インドネシアの話し

 

      田中治彦  

 1998年5月25日


 

 インドネシアではスハルトが大統領を辞任しました。私は、インドネシアには過去4回しか行っていませんし、長期滞在の経験もないのですが、それでも1975年以来細く長く関ってきた経験から今回の「革命劇」に触発されて、これまでのおつきあいのあれこれなどお話ししたいと思います。

 

 その1

 

 私が最初にインドネシアに行ったのは今から24年前です。総務庁が主催した東南アジア青年の船で約1週間滞在しました。印象はとにかく「のんびり」です。インドネシアに上陸するまでとにかく滞在中のスケジュールが分からないのです。それでもインドネシアのリーダーは「大丈夫、行けばなんとかなる」と言っていました。確かに何とかなりました。インドネシアの時間は「ゴムの時間」と言われていて、伸び縮み自由なのです。

 青年の船にはASEAN5か国と日本の青年が各国30人づつ乗っていました。各国のナショナル・リーダーといって政府の役人も乗船していました。青年たちはインドネシアの各地から来ていて、ジャカルタに来るのも始めてという人が多かったですから、ましてや外国の船に乗ってとても気後れしていました。一言でいうと「田舎っぽい」(失礼)のです。

 ところが、他のASEANのリーダーたちがどことなくインドネシアに遠慮しているのです。重要なことを決めるときには必ずインドネシアのリーダーの意見を聞きます。青年たちの様子からはとても大国というイメージはないのですが、なる程ASEANの中では「大国」なのだと感じました。

 どうしてそんなにインドネシアに遠慮するのか、とあるアジア通に聞くと「要するに人口が多いのです」との返事。当時でも1億3000万人はいましたから、戦ったら人口300万人(現在)のシンガポールなどひとたまりもないのは確かです。

 フェアウェル・パーティでひとりひとりの参加者と握手するのですが、他の国の青年は一度は見かけた覚えがあるのに、インドネシアの参加者の半分はまるで始めて会ったようで見覚えがない。船は共同生活で国を超えてキャビンで寝泊まりしているのですが、インドネシアの青年は「インドネシア・ルーム」という国別の狭い部屋に10人以上で毎日寝ていたとか・・・

 そんなインドネシアの青年も最近はすっかり変わりました。今の若者はそんなにシャイではないし、しばしば他の国の青年と見分けがつきません。かつては「おひげでこわい」という感じのひとが多かったのですが。

 

 その2

 

 次にインドネシアを訪れたのは1984〜85年でした。この時私は国際協力NGOの仕事していて、もっぱらインドネシアの各地のNGOを訪ねました。インドネシアでは外国のNGOの活動は大変難しいです。NGOどころか政府間の援助(ODA)のひとつである青年海外協力隊すらインドネシア政府は受入れていませんでした。外国人に自分の国をかきまわされたくない、という思いがあったようです。

 当時、インドネシアは石油収入のおかげで経済が絶好調、したがってスハルト体制は蟻が入りこむすき間もないほど磐石でした。インドネシア人によるNGOもようやく力を得てきて貧しい人々の生活と福祉の向上のためにその活動が認められるようになってきました。しかし、インドネシアではそもそも政府(とくに軍と内務省)の力が強く、民間団体は常に政府との緊張のなかで仕事していました。

 私たちのカウンターパートはWALHIという環境保護団体で、インドネシアでは民間としても自立しているし、政府にそこそこものを言うし、それでいて政府ともうまくやっている団体でした。WALHIは環境保護活動だけでなく、インドネシアNGO界の調整役のようなこともやっていましたので、私たちはかれの助言であちこちのNGOを訪問しました。

 ちなみに私がやっていたのはACT(アジア・コミュニティ・トラスト)といって、日本で募金したお金をアジア各地のNGOに資金助成する仕事でした。ですから、主に現地で評判のよう活動をしている地元のNGOを探すのが訪問の目的です。

  強固なスハルト体制のもと、インドネシアのNGOは反体制活動はもちろん、政府批判ととられるような活動はできませんでした。もっぱら活動内容は、教育、収入向上、保健、家族計画、など穏健な福祉活動です。NGOの中にはスハルトに批判的な人が多いようなのですが、首都ジャカルタではそのような政治向きの話しは相当親しくならないとできない雰囲気がありました。

 それでも地方都市に行くとスハルト体制にもすき間ができるのでしょうか、結構ラディカルなNGOにも会いました。今回首都では5月20日のデモが完全に押えられてしまいましたが、スラバヤでは学生らが多数街に繰り出して堂々とデモを行いました。この行動もスハルト退陣に一役買ったと言われています。

 スラバヤがある東ジャワ州は反体制てきなイスラム勢力が強いのですね。イスラム団体は「プサントレン」という学校をもっていて10〜18歳くらいの生徒たちが寄宿制で暮らしています。宗教学校であるプサントレンの方が公立の中等学校よりも権威があるくらいです。ですから筋金入りのイスラム指導者を多数排出していますし、彼らはしばしば反スハルトです。

