1999年3月16〜21日まで、学生ら総勢5人でタイのバンコクとチェンマイ近郊に行ってまいりました。今回のテーマは子どもを対象とした教育・福祉・文化活動の現状を知ることでした。行ったコースは2年前の「一緒にタイランド」とほとんど同じです。
1999年4月25日
田中治彦
前回のとき(1997年3月)はまさにタイの経済のバブル崩壊直前で、バンコクもチェンマイもおおいに浮かれていました。今回経済危機のあとなのでその点がもっとも心配でした。
ところが、今回会った人誰一人、経済危機について切り出さないのです。スラムのワーカーからビジネスマンまでいろいろな人に会いました。日本のビジネスマンならば枕詞として「今、不況でしてね・・・」で会話が始まることでしょう。
こちらがしびれを切らして「ところで一昨年来の経済危機の影響はいかがですか」というと、「そうね、去年は大変だったけれど、今年は上向いてきているので」との返事が帰ってきました。バンコクの町に失業者があふれているのではないか、との予想は見事に裏切られました。
「失業した人たちはどうしたのですか」と聞くと、「来たところに帰っていったよ」との返事。バンコクで食えないひとたちはそれぞれの村に帰っていったそうです。村では一時的に人口が増えてしまって、すでに収穫物を売ってしまった家族では食料不足で困ったという話を紹介してくれました。
私はタイに行くと、バンコクのスラムとランプーン県(チェンマイのとなり)のバンホーン村を定点観測地にしています。ところがスラムの定点観測は実に難しい。2年前に行ってびっくりしたトンブリの道路の下のスラムですが、このスラムは現在道路拡張工事中のためにほとんど立退き状態でした(一緒にタイランド第2話参照)。以前はクロントイによく行っていたのですが、こちらも行く度に姿を大きく変えていて以前行った場所と比較することができなかったです。もともと不法住居なので移動が実に多いのです。
バンコクの商業の中心であるサイアム・スクエアの屋根付きの歩道橋もよい観測地点になります。2年前に行ったときには物乞いをしている人が2人ほどいましたが、今は5〜6家族です。昨年はこの歩道橋に溢れるくらいに物乞いをしている人の姿が見られたそうです。
今回ただ一ヶ所だけ行った観光地が「ワット・アルン(暁の寺院)」です。私はタイが9度めなのに一度も行けませんでした。王宮広場の横の船着き場からフェリーで簡単に行けると考えてたのですが、何と2度も船を乗り換えねばならず苦労しました。午前中に行ったのですが、ワット・アルンはやはり夕方にチャオプラヤー川から船で見るのがよいようです。
そのワット・アルンで買った帽子に付いていたリボンにあったのが「アメイジング・タイランド(驚きのタイ)」。どうやらタイの最近の観光キャンペーンの標語らしいのですが、経済不況にもかかわらず以前と変わらないように見えるタイの生活風景こそ私にはアメイジングでした。
タイ社会の奥行きの深さにはいくつか理由があります。タイは非常に自由な社会であり、経済活動も自由です。テレビや携帯電話などの商品の普及、それに売買春なども含めて「欲望」に対して極めて自由に見えます。その一方で、支配的な宗教である上座部仏教(かつて小乗仏教といわれた)は物欲を否定して仏の道に帰依するように訴えています。仏の道とは「徳を積む(タンブン)」ことです。僧侶の一部は「タイの民は、日曜日にお寺に来ずにデパートに行くようになった。今や商品経済が宗教だ」となげいていたのを覚えています。
一昨年、バーツの暴落によって失業、物価の高騰などがあり、混乱した民心に対して、仏教の擁護者である国王は「Sufficient Economy」を訴えました。私はこれを「足るを知る経済」と訳しています。この用語には物欲に溺れるのではなく、自分にとって必要なものは何なのかもう一度考えなおせ、というメッセージが含まれているからです。タイのNGOでオールタナティプな開発の考え方を推進する人々の思想的な背景には必ず仏教的な思想があります。
