息抜きエッセー集


バートレー発

 

1989年から90年にかけて英国の北東部にあるサンダーランド大学に留学したときに、書いたエッセーです。PC−VANの第三世界ボードにアップしたものを元にしています。

また、英国祭UK98に関連して英国留学の思い出を書きましたので併せて掲載します。

                          田中治彦

 


バートレー発 もくじ

 

(1) ワープロとトランス

(2) 関係は逆転したか?

(3) スクリューボール事件

(4) 英国開発教育事情 

(5) イメージの中の「英国」

(6) ポートベロー小学校 

(7) 英国版「学習指導要領」

(8) あるNGOの倒産 

(9) 開発教育先進国? 

(10) 等身大の英国

〔UK98〕英国留学の思い出−ボーイスカウトの謎


バートレー発(1) ワープロとトランス

 

 英国に家族ごと移住するについては、この国に来る人なら誰でも体験する一連の手続きがある。ビザ取得、荷物の送付、通関、家探し、外国人登録、子どもの学校、銀行口座の開設、国民健康サービスへの登録、車の購入。これらの作業をすべて終わるまでにほぼ1か月を要した。これらの中で最も大変だったのが家探しであり、最もスムーズだったのが子どもの学校のことである。私にとっての最大の問題は今これを書いているワープロをいかにしてサンダーランドまで運び動かすかということであった。

 英国に持っていく機種はすぐに決まった。ラップトップ型で持ち運べること、英文ワープロの機能を揃えていること、手持ちのパソコンとデータの互換性があること等を考えると「文豪ミニ5HD」が最適だった。ところがこれを入手するまでが一苦労であった。通信販売など安売りを探したが在庫がなく、結局出入りのNECの代理店にどうしても必要だからと頼み込み、倉敷の店頭にあったデモ製品をやっとのことで見つけてもらった。ちょっと傷がついているからとかなり値引きしてくれたのが有り難かった。店頭に陳列してあったことも初期故障がない証拠なので異国の地にもっていく上ではかえって好都合に思われた。岡山から新幹線で東京へ、車で成田へ、手荷物として12時間の空旅をヒースローへ、タクシーでロンドンのホテル、キングス・クロス駅からインター・シティ(高速列車)で3時間半かけてニューカッスルへ、ニューカッスルから車でサンダーランドへと、文豪は常に私の肩に食い込みながら私と行動を共にした。

 「トランスなんて重いものをわざわざ持っていく必要はありません。現地で手に入りますから」というロンドン在住経験のある人の話を信じて変圧器は荷物の中になかった。着いた翌日からサンダーランドの電気屋巡りが始まる。250ボルトから100ボルトへの変圧器はありませんかと3軒の店を訪ねたがいずれもノーの返事。最後の望みを託して電気部品扱うタンディという店に入った。「取り寄せねばありません。2〜3か月はかかりますよ。」と言われた時、目の前が真っ暗になった。

 

 ちなみに、海外旅行専門店に売っている電熱器用のトランスはコンピュータなどの精密機械には使えないので注意されたい。精密機械用の本格的なトランスは大きさは豆腐位なのだがこれが石のように思い。結局ニューカッスルまで行ってトランスを入手したのは8日目のことだった。トランスにプラグやらコンセントのアダプターやらを取り付けて、始めてワープロの画面に字が表れたときの感激を想像してもらえるだろうか。

 この変圧器は日本から送られてきた小さな炊飯器をよく助け、始めて白飯が炊けたとき再び私たちに喜びをもたらしてくれたのであった。

 


バートレー発(2) 関係は逆転したか? 

 

 今回イギリスに来たのはブリティシュ・カウンシルの奨学金をもらえたことがきっかけでした。日本と英国の社会教育の歴史を勉強するのが主な目的です。さて、留学先のサンダーランドですが、ロンドンから北へ約600キロ、ちょうど東京−大阪の距離にあります。もうスコットランドとの国境近くです。この地域はノース・イーストといっていわばイングランドの東北地方です。

 

 通っている大学はサンダーランド・ポリテクニック。ポリテクニック(略してポリ)というのは実学系の高等教育機関で、日本でいえば工学部、教育学部、社会学部、それに芸術系の学部があります。[その後の大学改革ですべてのポリテクニックは大学と称するようになった]。

 

 バートレーというのは今我々家族が住んでいるところです。北東部の中心都市であるニューカッスルと、大聖堂で有名な歴史都市ダラムのちょうど中間の地点にあります。近頃は回りの庭や空き地に水仙やチューリップが咲きみだれ芝生の緑とともに目を楽しませてくれます。北東イングランドと日本との結びつきも結構古く、今回はそのことをお話しましょう。

 

「関係は逆転したか?」

 サンダーランド・ポリテクニックからバートレーへと続く道は、そのまま日本と北東イングランドの一世紀以上に及ぶ歴史を象徴している。ポリの本部があるランガム・ハウスに入ると荘厳な高い天井に気づく。この美しいチューダー様式の建物はもともとサンダーランドの船主の邸宅だった。周囲のビクトリア風の建物はいまではさまざまなオフィスビルとして利用されているが、いずれ19世紀後半のこの地の繁栄を示すものである。

 

