南北問題と開発教育
日本の政府開発援助
最終加筆 1998年11月10日
南北の経済格差や地球的な諸問題を解決する一つの方策が国際協力である。国際協力には政府間によるもの、国際組織によるもの、NGO(民間協力団体)によるものなどがある。本稿では日本の政府開発援助(ODA)について考えてみたい。
日本のODAは1989年にその供与額が約90億ドルとなりアメリカを抜いて世界一となった。それ以来マスコミでよく取り上げられるようになり専門家しか使用しなかったODAという用語が一般に普及した。ODAについてはそれ以前からさまざまな報道がなされているが、とりあげている内容が概して断片的でありODAの実態を理解することは容易ではない。
ここでは開発教育の観点からODAの実情とその課題に迫ってみたいと思う。まず本章の前段で日本のODAの歴史と現状を概観した上で、ODAについての紙上ディベートを試みたい。これまでODAについて肯定、否定双方の立場に立って書かれたものの中から筆者が批判と再反論をディベートの形で再構成し、そのことによってODAの問題点と今後の課題を明らかにしようとするものである。(1)
パリに本部をもつOECD(経済協力開発機構)の下部機構の一つにDAC(開発援助委員会)がある。この委員会には1991年にスペインとポルトガルが加わって現在20か国で構成される。ここはDAC加盟国どおしが途上国援助について情報を交換したり統計を作成して、開発途上国援助に関する共通の課題について議論する場である。日本の政府開発援助に関する各種統計はこのDACに対して日本の外務省が報告したものである。
DACによれば「政府開発援助(Official Development Assistance)」は次の3条件に当てはまるものを指す。
@ 中央および地方政府を含む公共部門ないしその実施機関により、開発途上国及び国際機関に対して供与されるものであること。
A 開発途上国の経済開発及び福祉の向上に寄与することを主たる目的とするものであること。
B 供与の条件が特に緩和されたもの(グラント・エレメントが25%以上)であること。
3番目のグラント・エレメントについては後に詳しく説明するが、これは援助条件の緩やかさを示すものであり、商業的なローンはグラント・エレメントが0%ないしは低い値であり、まったく返済の必要のない贈与はグラント・エレメントが100%である。DAC加盟国から開発途上国に対する資金の流れは政府開発援助以外にも、民間企業がおこなう直接投資やNGOが行う協力資金などがある。
政府開発援助には2国間援助と多国間援助とがある。多国間援助にはユニセフ、ユネスコ、国連難民高等弁務官事務所などの国連諸機関や、世界銀行、アジア開発銀行などの多国間開発銀行が行うものが含まれる。2国間援助は国と国とが直接やりとりするもので、これもさらに贈与と政府間貸付に分類される。贈与の内で無償資金協力は病院、学校等の建設や緊急の食糧援助等に当てられるもので無償である。すなわち相手国はそのお金を返す義務はない。贈与のもう一つ技術協力は、日本から技術者が行ったり、相手国から研修生を招くものであり、青年海外協力隊はこの事業の一つである。政府間貸付は有償資金協力あるいは円借款と呼ばれるもので、道路、鉄道、港湾施設、発電所など経済的な基盤整備(インフラ)に主として利用されている。有償であるから、相手国はいずれは借りた額を利子をつけて返済しなければならない。
そこで、日本のODAの現状とその特徴を見ていこう。日本のODAを特徴づけるものはその伸びである。日本のODAは1989年度に米国を抜いて世界一の額になって以来1990年度を除いてずっとトップの座にある。日本がODA額を急増させるのは後述するように1977年度以来であり、この年のODAはわずか14.2億ドルであった。これが1983年度で37.7億ドルと2.6倍に伸び、米国を抜いた1989年度では89.7億ドルと実に6.3倍にも達している。1990年代に入ると日本のODA額の伸びは鈍り、また1996年度には大幅に減少している。それでも他のDAC諸国のODA支出が停滞ないしは減少していることもあり、1997年度の日本のODA支出93.6億ドルは依然として世界一の額である。[円ベースでは1997年度のODA予算は1兆1687億円、ODA事業予算は1兆6766億円である]