タイ社会の安定を保障しているもう一つの要因は「村」の存在です。都市に出てきて失業した人々は幸い帰るべき「村」がありました。タイは農業生産物は豊富で食料自給は今でも100%を超えていて、主要な輸出品でもあります。すでに収穫物を売ってしまった家族などに混乱はありましたが、おしなべて村が失業者を吸収しました。もっとも1950年代までの日本もこのような社会構造がありました。
アメイジング・タイランドの秘密は「仏教」という対抗文化と、「村」の存在が大きいと私は見ています。
今回バンコクで訪問したNGOは「子ども権利擁護センター(CPCR)」と「ユババッドハナ財団」です。CPCRは2年前にも訪れていて、前回道路の下のスラムを案内してくれたプラサートさんが児童財団からこちらの方に移ってきていました。CPCR自体も児童財団から今は独立して別のNGOとして運営されています。
さて、タイの子どもの状況なのですが、こと児童買春についてはいえば、ここ10年でずいぶん改善されました。1991-93年にかけてCPCRを初めとした子ども関係のNGOで集中的にキャンペーンを行い、子どもの買春や労働を許さないという世論を盛り上げたのです。厚生省や警察とともにマッサージ・パーラーや子どもを働かせている工場を集中的に摘発したのです。
ちょうどタイの経済も上向きのときで、文部省もそれまで義務化されていなかった中学校を義務教育にする方針を打ちだました。教育は大切であるということがようやく浸透してきて、中学校の進学率も上がりました。このため子どもたちも児童労働から徐々に解放されていったのです。今では、ことタイ人の子どもに関する限り、随分状況は改善されました。
ところが、これで児童労働や買春がなくなったわけではないのです。堂々と館を構えていたマッサージ・パーラーは、喫茶店やディスコに巧妙に姿を変えました。事態が見えにくくなるとともに、連れてこられる子どもたちもタイ人ではなく、ラオス、ミャンマー、中国南部の子どもへと変化していきました。タイ人の子どもの権利は守られる代わりに、近隣諸国の子どもが働かされているのです。
CPCRでは今でも国境近くの町を中心に地元の警察などと協力して子どもの救出作業を進めています。中には救出されても自分がどの村からきたのかわからない子どももいるといいます。タイの子どもは出身地がわかるそうですが、近隣諸国の子どもに多いようです。写真や記憶を便りに子どもの家族を探すそうです。
CPCRなどでは近隣諸国のNGOや政府と協力しながら、子どもの権利を守る作業を地道に続けていくと言っていました。
ユバパッドハナ財団といってもまず知っている人はいないでしょう。ユバパッドハナとは「青少年育成」のことです。今回私たちはMAYAという児童演劇を長年行っているNGOに訪問する予定でした。ところが、前日に電話するとうまく話が通じていなくて、時間がなかったので次の候補に電話しました。そうしたところ、この財団の事務局長のチュライポーンという女性が「これまで日本人が来たことはないので是非うちに来てくれ」と歓迎してくれたのでこちらに変更した次第です。
バンコクから東南東に車で約1時間、結構離れていました。私たちは常に5人で移動したので後ろの席の4人は大変です。エアコンがよく利いているきれいなビルの2階にその財団はありました。チュライポーンさんがにこやかに私たちを迎えてくれました。NGOの事務所は若いスタッフで活気にあふれ、しかも机の上や部屋は雑然としていますが、財団事務所はゆったりしていて、のんびり仕事をしているところは日本と変わりありません。 子どもたちが書いた絵やらそれをもとに作った絵ハガキと切手を見せてくれました。毎年、テーマを決めて全国の学校に呼びかけてコンテストをしています。昨年のテーマは「お祭り」でした。水かけ祭りやロイクラトン(灯篭流し)の様子がカードになっています。
この財団のメインの活動は奨学金。全国各県の教育委員会から推薦があった子どもの中から600人ほどに学費の支援をしています。私たちはお礼のつもりで1000バーツ(約3300円)を寄付してきました。後ほどお礼状とともに私たちのお金でサポートしている子どものデータが送られてきました。ムクダハーン県に住む15歳の少年で、本人の作文によると「私のお父さんは出稼ぎに行ったきり戻ってこなかったので、自分は警官になって貧しさに打ち勝ってお母さんを助けたい」とありました。財団ではお金を学校に預けて、支出について毎年財団あてに報告してもらいます(親に預けると他の目的に使われてしまうので)。使用費目を見ると「教科書、ノート、バス代」などと細かく書いてありました。
