南北問題と国際協力


日本の国際協力NGO

 

田中治彦『南北問題と開発教育』1994年 

第4章「NGO−市民による海外協力」より

『NGOダイレクトリー98』『NGOデータブック98』により最新データに改めました。

最終加筆 1998年11月10日


もくじ

国際救援活動の歴史

日本のNGOの略史

NGO活動の現状

足腰の弱い日本のNGO

シャプラニールの20年

外国人団体の限界

参加型開発

NGO活動の意義

NGOと政府との関係

二つの「開発」がせめぎあうタイ

「もう一つの開発」

 [注]


  

はじめに

 政府開発援助と並ぶもう一つの国際協力の柱である民間団体(NGO)による国際協力活動について見てみよう。

 日本のNGOの協力活動の歴史は浅く、ほとんどの団体が1980年代の生まれである。その援助額も1兆円を超すODAには遠く及ばずNGO全体の支出額を合計しても百億円台にしかならない。にもかかわらずNGOによる海外協力は現在各方面から注目されている。それは、NGOによる協力がODAに対抗しうる理念と方法論を提起しているからである。第2章の最後に「参加型開発」が190年代の国際開発のキーワードであることを指摘したが、これを長いこと実践し主張してきたのはNGOでありその方法論にはODAに比べて一日の長がある。

 また、NGOの協力活動に対しては例えば募金という形で私たち市民一人一人がいつでも参加できるものであり行動に移せるものである。NGOがもたらした途上国の情報や人脈は、民衆どおしの国際交流を促進し、開発教育に大いに寄与している。本章ではこのNGO活動の歴史、現状そして課題を概観しよう。(1)

 

国際救援活動の歴史

国境を越えた救援活動の原点は1863年に設立された赤十字国際委員会の前身である「5人委員会」に求めることができる。2度の世界大戦を経て、被災者や難民に対する民間レベルの救援活動が活発化し、国際的に著名なNGOが生まれている。セーブ・ザ・チルドレン(英、1919)、フォスター・プラン(英、1937)、OXFAM(英、1942)、CARE(米、1945)、カリタス・インターナショナル(イタリア、1950)などの団体である。主として欧米諸国内の救援活動をしていたこれらの民間団体が開発途上国にその活動対象を広げ、また途上国への援助を専らとするNGOが設立され出したのが1950年代後半である。この時期から70年前後にかけて、NOVIB(オランダ、1956)、クリスチャン・エイド(英、1957)、ミゼリオール(独、1958)、CUSO(カナダ、1961)、国境なき医師団(仏、1971)など各国を代表するNGOが誕生している。

 1970年代に入ると、アジア・アフリカ・ラテンアメリカの各地にも地元の人々によるNGOが設立されるようになった。これには先進国側のNGOの資金の受け入れないしは実施機関として作られたものもあるが、途上国の内部でも自助努力の必要性を感じてNGOを作る動きが広まった。バングラデシュ農村振興委員会(BRAC、1972)、アジア開発文化フォーラム(ACFOD、タイ、1973)、デュアン・プラティープ財団(タイ、1978)、ディアン・デサ財団(インドネシア、1976)、農村技術開発センター(CRTD、フィリピン、1978)などである。

 

日本のNGOの略史

 日本の国際協力NGOの草分けは日本キリスト教海外医療協力会(JOCS、1960)とオイスカ産業開発協力団(1961)である。JOCSはネパールにおける岩村昇博士の医療活動と古切手による募金活動が有名である。70年代に入るとシャプラニール(1972)、アジア学院(1973)、ヒマラヤ保全協会(1974)、基督教児童福祉会国際精神里親運動部(CCWA、1975)などの団体が活動を始める。日本において市民レベルの国際救援活動が国民的な規模でおきたのは、197年をピークとするインドシナ難民問題からである。197年から81年にかけて日本国際ボランティアセンター(JVC)、幼い難民を考える会、曹洞宗ボランティア会を始めとして、大小さまざまな救援団体ないしは募金団体が誕生した。以来、難民救援のみならず農村開発、保健医療、教育、環境保護、人権擁護などいろいろな分野でのNGOが活動を開始した。現在では主なものだけでも200団体を超えている(上記の日本のNGO団体名はいずれも現在の名称である)。

