ももすけエッセー集

 

立教大学4丁目

 

田中治彦  

 最終更新 2002年8月12日 

 

神宮応援記

 

 先週の日曜日に神宮の六大学野球の応援にいった。ゼミにチアをやっている4年生がいて、これまでも度々誘われていた。今回がいよいよ最後だ、というので行くことにした。1塁側のチケット売り場でS先生と3人の学生と待ち合わせ。S先生は、早稲田大学の卒業でその後慶応大学の大学院に行き、今立教の教師という、六大学制覇まであと3大学という「神宮の達人」である。

 さて「応援」である。これがとにかく忙しい。アウトを取れば飛び上がり、ピンチといえば声を枯らし、点をとれば肩を組んで歌う。

 肝心の野球など見ているヒマもないくらい忙しいのである。とくに私が苦手だったのが「動く応援」である。「は〜い、動いてくださ〜い」と応援団の学生が言うと、8コ間右に移動して、8コ間左に戻らねばならない。私は最初要領がわからなくて、移動の途中でコケテしまった。そのとたんに立教の1塁ランナーが牽制されてアウト、あっという間にチャンスをつぶしてしまった。8コ間戻るときに、前の女子学生の背中が笑っている。

 応援歌も何と6つもある。私が知っているのは第2応援歌まで。「Rikyo will shine tonight」というやつだが、知っているといっても替え歌の方で「りこうじゃないない・・」と歌うわけにもいかず、口パクでごまかした。もっとも第3応援歌以降は応援団以外はほとんど歌っていないようだった。鉄腕アトムの替え歌もあったが、正式の歌詞を2番まで堂々と歌って隣の学生に驚かれた。本当は3番までパーフェクトに歌えるのだ。

 神宮は野球を見にくるのではなく、まさに「応援」しに来るのである。S先生に言わせると早稲田と慶応は神宮があるので「6月病」にかかる学生が少ないのだそうである。立教も応援を必修にすべし、といのが彼の持論である。現に彼は1年ゼミをもつときには、全員をこの神宮に連れてくる。

 さて、肝心の野球であるが、立教はあまり強くない。7〜8年に一度くらいは優勝するので阪神よりはましというくらいである。しかし、チアのかわいさならば負けないのではないだろうか。私たちの試合の前に応援していた東大のチアは問題にならないが、相手の法政と比べても確実に勝っている。それだけでも応援にくる価値はある。

 試合は「3対1」で立教の勝ち。法政から8年ぶりの勝点を上げたのであった。

2002年5月18日


さらば、豊島区立日出小学校

 

 池袋の東口、西武デパートがある方である。ここから護国寺までの不忍通りの周辺は鉄腕アトムの思い出とも重なる、自分の子どもの頃の遊びの「領分」である。。

 キンカ堂の前の通りを300メートルほど抜けると、高速道路がサンシャインに向かって大きくカーブしている。その交差点を右にすこし入ると小学校がある。正確に言えば「あった」というべきか。昨年3月をもって閉校となった我が母校「豊島区立日出小学校」である。

 日出小学校が統合されるという話しは随分前から聞いていた。最初に聞いたのはまだ私が岡山にいた頃である。そしていつかはその時が来ることは覚悟していた。ちょうど2年前、立教の学生が日出小学校で教育実習をすることになった。もちろん、私は彼女の担当教員となることを志願した。実習校へのあいさつ回りや研究授業への出席はけっこう大変な仕事なのであるが、この時ばかりは何も苦にならなかった。最後になる校長先生とは実習生の指導もそこそこに、昔語りばかりしていていた。

 そして2001年3月3日、ついに閉校式の日を迎えた。

 母校とは言っても、校舎も建直され、正門の位置も代わり、かつての面影はほとんどとない。頭から落ちて大怪我した鉄棒もないし、秘密の溜まり場となっていた体育倉庫も存在しない。すっかり少くなってしまった在校生、学年わずか1クラスの子どもたちと自分とは何のつながりもない。どことなく疎外感を感じながら式典が進んでいく。そして校歌斉唱が始まった。「豊島が丘の朝風に燃える日の出の意気高し・・・」このとき初めて、40年近く離れている子どもたちとの一体感を感じた。同じ校歌を共有するものとして。私は声がつまって最後まで歌うことができなかった。

