社会的な偏見と差別を生じさせる結果となった。感染者に対してのケアがないために、彼らは薬草、伝統医療、超能力などにすがるしかなかった。こうした中で1992年に女性問題に関わっていた7つのNGOが集まりエイズ問題について議論した。このグループは翌1993年、チェンマイYMCAにおいて「エイズ予防におけるNGOの経験」というセミナーを開催し、会議後23団体によりNGOAIDSというネットワーク組織を作る。これに対して94年よりNAPAC(北部タイ・エイズ予防プロジェクト、オーストラリアの援助団体)がネットワークの活動をサポートし、常勤のスタッフが置かれるようになる。

 1994年からNGOAIDSの動きが活発化するとともに、エイズプロジェクトにおいても新しい動きが出てくる。それは感染者自身による相互扶助グループ作りである。そのきっかけとなったのがウィチャイ事件であった。これはエイズ治療に対して薬草で民間療法を行っていたウィチャイが薬事法違反で逮捕された事件である。これをきっかけに感染者どおしが集まり、自分たちの苦しみ、経験、情報、治療法を共有することを始めた。NAPACもこのグループを支援して、1995年には北タイの感染者グループのネットワークが生まれる。同年、チェンマイにおいて第3回アジア太平洋地域エイズ国際会議が開催されて、NGOや感染者ネットワークの経験が紹介され、広く知られることとなった。また、この時期政府とNGOと感染者グループとの協力関係が進んだ。

 1996年頃からはNGOのエイズ支援活動は新たな段階に入る。この時期にはエイズ問題は一部の同性愛者や性産業従事者のみの問題ではなく、一般の人々にも感染が広がりつつあった。そこで、HIV感染者を隔離してケアするのではなく、地域のなかでケアする方向性が打ち出された。感染者組織も北タイにおいて157グループを数えるようになり、各地域に広がりを見せていた。それに伴い、エイズ問題への取組みが山岳民族、子ども・女性に関わるNGOにも浸透していった。NGOは感染者ネットワークと住民組織の支援を中心に行うようになる。そして参加型開発の手法を取り入れた『エイズとともに生きる』が刊行されて活用された。

 NGOAIDSへ参加しているNGOは50団体を超えていた。そこでこれらを7グループに分けて活動することとした。それらは、感染者ネットワーク支援、住民組織支援、キャンペーン、人材育成と研修、青少年、山岳民族、資金、の7つである。しかしながら、細分化しすぎて活動が不活発であったため、翌97年には再度、1.権利と政策キャンペーン、2.地域・感染者ネットワーク、3.情報ネットワーク、の3グループに再編され、実質的な活動を行うようになった。

 概して、1980年代の農村開発型のNGO活動が低迷するなかで、1990年代に最も活躍したのがエイズに関わるNGOであった。これらのNGOはエイズの問題を感染者の立場に立って社会に知らしめるとともに、NGOの固有の役割を政府や世論に認知させることに貢献したと言うことができる。

 なお、エイズ関連では日本人によるNGOがあり、チェンマイではエイズ孤児を対象として活動している「バーン・ロムサイ」「バーン・サンタ」、エイズ患者を対象として活動している「バーン・サバイ」などの団体がある。

 

4−2 山岳民族に関わるNGO

 タイ国内にはおよそ100万人の山岳民族が居住し、その多くが北タイ各地に住んでいる。11) 主要にはモン、ミャン、ラフ、リス、アカ、カレンの6民族であるが、その他の少数民族を合わせると20を越える民族がタイ国内に存在すると言われている。彼らの多くは山岳部に住み、伝統的な焼畑農業や狩猟採取で生計を立て、民族ごとの独自の宗教、文化、衣装で生活してきた。