 私は中古のフォード・フィエスタ20分程かけて毎日通勤している。サンダーランドの町中を抜けて、ウィアー川をまたぐクィーン・アレクサンドラ橋を渡ると両側に造船工場が見えてくる。1888年に日本郵船が発注した三池丸を始めとして多くの商船がこれらのドックで造られた。隣のタイン川では、吉野、竜田、やしま、高砂、はつせ、など日露戦争で活躍した船の約半数がアームストロング社の手で造られている。1911年、ジョージ5世の戴冠式で訪英した東郷元帥がお礼のためにニューカッスルの地を訪れたのは当然のことであった。

 

 もとより北東イングランドは19紀後半において英国一、即ち世界一の工業地帯であった。私たち家族に先立つこと127年前、1962年に徳川幕府の12名の侍が汽車で今も同じ建物のニューカッスルの駅に降り立ったのがそもそも北東イングランドと日本とのなれそめである。明治政府の基礎を作った岩倉ミッションもこの地を訪れ、当時としては最先端の石炭採掘と造船技術を存分に見学していった。

 

 ところが、サンダーランドの造船所は今から3年前にその2世紀に及ぶ歴史を閉じてしまった。今では北東イングランドは英国の中でもっとも失業率が高い。さて、フォード・フィエスタがいくつかのラウンド・アバウト(ロータリーのこと)をとおりすぎると、ワシントン・ハイウェイに入る。するとすぐに「Nissan」という表示が目にとまる。サンダーランド・ポリ日本研究所長マリー・コンテヘルムの近著「日本と北東イングランド」の結章の表題は「関係は逆転したか?」である(『イギリスと日本』サイマル出版会)。日本が近代国家の基礎を作るに当って、その最大の恩人ともいってよい英国に、今度は最新技術をもって資本投資をする。英国内でも最悪の失業にあえぐこの北東イングランドにとって日産、小松を始めとして20数社に及ぶ日本企業の進出は希望の火である。

 

 私のフェード・フィエスタは嵐の日、このワシントン・ハイウェイでエンストした。ちょうど英国フォード社の労働組合がストライキを構えた日であった。大学で私の世話をしてくれているフランク・ブートン先生はスバルで毎日長い道のりをスイスイ運転している。バカにされるまいことか。日本車はエンストしないし、労組がないからストライキもありえないそうである。

 

 初代米国大統領ジョージ・ワシントンの祖先はこの地の領主であった。初代大統領の先祖が別の土地の出身だったら米国の首都はもっと違った名前になっていただろう。今は高級住宅地で日本人を始めとして多くの中産階級の人々が住む。ポリに最初に紹介してもらったアパートもこの中にある。ワシントン・ハイウェイが終わり、ロンドンとエジンバラを結ぶ国道1号線を横切ったところが我が町バートレーである。バートレーは中産階級と労働者階級が共に住む地域で(こちらではミドルクラス、ワーキングクラスということばを全く日常用語として使用しており、これも驚きであった)、ワシントンほどの高級住宅はあまりないかわりに、いろいろな人とおつきあいができて面白い。春風とともにいままで気づかなかったあちこちの花壇に色とりどりの花が咲き誇っている。


 

バートレー発(3) スクリューボール事件 

 

 これらに落ち着いてから数々のエピソードがありました。その中でももっとも私たちを青ざめさせた事件をご紹介しましょう。

 

スクリューボール事件

 岡山の友人のお宅におじゃました時子どもたちが遊んでいたフィールド・アスレチックというゲームがある。パチンコ玉より一回り大きい玉が、盤上の橋やら迷路やらを次々クリアーしてゴールまで行くゲームである。イギリスではスクリューボール・スクランブルという名で販売されているので退屈している子どもたちのために買った。

 翌日の晩、突如健太郎(2才)がわめきだした。「ぼーる・・のんだの・・のど・・」などととぎれとぎれにうめきながら泣いている。「なに!」指をつっこむと、ある、ある、喉の奥の方に。逆さまにして背中をたたくが出てこない。窒息したらどうしよう。

 悪いことに妻は英会話クラスの下見をするので車で出てしまっている。外に飛び出すと、こちらの騒ぎを聞きつけたのかお隣さんが顔を出している。「子どもがボールを飲み込んでしまった。車を貸してください。」「それなら、主人が運転して病院まで連れていってあげましょう。」ありがたい。こちらは気が動転しているので他人の車のハンドルを握る自信がない。

 べリーさんが黙々と運転してくれる。「どこの病院にいくのですか。」「ニューカッスルの近くに大きな病院がある。」健太郎はようやく泣き止んできた。6才の春奈は「お父さん、家の鍵かけてこなかったね。それにお財布ももってこなかったでしょう。」「こういう時はいいんだ。」

 

 クィーン・エリザベス病院の救急病棟に着く。子どもが死にそうだというのに、受付の看護婦さんはゆうゆうとメモをとる。「ケンタロ2才、、のど?、、ボール?、、ゲーム?、、」私の英語がよほどひどいのか、こちらがあせっているので聞き取りにくいのか、いくつも?がついたカルテが作られた。しばらくして、中国人風の若いお医者さんがきた。健太郎は神妙に口をあける。「メタルのボール、見えませんね。レントゲンをとりましょう。」健太郎を裸にしてレントゲン台に寝かせる。「お写真とるの?」などと気楽な健。何もイギリスまできてボールを飲み込まなくたってよさそうなものだ。

 あった、あった。あばら骨の真中辺にくっきりとボールの跡が。「もう胃に入ってます。」「危険はないのですか。」「ありません。何日かしたら出てくるでしょう。」「支払いはどこですればいいのですか。」「いりません。」こんな事態だからいくら取られても文句はいえないところなのに無料とは。それにご近所さんはありがたい、べリーさんとはほとんど口をきいたことがなかったのだ。