日本はGNPが大きくかつ人口も多いので総額のみで比較するのでは十分でない。日本のODAをその経済力に対して比較するのが対GNP比である。1997年度で0.22%、DAC21か国中第19位と低い水準にある(但し、米国が極めて低いためこれでもDACの平均値である)。第2次国連の開発10年計画や先のリオデジャネイロの地球環境サミットでも先進諸国のODAを対GNP比で0.7%もっていくことが国際的な目標とされたが、その値には遠く及ばない。0.7%をクリアーしているのは、デンマーク、スウェーデン、オランダ、ノールウェーの北欧4か国のみである。但し、米国は0.08%でDAC加盟国中最低である。また、国民一人当たりの負担額で見ても、日本は74.4ドルとDAC加盟国中第9位である。ここでも北欧諸国は国民一人当たりの負担額が多い。日本のODAが93.6億ドルといってもピンとこないが、一人当たりの負担額は74.4ドルで約9,000円であることは記憶しておいて良かろう。
さて、国際的に問題にされるのはODAの質である。贈与比率とはODA全体に占める無償資金協力、技術協力、国際機関への出資などの贈与額の比率である。日本は1995/96年度で41.4%とDAC諸国中第21位であり最下位である。DAC平均の76.9%をも大きく下回る。北欧諸国、英国、ニュージーランドは100%ないしはそれに近く、援助は無償であることを当然と考えていることが伺われる。援助の緩やかさを示す指標であるグラント・エレメントでみても、日本は80.5%でありやはり最下位である。DAC平均の91.8%を11ポイント下回る。グラント・エレメントが80%台であるのは日本だけである。これは日本のODAにおいて有償資金協力の比率が高いことが原因である。なぜそうなのかについては後に説明しよう。
ここでグラント・エレメントについて解説したい。その数式は複雑であるが、簡単にいえばこうなる。私たちが住宅を購入しようと思っても普通のサラリーマンであれば現金でこれを買える人は少ない。そこで住宅金融公庫(住金)のローンに頼ることになる。住金のローンは利子が商業銀行よりも低く、返済期間も20〜25年と長いので月々の返済額は数万円であり、苦しいながらも住宅を手に入れることができる。もし住金のローンがなければ家を買うことはできないのであるからこれは「援助」であるといえる。ところが、自動車を買うためにサラ金からお金を借りたとしよう。年率30%を超える利子を払ってまでサラ金から借りるお金は「援助」などではない。これはビジネスである。サラ金は極端な例であるが金利10%以上の商業ローンはグラント・エレメントが0%、住金のローンはその条件(金利、返済期間、据置期間)によって違うがグラント・エレメントは高く、全く返済する必要のない奨学金はグラント・エレメント100%、と考えればわかりやすいだろう。
日本のODAのもう一つの特徴はその地域別配分においてアジアに偏っていることである。1980年以降の地域別配分を見てみると、1980年から90年にかけてアジアの比率は70.5から59.3%にまで下がり、1996年にようやく50%を切った。1997年ではアジアの比率は46.5%である。毎年の援助供与国上位10傑には、インドネシア、中国、タイなど比較的経済発展力が強い国が交互に顔を出す。そこでアフリカやアジアであっても最貧国に対する人道的援助を増やすべきであるという議論が出てくる。
但し、地域的配分が偏っているのは日本だけではないことは指摘しておこう。米国は地理的つながりから中南米諸国、また戦略的視点からイスラエル、エジプトへの援助が多い。イギリスはかつての植民地である英連邦諸国への援助が中心である。フランスも旧植民地が多く存在するアフリカ諸国に重点的に援助を供与している。日本のODA供与がアジア諸国の特定の国々に偏っていることには歴史的な経緯がある。そこで、日本の政府開発援助の歴史を振り返ってみよう。
日本の経済協力は戦争で多大な損害を与えた近隣のアジア諸国への「賠償」という形で始まった。これは1951年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約で「日本の軍隊によって占領され、日本によって損害を与えられた国に対し、日本は賠償支払い義務を負い、その支払いは日本の資材と役務による」ことが定められたことを根拠としている。これにより1954年にビルマと最初の賠償協定を締結したのを皮切りにフィリピン、インドネシア、ベトナムと順次協定を結んだ。賠償支払い請求権を放棄した国々に対しては戦後処理として準賠償に関する取り決めが成立し無償協力が供与されることになった。準賠償が実施されたのはラオス、カンボジア、タイ、マレーシア、シンガポール、ビルマ(賠償とは別に)、韓国、ミクロネシアである。こうして賠償と準賠償とは初期の政府ベースの資金協力の主役となり1960年代半ばまで続くのである。