 記念パーティの会場には、卒業生が集まっている。自分と同じ年代を探してはみたがなかなか見つからなかった。幸い1年離れている卒業生の群れがあり、そのつてで一人だけ同じクラスの友人を見つけた。覚えているぞ、君は私と切手交換したときにズルしたんだ。今はそんなことはどうでよい。クラス・メイトの消息が先である。何人かが近くに住んでいることがわかった。私もそうであるが、東京オリンピックの年に高速道路ができたせいで、多くの友人が引っ越していった。私たち前後の世代は多くが離散してしまい、同窓会も2度ほどしかなかった。担任の先生の消息がわかった! まだ元気だという。是非一度お目にかかりたいものである。

 帰り道、足は自然と通学路を元の家に向かって動いていた。都電を過ぎて雑司が谷墓地の脇を通る。ここだけは昔も今も代わりない。古い公園墓地なので、車も人も来ないかっこうの遊び場だった。墓石や塀や木に登って遊んだ。野球もよくやった。紙芝居のおじさんが来て、梅ジャムのついたせんべいを売っていた。あのおじさんはもういないだろうな・・・

 ものの10分もしない内に、元自宅があった高速道路の下に出た。こんなに近かったのか。ただの駐車場になっていて感傷にひたるべき面影は何もない。道路を渡り、日出町商店街を抜ける。買い物籠下げたオバサンたちでごった返していた商店街も、今はシャッターが下りている店が目立つ。食料品店などが昔ながらにほそぼそと営業を続けている。

 商店街を抜けて再び都電の踏切を渡ると、そこはサンシャイン。昔、巣鴨拘置所があったところである。拘置所の前庭でも、よく野球をやった。ボールが中に入ると、塀を乗り越えて取りにいったものだ。看守のおじさんによくおこられたっけ。

 サンシャインの西側に小さな公園がある。よく見ると日出公園と書いてある。正式な名前は知らなかったが、自分が一番お世話になった公園である。ここに来れば必ず誰かいて遊ぶことができた。空き地にブランコ、滑り台それに時計台という小さな公園だったが子どもにはそれでも十分だった。ここで遊んでいるとよくへんなおじさんが出てきた。「オレは元巨人軍のピッチャーだったんだ。肩を傷めて今は引退している」なんていうおじさんは一人ではなかった。あのおじさんたちはどうやって生活していたのだろうか。のどかな時代だ。

 日出公園は今では植込みも整備されてこぎれいになっている。唯一うれしかったのは、この公園の脇にコーヒーショップが出来たこと。カウンターに座って公園を見ていると昔のことがあれこれ思い出される。またこの公園に来て、コーヒーを飲みながら鉄腕アトムを口ずさもう。

2002年5月13日


雑司が谷墓地

 

 朝池袋の駅を降り立つとなんだかなつかしい気がします。通勤客でごったがえす駅がなつかしいというのはおかしな感じがしますが、私は岡山で暮らした12年間を除くとすべてこの駅を基点に生活していたのです。

 生れたのはどうも西口の近くらしいのです。「らしい」というのはまだ自分ではその場所を確認していないからです。せっかく西口の大学に来たのだから一度はルーツを見つけにいきたいと考えています。もの心ついてからはもっぱら東口です。小学校は駅からわずか500メートルの日出小学校。雑司が谷墓地がかっこうの遊び場でした。墓地といっても公園のように広いですから、子どもの三角ベースくらいどこでもできました。墓石や柵や塀の間を縫うように飛び回りました。今も「子どもの遊び」を研究テーマのひとつにしていますが、池袋時代のことが原体験になっています。

 今サンシャイン60となっている建物は元は巣鴨拘置所でした。拘置所の前にはちょっとした空き地があり、そこでよく野球をしました。私の子どもの頃はサッカーなんかする子はいません、皆野球です。高い塀があって、ときどきお弁当屋さんなんかが門をくぐり抜けていました。ところが低い塀の建物もあって、おそらく管理棟なのだと思いますが、ときどきこちらにホームランボールが飛び込んでしまう。すると子どもたちはその塀を乗り越えてボールを取りにいくのです。よくおこられました。「おいおい、ここはお前たちの来るところじゃない!」

 拘置所の近くに小さな公園があって、何の変哲もない公園ですが学校に近いのでそこに行けば誰か必ずいました。4人5人と集まるとたいてい野球です。当時はひまな大人も多かったようで、ときどき背中に模様のあるおじさんが遊んでくれました。昼間なのに何をしていたのでしょうね。「オレは元巨人軍のピッチャーだった。肩を壊して引退したんだ。」というおじさんを少なくとも3人は覚えています。子ども心にすごいななんて感心していましたが、今頃になって疑問を感じています。