 日本のNGOの多くは1980年代に活動を開始しており、欧米のNGOが30〜40年の歴史をもっていることに比べれば若い団体ばかりである。日本のODAも1977年以降急速にその額を伸ばしてきたことを考えあわせると、日本の国際協力の歴史は官民ともに高々ここ20年といってもよい。

 

NGO活動の現状

 NGO(Non-Governmental Organizations)という用語は、もともと国連が政府以外の民間団体との協力関係を定めた国連憲章第71条で使用したもので、日本では「非政府組織」や「民間海外協力団体」などと訳されてきた。特に国連経済社会理事会との協議資格をもつ「国連NGO」の中には社会福祉団体、労働組合、平和団体、婦人団体、青少年団体、経営者団体、宗教団体などが含まれ広範な概念となっている。本書でいうNGOは、国連との協議資格の有無を問わず、開発問題、人権問題、環境問題、平和問題などの地球的諸問題の解決に向けて、「非政府」かつ「非営利」の立場から市民主導で自発的に草の根の国際協力活動に取り組む民間組織を指している。

 『NGOダイレクトリー '98』には、上記のように定義されたNGOとして368団体が掲載されている。この内、過去2か年の活動実績があり1996年度の国際協力事業費が300万円以上であるなどの基準を満たした団体が217団体、この基準を満たしていない団体が161団体である。これらの団体の内、前者の217団体について詳細な分析がなされているので以下に紹介しよう。

 これらのNGOが活動している地域はアジアが30か国・地域、アフリカが38か国、中南米が16か国、オセアニアが7か国で、その他旧ソ連などで日本のNGOの活動が行われている。世界全体では105の国や地域で活動している。アジアで活動している団体数が174と最も多い。実際には資金助成や研修生受入れなどの活動が多いにしても、渡航するだけで相当の時間と費用を要するアフリカ大陸で60団体、中南米で38団体、オセアニアで20団体も活動しているのは評価されてよいだろう。国別に見るとフィリピン(58団体)、タイ(48)、ネパール(39)、カンボジア(34)、インド(30)、バングラデシュ(29)が上位に並ぶ。

 これらの団体の事業分野を見てみよう。最も関心の高い分野は教育である。教育には148の団体が関与しており、就学前教育、識字教育、成人教育等の活動を展開している。主な団体としては、日本フォスター・プラン協会、CCWA、チボリ国際里親の会、ネパール教育協力会などがある。次に子ども関連の事業があり、幼い難民を考える会、世界の子どもと手をつなぐ会など108の組織が関与している。第三の分野しては99のNGOが行っている保健医療関連の活動がある。医師や看護婦の派遣、保健ワーカーの育成、家族計画等を実施している。組織としては、JOCS、家族計画国際協力財団、アジア保健研修財団などがある。

 途上国の大多数の人々が生活している農村の開発に関わるNGOはシャプラニール、PHD協会、オイスカなど80団体ある。最近はWID(開発と女性)の考え方に基づき女性の地位向上に関るNGOが64団体に上る。植林活動を行っている団体はヒマラヤ保全協会、熱帯林保護団体など51団体が関っている。

 

足腰の弱い日本のNGO

 NGOをその活動形態で分類することもできる。資金助成、人材派遣、人材受入れ、物資供給、生産物輸入などである。多くのNGOはこれらの形態を必要に応じて組み合わせて協力活動を行っている。資金助成を行う団体は130、人材派遣が108、情報提供が100、物資供給が99、地球市民教育・開発教育が99、緊急救援が60、調査研究が53、政策提言(アドボカシー)が52、研修生受入れが47団体である。

 日本のNGOは活動の歴史が浅いということもあって、人材的にも資金的にもその基盤が弱い。これらのNGOについてその年間収入額(1996年度)を見ると、8%が500万円以下、15%がそれ以上1千万円以下、1〜2千万円が21%、2〜3千万円が12%、3〜5千万円が16%であり、結局全体の72%の団体が年間事業費5千万円以下ということになる。5千万円から1億円が13%、1億円以上という団体はわずか9%である。最大の予算規模をもつのは日本フォスタープラン協会の約39億円、続いてオイスカの約12億円である。それでもミゼリオール(独)の年間予算250億円、OXFAM(英)の約150億円あるいはNOVIB(オランダ)の約150億円(1996-97年)とは比ぶべくもない。また、日本のNGO217団体の1996年度の年間支出額の合計は193億7千万円であるが、これは国民一人当たりにして約153円、同年度の政府開発援助事業予算約1兆5210億円と比較するとその約1.3%の額にすぎない。