ビルマへの賠償が開始された1954年にはコロンボ計画への参加という形で技術協力も始められている。コロンボ計画は英国の主導でその旧植民地であるアジア太平洋地域の経済社会開発を促進することを目的に1950年に発足した計画である。最初の円借款(有償資金協力)もコロンボ計画の一環として1958年にインドに対して供与されたものであった。
1950年代は日本が戦後復興を行っている最中である。日本は米国や世界銀行などの国際機関から援助を受けており、電力、鉄鋼、道路、鉄道などの建設に資金を導入した。日本がIMF8条国 (3) に移行した1964年の時点で、世界銀行からの借入金は5.3億ドルに及び世銀の援助先としては第二位であった。こうした資金によって首都高速道路、東名高速道路、黒部第四ダム、東海道新幹線などが建設された。その借入金の返済は1990年まで続いた。
従って、1954年から66年までの時期は一方で賠償と円借款で資金援助を行いながら、他方で世銀と米国から資金援助を受けるという資金が両方向で移動した時期である。この間1961年に海外経済協力基金(OECF)が発足し、63年には海外技術協力事業団(国際協力事業団の前身)が誕生して、資金協力と技術業力の両面で国際協力実施体制が整備された。米国の平和部隊をモデルにした青年海外協力隊の事業も1965年に始まっている。
1964年、東京オリンピックの年に日本はOECDに加盟すると同時にIMF8条国に移行して先進工業国の仲間入りをした。1966年をもって世銀からの借り入れを終了し、日本は「援助される」側を卒業して「援助する」側に回ることになった。1969年からは賠償、準賠償ではない一般無償資金協力も登場した。しかし、この時期から76年までは日本政府は経済協力に対しては確たる方針もなく、先進国間の一種の「お祭りの寄付金」のようなものであり、あるいは米国の対アジア援助の補完の立場に甘んじていた。
転機を迎えたのが76年の福田ドクトリンである。日本はこの頃から多額の貿易黒字を抱えて海外からの批判を一身に受けていた。黒字減らしの決め手がODAの増額であった。1977年より「政府開発援助3年倍増計画」、81年からは「5年倍増計画」を実施した。
筆者が開発問題に関りだした80年頃は政府開発援助について一般向けに書かれた文献がなかった。あったとしても専門的なものであり「アンタイド」「プロファイ」「DAC」など難解な用語や固有名詞の数々に悩まされたものである。(4) 最近では、ODAに関する書籍も一般書店に並ぶようになり、ようやく一般の人でも議論に加わることができるようになった。ODAのプロジェクトは海外で行われておりその現場を見ることは難しく、一歩個別のプロジェクトに踏み込もうとすると資料も少なく内容もわかりにくい。
以下比較的入手しやすい書籍をもとに、必ずしもODAの専門家でない我々がどこまで日本のODAの現状と課題に迫れるかを試みてみたい。政府開発援助をめぐっては批判と反批判の両方の立場から出版されている。そこで、ODAを批判する立場と擁護する立場の両方の書物を本に紙上ディベートを行ってみよう。批判の立場から村井吉敬と鷲見一夫の両氏に登場してもらい、反批判(ODA擁護)の立場から渡辺利夫、草野厚、笹沼充弘の各氏に論じてもらおう。利用する著書は次のとおりである。
[ODA批判論]村井吉敬(編)『検証ニッポンのODA』(学陽書房、1992)、鷲見一夫『ODA援助の現実』(岩波新書、1989)。
[ODA擁護論]渡辺利夫・草野厚『日本のODAをどうするか』(NHKブックス、1991)、草野厚『ODA一兆二千億円のゆくえ』(東洋経済新報社、1993)、笹沼充弘『ODA援助批判を考える』(工業時事通信社、1991)。