 

 5日後、なぜか洗えども洗えどもまっ黒なボールが回収された。愛着があるらしく健太郎は黒ボールでしか遊ばない。(後日談、黒ボールは1週間で元の光沢をとり戻した。あれは何だったのか)


 

バートレー発(4) 英国開発教育事情 

 

 この2月まで社会教育関係の調査の仕事に追われていてあまり海外協力や開発教育のことを調べる余裕がありませんでした。おかげて英国でごく普通に暮らしているとどのくらい第三世界の情報が入ってくるかがわかりました。3月に入ってロンドンに行く機会があり開発教育関係のことを聞いてきましたのでお知らせします。

 

☆ テレビは昨年後半は東欧・ソ連一色。2月に入って連日「マンデラ、マンデラ」−南アを始め英連邦の情報はめっぽう詳しいが(例えば香港)、それ以外はあまり報道がない(例えば韓国の保守3党合同のニュースを見た覚えがない)。

 国際協力では、10月に耳に包帯をしたクマのぬいぐるみが出てくる「Children in Need」のキャンペーンと、12月のBAND AIDによる第2次アフリカ飢餓救援キャンペーンのみ。いずれもおとなしいものであった。新聞には(私がとっているのはガーディアンとオブザーバー)時折一面の右下にクリスチャン・エイドやセイブ・ザ・チルドレンファンドなどの募金広告を見かける。「この人形は20ポンドです。この子は10ポンドあれば学校に行けます」などという気のきいたコピーで寄付を呼び掛けている。

 

○北東イングランドはあまり開発教育が盛んな地域ではないようである。開発教育センターの分布図も北東部には穴が開いたように空白になっている。それでもOXFAMショップはサンダーランド、ニューカッスルそしてチェスタ・リ・ストリートでも目抜き通りにみかける。ただ、ショップのボランティアのおばさんにOXFAMの活動や開発教育のことを聞いてもあまり要領を得ない。結局ロンドンの開発教育センター全国協議会(NADEC)まで行ってコンタクトできる人物の名前を聞いてきた。

 北東部ではやはりOXFAMが開発教育センターの役割を果たしているという。なんのことはない。いままでなんども通ってきたニューカッスルの目抜き通りのビルの3階にOXFAM教育部はあった。こぎれいなオフィスでインテリ風のクリス氏の話を聞いていると開発教育というよりはコンピュータ会社に来ているようである。クリス氏によればここでは学校の先生が多く出入りするのでできるだけオフィスをきれいにしているのだという。「これまで学校の教師対象の開発教育コースを提供してきましたが効果が薄いようです。というのはここ数年の教育改革で学校現場がひどく忙しいのです。特に全国カリキュラムの導入で教師は開発教育まで手が回りません。その全国カリキュラムでも開発教育は低く位置づけられています。地域の婦人グループや青少年活動で若干発展があります。」

 私が感心したのは情報提供システムである。これはロンドンのCWDE(世界開発教育センター) を訪問した時も思ったことだが、自分のところで発行した資料だけでなくあちこちの教育委員会やNGOで作った資料をはば広く揃えて販売していることである。OXFAMにいながらバーミンガムの教育委員会やセイブ・ザ・チルドレンファントの作成した資料が手に入るのである。これは日本のでも参考になると思う。

 

★ロンドンの開発教育センター全国協議会のオフィスはユーストンというターミナルの近くにある割りにはわかりにくい場所だった。ニューカッスルのOXFAMとは対照的にいかにもNGO風のオフィスで狭くて雑然としている。なぜかシャプラニールを思い出してしまった。サッチャー首相になってから補助金をカットされ今はOXFAMやECの補助金でやっと運営してるという。

 スタッフのサンディに今の英国の開発教育の最大の問題は何かとたずねると「これまで開発教育は中産階級の運動だった。いかに労働者階級まで広げるかです。」と言っていた。NADECでは7月13〜15日にダービーで全国集会を開く予定である。ちょっとのぞいてこようと思う。

 

◇リージェント公園の一角にあるCWDE(Center for World Developmet Education) はカレッジの中にオフィスをもっている。イングランドで唯一政府の補助金を受けている団体である。事務局長のウォーカー氏にお話を聞いた。氏とは3年前に会ったことがある。「今の我々の最大の関心事は今年から徐々に施行される全国カリキュラムにどれだけ開発教育の内容を実質的に盛り込めるかです。幸い関係者の努力で当初の案よりは開発問題が広く受け入れられることになりました。」

 CWDEでは8月22〜24日までロンドンで開発教育のカリキュラムに関する国際セミナーを開催する。私は社会教育の方が主だからと遠慮したのだが、日本の実情を知らせて欲しいということでその席に招かれることになった。

 

◎英国YMCA同盟では「Y CARE INTERNATIONAL」という名前で開発教育と国際協力に関する事業を独立させた。担当のサイモンに悩みを聞いた。「地域のYMCAに行って、あなたのYでは開発教育をしていますかと聞くと、多くの人は「エッ、何をですって。」と聞き返される。まだ開発教育はYMCAの中でもマイノリティ」だそうである。なお、世界YMCA同盟は今年の10月に米国シカゴ郊外のジョージ・ウィリアムズカレッジで開発教育国際ワークショップを開催する。

このセミナーの特色は「北」の参加者も「南」の参加者も一緒になって開発教育の進め方について話し合うことである。


 

バートレー発(5) イメージの中の「英国」 

 