 スタッフやボランティアの数からいっても極めて限られている。217団体の内、有給の専従スタッフをおいている団体は76%であり、残りはボランティアのみで運営されている。しかも、彼らの給与水準は平均して大学生の初任給のレベルである。従って、平均年齢も低く若い人が多い。また在職年数も短く、専門性や継続性あるいは社会の評価という点で課題となっている。日本のNGOの活動は多くのボランティアに支えられているのが現状である。

シャプラニールの20年

 ここで日本のNGO活動がどのような活動を展開してきたのかをシャプラニールを例にとって見ていこう。シャプラニールを事例として取り上げる理由は、日本のNGOの中では1972年という比較的早い時期に設立されており、その歴史的な発展を追いやすいことにある。また、わずか数名の青年のイニシアチブによって創設されながら、バングラデシュの民衆との関わりのなかで試行錯誤を繰り返し、今や国際的にも通用する純粋の民間団体であるという点でも特筆すべきものがある。(2)

 1972年4月、独立戦争直後のバングラデシュに50名の若者がバングラデシュ農業復興奉仕団に参加した。現地の惨状を目の当りにした青年ボランティアのうち数名は、帰国後何らかの行動を起こすことを考える。彼らは、バングラデシュの将来にとって何よりも必要なのは「教育」であると考え、子どもたちにノートや鉛筆を贈るという具体的な形で援助を始める。1972年の秋、ヘルプ・バングラデシュ・コミティ(HBC、現シャブラニール)の誕生である。この時の、趣意書の中でかれらは従来の「与える」だけの救援事業に疑念を示しているが、実際の行動は、従来の与えるタイプの救援とさほど変わるものではなかった。日曜日ごとに新宿、銀座などの歩行者天国に繰り出し募金を行い、約20万円を集めバングラに学用品を運ぶことになる。しかし、せっかくあげた鉛筆をすぐ食料と交換してしまう子どもらを見て、彼らは改めて援助とは一体何なのかを考えさせられる。そこで、援助のあるべき姿を求めて1974年8月、ダッカに現地事務所を開設する。

 一方、日本の国内では74年7月のバングラ6県の洪水を機に、マスコミ等に訴え大々的な募金キャンペーンを展開し最終的に650万円を集めることに成功する。しかし、現地のワーカーらからはただ物を贈るという形の援助ではなく、自己変革を含めた主体的な運動の関わり方が主張され、派手なチャリティ・キャンペーンのやり方にも疑問が出された。1975年末、約1年に及ぶ論争の末、後者の意見が優位となり「HBCは、救援団体ではなく、地域開発団体である」という定義づけがなされていった。ここにおいて、シャプラニールは第一の転換点を迎える。この論争の過程でHBCを離れていった若者もいた。

 単なる物の援助ではなく、現地の自立のための協力活動を求めたシャプラニールは、ポイラ村で農村婦人の自立のためにジュートの手工芸品組合づくり等のプロジェクトを開始する。しかし、彼らは極めて衝撃的な事件に遭遇する。1978年4月17日未明、ポイラ村に駐在していた2人の日本人ワーカーが何者かに襲撃され重傷を負う、という事件が発生したのである。原因は未だにわからないが、協力の対象となった現地社会からの否定的な反応に、関係者のショックはしばらく続き、シャプラニールの活動はしばらく方向性を見出せないまま低迷する。

 

外国人団体の限界

 1980年からは「シャプラニール新三か年計画」が出発する。ポイラ村事件は村の社会構造に対する認識の甘さと、日本人的ものさしが捨てきれず結局村人主体の開発とは言い難い状態であった、との反省がこの計画に生かされている。新三か年計画では、日本人のワーカーは直接は村には入らず、必ず現地の民間開発団体をカウンターパートに選んで活動を展開するものである。しかも、現地の団体を通して村の最貧困層にアプローチし、あくまで彼らの自発的な努力によって、生活の改善と村での地位向上を側面から協力してゆこうとするものである。バングラデシュにおける外国人団体の限界を知ったうえで、現地社会の自立自助に協力する新しい方法であった。