この財団のスポンサーはある企業家で、バンコクのどこのお店にも売っているスナック菓子を作っている会社です。エビセンやさきイカのような菓子で名前が何と「TARO」に「SATO」です。この実業家はカトリックで、タイの貧困の状況をひどく憂いてこの財団を作ったとか。不況にもかかわらず出資を続けているそうです。
財団では、奨学金や絵画コンクールの他にも、ある村で学校を作り登校を支援する活動もしていました。しかし、こちらの方はうまくいっていません。3か年で自立するはずが、財団が撤退したらつぶれてしまったそうです。農村開発についてはあまり得意ではなく、NGOの方に一日の長があるようです。
私は格闘技は相撲以外見ることもなく、プロレスは力道山が死んで以来、ボクシングも具志堅引退以来知りません(古いか?)。ところが東南アジア青年の船の関係で私たちの友人にプロのキックボクサーがいて、タイに行くなら是非ムエ・タイを見てくるようにすすめられました。
ムエ・タイはタイの国技ですから、日本ならば大相撲も見にいく感じで今回始めて出かけることにしました。ムエ・タイはバンコクではルンピニ・スタジアムとラジャダムナン・スタジアムとで毎日交互にやっていて、予約なしでも必ず入れるとのことでした。バンコクに着いたその夜、ルンピニに行きました。タクシーを下りると美しいタイ女性数人が私たちにチケットを売りに寄ってきました。ダフ屋かもしれないのでチケット売り場で値段を確認したところリング・サイド席の値段でしたので、その女性たちからチケットを買いました。最近観光客が増えているのでダフ屋対策と観光サービスなのでしょう。
リング・サイドは何と1000バーツ(3300円)。バンコクの物価で言えば1万円以上の価値はあるので安くはありません(最も日本のプロレスでもリング・サイドは2万円するそうですから同じくらいでしょうか)。国技館のような立派な建物を期待していたのですが、これといった特長もない建物で日本で言えば市民体育館のレベルです。リング・サイドの席も移動式のプラスチックの椅子です。
さて、肝心の試合の方ですが、最初の方は見るからにあどけない表情の子どもの試合でした。年は12・3歳くらいでしょうか。応援団がけっこう盛り上がっていました。試合は生演奏の独特のメロディーに合わせて踊るところから始まります。この踊り(ワイ・クルー)は「師(クルー)への感謝」を示しているのだそうです。試合の最中も笛とシンバルの民族楽器による生演奏(ピームアイ)が続いていて、これが試合を盛り上げます。
試合は3分の打ち合いと2分の休憩、これを5ラウンド続けます。だんだんクラスが上がっていって、今日は6番目の試合がメイン・イベントです。私たちが見た6試合の内、3試合がKOでした。KOシーンは本当に一瞬の出来事で迫力があります。
クリンチすると、相手を抱きながら足で蹴りあうのですが、このときには会場が一体となって蹴る度に「オー、オー、オー」とリズミカルにはやしたてます。観客はだんだん興奮してきて、前に迫り出してきます。なぜ興奮するかというと、彼らは賭けているからです。リング・サイドは外国人の観光客ばかりですが、後ろの席は地元の男の人ばかり、女の人は一人しか認められませんでした。
タイでも法的には賭け事は禁止されているのですが、このように事実上黙認されています。タイの人は賭け事が好きで、私が6年前北部の村に滞在したときにピクニックのお昼休みの後、おばちゃんたちがトランプで10バーツ20バーツを賭けて遊んでいたのには驚きました。お葬式の席でも宝くじを売りに来るほどです。