 というわけでNGO関係者からは慎重に言葉を選びながらもぼつぼつスハルト批判のような話しを聞きました。しかし、1985年の時点ではスハルト体制がすぐに壊れるなどということは想像もできないくらい強い体制でした。その最大の要因は経済が好調なことと、内務と軍による統制が行き届いていることでした。

 

 その3

 

 ACTで仕事をしていてインドネシアのNGOへの協力にいくつか困難がありました。外国のNGOが入りにくいこともそのひとつですが、地元のNGOも他の国(例えばタイやフィリピン)に比べれば多くはないのです。

 それでもがんばっている人は地道に探せば結構います。例えばディアン・デサ財団を作ってアントン・スジォルウォは立志伝中の人物です。彼はある工科大学の出身なのですが、地元に帰って何とか村をよくしたいと考えました。彼の村で最も困っていたのがきれいな水の確保だったのです。アントンは水源のある山と自分の村を測ってみて、10メートルの落差があることに気づきます。彼はなんと3つもの山を超えて水道管を敷いたのです。そんなことができるのかと不思議がる村人を説得してまさに人海戦術でこの仕事を成し遂げたのです。アントンも彼の財団も今ではインドネシアを代表するNGOになりました。

 インドネシアと仕事をしていて悩まされたのが「手紙」のやりとりです。これは優れているのでACTで資金協力したいと思うプロジェクトがしばしばあります。そこでいついつまでに英語で申請書を送ってください、とお願いするのですが、これが寝ても覚めても届かない。こちらは年度事業で助成決定をする委員会の日取りは決まっていますので、結局電話をしたりあれこれ手をつくすのですが、ついぞ便りがないということも何度かありました。同じことは報告書の場合もそうなのですが、こちらの方はとにかく気長がに待てば必ず来ます。1年で完了すべきプロジェクトが3年かかったこともありますが、実際に行ってみるときちんとやっています。

 インドネシアの「ゴムの時間」には皆一度は悩まされます。

 

 その4

 

 最後にインドネシアに行ったのは昨年の8月末でした。私にとっては13年ぶりのジャカルタで、その変貌ぶりには驚きました。私の印象ではジャカルタの中心部はだだっ広くてスカスカしていて独立記念塔がただ一本立っているだけという感じだったのですが、今回は大通りにびっしりビルが建っています。昔の記憶をたどってもどこがどこだかわからないくらいです。

 この時は地方自治体の国際協力の調査で行ったため、ほとんどがお役所回り。インドネシア統治の牙城−内務省にも行きました。スハルト7選に向けて街全体がピリピリしている感じでした。NGOの関係者とも話しました。国際的な流れを受けて一面では政府とNGOとの協力関係が深まっている部分もあるのですが、一方で政府は「問題のある」32のNGOを名指しで批判していました。「問題がある」というのは要するに「反スハルト」ということです。

 インドネシアのNGOに助成しているアメリカのある財団で働くスタッフとも話しました。私が「以前来たときよりNGOにまで統制が強まっていて窒息しそうだ」と言うと、彼は「いや、表面的にはそう見えるかも知れないが、この国の政治はずいぶん動くだろう。将来は非常に可能性がある」と言っていました。今考えれば彼の言っていたことが正しかったわけです。NGOは民衆に一番近いところで働いているだけに、政治の地殻変動みたいなものがよく見えるようです。

                          

  その5

 

 このとりとめのない話しもそろそろ終わりにしたいと思います。

 昨年インドネシアの内務省に行ったわけですが、その様子をお話ししましょう。私たち自治体の国際協力の調査部隊はわずか3人なのですが、内務省に説明に現れた人々は6人でした。これがジャカルタ市役所やスラバヤ市役所となると約10人も出てきてくれました。日本でもそうですが、実際の説明をするのは実務をしているナンバー2で、トップの人は最初のあいさつとときどき口をはさむだけ。そしてナンバー3以下は説明を求められない限り絶対に口を開きません。

 インドネシアの場合完全に中央集権で、各州は国の下部機関の位置づけです。私たちは東ジャワ州の調査もありスラバヤまで飛行機で飛ぶことになりました。すると内務省からなんと3人もの人が付いてくれます。これは礼儀なのか監視なのか。調査する方としてはやりにくいです。

 ところがスラバヤ空港に着くと誰も出迎えに来ていない。内務省の3人の序列はよくわからなかったのですが、3人が3人とも電話に走り必死に話している。その3人が違った答えを持ってきた。いろいろ混乱した結果、わかったことは結局連絡ミスでその日は予定なし。ゆっくりホテルで休みました。しっかりしているようでそうでもない。外から見ると独裁政権下で民衆は息詰まっているように見えますが、こういう隙間というかお間抜けなところがあるので案外ゆったり暮らしているものです。

 さて、今回の政変、落ち着くまでに時間がかかりそうです。フィリピンのマルコス脱出から前回のラモス再選で民主政治が整うまでに約10年、タイの学生革命からスチンダ軍事政権の終焉までなんと20年、インドネシアの民主化もそのくらいのタイムスケールで見る必要がありそうです。そう言えば日本もひとごとではないですよね。55年体制崩壊のあとの新秩序はまだできていませんから。

 

                            (おわり)


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