ももすけエッセー集

 

 吉備吉備人

 

作 田中治彦   

  


燃えろ岡山 

 岡山はかつて吉備(きび)の国と呼ばれました。古代から栄えていて一時は大和朝廷に匹敵する勢力だったようです。大和朝廷には婚姻関係によってその版図に入ったのです。事実上は併合だったようですが、一応対等な関係ということになっています。その意識は今の県民にも残っているようで、関西圏に対して卑屈なところはありません。岡山大学のキャンパスで大阪弁でまくしたてると嫌われます。それでいて京都に対しては一目置いている。

 岡山大学の学生のなかには東京に行ったことのない人が結構いました。でも彼らは例外なく京都には行っています。今でも「京」は京都なのです。東京などは論外です。あれはテレビのなかの世界にすぎません。リアリティがないのです。テレビに地元の宰相橋龍さんが出てくると、何やら別の国に行って出世してがんばっているといった感じなのです。ある調査によると岡山県は「東京に目を向けていない県」の上位に入るとか。それはそれでよいことです。

 岡山県は瀬戸内海に面していて晴天が多く「はれの国」とも言われます。気候は温暖、雨は少なく、台風・地震など自然災害にもめったに遭わない。食べ物は天然の生簀「瀬戸内海」を抱え魚類は豊富、米の産地で酒もうまい(灘の酒は岡山から樽買いで出しています)。もちろん野菜も果物も有名で特に桃やマスカットは全国でも有数の産物です。いのうえひさしの『吉里吉里人』ではないけれど、国境で新幹線を止めて瀬戸大橋の通行税を取れば「吉備吉備国」としてやっていけるのではないか、と思うほどです。

 岡山はこれで一つの国なのだと思うことが実際にあるのです。岡山大学に赴任して間もなくのことですから、今から10年ほど前でしょうか、岡山大学の学長選挙がありました。この選挙も面白くて、何でも投票用紙には学外の人を書いてもよいというのです。ですから隣の下宿のおばさんでもよくて、その場合には人物が特定できるように住所を必ず記入しなければなりません。この学長選、5人ほどの自称候補者が何度も何度も研究室を訪ねてきます。ひとりで来る人もいれば大名行列のように来るひともいます。なぜこんなに熱心なのだろうと疑問に思い、先輩の先生にそのことをききました。するとその先生は「田中君、君はまだ岡山に来て日が浅いからわからないのだろうけれど、岡山というのは国なのだよ。岡大の学長といえば県知事に継ぐナンバー2なのだ。」地方に行けば県庁は「お城」、県知事は「殿様」ということは聞いていました。しかし、学長が、首相に対する天皇、国王に対するローマ法王、世俗に対する聖職の権威とは想像だにしていませんでした。東京ならば学長などはごろごろいるではありませんか。東大の総長でも今時は名前も知られていない。確かに飲み屋でも「岡大」といえば「県庁」と同じかそれ以上にとおりがよいのは感じていましたが・・・

 しかし吉備吉備国が独立するには障害があります。それは県民が「燃えない」ことです。気候温暖、災害無縁、持ち家多く、県民所得もまずまず、となれば何もめんどうなことを起こす必要などどこにもないのです。これでは困ることがあります。岡山県は県庁主導でさまざまなプロジェクトをするのですが、いかんせん県民がのってこないのでことごとく進まない。そこで県でも県民に火をつけようと「燃えろ岡山県民運動」を始めたのです。燃えろ岡山音頭を作ったり、ポスターを貼ったりと行政を挙げて「火の玉」になりました。各市町村でもこれに応えて標語を作りました。「燃えろ岡山、羽ばたく御津町」「燃えろ岡山、がんばる勝央町」などなど。

 困ったのは消防署です。瀬戸内一帯は空気が乾燥していて毎年のように山火事が起こる土地柄です。ある日消防署の前を通ると大きな懸垂幕がかかっていました。

 

 燃えろ岡山、燃やすな郷土

 

                           (1998.4.2.)