 タイ山岳民族が抱える問題は、経済的な貧困に起因する諸問題がある。それらは教育医療施設の不足、麻薬の密売、出稼ぎや売買春、その結果のエイズ感染などである。これに加えて1990年代以降の山岳民族固有の問題として北タイのNGOは次の3つ問題に取組んでいる。ひとつは国籍問題である。タイ政府は長いこと山岳民族をタイ国民とは見なしてこなかった。そのため山岳民族は県境を超えて移動することができず、また就学、就職などで不利益を被っていた。近年国際的な世論にも押されてタイ政府は一定の条件下でタイ国籍の取得を認めるようになったが、現在も国籍を取得しているのは該当人口の半数程度である。こうした状況を改善するのがNGOの役割のひとつである。

 次に、居住権の問題がある。山岳民族が多く住んでいる北部の山岳地帯はほとんどが国立公園や保護林などの形で国有地となっている。しかし、彼らの多くはタイ国の土地制度が制定される以前から何世代もその土地に暮らしていた。にもかかわらず彼らには住んでいる土地に居住し資源を管理し生計を立てる基本的な権利が認められていない。1998年に国立公園の区域内で山岳民族の立退き問題が起こったことを契機に、「共有林法」制定促進の運動が活発化した。この法律は、土地の所有権は国に属するとしたうえで、その土地の利用権を山岳民族や地元住民に認めるという内容である。すでに下院を通過しており、現在上院で審議中である。

 三番目に、山岳民族の固有の文化、伝統、宗教の保護の問題である。山岳民族の生活が苦しく、権利も抑圧されるなかで、地元の村を離れて都会に住む人々も増加している。また、山岳民族の村にも商品経済が浸透し、観光客が訪れることにより、独自の文化が失われる危険性が高まっている。とりわけタイ政府による公立学校の設立やテレビ、パソコンの普及はこうした流れを促進する。彼らの伝統文化や宗教や独特な風俗をいかに保持していくかが大きな課題となっている。

 山岳民族に関わるNGOの連絡組織としては「タイ山岳民族NGO協働センター」がある。同センターは1988年に設立されて、2000年現在で66の団体が加入している。センターには、人権、ジェンダー、持続可能な農業、教育文化、環境、エイズと麻薬、の6つのネットワークがあり、それぞれの問題の解決に向けて活動している。。

 山岳民族の代表的なNGOに「タイ山岳民族教育文化協会(IMPECT)」がある。12) IMPECTは山岳民族による山岳民族のためのNGOである。創設は1991年であり、6つの主要民族の代表者によって理事会が構成された。IMPECTの活動は、山間地での持続可能な農業の促進、国籍取得のためのサポート、女性の能力向上、青少年に対する伝統文化の教育、山岳民族の権利確立のためのキャンペーン、など多岐にわたる。特に最近は、共有林制定の動きを受けて、各村落での土地利用図の作成を重点的な活動目標に据えている。また、薬草や有用植物の利用に関する知識、そして伝統的な森林資源管理の技術や知恵の収集を行っている。

 

     パガニョー(カレン族)の村にて(メーワン)

 

4−3 環境保護に関わるNGO

 北タイにおける環境問題は、古くは1972年のプミポンダム建設開始による住民立退き反対運動にまで遡ることができる。13) 1987年以降はゲンスアテンダム、コック川導水、ユアム川上流ダムなど各地での立退きに伴う反対運動が展開された。また、森林破壊の問題も根は深い。タイはかつては豊かな森林を有する国土であり木材の輸出をしていた時期もあるが、1960年代以降の乱伐により森林面積が急速に減少した。1986年には北タイの7地域で森林伐採反対運動が起きている。1990年には共有林問題でのNGOのネットワークができ、共有林法制定に向けての活動が始まっている。1980年代後半のタイの高度経済成長のもとで、都市環境も急速に悪化してきた。首都バンコクにおける交通渋滞と大気汚染は有名であるが、チェンマイでも近年排気ガスによる大気汚染が問題となっている。