 私たちが北東イングランドに着いたのは昨年の10月1日、第一印象は「寒い、暗い、寂しい」であった。9月の岡山は残暑が厳しく、従って私たちはいきなり夏から晩秋へと移動したのであった。道行く人はオーバーの襟を立てているのに私はセーターすら用意していなかった。日はどんどん短くなり11月に入ると3時には日が傾いてきた。とにかく正午を過ぎると日が落ちるという感じなのである。日本の秋の日が「つるべ落とし」なら、英国の太陽はエレベーターの綱を切ったように落下する。

 寒く暗い日々だったので余計にそう感じられたのだろうが、サンダーランドを始めとする北東イングランドがいかにも活気がなくわびしく感じられたものだった。それというのもこの辺りは英国一(北アイルランドを除けば)不況がひどいのである。私は木村治美さんらの数冊の英国記を読んでいたが、「英国病」なるものがやはり実感としては理解できていなかった。私のイメージの中にある英国は、大英帝国の繁栄とまではいかないにしても、「ゆりかごから墓場まで」の福祉先進国のそれであった。しかし、そのイメージは4半世紀も前の現実だったのだ。

 大学の同僚たちは時々「60年代はよかった」とつぶやく。私たちのように青春のノスタルジアで言っているのではない。70年頃から英国は悪くなる一方だ、このままじり貧なのだろうか、という漠然とした不安感の表明なのだ。先日、ヨークシャーのローザラムという労働者の町のユースサービス(青少年向け社会教育)を見にいく機会があった。あるコミュニティ・センターは午前中は「母親と幼児クラス」、夜はユースクラブをやっていた。なぜ母親と幼児クラスかというと、数年前炭鉱の閉山をめぐる大闘争がこの地方であった頃、職に就けない若い女性たちが食うに困って政府から手当てをもらうために子供をもうけたのである。その時はいいアイデアだったが、今では父親もない子供を抱えてますます生活に困っている。このクラスではそういう母親と子供たちの世話をしている。なんとも言いようのない話ではないか。

 ここ北東イングランドも事情は同じである。炭鉱は次々と閉山し、造船所は2年前に潰れた。青年の失業率は17%にも達する。こうした中で唯一の希望の光は日本企業の進出である。ワシントンの日産、ここバートレーの小松製作所はじめ約20社がすでに進出し、近々富士通も工場を造る予定である。BBCを聞いていると「グッドニュース。日産が新たに工場を作る計画を発表した。これにより約2000人の新規雇用が見込まれる」などというニュースが全国版で放送されたりする。

 日本企業の進出に反発はないのだろうか。妻がベビーシッターをしてくれる近所のメアリーという老婦人に「この辺の人は戦時中日本軍がクワイ川で行なったことをうらんでいないのですか。」と聞いたことがある。「昔はそんなことを言っていた人もいたけれど、日産が来てからは誰も言わなくなってしまった。」一口に日本企業の進出といっても、利益をうける地域と打撃を受ける地域とでは受けとめ方が天と地ほどに違うのである。


                       

バートレー発(6) ポートベロー小学校 

 

 友人の学校の先生たちは一様にイギリスの教育はかつて世界に誇れるものだったのに今はダメになった、と嘆きます。彼らがそう言うのはそれなりの理由があるわけで、サッチャーの10年間というもの教育予算は減らされ教員の待遇が悪くなる一方、教育改革の断行で現場はますます多忙になっているからです。しかし、私が娘の学校を通してみる限り英国の良き伝統はまだまだ捨てたものではないと思わざるをえません。

 バートレーに引っ越してきた翌日、妻は6才の春奈を連れてすぐ隣のポートベロー小学校を訪ねました。ちょうど校長先生がおられなかったので、その翌日に再度訪問しその場で入学。幼児部(インファント)の3年生に編入しました。9月まで山陽町のつくし幼稚園でチェックのショートパンツをはいていた娘がいきなりブルーのブラウスに赤いネクタイをしめ急に大人びてしまいました。義務教育は日本より2年早く始まるわけです。学年は4〜6才の3学年が幼児部(インファント)、7〜10才の4学年が年少部(ジュニア)と2つに分かれ教室もホール(兼食堂)を境に離れています。各学年とも1クラスずつしかなく、春奈の幼児部3年生は20人ぐらいしかいません。全校生徒合わせても200人足らずのこじんまりした学校です。校長先生はブロンドの美しい婦人で皆ミセス・ブラックと名字で呼びます。担任の先生もそれぞれミスター○○、ミセス○○です。午前は9時から12時、午後は1時15分から3時15分(年少部は3時45分)、その間にランチタイムがあります。

 「イギリスは何でも選ぶ国だね」これは春奈のことばです。まず制服ですが色は決められていても型は選ぶとか、逆に型は決まっていても色は選ぶとか。たとえば、赤いセーター又はカーディガン、グレーのスカート(ジャンパー・スカート又はプリーツスカート)、革靴(黒又はグレー)等など。スクールディナー(給食)は食べてもいいし、家に帰ってもよく、曜日も選べます。毎週月曜日の朝、いついつ食べたいと書いた紙とその代金(1食64ペンス=約160円)を持たせます。すると食券が渡されます。何を食べるかも選ばなくてはなりません。2〜3品の中からチキンかサラダかポテトかというように。8人くらいのグループのテーブルの人が全部食べ終わるのを待ち、今度はデザートです。りんごかケーキか‥‥。春奈は始め週に1〜2回だけ食べてあとは家に帰っていましたが、自分の好きなものが食べられるので今では毎日給食です。10月終りのハローウィンの日には給食のおばさん全員がこわいお面を付けていたそうです。