 新三か年計画は、対象村を増加させたために一時期大変な資金難に見舞われるが、折からの日本でのアジア・ブーム、南北問題への関心の高まりもあって、募金に応じる者も増え、ジュート製品の売り上げも伸びた。また、海外協力活動に関心を寄せる資金助成団体も増加したおかげで危機を乗り切ることができた。1983年、10周年を期に名称を「シャプラニール−市民による海外協力の会」に正式に改めた。

 ここで、注目すべきは、シャプラニールが単に問題を対象国に限定せず、協力している日本の側の問題、例えば政府開発援助のあり方、日本人のライフスタイル、を同時に考えてゆくべきことをかなり早い時期から明確にしていることである。すでに、1976年のHBC活動案内には、「『バングラデシュを識ること』から『日本にある〈私〉を識ること』へと我々は視野を広げて来ました。」「複雑に交錯した問題を抱えている現代の社会に生きる私たちは、『いかに生きるのか』を問われ、今ある『自らの生活の質』を問いなおされているのではないでしょうか。」という記述がみられる。ポイラ事件の余韻が醒めやらない197年には、HBCで無農薬野菜を販売しようということが論議される。これは、日本の中の食糧問題を考える中で、バングラの農村開発との繋がりを見出してゆこうとするものであった。結局、この提案は実施させることはなかったが、メンバーの1人が独自に「南天舎」という無農薬野菜を販売するする運動を始めている。さらに、創立十周年を迎えた1982年からは、「『開発』とは何かをともに考えてゆく」ことを会の方針の1つとして位置づけるようになる。

 

参加型開発

 78年の襲撃事件で一度は撤退したポイラ村ではあったが、村人からの要望でシャプラニールは再びポイラで活動を開始した。ただし今回は日本人は現地に赴任せずベンガル人のみの事務所である。現在ポイラ村のシャプラニール事務所にはアブドゥール・カレック所長以下名のワーカーが働いている。この村では保健衛生、教育、収入向上の三つの事業を展開する。事業展開の方針はあくまで村人主体ということである。村人とくに最も貧しい農民や女性をショミティ(小グループ)に組織して、その中で自分たちは何をすべきかを話し合って事業を決める。事業を展開するに当たってもできるだけ自分たちで貯金して、そのお金で事業を始める。たとえ失敗してもよいから、自分たちで決めたことを一つ一つ実行していくことが大切である。

 シャプラニール結成20周年を記念して作製された開発教育ビデオ『ポイラ村から−ある草の根海外協力の試み』には次のようなシーンがある。保健衛生事業として今は簡易トイレ作りを行っている。多くの家にはトイレがなく、それが不衛生や病気の原因にもなっていた。そこで、セメントで作った簡易トイレを家々に配布し、衛生向上に役立てようというわけである。ある家では配布を受ける日には、父親も農作業をやめて一家総出でトイレを設置する。子どもたちも嬉しそうに恥ずかしそうにトイレに座るまねをしている。ところが、別の家にワーカーらが行ったところ、その家では配給されたトイレが放置してある。家の人は、他の家でももらっているから自分ももらったのだという。そこでワーカーは使用しないのなら持って帰るぞ、と注意を促している。

 ダッカの日本人駐在員はこの様子を見てこうこう解説した。「プログラムが失敗する時は我々の入り方が甘いときです。もっと村人の参加度を高められたのに、我々がモノを出したいから出してしまった、あまり議論しないで我々の都合で決めてしまった、そういう甘さの上に数年後によくない結果が出るのです。今我々に必要なのは、私のような外国人や現地の有能なワーカーが答案を出すのではなく、村人が自分たちで育つ場を保証していくことなのです。」

 ここに「参加型開発」の一つの事例がある。シャプラニールは過去20年余りの多くの失敗と貴重な成功の経験の中から今この地点に達したのである。逆にいうならば経験が浅い日本のほとんどのNGOはまだこのレベルには達していない。実際にはモノやカネを日本から贈るだけで事足れりとしていたり、現地の人々に良いだろうと勝手に判断した事業をそのまま展開しているNGOが多いのである。しかし、シャプラニール自身も過去にこうした過程を経て現在の形に成長してきている。願わくば後発のNGOは先行NGOの経験によく学んで、その学習期間を極力縮めて現地の自立自助に有効に役立つ協力活動を展開して欲しい。

 