 ここでは都市型の環境保護運動としてピン川保全に関わるNGOを紹介しよう。ピン川環境保全協力協会は1993年に設立された。ピン川はタイ−ミャンマー国境に端を発し、チェンマイ市を縦断し、北タイ一体を潤してチャオプラヤー川(メナム川)に合流する大河である。しかし、近年ピン川ではさまざまな問題が発生している。それは水質の悪化であり、また水量の変動の大きさである。水質の悪化は、農業排水、工業排水、都市排水などさまざまな原因による。また、水量については森林の伐採により、乾季は渇水、雨季は洪水という水量の変動による生態系への影響が懸念されている。さらに、川岸の個人による占有、河川の埋め立てや建設により、川幅が減少するという問題もある。

 ピン川保全協力協会では、市民に対してピン川をめぐる問題を知ってもらうためのキャンペーン活動や、問題解決のための政策提言活動を行っている。14) 同協会がとりわけ力を入れているのは青少年に対する啓発活動である。当初は青少年を動員して催しやキャンペーン活動を行っていたが、2000年頃より現場の教師や指導主事と協力してピン川を題材としたカリキュラムの開発を行っている。「私たちのピン川」と題するカリキュラムは2004年に完成し、約100名の教員に対して指導者研修を行った。15) このカリキュラムは中等教育を対象としたものであるが、理科、社会、表現のバランスだとれた環境教育のモデル・カリキュラムである。今後の活用と実践の展開が期待される。

 

4−4 ストリート・チルドレン

 観光スポットとして有名なチェンマイのナイト・バザールでは、花輪やみやげ物を売って歩く子どもたちに出会う。彼らの多くは山岳民族の子どもたちであり、その家族は子どもの売上げを貴重な生活の糧としている。こうした子どもたちには、犯罪、交通事故、麻薬、売買春などの危険が常につきまとう。これらストリート・チルドレンを支援するNGOとしては、北タイではチェンマイYMCAとVGCDとがある。それらの団体の活動を見ていこう。16)

 チェンマイYMCAは、市内3か所で活動を行っており、近々さらに2か所での活動を行う計画がある。お寺の境内や学校の校庭の一部を利用して、放課後子どもたちに簡単な勉強を教えたり、レクリエーション活動を提供している。ほとんどの子どもは小学校に行っているが、深夜の労働があるために勉強には身が入らない。そのため補習を行い、また子どもたちに遊びを通したさまざまな活動を提供する。遊びや学習を通して、子どもたちが危険から身を守る方法、自分の主張をはっきり言う方法などいわゆる「ライフ・スキルトレーニング」を行う。僧侶による講話も行なわれている。また、月に一度程度の散髪の日を設けたり、年に2回チェンマイ大学の医師による健康診断を行う。ワーカーは各家庭を回って、家族の状況を把握し、必要なときには支援を行う。

 

ストリート・チルドレン・プロジェクト(チェンマイYMCA)

 

 青少年育成ボランティア・グループ(VGCD)は1997年に設立されたNGOである。VGCDはチェンマイ県とチェンライ県にそれぞれ、ドロップインセンターとセーフハウス(子どもの家)を2か所づつ、計4つの施設をもっている。この内、チェンライ県のドロップインセンターはミャンマーとの国境の町メーサイにある。メーサイでは国境を越えて多くの子どもたちがタイ側にやってくる。彼らは主にアカ族の子どもたちで、観光客を相手に物乞いをしている。これらの子どもたちのためのセンターがあり、そこで給食を出したり、レクリエーション活動をする。YMCAのプロジェクト同様、子どもの状況をチェックして必要な治療やアドバイスを行う。ここでもライフ・スキルトレーニングが行なわれる。