 池袋は今では若者の街になりつつありますが、ほんの10年くらい前までは「オヤジの街」でした。あまり品もよくない。『空手バカ一代』というマンガの最初のシーンは大山倍達が池袋のガードの下でやくざと殴りあうシーンです。北口のこのガード、今はウィロードなんてしゃれた名前できれいになりましたが、かつては昼間でも薄暗く物乞いの人もいて女性ひとりでは歩けませんでした。

 西口駅前に芸術劇場が出来てすっかり街の様子が変わりました。その頃から若い人が集まりだしたみたいです。地下道も整備されて、駅から立教大学までほとんど雨に濡れずに行けるほどです。

 池袋の街がきれいになるのは嬉しいですが、反面昔のなごりが次々消えていくのは寂しいです。我が母校日の出小学校も近々統合されて廃校になると聞いています。昭和30年代40年代の池袋の記憶を記録しておかねばと考えています。

(1998.4.16.)


 

はじめまして

 

  昨年10月に岡山大学から赴任してまいりました。 年度の途中ということもあって当初は卒論の指導学生もいませんし、学科の運営にも十分には関れず、気分的にどことなく中途半端で周囲にいろいろご迷惑をおかけしています。

  最近渋谷と並んで若者の街になりつつある池袋、そこにある都会派の立教大学で働くということで、早速背広を新調しました。あまりみっともない格好はできないと家族も気をつかってくれまして。最初の日にその背広を来て常磐線と山手線を乗りついで行きました。6号館の前で研究室が同室の前田先生に会いました。「うしろに糸が付いてますよ」と言うんです。まっさらの背広は背中の下のところで糸がばってんに縫い付けてあるのです。いやはやまいりました。こんなかっこうで2時間も通勤してきたとは。

 それでけじゃないんです。帰り道のことです。引っ越したばかりで自宅近くのバス停がよくわからずひとつ前で降りてしまったのです。ニュータウンでまだ家もまばらですので家の方向はすぐにわかりました。ところが道が行き止まりになってしまったので、空き地を突っ切ろうとしたのですね。すると「ワンワンワン」とけたたましい吠え声で何がが飛び出してきていきなり足にガブッ。いや、痛かったです。明るいところで見ると今日下ろしたばかりのズボンに見事な亀裂。足の痛みよりもこちらの方が痛かったです。

 こうして立教の初日はさんざんなスタートでした。しばらくは牛久沼のほとりから池袋までの2時間の通勤がつらかった。何かの手違いで朝の1時間目の授業が2回も入ってしまい、朝早く電車で立ちっぱなしというのは身に染みました。岡山のときはわずか20分の自動車通勤ですから。おかげで10月だけで3キロもやせました。

 でも最初に悪いことがありましたので、その後はよかったです。特に院生のゼミは面白かった。前期の分も消化してくれ、ということでゼミは金曜日の4時半から7時過ぎまで2コマ分をしなければなりません。金曜日の夜の授業なんて、猫にまたたびです。毎週、院生たちとどこかで飲んでいましたよ。楽しくてつきあいのよい学生が多くて、アジアのエスニック料理の店によく行きました。岡山大学のときは、飲みに行こうと思っても大学の周りにはろくな店がないので、わざわざ町までバスかタクシーで出なければなりませんでした。立教ときたら、周り中に飲み屋がある、というよりは飲み屋の中に大学があるといった方がいい。毎週金曜日は、行きは池袋駅から立教まで10分で行きましたが、帰りは3時間以上かかりました。

  今年に入って授業と試験が終わったかと思うと、入試の季節。2月3月はほとんど入試にかかりっきりで、いつの間にか卒業式でした。 岡山大学には10名の学生・院生を残してきましたので10月以降も毎月1回は岡山に帰って卒論のめんどうをみました。この3月で皆無事卒業していってくれたのでやっと岡山から離れられる気分です。

  いよいよ新年度ですが、私にとってはこれからやっと始まるという感じです。新入生になったつもりでがんばります。

                                    (1998.4.3.)


 

立教大学4丁目の由来

 立教大学のホームページにもある「ツタのからまる本館」を抜けると右手に大学本部のタッカーホールが見えます。本館とタッカーの間をさらに奥に進んだ辺りに何とはなしにやや広い場所があり、ここをなぜか「4丁目」と呼んでいます。「今度のバザーは4丁目で行います」などとタテカンに書いてあります。私はなぜか4丁目という響きにかつての池袋をだぶらせて、このページの題名とすることにしました。


 

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