NGO活動の意義

 欧米や国連では1970年代から、日本においても80年代には開発におけるNGOの役割が広く認められるようになった。それはなぜであろうか。

 第一にNGOが本来最も援助を必要としている発展途上国の最貧層あるいは被抑圧者の生活向上のために努力しているからである。NGOが協力活動の対象としている層は零細農民、漁民、女性、子ども、スラム住民、少数民族などそれぞれの国、地域で最も恵まれず、近代化から取り残されたりその被害を被っている人々である。第二に、先進国側のNGOが地元のNGOや住民グループと直接協力することにより、民衆参加による自律的な開発に貢献できることである。

 三番目に、NGOの組織は小規模で直接現地との交流があるので、地元のニーズを速やかに的確に把握し敏速に活動を展開することができる。また、現地のニーズの変化や状況の変化に柔軟に対応してプロジェクトを変更することができる。政府が行うプロジェクトはこの点で、双方の官僚主義や決定プロセスの複雑さからプロジェクト決定までに時間がかかり、その間に地元のニーズが変化してしまうことがある。しかもいったん決定したことを変更することは極めて難しい。

 第4に、NGOは現地の自然条件、社会条件や伝統的な文化をもとにしてプロジェクトを計画する。先進国で開発された先端技術、大規模技術ではなく、地元の技術水準に合った「適正技術」を採用する。それ故、自然環境の破壊を伴いにくく、また社会環境への影響も小さく押さえることができる。

 第5に、NGOの資金は主として市民からの募金に頼っており、扱う資金はODAに比べて桁違いに小さい。しかし、NGOは限られた資金や人材のもとで効率的な活動を行い、プロジェクトの規模が小さい割りには大きな効果を上げている。また途上国政府によく見られる腐敗に巻き込まれる可能性も少ない。

 第6に、NGOは外交のない、従って政府からは入りこめない国においても人道的な活動を実施することができる。日本政府が認めていなかったヘン・サムリン政権下のカンボジアでも日本のNGOは活動していた。フランスの国境なき医師団は文字どおり紛争地域の国境を無断で超えて救援活動を行っている。

 第7に、NGOは協力活動でなければ出会えない民衆どおしの交流を可能にしている。青年の船など政府の国際交流事業では途上国の中産階級以上の人としか交流することができない。また、NGOが行う広報、教育活動は市民の間に南北問題への関心を高め、そのもたらす情報は開発教育の貴重な教材である。

 以上の7点のメリットをすべてのNGOが生かしているわけではない。また、第6点を除けば政府や国際機関においても採用することが不可能なわけではないし、またそうあって欲しい。参加型開発が政府や国連機関から注目されているのはその現れである。逆に、NGOのもつ固有な限界もある。それはNGOが動員できる人的、物的リソースは限られていることである。例えば、港湾施設の整備、潅漑用のダム建設、長距離道路の整備といった社会基盤整備のための大型プロジェクトを実施する資金力や技術力はない。また、NGOといえども相手国政府の承認、あるいは少なくとも黙認がないと協力活動を展開することは難しい場合が少なくない。NGOにはもう一つ期待されている役割がある。それは、これまでの近代化路線とは違った住民サイドに立った「もう一つの開発」理念を提起していくことである。これについては最後に述べよう。

 

NGOと政府との関係

 国際協力の歴史が深い欧米諸国でかねてより政府がNGO活動のメリットを認識して政府がNGOを資金的に支援してきた。DACの統計によると1996年でODA額の5%以上をNGO活動に回している国は4か国ある(オランダ、カナダ、スウェーデン、スイス、)。いずれも国際協力に熱心でNGO活動の伝統がある国である。この時点で日本は2.5%である。

 外務省がNGO事業補助金制度をスタートさせたのは1989年度であった。当初は8258万円の交付であったが、1994年度には4億4979万円と拡大し、1997年度には9億1936万円が支給された。補助対象となるのはODAでは対応が難しい小規模事業であり、農漁村開発、人材育成、保健衛生、女性自立支援、地域産業向上、生活環境改善、環境保全、ボランティア補償支援などの12分野が設定されている。一件当たりの補助金の額は50万円から1,500万円までで、対象プロジェクトの総事業費の50%までの経費を上限としている。この間の補助金額の伸びは非常に大きいが、その絶対額はODA予算全体からすればわずか0.08%(1997年度)にすぎない。