 チェンマイ市内のドロップインセンターには小さな子どものグループだけでなく、青年期に達した子どもたちのグループが出入りしている。彼らはほとんどがタイ人の15歳以上の子どもたちである。彼らは小学校教育は受けているが、家庭内暴力、虐待、家庭崩壊などの理由で家から出ている。同じような境遇の子どもたちが集まる繁華街で仲間を見つけて共同生活を送っている。彼らは麻薬や売買春によって生計を立てるものもあり、ゲイの子どもも多く見られる。HIV感染の危険にもさらされている。VGCDではこれら年長の子どもたちに、ライフスキル・トレーニングやアートセラピーを施し、公衆衛生、麻薬、エイズに関する知識など、子どもたちが社会生活を安全に送る上で必要な知識や技能を身につけさせている。

 

4−5 女性関連のNGO

 

 北タイにおける女性・ジェンダー関連のNGOの活動は主に3つの時期に分けられる。17) まず第1期にあたる1985年以前は、地域の貧しい女性たちのための授産事業とそのための職業訓練とが活動の中心であった。ただし、団体としてはチェンマイYMCAなどごくわずかであった。第2期の1986年〜91年には次第に団体も増え、活動規模も大きくなっていく。1989年には女性問題に関わるNGOのネットワークを10数団体で結成し、共通の問題について情報交換を行うようになる。1991年に27に達した加入団体は3つのグループに分かれて活動する。それらは、1.売買春とエイズ、2.環境問題、3.手工芸品生産、である。

 第3期は1992年以降である。上記の3グループに加えて女性の政治参加のグループが発足した。1994-5年には村落開発委員(オーボートー)に女性が就任することが可能になり、北タイ5県で108人の女性が選挙で選ばれた。1995年に北京で開かれた第4回世界女性会議には北タイからも代表が出席して刺激を受け、その後北タイでの女性NGOの活動が活発化した。1996年には北タイ女性ネットワークが正式に発足した。

 以下、女性を支援するNGOとして、ニュー・ライフ・センター(New Life Center)とエンパワー財団を紹介しよう。ニュー・ライフ・センターはそれまで北タイの山岳民族とともに活動してきたポール・レウィス、エレーヌ・レウィス夫妻(Dr.Paul and Mrs.Elaine Lewis)によって1987年に創設された。二人はアメリカのバプティスト教会の宣教師である。親が育てられない少女や売春をさせられている少女たちのために寮を作り、そこで社会復帰のための職業訓練や教育を施していた。当初はアカ族とラフ族の少女18名が入寮した。所長には米国から牧師のローラン・ベテル(Rev.Lauran Bethell)が招かれた。18)

 ニュー・ライフ・センターは、現在では約140人の山岳民族の少女たちの支援を行っている。チェンマイのセンターに約30人が入寮している他に、村に住みながら学校に通う少女たち約100人に対して奨学金を提供している。対象となる少女たちは、当初のように売買春に従事していて救出されるようなケースは今では少なくなり、親をエイズで失ったり、家庭で虐待にあって保護される、などさまざまなケースがある。チェンマイのセンターの少女たちは昼間は中学・高校や専門学校に通っている。寮においては編物、刺繍、人形づくりなどの職業訓練を受けていて、それらの製品はタイ国内や米国でも販売されて、同センター運営のための収入源となっている。週2回の聖書のクラスがある。ヒラリー・クリントンも一度このセンターを訪問している。

 ニュー・ライフ・センターは、米国のキリスト教宣教師によって創設され、劣悪な境遇にある少女たちを保護救援する施設という意味で、慈善型NGOのひとつの典型といってもよいであろう。

 

ニューライフ・センターの職業訓練風景

 

エンパワー財団は、性産業従事者の支援のために1985年にバンコクで創設され、チェンマイでは1990年より活動を開始している。エンパワーの活動の特長は、性産業に従事すること自体については否定も肯定もせずに、その従事者(セックス・ワーカー)のエンパワーをめざしていることである。従って、かつてのNGOのように性産業従事者を「更生し、他の仕事につかせる」という方向をとらず、性産業に従事したい者せざるをえない者に対しては、そのことを認めた上で側面から支援する、という方針をとる。この点についてはジェンダー関係者からも賛否両論あるところである。