さて、タイ人の友人にムエ・タイに行った話しをしたのですが、地元の人でもムエ・タイを見にいった人は少ないです。というのは私が話したのは留学生などインテリが多いからです。やはり庶民のスポーツなのですね。ボクサーは1回戦えば10万バーツ(33万円)ほどのファイト・マネーが入ります。200万300万稼げは、田舎に帰れば一生とは言いませんが当分働かなくても食っていけます。「おかま」のきれいなボクサーがいたのですが、性転換手術の費用がたまったので引退してしまったそうです。
いよいよ次回はチェンマイです。
やっとチェンマイに来ました。バンコクも悪くはないけれど年々個性を失っています。サイアム・スクエアのコーヒー・ショップでお茶を飲んでいると、ここは東京の表参道だろうか、それともロンドンのソーホーだろうか、と錯覚に陥るほどです。
タイ族はもともと中国の雲南地方に住んでいた人々が徐々に南に移動してきて国を作ったと考えられています。ですから北部のチェンマイはバンコクよりも歴史が深く、古い文化の名残を色濃く残しています。チェンマイは約2キロの正方形の堀に囲まれた区域が旧市街地です。この中には古いお寺も多数あり、静かで散策していても楽しいです。
これに対して城郭の東側に新市街地が発展していて、そこにデパートやホテルやレストランが多数あります。この通りが夜になると有名な「ナイトバザール」となります。土産物を売るテントが所狭しと通りに連なり、観光客でごったがえします。
今回日程がきつかった私たちは、バンコクから夕方に移動しさっそくその夜バザールに繰り出しました。バザールの通りの中央に屋台村があります。ここは現金ではなく食券をまとめて買ってそれで食べ物やビールと交換します。中央にはステージがあってあまり上手でないタイ・ダンスやタイ・ボクシングをやります。来ているのはほとんどが観光客です。チェンマイ第1夜としては手軽なのでここで夕食をとることにしました。ここはなぜか最もポピュラーな「シンハ・ビール」は少なく、「ハイネケン」や象のマークの「象さんビール」がはばをきかせています。
さて、バザールの方ですが年々観光向けになっていています。かつてはあやしい店、あやしい品がけっこうあって、それなりに掘出し物もあったのですが、今は商品は売れ筋に画一化しています。今回驚いたのはいんちき宝石がまったくなくなったことです。宝石がいかにインチキで私たちがどのようにだまされたかは「一緒にタイランド」の第10話「秘境ツアー」をご覧ください。
さらに驚いたことがあります。Gショックばかり並べているテントの前を通りかかったとき、いきなり若者に「これ全部ニセモノ。安いよ、見ていって」と大声で呼び止められたことです。なんて正直で信頼できる店(!)だろうか、と感心したものです。バザールの新商品は、レーザー・ピンポインターです(OHPなどで図表を指し示すときに役に立つ)。ひとつ200バーツ(660円)くらいで売っていました。日本の値段の3分の1くらいなので、私もおみやげにいくつか買ってきました。別にタイらしくも何ともないのですが・・・
チェンマイで観光客が必ず訪れるのがこのナイトバザールとドイ・ステープ(山腹の寺)、それにカントーク料理とタイ・ダンスが楽しめるチェンマイ文化センターでしょう。
今回チェンマイでは2つの小学校と2つの中学校を回りました。3月中旬はタイではちょうど卒業式のシーズンで、ランプーンではたまたま私立小学校の卒業式に列席することになりました。「私立」ということもあって、市内のおぼっちゃんの学校という感じがあって立教小学校などと似ている雰囲気です。式典は「長い」です。日本の学校では式典をできるだけ1時間くらいで終えるように努力していますが、この小学校では延々と続いていて、子どもたちはザワザワしていました。
タイの教育界では今、中等教育が最大の課題です。タイでは小学校までは何とかほとんどの子どもが行くようになったのですが、1993年以来、中学校を「義務化」すべく努力していまして、未だに全員就学を達成していません。それどころか、ここ2年来の経済危機により就学できなくなった子どもも増えています。