 この制度の問題点としては、外務省の示した上記プロジェクトのメニューに従ってNGO側が実施事業を選択しなければならず、地元のニーズに迅速かつ的確に対応するNGOのメリットが生かしにくいこと、補助金の交付が清算払いであるため自己資金が少ないNGOにとっては資金を立て替えなければならずかえって負担になる場合が多いことである。また、政府の補助金には細かい申請手続きと会計報告が必要であるが、外務省が求める事務処理にNGO側が十分対応できないこと、も問題点として上げられる。政府の補助金制度の厳格さとNGOの力量不足という双方の事情があり、本補助金は必ずしもNGO側からは評価されておらず、今後の制度の改善が待たれている。

 NGOによってより歓迎されている制度に郵政省国際ボランティア貯金がある。この制度は郵便貯金の預金者から貯金の利子の一部を海外援助事業に寄付してもらい、これをNGOの主に海外活動に交付するものである。1998年度の助成配分額は12億4227万円である。金利の低下により一人当たり平均わずか50円の寄付であるが、約2,500万人の貯金者が加入しているためこのような金額になった。この中から204団体が実施する234事業に対して助成金が配分された。外務省のNGO事業補助金に比べて、利用するNGOが多いのは国際ボランティア貯金が政府の補助金ではなく貯金者の寄付金であるという性格に由来する。そのため、政府補助金のような厳格な規定はなく、NGOのニーズに合わせて柔軟に配分される。例えば、NGOから要望の多い渡航費など事務局経費の一部もボランティア貯金では認められることがある。

 日本のNGO217団体の1996年度の年間支出額の合計は約194億円であったから、配分額の約12億円は小さな金額ではない。仮にNGOダイレクトリーに掲載されている217団体で均等に分けたとしても一団体当たり600万円という額になる。この不況時に600万円を一般からの寄付で集めるのがどれだけ大変なことかは容易に想像できるであろう。それだけに各NGOは精神的にも財政的にも主体性を失うことなく、途上地域の人々の自立のために一層努力する必要がある。政府とNGOとの関係はまだ端緒についたばかりである。お互い批判精神を忘れずに健全な関係を築きあげていくことが今後求められよう。

 

二つの「開発」がせめぎあうタイ

 NGOが行う開発を見ていると前章でのODA論議と共通なものがあることに気付くであろう。ODAの発想が近代化の促進でありまず経済のパイを大きくすることで行く行くは貧困や社会問題を解決していくという立場をとるのに対して、ODAを批判する立場からは人権、社会正義、民主主義、環境保全を基本として開発を進めていくべきであり、それが満たされぬならば開発そのものを止めるべきだという意見が示された。NGOの活動も思想もさまざまであるので一概には言えないが、NGO関係者のほとんどは近代化の議論よりも人権や社会正義を優先する議論を支持するであろう。両者の議論は実際の開発の現場ではどのように現れているのだろうか。それをタイにおける二つの開発の流れとして認識したい。(4)

 タイはNIES入りをめざして急速な近代化、工業化を行っている国である。タイではアグロインダストリーを発展させ豊富な農産物、水産物を加工して輸出することによって経済発展を遂げてきた。ところが、タイの工業化はさまざまな歪みを生じさせている。バンコクの交通渋滞と大気汚染については有名であるが、地方レベルでの環境破壊も深刻なレベルに達している。その典型が養殖エビである。養殖エビは海水と淡水が混じり合う汽水域で行われるためマングローブ林を伐採して養殖池を作ることが多い。マングローブ林は魚の産卵場所でもあるため魚の減少という結果をもたらす。またエビを養殖する際には飼料や薬を大量に養殖池に投入するため、エビの養殖池はひどく汚染され底にはヘドロが堆積していく。そのため5〜6年エビを養殖するとその土地は死んでしまうといわれている。

 急速な経済開発が一体農民に何を残したのかという反省が出てきたのが1980年代である。商品作物を作ったり土地を売ることにより一部の農民は一時的に多額の金を手にした。しかしそれも長くは続かない。産業基盤である港湾施設やダム建設により、長く住んでいた土地を取り上げられた例もある。商品経済の浸透は村人の生活と信心を荒廃させたと嘆く僧侶も多い。1970年代の後半から活躍しているタイのNGOは、政府や大企業が進める工業化による開発に対置して「もう一つの開発」を提唱してきた。これは儲けるための農業ではなく生きるための農業をめざし、住民参加と自助努力を柱とする農村開発である。また伝統的な価値である仏教と自然環境の保全もその視野に入れている。