阪神大震災・陣中見舞い記

 

 以下は1995年の阪神大震災の際に現場で活動しているNGOを激励すべく岡山から神戸に行ったときの記録です。PC−VANの震災フォーラムに1995年2月26日に掲載されました。シリアスな書き込みが多いなかで神戸まで行ってまんじゅうを配る話しは面白いといくつか感想をいただきました。


 そろそろ各NGOの事務所も落ち着いてきただろうと思い、突然陣中見舞いを思いたち先週の金曜日に神戸へ行ってきた。大阪YMCAに電話して「神戸のNGOを訪ねたいが、何か持っていくものはあるか」と聞くと、「通常にモノが動いているのでおみやげ程度でよい」とのこと。ラジオで防塵マスクの寄贈を呼びかけていたのを思いだし、山陽町の2、3の店を回っていろいろなマスクを20程仕入れた。これで我が山陽町ではしばらくマスクが不足するだろう。

 おみやげは「大手まんじゅう」(岡山駅でおみやげを買うみなさん、きびだんごよりもこれが絶対おすすめです)。しかし、これがウェブスター英和辞典なみに重い。リュックに5個詰めたらずっしり。まるでまんじゅうの行商だ。念のためにミネラル・ウォーターを2瓶。

 姫路で在来線に乗り換えると立っている人がいる程ぎっしり。「大阪に行くにはどうしたらよいでしょう」「連絡バスで行くのが早いですよ。」「私の女房の実家がやられましてね。おばあちゃんがまだ避難所にいるんですよ」などとあちらこちらで地震の話題が飛び交っている。

 西明石に近づくと屋根に青いシートを被せた家が目立つようになる。明石をすぎると傾いた家や、グシャとつぶれた家もある。映像では見ていたが実際に目にするのとではやはり違う。須磨の美しい海岸線をすぎ、やや開けたあたりから急に一帯の家が潰れ出す。長田を通り過ぎるときに車内に「オオッ!」のどよめきが。

 ここではJRは停車しないので隣の兵庫駅で降りる。とりあえずトイレに行っておこう。ここの下水は大丈夫そうだ。次にお腹を満たしておこう。プロパンで営業しているラーメン屋に入る。メニューは10種類程度のみ。マーボー丼を流し込む。JRの線路に沿って新長田の方に引き返す。歩道があったりなかったり、がれきの除去をしている作業車や傾いた家を避けながらとぼとぼと歩く。傾いたビル、再開している町工場、道端のゴミの山、何でも珍しくシャッターを切る。観光のように写真を撮るのは申し訳ない気もするが、最初の印象が大事だ。その内、見慣れてしまうと写さなくなるから。

 右側に空間が開けて焼け野原が広がる。残骸のようなアーケード。アア、これが菅原市場か。アーケードからは何やら電線のようなものがぶら下がっているが入らないわけにいかない。あちこちに花が捧げられ、住民の消息を記したボードが風に揺れている。残骸の中に残ったビル。写真をとっている人も多い。思わず手を合わせる人々。ここは別世界、まるで聖地のようだ。

 市場を抜け、長田市役所を通りすぎると新湊川である。川岸の遊歩道にはテントがびっしり。こんなところで寝泊まりしているのか、と思わされるような小さいテントもある。ここはボランティア団体のメッカだ。甘酒を振る舞うグループ、ドラム缶で風呂を湧かすグループ、バザーをしているグループ、子どもたちを遊ばせているグループ。YMCAのゼッケンを付けた3人の若者が歩いていたので何をしているのかを聞いた。「日々の情報紙を配って歩いているのです」とのこと。記念写真を撮らせてもらって、西神戸YMCAまでの道順をきいた。

 まんじゅうのリュックが肩に食い込む。いったん休もうかと考えた時に、右手に公園、そしてYMCAの看板。仕事を邪魔してはいけないと思い、今日の訪問先には事前に連絡していない。総主事はおられなかったが若いスタッフが応対してくれた。聞きたいポイントは3点。モノのうごき、ヒトのうごき、それに情報のうごき、である。毎日100人ほどのボランティアが数人のチームに分かれて活動しているとのこと。午後の早い時間帯だがYMCA内にはあぶれたボランティアはいない。効率よく動いているようだ。ボランティアが不足しているということもないそうだ。今もっとも必要なのは情報提供。ここでは毎日生活情報のニュースを作って配って歩いている。YMCAの建物自体はひびが入っているが大丈夫。被災地のど真ん中でよく持ちこたえたものだ。水道とガスがまだ使えない。重くてしかたなかったので、まんじゅう2箱とミネラルウォーター1瓶置いてくる。

 次の目的地は元町のPHD協会。神戸駅で降りると、あたりのビルは立派に建っていて傷があるようにも思えない。テレビの画像というのは断片的で私は神戸の街全体が消えてしまったかのような印象をもっていたのでやや違和感をもつ。目の前に大きなビル。その表示を見ると「8階 神戸県立女性センター」とある。ここにあったのか。所長の清原女史は私の大学院時代の同窓生で同じ社会教育を勉強した仲間である。女性センターが震災救援でカウンセリングをしていることはNHKのお知らせなどで知っていたので、突然だが訪ねてみよう。まだまんじゅうは3個あるし。いつも忙しくしているのでここ何年か電話でしか話したことがない。