 私が感心したのは春奈が学校に行き出してから1週間目に開かれた収穫祭です。全校で歌や出し物があり父母も招かれます。春奈は入ったばかりで英語もわからないので当然出番はないものと思っていました。ところが、最初のあいさつでブラック校長が「先週から日本からのお友達ハルナが入学しました。今日はハルナには進行役をつとめてもらいます。」と言われたのです。春奈は先生の指示で観客席の最前列でさまざまなサインボードを出し、それに従って生徒が入場したり、劇を始めたりしていました。転校してきたばかりのしかもことばがわからない子供にそれなりに役目を与え、お客様ではなく学校の一員として迎えるというのはなかなかな配慮だと思います。

 私は収穫祭の様子を見ていてポートベロー小学校の教育に信頼をもちました。幸い春奈もよく適応し、これまで2度担任のカー先生との面談がありましたが、大きな問題もなく楽しく学校生活を送っているようです。

 


バートレー発(7) 英国版「学習指導要領」 

  

 4月に入ってから、全国カリキュラムについての学校での説明会がおこなわれました。これは日本の学習指導要領のようなもので、これまで各学校に委ねられていたカリキュラムが全国的に統一されるということで英国教育界にとっては歴史的な出来事です。春奈たちがいつも使っている食堂兼講堂に7〜80名の父母が集まったところで、ブラック校長が説明を始めました。

 「全国カリキュラムが今年度より徐々に導入されていきます。英語、数学、理科の3つの中心教科と7つの基礎教科より成ります。基礎教科は歴史、地理、技術・デザイン、音楽、美術、体育、それに外国語です。但し外国語は中学からですから我々には当面関係ありません。各教科はさらに細かい項目に分かれ、それぞれに対して学年ごとの目標が示されています。例えば英語であれば、読み、書き、聞き、スペル、表現の5項目が示されていますし、数学であれば14項目、理科は17項目が示されています。ただ、全国カリキュラムは教える内容については示していますが、どのように教えるかその方法は全く触れていません。私たちは今までのやり方でほぼカバーできると思っています。理科については項目が多いのでスペンサー先生を中心にカリキュラムを検討してもらっています。」などとてきぱきと話されました。

 聞いていると日本の指導要領よりはずっとゆるやかなもののようです。各教科ごとに教えなければならない、ということもなく、運河を見学して写生をし(美術)、運河の役割を学び(地理、歴史)、帰ってから感想文を書く(英語)というような合科的な指導も可能なようです。ただ、7才、11才、14才、16才の時点で全国的なテストが行なわれるというのは日本にはない点です。この点をブラック校長にうかがいましたが、まだどのように実施されるのか全く決まってないそうです。

 最後にブラック校長は「私たちはこのカリキュラムを十分に実施することができるでしょう。本校の教育はこれまでも外部から高い評価を得てきました。私たちもそれを誇りに思っていますし、父母の皆さんもこの学校にお子さんを入れられたことをきっと誇りに思うでしょう。私たちはこれまでもベストのものを目指してきましたし、これからもそうするつもりです。」最後のこの言葉は力強いもので、父母たちの不安を吹きとばすのに十分なものでした。父母会のバザーなどでよりお金を集めてくれればさらに教育効果があがるだろう、ということをさりげなく入れたあたりも学校経営者としてさすがです(サッチャーの教育改革ですべての公立学校は私立同様の独立した経営体となりました)。

 私はブラック校長を評価しています。ややボリュームはありますがブロンドの美しい婦人で暖かく時には厳しく子供たちを見つめています。数年前に初めて日本人の子供が2人入ってきたのですが、その子たちがうまく適応できるようにわざわざ日本の教育事情に関するセミナーにでかけたそうです。その結果、その子の悩みがよくわかったといいます。その子は自分の机がないと悩んでいたのですね。たしかにポートベローには4人で座るテーブルしかありません。ブラック校長は日本の学校では一人一人別々に座るのだということに気づき、その子の悩みにも対応できたそうです。また、日本から来たのだからコンピュータが使えるだろうと思って、やらせてみたらできなかった。この点も日本の小学校にはほとんどコンピュータがないことを知って理解できたそうです。この小さな学校にも4台のコンピュータが子供たちのためにあります。

 まだ半年で判断するのは早いですが、イギリスの教育もまだまだ捨てたものではないと思うのですがいかがでしょうか。              

 


 

バートレー発(8) あるNGOの倒産 

 

  NGOが倒産する?そんなことがあるのでしょうか。日本のNGOを見ていると倒産できるような大きな団体はそうありません。だいたい日本のNGOの多くは数人の人が意気込んで始めて、その人たちが抜けたり活発でなくなるといつのまにか名前を聞かなくなる、というような形で消えていくのが常です。ところがさすが大英帝国ですね、NGOが立派に倒産できるのです。

 

(3月24日付ガーディアン)

 英国で有数の国際協力団体である「WAR on WANT」が倒産した。この決定は昨日の運営協議会でなされた。事務局長のエバンズ氏は「債権者の会議を僅々に開催する予定である。これまでできる限りの努力はしてきたし、今後も海外プロジェクト、スタッフそして債権者のために最大限努力するつもりである。」と語った。昨年6月、スコットランド銀行に対し65万ポンド(約1億6千万円)の支払いを命じた慈善委員会では、早急にWoWの調査と今後とるべき方策を検討する予定。