 活動の基本は、性産業に従事している女性たちに「居場所」を提供することである。実際チェンマイのエンパワー事務所には、お昼すぎになると多くの若い女性たちが訪れ、おしゃべりがあちらこちらで始まる。お互いが話すなかで、ストレスの解消にもなり、共通の悩みの解決にもつながる。午後5時くらいには彼女らはそれぞれの職場であるディスコやバーなどに通勤していく。エンパワーのプログラムとしては、彼女らに必要な語学、知識、技能を提供している。例えば、体や性に関する知識、労働条件についての知識の他、英語・日本語・タイ語のクラスがある。タイ語クラスが行われているのは、ビルマから来ている人や山岳民族の女性のためである。教えられている内容は極めて具体的であり、「避妊具をつけない客への対処」「雇用主に対して休養や備品の要求」「性病やエイズについての知識」などであり、単に知識としてではなく実際にそれを活用できるような学習活動が行われる。ILOの助成により、「健康」「労働」「権利」に関する3部作のマニュアルが刊行されている。19) それらの内容は、健康、労働、権利に関する基本的な知識をわかりやすく図解したものである。

 エンパワーはその活動形態が基本的に「居場所の提供」であり、その上で女性たちのエンパワーをめざしている点でNGOのなかでも斬新な分野を開拓しているということができる。

 

4−6 持続可能な農業に関わるNGO

 1980年代にタイ政府は農業の近代化を推進し、一部のNGOを巻き込みながら商品作物の導入に力を入れていた。しかしながら、農業の機械化と化学肥料の導入は、結果的に土地の疲弊や農民の債務の増大といった結果を招いていた。北タイのNGOのなかには、近代農法に代わるオールタナティプな農法を追求するグループがあり、複合農業や水田養魚農法などの試みを行っていた。20)

 1990年代に入り、NGOの活動領域が農村開発一辺倒ではなく、上記のようにさまざまな分野に多様化するなかで、ノースネット財団を中心にして有機農法と産地直送の新しい流通システムを模索する動きがあった。ここでは、同財団のなかの持続可能農業社会研究所(ISAC=アイザック)の活動をみていこう。21)

 ISACは1991年にノースネット財団の一部局として設立された。1993年までの間に、北タイにおいて有機農業が可能であるか、そしてその作物を流通させることができるのかどうかについての可能性調査を実施した。93年には有機栽培した作物を農家や協同組合が販売するための市場としてインブン市場をチェンマイ市内に開設した。現在は、水曜日と土曜日の午前にこの市場が開かれている。

 1994年から2年間は、生産から消費に至るプロセスを確するためにの組織づくりに力を入れた。その結果、現在ではチェンマイ有機生産者協会、チェンマイ有機加工業者協会、チェンマイ有機消費者組合、インブン有機生産物市場、北タイ有機農法基準協会の5者が協力して、生産から加工、流通、消費のプロセスを作り上げた。

 1997年以降は、有機農法について市民に啓発するとともに、政府に対して有機農法を広げるようにアドボカシー活動を展開するようになる。例えば、国土の20%を持続可能農業にすべきである、という提言を全国の農業関連のNGOとともに国に対して出している。しかしながら、現在に至るまで有機農業については肝心の農民の間でもその普及は限られていて、政府の施策としても限定的に採用されるに留まっている。


5.タイのNGOの課題

 

 タイの社会は1980年代後半を境に急速に変化した。そのため山岳民族が抱える問題のように貧困に起因する古典的な開発問題と、家庭崩壊や環境汚染など先進工業国と共通する現代的な開発問題とが併存している。現在のタイの問題は「貧困」そのものよりも「貧富の格差」にあるといってよかろう。