 

「もう一つの開発」

 もう一つの開発(Alternative Development, Another Development)の議論は1977年にスウェーデンのダグ・ハマーショルド財団が発表した『もう一つの開発−いくつかのアプローチと戦略』において近代化論に代わる新たな発展の道を模索したことから活発化した。(5) 同報告書では「もう一つの開発」を、@基本的ニーズを充足し、A内発的であり、B自立的であり、Cエコロジー的にも健全であり、D経済社会構造の変化を必要とするものとして定式化した。鈴木規之によればタイにおけるもう一つの開発理論は「外国からはガンジーの自力更正の思想、スリランカのサルボダヤ運動、シュマッハーのスモール・イズ・ビューティフルの思想、タイ国内からは僧プッタタートおよびスラック・シワラク、1973年10月14日の学生革命の影響を受けて」成立してきた。(6)

 表4−1はタイにおける二つの開発戦略を比較したものである。ここで問題なのは近代化による経済開発と「もう一つの開発」が同等に対峙しているように見えるが、現実は圧倒的にアグリビジネス戦略が強く全国的に展開されており、後者は「ある村での成功」であり地域的存在でしかないことである。また、将来的にもNGOによる開発がアグリビジネス戦略を駆逐するということも考えにくい。なぜなら厳しい国際経済のなかで「もう一つの開発」による国づくりが成功するという保証がないからである。現在のところ、NGOによる開発戦略は村人の人権と生存権を守り、環境を保護し、弱者の声を代弁する役割を担っている。

 タイにおける「もう一つの開発」路線についてはNGOの間でも評価が分かれる。提唱者であるプッタマートとスラックは、商品経済の浸透による「物欲」そのものを問題にしており、物欲を断ち切り商品経済から脱却して、最終的には仏法に根ざした精神的な発展と社会づくりの道を目指している。自給自足できる程度の村落の開発については一致できるものの、その先の社会づくりについては果たして人間の物欲を否定できるのかどうか、あるいは個人のレベルでなく一国のレベルの経済社会システムとして実現可能なのかどうかについてはNGO間でも議論が分かれている。


 

[注]

(1) NGOの現状と課題については以下の書物を参照にした。NGO活動推進センター編『NGOダイレクトリー’94 国際協力に携わる日本の市民組織要覧』(1994)、同『地球市民のみどりのNGOダイレクトリー』(ほんの木、1992)、同『JANIC News』12号及び14号、福田菊『国連とNGO』(三省堂、1988)。また、NGO活動に関する入門書には以下のものがある。NGO情報局編『いっしょにやろうよ国際ボランティア−NGOガイドブック』(三省堂、1993)、デイビッド・ウッドワース『国際ボランティア活動』(ジャパンタイムズ、1993)。

(2) シャプラニールの活動については以下の書物を参照にした。シャプラニール活動記録編集部『シャプラニールの熱い風』(めこん、第1部1989、第2部1992)。シャプラニール編『NGO最前線−市民の海外協力20年』(柏書房、1993)。臼田雅之(他編)『もっと知りたいバングラデシュ』(弘文堂、1993)。(ビデオ)シャプラニール製作『ポイラ村から−ある草の根海外協力の試み』及び『わたしの国、わたしの村−バングラデシュ』(1992)。

(3) 政府および関係機関によるNGO補助事業としては、この他にNGO農林業協力推進事業(農水省)、NGO国際建設協力支援事業(建設省)、厚生省国際協力事業、地球環境基金(環境事業団)がある。

(4) 末廣昭『タイ−開発と民主主義』岩波書店、1993。鈴木規之『第三世界におけるもうひとつの発展理論−タイ農村の危機と再生の可能性』国際書院、1993。

(5) M.Nerfin(ed.), Another Development: Approaches and Strategies, Uppsala: Dag Hammarskjold Foundation, 1977.

(6) 鈴木規之、167頁。もう一つの開発につながるさまざまな思潮については次を参照のこと。鶴見和子、川田侃編『内発的発展論』東京大学出版会、1998。シュマッハーの思想については『人間復興の経済』(斉藤志郎訳、佑学社、1976)の題目で翻訳されている。


 

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