私は北部タイの中学校の雰囲気が好きです。バンコクの方はよく知りませんが、北部の中学校は広々としています。とても感心したのは、校庭にたくさん木を植えていて、その木陰にビーチパラソル風の4−5人が腰掛けられるテーブルが多数配置してあります。ここで中学生たちがお弁当を広げていると、何となくのんびりしていて学校が楽しそうです。日本の校庭はまさに「運動場」で、あまりに機能的です。校庭の隅っこでぽつんと座っていると、授業をさぼっているかのようです。
私たちが訪問した2つの中学校では、環境教育の施設を見せてもらいました。学校の敷地の一部で、生徒たちが何年かかけて植物園を造ります。大きな木の下にミニ薬草園などを作って栽培します。このプロジェクトはタイの教育省の助成でYMCAがノウハウを提供して行っているものです。タイではNGOと政府が協力することはよくあることで、その点日本より開放的です。
タイの森林の状態は危機的で、今回旅行した北部タイの一帯はどこも大きな木はなく、潅木がチョボチョボ生えているだけといった感じです。かつてはうっそうとしたジャングルだったはずなのですが。こうした状況と地球サミットのアジェンダ21などがあって環境教育が熱心に進められているのでしょう。1990年代の国際会議の成果の一端を見た思いでした。
環境教育をやっているチェンマイ近郊のバーンガート中等学校を訪ねたときのことです。この中等学校には毎年1回日本人の慰問団が来るといいます。学校の敷地の隅っこに慰霊碑が建っているというので見せてもらいました。どうもこの場所で日本兵が何人か亡くなったようです。碑文を見ても状況がよくわかりません。単に犠牲になった兵士を慰霊するという意味のことしか書かれていません。しかし、亡くなった年は1944年となっており、明らかにインパール作戦です。
アジアを旅行していると、ときたま「戦争」に出会います。1993年にワークキャンプのためにタイを訪問したときには、カンチャナブリにも行きました。カンチャナブリはバンコクから西にバスで半日の行程にあるビルマ国境の町です。この町には児童財団が経営する「児童の村学校」があるのですが、もうひとつ有名なのが「死の博物館」です。死の博物館には、泰緬鉄道建設で動員された捕虜たちへの拷問の数々が描かれています。
私たちの訪問はたまたま年に1回の解放記念日に当り、クワイ川でショーが行われていました。実物の鉄橋を使い、日本軍が占領してから最後に米軍が解放するまでが描かれます。途中花火を使って橋が落ちるシーンがあったり、ショーとしては凝ったものです。そして最後に口笛の軽快なメロディで「クワイ川マーチ」が流されます。ただ、死の博物館にしてもクワイ川のショーにしてもあまりに観光化してしまい、厳粛な気持ちにはなれませんでした。
インパール作戦に関して私がもっとも悲しかったのは、16年前にバングラデシュのチッタゴンを訪れたときのことでした。仕事が早く終わったので、市内の小高い丘にある公園に行きました。チッタゴンの市内が一望できるのですが、歩いていると墓地がありました。ローマ字で名前が書いてあるのでよく見ると、どうも日本人らしいのです。1944年7月の日付があったので、すぐにインパール作戦とわかりました。日本軍はビルマを越えてこんなところまで来ていたのだ。
もともと無理な作戦でした。それを知っていたある下士官は、ビルマにあえて深く進行せずに部隊の兵士の命を救いました。しかし逆にそのことで先行していた部隊は苦境に陥り、ほとんど全滅です。チッタゴンまで来た部隊はその最先端に違いありません。墓石のローマ字のスペルはところどころ間違っています。日本の若者がこんな場所まで来て命を落として、しかも誰からも省みられないところに埋葬され、名前まで間違われている、と思うと胸にグッとくるものがありました。しかし、墓があるだけまだましなのかもしれません。
死の博物館の入り口には有名な言葉が掲げられています。「許そうではないか。しかし決して忘れてはならない」と。
同和問題を扱った『橋のない川』という小説がありますが、今回はタイ版「橋のない川」ならぬ「水のないダム」の話しです。
チェンマイ市の東南約60キロに「ドイ・インタノン」というタイで最も高い山(標高2565メートル)があります。山の周辺は景勝地で国立公園に指定されています。前回私たちが訪問した「マエ・ヤの滝」もこの国立公園にあります(「一緒にタイランド」第23話)。