 こうしたなかでNGOの役割と課題も大きく変わってきている。80年代まではNGO側が村で問題を「発見」し、解決策を提示し、外部資金と技術を持ち込みプロジェクトを実施するというパターンであった。しかし、こうした手法は早晩行き詰まり、90年代には「伝統知(ローカル・ウィズダム)」をいかに引き出すか、いかに住民主体のプロジェクトを実施することが可能であるか、ということがNGOの中心課題となってくる。他の国や地域で実績を上げてきた「参加型開発」の手法に学びながら、NGOは住民組織とタイアップしながらプロジェクトを推進するようになる。このことによって、NGOには「声なき声の代弁者」という役割が期待され、住民と政府とをつなぐ(ときには対抗する)役割を担うようなる。

 タイのNGOは1990年代には政治的な発言力をもつようになった。1992年のスチンダ将軍によるクーデター事件の際に、NGO関係者が街頭デモの先頭に立ち民主化に貢献したことはよく知られている。22) また、2000年の上院議員選挙では3人のNGO関係者が当選して議会で活躍している。その一人がクロントイスラムでの活動で有名なプラティープ・ウンソンタム女史である。しかしながら、現タクシン政権はNGOに役割に否定的であり、外国からの援助からも徐々に撤退する方針である。かつてのような露骨な弾圧はないものの、2005年現在NGOと政府との関係はしばしば緊張関係にある。

 一方、タイのNGOは財政的には厳しい時期を迎えている。1990年代に入ってタイの経済成長を背景に、それまで資金的に支援してきた欧米系のNGOや財団がタイから撤退する傾向が続いた。彼らはより問題状況が深刻なラオス、カンボジアあるいはアフリカなどへの支援に方針を転換した。ところがタイのNGOは、それに代る有力な支援者を国内にもっていない。欧米や日本のNGOは市民の募金、政府の委託金・補助金、自主事業によって財源を得ているが、タイのNGOで国内の寄付金だけで自立できる団体はごくわずかである。エイズに関わるNGOは外国や国連機関それにタイ政府の資金もあり運営が可能であるが、それ以外のNGOは経済的に厳しい状況にある。とりわけ1997年のバーツ暴落による経済不況の際には多くのNGOが活動停止に追い込まれた。

 タイのNGOの大きな課題は、国内の中産階級への啓発広報活動を強化して、かれらの支持のもとに財政的にも安定的な活動を行うことである。タイのNGOが現在置かれている状況は、日本の国際協力NGOが1980年代前半に置かれていた状況によく似ている。当時の日本の国際協力活動については国民の間にも浸透しておらず理解者も少なかった。従って、国際協力NGOが市民から集められる資金も限られており、財団や企業からの支援も少なかった。当初は、政府からNGOへの資金提供はほとんど無い状況であった。

 1982年には開発教育協会が発足して、市民や子どもたちに対する開発教育を展開した。開発教育とは、開発途上国の現実を知らせ、国際協力の必要性について考えさせる教育学習活動である。また、国際協力NGOの活動についてもマスコミなどが取り上げることにより、次第にその活動の意義が市民の間に理解されるようになった。とりわけ、1989年に日本のODAが世界一の額になった際には、日本の国際協力活動についてマスコミが頻繁に特集した。1990年代には、開発教育は学校教育においても次第に採用されるようになり、また全国各地域においてもセミナーが開かれることになった。

 タイにおいては、NGOの活動についてマスコミが取り上げる頻度はまだ少なく、しかもその報道はしばしば偏っている。またタイにはまだ日本の開発教育に当る用語や実践もない状況である。国内の中産階級層や学校教育への働きかけという点で、タイのNGOが日本の経験に学ぶ余地は多いように思う。日本のNGOが行ってきた広報活動や開発教育について、日本のNGOがタイに国際協力することは有意義なことと思われる。

 


6.チャチャワンの回想−むすびに代えて

 