 倒産の直接の原因は海外のプロジェクトに必要な100万ポンドに対して国内の募金が思うような集まらなかったため。本部ビルは売られ、40人の本部スタッフは解雇される模様。海外プロジェクトは他団体によって肩代わりされるでろう。過去3年間の理事メンバーは個人としても負債に責任を負う。WAR on WANTの財政難は5年前に遡ることができる。WoWに寄せられた善意の寄付金も債権者に押さえられてしまうであろう。他の団体はこのことによって慈善団体に対する世間の信頼を失うのではないかと恐れている。

 1980年代前半のアフリカ飢餓キャンペーンによって増えた寄付金額が最近伸び悩んでいてどのNGOも苦労している。どの団体も募金のためにたいてい広告業界などから専門の職員を雇用しているが、民間企業と競争しうる給与を保証するためにこれが負担になっている。特に最近の(サッチャー政府の)改革により学校、病院、大学などが一斉に「募金」に走っており、全体の寄付額が伸びない中でお互いにパイを食いあうかっこうになっている。

 英国全体の慈善団体は1985年に110億ポンド(約2兆7500億円)、最近は160億ポンド(約4兆円)の額を寄付金として集めている。英国内で最も寄付金額の多いOXFAMは昨年度で6億6700万ポンド(約1665億円)を集めたが、今年は募金のペースが遅いという。アムネスティ・インターナショナルはベルリンの壁の崩壊で冷戦が終結したため米国での寄付金額が落ち込み苦労している。

 

 手元にある最新の年報(1988/89年度)によるとWoWは世界45の国で200余りのプロジェクトを実施しています。その活動は最貧層、婦人、子供、人権に重点を置いたもので40年の歴史をもち、英国のNGOの中でも最もラディカルに南と北との平等を追求してきた団体と定評があるました。プロジェクト総額は798万ポンド(約20億円)に上りますから日本の大きなNGO(JVCやJOCS)の10倍の予算規模です。ただ、1988/89年度の収入(ほとんどが寄付金)877万ポンドに対して、支出は960万ポンドであり、約83万ポンド(約2億1千万円)の赤字を出しています。

 実は私はこの12月にWoWの会員になったばかり。会費はもう戻ってこないけれどよい勉強になりました。欧米のNGOは「進んでいる」というのが一般的なイメージですが、それはそれで大変なことなのです。

 


バートレー発(9) 開発教育先進国? 

 

 一年英国に住んで思ったことは、この国で開発教育を進めていくのはなかなかしんどいだろうな、ということです。キリスト教の基盤もあるし、かつて広大な植民地を持ち第三世界とのつながりも強いので、開発教育が当然広まっているだろうと思うのだが、ところがそうではないようです。私もイギリスは開発教育の先進国なのでいろいろ学んでやろうと意気込んできたのですが、どうも様子が違うことに気がつきました。

 

 もちろん、以前のバートレー発でお話したように見習うべき点が多いことも事実です。我々が住んでいたチェスタ・リ・ストリートのような小さな町にもOXFAMショップがあって、第三世界からのコーヒーやら手工芸品やらを売っていますし、全国50か所余りに広がる開発教育センター(DEC)のネットワークも地域での開発教育を進める上で貴重な活動をしています。また、自分の団体の発行でなくても資料や教材を展示、即売していて、ロンドンに行かずともそれらを手に入れることができるのは大変ありがたい。

 

 にもかかわらず私が落胆するのは、第三世界に対して一般的な国民の意識が極めて低いということなのです。この国の首相ですらアラブ諸国を批判する言葉として「非文明国(uncivilezed country)」ということばを使います。あるいは足元の南北問題としてインド大陸やカリブ諸国からの移住民およびその子弟の問題があるのですが、彼らに対するいやがらせや迫害は毎日のように起きている(表面に出るものだけでも年間5000件)のに定時ニュースではほとんど報道されることがないのです。そのくせIRAによるテロ事件はこと細かに解説します。

 

 この夏(7月13〜15日)ダービーでNADEC(開発教育センター全国連盟)の全国集会があったのですが、その席でも開発教育の運動が一部の中産階級に留まっていて労働者階級に広がっていかないことが問題だと盛んに指摘されていました。昨年までサセックス大学に留学していたK女史の論文によれば、この国の人々は読んでいる新聞によって3種類に分かれるそうです。第一がザ・タイムズやフィナンシャル・タイムズを読んでいる保守党に近い中産階級。第二がザ・ガーディアンやインディペンデントを講読する労働党に近い中産階級。第三がスキャンダルやヌード中心のザ・サンなどのダブロイド紙しかよまない労働者階級です。開発教育はこの内第二の層に支持されて発展してきました。

  なぜこのように第三世界に対する一般の人々の認識が低いかというと、実態は消滅したにもかかわらず意識の底に「大英帝国」という自国中心主義をひきずっているからだと思うのです。英、米、仏などの「大国」が開発教育に冷淡で、周辺国(カナダ、オランダ、オーストラリアそれに日本もそうでしょう)が熱心だというのは一つの傾向ですね。英国は日本やドイツと違って第一次大戦でも第二次大戦でも戦勝国であり常に「正義」の御旗を握ってきたのですね。それ故自分たちの過去に対して反省がない。というより反省し改革する機会を失ってしまった。1902年の南ア戦争以来、英国はじりじりと植民地戦争で