ドイ・インタノンの西側の谷をチャエム川が流れています。チャエム川はピン川につながり、やがてチャオプラヤー(メナム)川に合流します。1959年にこのチャエム川にドーイタウ湖という人造湖が造られました。私たちはチャエム川のほとりのある中学校を訪れました。前々回お話したYMCAと中学校とが共同でやっている環境教育プログラムを見るためです。
中学校での環境教育はすばらしかったですが、問題はこの村のほとりにある(はずの)ダムです。学校にあった村の地図を見る限りドーイタウ湖は満々と水をたたえて村の大部分を覆っていました。しかし、先生の話しではこのダムにはもう10年も水が溜まっていないといいます。1959年の着工ですから、当時はかなり強引にダム建設を行いました。村の人々はなけなしの補償金をもらって土地の痩せた高台に移住しました。
当初はそこそこ水が溜まっていたようですが、ここ10年来全く水がない。しかも未来永劫に水が溜まらないといいます。村人は地力もあり水はけもよい元の土地に戻って生活することを希望しています。しかし、このダムを管理している政府はすでに補償金を払っており、国有地に村人が戻ることは拒否しています。
唯一の希望は、チェンマイYMCAの総主事ボラキット氏が、このダムを管理している軍と交渉して、土地を村人に貸してくれるように交渉していることです。そしてこの土地にブドウを植える計画を立てています。帰りの飛行機で機内誌『サワディ』を読んでいたら、タイにおけるワイン造りの話しが出ていました。フランスの技術者が来てタイでのワイン造りを指導しています。これからブドウ栽培がちょっとしたブームになりそうではありました。
果たして、この「水のないダム」の話し、これからどうなるのでしょう。チャエム川一帯にブドウがタワワに実り、おいしいワインが飲めるようになるのでしょうか。それとも−学校で聞いた話しですが−相変わらず学用品が買えずに学校をやめていく子どもがあるような貧しい村のままでいつづけるのでしょうか。
やっとたどりつきました−バンホーン村です。今回最終日にバンホーン訪問をセットしました。というのはもし前に設定すると、泊っていけと迫られて日程が著しく狂うだろうからです。
なつかしい村の皆さんが私たちを迎えてくれました。若いブーン村長、相変わらず元気でしたがまだ独身でした。以前ホームステイさせてもらったウピンの奥さんも、婦人会を取り仕切っていました。
最初に心配していたことを聞きました。「経済危機でこの村には影響ありましたか。」すると「ランプーンの工場がいくつか閉鎖して失業した人がいた。」との返事。続いて「作物のタマネギとニンニクの価格はどうなりましたか。」と質問すると「野菜の価格はむしろ高くなって大丈夫」。ちょっと見た感じではそれほど大きな影響があったようでもありません。
タイの経済が最悪の時期でしたが、村はこの2年でずいぶん変わっていました。とにかくびっくりしたのは村の真ん中に出現した「電話ボックス」。2年前のときは、ブーン村長が持っていたハンディ・トーキーのような携帯電話が唯一の通信手段でした。約50戸の家に電話が開通しています。さらに広場のはずれには「給水塔」がそそり立っています。かつても簡易水道がありましたが、今度はかなり高いので村の隅々にまで水道が行き渡ったことでしょう。
小学校はすでに卒業式が終わっていて先生はいませんでしたが、何とコンピュータが10台ほど入っていました。タイ語のワープロが面白くてしばらく興じていました。ブーン村長も一台動かしていたので見にいくと、何と「ボンバース」のようなゲームに熱中していました。
6年前に始めてこの村に訪問したときは、電話もパソコンも想像できませんでした。うーーーーん、アメイジング!
5時には失礼しようと思っていた私たちも、あちこちの家に呼ばれて結局7時頃まで長居をしてしまいました。今度はもっとゆっくり来たいと思います。村の皆さん、また近々会いましょう。
(アメイジング・タイランド終わり)
|
|
|
| |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|