 2004年7月20日、北タイNGO研究会では『NGO−その起源と発展』の編者であるチャチャワン・トンディールーを招いた。彼のNGO活動の回想と課題提起を紹介することで本稿のまとめに代えたい。チャチャワンは現在、北タイの文化に根差した開発のあり方を追求するNGOである「ランナーの知恵を伝承する学校(ランナー・スクール)」の主催者である。チャチャワンはタイ西部のカンチャナブリ県の農村に生まれ、1975年にタマサート大学に入学した。反民主化のクーデタが起こるのはその翌年である。大学では政治学を学び社会主義にも共鳴していた。学生時代にタイ・ボランティアサービスが主催するワークキャンプに参加して、スラムや山岳民族の問題にじかに接することになる。

 大学卒業後の1980年、ランプーン県でドイツ系のコモン・ケーントン財団と政府とが共同で実施した、総合農村開発プロジェクトにスタッフとして参加することになる。これは1980年代にしばしば行なわれた農村開発の手法を採用していて、基本的には農業生産性の向上のために在来種から新品種へと切り替えて商品作物を栽培するものである。しかしながら、チャチャワン自身在来の伝承や教えを認めず、村人としばしば口論になったという。トップ・ダウンのプロジェクト優先型の開発であったため、村人の参加は次第に不活発になり、プロジェクトは3年で終了した。結果的に農民には借金しか残らなかったという。 

 この苦い経験のなかでチャチャワンは、伝統的な文化とその中にある開発の知恵に関心をもつようになった。村人は伝統行事にはよく参加するが、NGOの催しや講習にはあまり参加してこなかったからである。チャチャワンは北タイの精霊信仰、仏教、儀式について学び、ランプーン、チェンライ、チェンマイにおいて「北タイ開発のための地域文化を学ぶ会」を組織する。こうした学びのなかで、地域社会はそれぞれ生活と開発のシステムをもち、信仰によって自然資源の管理をしていることを知ることとなる。また、政府やNGOの助けがなくとも、村人や地域社会の潜在的な力によって自ら問題解決できることを確信するようになる。

 とりわけ北タイでは、伝統的な堰とかんがいによる水資源管理のシステムや森の管理の知恵があり、それらの中には数百年の歴史をもつものもある。こうした伝統や知恵を集め、北タイの生活文化の維持発展のために先の研究会を母体として1997年にランナー・スクールを設立するに至る。

 

北タイの伝統音楽の演奏(メーワン)

 

 チャチャワンの経験は、なぜNGO活動において参加型開発の理念や参加型学習の手法が必要であるかを物語るものである。北タイで参加型学習の手法が意図的に導入されて10数年を経て、さまざまな試みがなされてきた。しかし、いまだにテクニックに依存していて消化しきれていない、とチャチャワンは指摘する。地域の実情が変化するなかで、今後は住民の権利拡大や政府との協力といった視点でも新しい手法が必要である。また、経済のグローバリゼーションが村レベルにまで影響してくる状況での、それを理解する学習方法なども求められている。

 日本でも、開発教育協会(DEAR)を中心に1990年頃から積極的に参加型学習の手法が採用されてきた。これらの手法はカナダやイギリスの開発教育やグローバル教育に学んだものであるが、最近では日本独特の教材やワークショップが数多く開発されるようになった。筆者は、チェンマイ滞在中にチェンマイYMCAにおいてピン川保全協力協会につらなる環境教育の教育関係者と「持続可能な開発のための教育」に関する教材・カリキュラムの交流セミナーを実施した。その結果、双方の経験から学ぶものが非常に大きいことを発見した。また、北タイ開発財団の一セクションでNGOスタッフや村のリーダーに対して研修を行っている「持続可能教育促進研究所(ISDEP)」において、グローバリゼーションに関するワークショップを行った。対象は10数名のNGOスタッフであったが、これも好評であり、今後さらに日本のワークショップを学びたいという希望が表明された。参加型開発ないしは参加型学習に関する日タイ双方の経験を交流することには双方にメリットがあると強く感じた次第である。今後、こうした方面での相互交流や国際協力が発展する可能性があるであろう。それは、日本の学校教育や社会教育あるいはまちづくりにとっても貢献することが期待される。23)