後退し、それにつれて国際的な経済競争力を失っていきます。しかし、これも大戦による虚脱感の内に旧植民地が勝手に独立していったという感じで植民地主義に対する反省を促すものとはならなかったように思います。

 それどころか植民地主義の遺産として英国には現在約300万人の移民ないしはその子弟が住んでいますが、彼らに対する偏見や差別は根深いものがあります。今年のNADECの全国集会のテーマも「開発教育と反民族差別」でした。彼らのことを総称して「ブラック」と呼んでいます。ブラックの中にも大きく分けてAFRO-CARIBBEAN(アフリカ・カリブ海の旧英領から来た人々)とINDIAN(インド・パキスタン・バングラデシュ人)があります。もともと1950〜60年代に英国が人出不足で困っていた時に旧英領から移住してきた人々およびその子どもたちです。その時は単純労働者として歓迎しておいて、不況になってじゃま者扱いしだしたのです。ですから、この問題は他人事ではありません。私は日本の20年後の姿を想像しながら話を聞いていました。

 必要があって日本から教科書を取り寄せたところ、なんと大阪書籍の「中学社会(公民的分野)」にシャプラニールが一頁にわたって取り上げられていてビックリしました。テレビに出るのと違って教科書に載るということはやろうと思ってできることではないし、また子供たちへの影響という点でもその効果は測りしれません。シャプラニール苦節18年の成果、というよりNGO・開発教育界全体のささやかな勝利だとすなおに慶びたいと思います。

 さてこうして手広く活動している各開発教育団体も悩みがあります。それは我々と同じでお金が足りないことです。NADEC(開発教育センター全国連盟)もサッチャー政府になってから補助金を打ち切られ台所は火の車です。7月にダービーで開かれた全国集会でも各地のDECから財源難の悩みが寄せられました。

 日本とイギリス、どちらが開発教育が進んでいるか、というのはあまり意味のある議論ではないでしょう。お互い交流を深めて学びあっていけばよいことです。スコットランドのネス湖のほとりにインバネスという町があります。こんな小さな町でもヒレリーさんという人が、英国の辺境であるハイランド地方と第三世界とのつながりを考えながら成人教育で開発教育の実践をしているそうです。こんな話を聞くとまだ会ったことはないけれどヒレリーさんにとても親しみを感じてしまうのです。


 

バートレー発(10) 等身大の英国

 

 イギリスに腰を据えて1年近くなると、見るもの聞くものが珍しいということがなくなり、尊大にも卑下にもならない形で様々な事象が見えてくる。英国に来てみて当初の予想と大きく違っていたことが3つある。一つは教会のもつ社会的影響力が非常に小さいこと、2番目は離婚が多くて子どもが「たいへん」なこと。3番目はサッチャーさんの下で「福祉国家」がみごとに消え失せていたこと、である。

 

 それぞれ書けばきりがないのだが、まずキリスト教について言えば大雑把にいって日本の宗教と同じくらいの役割しか果たしていないのではないかと思う。大体私の周囲で毎週教会に行っている人は一人もいなかった。「昔は行っていたけど飽きたから行かなくなった。」(ジャック、60代)「子どもの頃教会学校には行っていたわ」(ジーン、30代)。年一度クリスマス礼拝に行っているというのは良い方である。イギリス人が正月に日本に来て、全国民の4人に3人が初詣に出掛ける風景を見たら、日本人はなんと信心深い民族だろうと感じるのではなかろうか。

 2番目の離婚問題はやや複雑である。現象だけを言うならば、イギリスの家庭に招かれたときその家の人間関係を良く理解できないことがままある。「高校に行っている娘は顔が母親に似ているから今の二人の間の子どもだろう、上のお嬢さんは最近離婚して戻ってきたそうだけどどちらの子どもだろう。父親とは名字が違うから母親の連れ子かしら。はて、もう一人いたお嬢さんは何なのだろう。家族なのか、親戚の人なのか。」などと悩むことがある。よほど親しくなければ聞くこともできない。

 旅先であった親子3人連れ。母親が毛糸で編み物をしているので、7才というお嬢さんに「お母さんは編み物がじょうずね」と誉めると、「私のママは編み物しないの。」という返事。その先の言葉に困ってしまう。早い話が、家族はパパとママと子どもたち、という核家族の前提が完全に崩れているのだ。5組のカップルの内2組は離婚し、子ども5人の内1人は片親の家庭。4人に1人の赤ちゃんは未婚の母から生まれてくるという統計がある。複雑なのは離婚の増加は女性の社会的地位の向上と関係が少なくないことである。従って日本のことについても「日本は私たちのまねをしてはいけません」と忠告してくれる人と、「日本では政治家が芸者ガールを囲っているそうですね」と日本の男性中心社会を批判する人と両派に分かれる。

 最後に、今の英国を戯画ふうに言うと、「ゆりかごから墓場まで」の社会保障に慣れきった労働者たちにサッチャーさん一人が「甘えていないでもっと働け」とムチを振っている姿だろう。ついでに言えば後の方で保守党の男性議員が止めようか止めまいかオタオタしている。最近大きな議論の的になっている人頭税が良い例である。年収200万円の人も2億円の人も同じ地方税10万円(自治体によって若干額は違う)を支払う。高い人頭税(正確には地域税=COMMUNITY CHARGE)がいやならば、地方政府の福祉サービスを切り下げて支出を押さえればよい、というのがサッチャーさんの論法である。

当然労働党支配下の地方自治体がねらいうちされている。私の回りには福祉、教育、大学関係者が多く、皆この10年間財源カットに次ぐカットを受けていじめられているから女性宰相に対する怨嗟の声が渦巻いていた。