 行政系のオフィスは入りにくいものだが、女性センターの入り口には受付などなく展示物などを見ている内にいつの間にか奥に入り込んでしまった。スタッフの人に所長に会いたい旨伝えると、幸運にも在室だという。アポをとって会うのは大変だが、意外に飛び込みだと会えることがある。

 「田中ちゃん、よく来たよく来た」と招き入れられる。このビルも震災当日は水がもれたり、書類が散乱したりめちゃくちゃだったという。「田中はるひこが怠慢でボランティアのマニュアルをちゃんと書いておかないから、こういう時にボランティアがあたふたするのだ。」などと叱られる。そんなことを言われても、こんな大震災がま近かに起きるとは予想してなかったし、ましてや数10万人単位のボランティアが動き出すなんて想像外の出来事であった。来年度の女性センターのボランティア・ハンドブック作りの手伝いをさせられるはめになってしまった。

 元町の商店街はさほど被害を受けていないようだった。裏道には傾いた家や盛り上がった歩道があるが。PHD協会は商店街のアーケード一角にある。ここは毎年数人の研修生を1年間アジア各地から受け入れている。研修の締めくくりの時に今回の震災にあった。幸い建物の被害はなかったが、スタッフがほとんど被災者であるので、研修生たちには震災の救援活動のレポートを書いてもらって帰国してもらったという。今は被災地のNGOということで全国から寄付が寄せられているが、地元の支援者には被災している人も多く、来年度以降の運営が心配だという。それに総主事の草地氏が地元NGO救援連絡会議の責任者として事実上出向してしまった。

 地元NGO救援連絡会議は当初神戸YMCAの中に事務所を置いていたが、今は毎日新聞のビルの一室を間借りしている。日も傾いてきたし、まんじゅうも残り1個になったのでここが最後の訪問場所になりそうだ。地元NGO会議には活気があった。20名近くの若いボランティアが電話とパソコンに向かっている。ここではモノと人の情報を集めて、それを約80の地元のボランティア団体と行政に流している。個々のモノの過不足を補い、人材を融通しあうのがここの主な仕事である。ニフティの震災フォーラムにも情報をアップしている。草地氏は不在であったが、私の『南北問題と開発教育』と同時期に『援助原論』を書いた中田豊一氏が事務局に座っていた。「ボランティアも曲がり角の時期だね。自立できる人は自立しなくてはいけないし、そうかといって本当に困っている人もいる。ボランティアにはその区別は無理だ。そこでいろいろ行き違いが出る。最初の2週間くらいに活動した人々は幸運だった。」「ともかくボランティアの仕事をコーディネートできる人材が決定的に不足している。」「普段からキャンプなどでボランティアを使っているYMCAはさすがによくやっているよ。」

 草地氏の電話が出先から入ったので話させてもらう。「おお、田中か、なんや今頃遅かったやないか。」「そろそろ落ち着いた頃と思いまして。」「まあええわ。できるだけ早く帰るから待っとれ。」ところが待てど暮らせど氏は帰ってこない。7時半になってオフィスは中田君だけになった。岡山に帰るにはもう限界だ。中田君と食事をして帰ることにする。大手まんじゅうに置手紙をつけて事務所を退散。

 元町の中華街はほとんど明かりが消えていた。プロパンでの営業なのでどうしても限界がある。裏道に一軒空いている店があった。ここも10品程度の限定メニュー。中田君に「ボランティア支援立法の話しを知っていますか。」と切り出す。「いいえ。」「関西の有力なNGOとボランティア団体が震災救援活動で手一杯の時に、東京の霞ヶ関では支援立法の話しが進んでいますよ。」「そうですか。」「政府は今度の震災の初動が遅れたので四面楚歌。その中でボランティア支援だけは評判が良かったので人気取りの意味もある。しかし、これは市民団体全体に関る法人化や免税措置の問題を含んでいる。へたすると「良い子」と「悪い子」を区別して政府がボランティア団体を規制する法律にも成りかねない。」「それは大変ですね。」「しかも夏までには取りまとめて、秋の国会にも出そうとしている。関西の方々は忙しいでしょうから、東京の市民団体と連絡をとりあってへんな方向にいかないように監視するつもりです。」と私。

 8時を大きく回った。ついに三宮のYMCAにも東灘の「応援する市民の会」にもたどりつくことができなかった。現場に来てみるとテレビの画面から受ける印象とは相当違うものがある。特に長田でのインパクトは大きすぎて私の文章表現ではとてもカバーできない。帰りの山陽線も満員であった。まんじゅうをはきだしてすっかり軽くなったリュックとは裏腹に、シートにぐったりともたれかかるのみであった。

(1995.2.26.)