[注]

1) 『2003年NGOダイレクトリー(タイ語)』タイ開発サポート委員会(TDSC)、バンコク、2003年。

2) チャチャワン・トンディールー編著『NGO−その起源と発展(タイ語)』北タイ開発財団、2000年、278頁。また前書にも北タイのNGO活動史を要約した論文がある。

3) タイのNGOの歴史については以下を参考した。Directory of Non-Governmental Organizatons 1997, Thai Development Support Committee, Bangkok, 1997, p1. 赤石和則「タイにおけるNGO活動の歴史と現状」東和大学国際教育研究所『国際教育研究紀要』4号、1999年、1-14頁。

4) Phanomwan Yondee and Walter E.J. Tips, Non-governmental Organizations' Planning and Implementation to Promote Rural People's Organizations in Thailand, Local Assistance Program CIDA Embassy of Canada, Bangkok, 1988.

5) Ibid, pp.29-32. 

6) タイ社会の急激な変化とNGOの役割については以下の文献が参考になる。新津晃一・秦辰也『転機に立つタイ−都市・農村・NGOから』風響社、1997年。

7) タイにおけるオールタナティブな開発については次を参照のこと。鈴木規之『第三世界におけるもうひとつの開発理論−タイ農村の危機と再生の可能性』国際書院、1993。田中治彦『南北問題と開発教育』亜紀書房、1994、101-102頁。

8) 参加型開発の課題とそれをめぐる議論については、佐藤寛編『参加型開発の再検討』アジア経済研究所、2003年、に詳しい。

9) 『参加型学習のプロセス(タイ語)』北タイ開発財団、232頁。

10) 本稿の記述は以下の文献およびニワット・スワンパタナ氏(エイズ・ネットワーク開発財団)への聴き取りによるものである。「エイズ関連のNGOネットワーク」チャチャワン編、前掲書、173-202頁。Self-Help Groups fo PHAs and thier Networks, Development of and Lessons Learned from Positive People Groups and Network, UNAIDS, 2001.

11) 「山岳民族ネットワーク」チャチャワン編、前掲書、79-101頁。

12) IMPECTのパンフレット、及び事務局長のプラヤット氏、スタッフのソンポン氏への聴き取りによる。

13) 「水資源管理ネットワーク」チャチャワン編、前掲書、118-146頁。

14) ピン川保全協力協会のパンフレット、及び同協会代表のワサン・チョムパクディ氏への聴き取りによる。

15) 『ピン川保全のためにチェンマイ県青少年の協力心を開発する環境教育学習実施計画』ピン川保全協力協会・チェンマイ第一教育事務所・タイ環境コンサルタント協会、2004年。

16) チェンマイYMCAおよびVGCDのパンフレットおよび聴き取り調査による。

17) ニワット・スワンパタナ(他)「女性ネットワーク」、チャチャワン編前掲書、147-164頁。

18) New Life Center のホームページ(http://www.newlifethailand.org/)、および同団体での聞き取り調査による。

19)『私は健康です』『私は働いています』『私には権利がある』(タイ語)、エンパワー財団、2002年。

20) ウィシット・ティンワタナクン「オールタナティブ農業ネットワーク」、チャチャワン編前掲書、102-117頁。

21) ISACパンフレット、および同団体での聞き取りによる。

22) 参考、秦辰也『バンコクの熱い季節』岩波書店、1993年。

23) 田中治彦「『持続可能な開発』と『参加型学習』を通した日タイ交流の可能性」『開発教育』51号、2004年2月、62-75頁。

 


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