 

                〔バートレー発 おわり〕


UK98記念寄稿  英国留学の思い出

原題:ボーイスカウトの謎

 

 「タナカ!それは大変な事実だ。今まで英国の研究者は誰も指摘していない。早速調べて欲しい。」とサンダーランド大学のフランク・ブートン氏が言った一言は、私の留学生活だけでなく、その後の研究人生を変えることになった。1989年冬、私はイギリスの青少年の社会教育(ユースサービス)を学ぶために北東イングランドにあるサンダーランド大学(当時はポリテクニック)に留学していた。フランクとは毎週1回、日英の青少年教育について意見交換するためのセミナーを開いた。

 20世紀初頭の英国のユースサービスを語るときに、英国軍人でもあったベーデン-パウエルが1907年に創設したボーイスカウト運動は研究上欠かすことのできない存在である。ある日のセミナーで私は何気なく「ベーデン-パウエルは日本の薩摩の郷中教育を参考にしてスカウト運動を始めたはずだ」と漏らしたところ、フランクから冒頭のような反応が返ってきたのだった。

 ベーデン-パウエルは1911年に来日したこともありかなりの日本通でもあった。そして日本の武士道や日露戦争での乃木将軍を深く敬愛していた。ベーデン-パウエルが薩摩藩の武士子弟の教育法である「郷中」の訓練法をスカウト活動に取り入れたという説は、ボーイスカウトが日本に伝播した大正の初期からあり、スカウト関係者などではすでにそれが定説となっている。郷中(健児の社ともいう)とは薩摩藩の剛毅な士風を育てたといわれる訓練法で、6歳から成人するまでの子弟はすべて郷中で訓練された。郷中では「頭」が選ばれ、頭が郷中生活の一切の責任を負うという自治的な集団である。西郷隆盛も郷中頭であり、明治維新と西南戦争でかけめぐった同志との連帯感は郷中のなかで築かれたものである。

 私は英国に滞在している地の利を生かしこの際ボーイスカウトの「郷中起源説」を徹底的に調べてやろうと考えた。まず英国の優れた図書館間の貸出しシステムを利用してボーイスカウトやベーデン-パウエル関係の文献をすべて取り寄せた。時間はかかったが日本から取り寄せることを思えば苦にはならなかった。次にロンドンにある英国スカウト連盟の資料室を度々訪ねて、資料室にある日本との関係についてのファイルやベーデン-パウエルの滞日中の日記などをつぶさに調べた。さらに、当時勤務していた岡山大学の教育史の同僚に連絡して、乃木希典の講演録や郷中の文献を探索してもらうとともに、郷中起源説の根拠についてボーイスカウト日本連盟まで手紙で問合せた。

 しかしながら、ベーデン-パウエルが著したどの書物や記録にも「薩摩」「郷中」「健児の社」の記述はないし、郷中起源説を裏づける資料はどこからも出てこなかった。どうやらこの話しは「ネス湖の怪獣」ではないかと思い始めたのは、ベーデン-パウエルの伝記やボーイスカウト運動について研究している2人の人物に会ったときである。彼らは一様に郷中や薩摩のことは知らないといい、また、フランクと同様、面白い話だから是非調べて結果を教えてほしいと言った。

 結局、私は英国での留学生活の大半をこの郷中起源説の真偽の調査ために使ってしまった。帰国するときは私の心の中ではこの説は9割方真実ではないだろうと信じるに至る。日本に帰ってからも、岡山と東京のボーイスカウト日本連盟を何度か往復して日本側の資料調査に当った。およそ1年後ついにこんな文書を発見した。昭和2年に英国を訪問してベーデン-パウエルに直接この件を問いただした人物がいたのである。「当の御本人に秘書を通じてただせば、卿は『いづれと云ふ程の確たるものがなく、只日本に負ふ処頗る多い』として私の試問に答へられてゐる。」(勝矢剣太郎著『欧州スカウト行脚』)

 ベーデン-パウエルは赤穂浪士も白虎隊も知っていたし、そしておそらく薩摩についても知識があっただろう。しかし彼にとっては武士道は武士道なのであってそれが会津であるか薩摩であるかは区別していなかったのである。私のネッシー探しの旅はこれで終わった。

 残念ながら私は新発見を逃がし、英国社会教育史に名を残すことはできなかった。しかし、おかげで英国のボーイスカウト史について本国の研究者に負けないくらい知識を得ることとなった。日本に帰ってからは少年団という名称で入ってきた日本のボーイスカウト運動史について研究を続ける。ボーイスカウト連盟からも機関誌に連載を頼まれ「歴史のなかのベーデン-パウエル」として20回にわたって執筆した。これをもとにして中公新書から『ボーイスカウト−20世紀青少年運動の原型』を出版したのは1995年のことである。さらに調査を進めボーイスカウトと少年団の歴史研究により一昨年九州大学より博士号をいただくことができた。すべてはフランクのあの一言から始まっている。

 フランクとはその後2年ほど手紙でやりとりをして、日英の青少年教育史について共同出版しようと話し合った。1993年の夏には3年ぶりに北東イングランドを家族で訪問し旧交を暖めるとともに出版の相談をした。しかし、フランクが51歳の若さで急逝したのは私たちが帰国してからわずか10日後のことであった。

(1998.1.30.)

〔『BCJAの本−留学経験者が語る英国の学問と生活』風人社、1998年5月刊より〕 

 


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