笹沼はその著の中でODAに対するマスコミ批判を30項目に分類している(笹沼、120頁)。それらは政府開発援助の基本理念に関することと、その実施体制に関することに分類することができる。実施体制の問題についてはODAを批判する側も擁護する側もある程度共通するものがある。例えば、ODAに関る人員が少ない、スタッフの専門性が低い等のことである。あるいは、共通の土俵で議論できることがある。例えば、ODA基本法を制定すべきか、国際開発協力庁を新設するか、という問題である。ところが、理念のレベルでは相入れないものがあり、この立場の違いがすべての問題に対する意見の対立となってあらわれてくる。理念の違いはODAプロジェクトによって被害を受ける住民や環境破壊の問題の議論の中で鮮明に出てくる。
村井は東サラワク州で森林伐採のために建設されたJICA融資の林道に対して、地元の小数民族であるプナン人が自分達の生活が破壊されることで抗議行動を行った問題やダム建設で立ち退きを命ぜられる住民の問題に関連して、「99人の利益のためには1人の犠牲(コストなどといわれる)はやむをえない、との数の論理、強者の論理、効率優先の論理が、そこではまかり通っている。このような論理を振り回す前に、自分が先祖伝来の土地に住み、ダムで湖底に沈む立場になったら、何を求め、どのように行動するかを想像してみてはどうだろうか。99人が理を尽くさずに死ねといったら、残りの一人であるあなたはいさぎよく死ぬ覚悟はあるのだろうか。」(村井、20頁)と述べ、多数の利益よりは被害を受ける小数者の権利を保障するよう主張する。
これに対し草野は次のように反論する。「住民移転の問題については・・・要は公共の利益と私的な利益の衝突であり、明らかに前者が上回る場合には後者の損失を最大限に政府が保障して、プロジェクトが実行されることが当然であろう。問題は生じ得るプロジェクトの中味及び損失を途上国政府が住民に対し十分な時間的余裕を持って説明しているか、あるいはそうした制度をそもそも有しているかだが、この点については、日本がどのように協力できるかを含め議論の余地はある。」(草野、154頁)。この議論は日本においてもダムや原発の建設をめぐって行われている論議と同じ性質のものである。
村井らのODA研究会は政府開発援助の基本理念をODA基本法の形で盛り込むべきとして、次のように述べている。「現在、日本政府はODAの理念として『人道的配慮』と『相互依存関係の認識』という用語をあげている。ところが、これらの用語だけでは、とてもODA供与を裏づける理念とはなり得ない。・・それでは何をもって理念とすべきなのか。ODAそれ自体の目的が受け取り側の生活向上、福利改善にあるとするならば、目的に沿って最貧国・地域の最貧層に供与することをもって理念とすべきである。」(村井、266頁)とした上で、大規模開発から小規模の援助に切り替えることを提言する。「大規模開発はやめることにしよう。手間がかかっても、小さな規模の援助に切り替えていこう。少なくとも住民の生活に与える影響は少ないし、強制移住も避けられる。環境に与える影響も小さくなり、環境破壊を防ぐ手だても考えやすい。小さければ住民主導で進めることも可能となり、企業の論理、資本の論理に見合わないから企業のODAとはなりにくい。そして、一つの地域に集中的に供与するのではなく、多くの地域に少しずつでも援助しよう。それこそが、真に貧しい国・地域の貧しい層への援助に転換する第一歩となる。」(村井、271頁)
これを批判するのが笹沼である。「マスコミ、あるいは一部の学者の主張する『開発援助は貧しい人たちの福祉あるいは生活保護のみに限るべきである』というような政策は現実にはむずかしいばかりでなく、妥当なものではないと思われる。現実に、金持ちには一切いかず、貧乏人だけを支援するような計画はむずかしいばかりか、むりにそれをやると、社会主義が多くの国で失敗したことにもみられるように開発事業の効果はかえって低いものとなり、経済合理性を失うことになってしまうからである。」(笹沼、166頁)
以上のことからわかるようにODA批判派と擁護派の両者の主張の間には、開発に対する基本的な理念の対立がある。批判派の代表格である村井は、「これ(日本のODA)をささえる重要な理論的支柱は、近代経済学理論に裏付けられた経済成長論であろう。投資=貯蓄ギャップ、輸出=輸入ギャップを埋め合わせるものとしてODAがある。ODA=投資によって経済成長が促進され、パイが拡大する。パイの拡大は一時的に分配の不平等をきたすかもしれないが、長期的には、大きくなったパイがしずくが落ちるように社会各層にゆきわたる均霑効果(trickle down effect)といわれる効果によって貧困層も潤うようになり、福祉が増大するとの考えである。」(村井、14頁)
これに対してODA擁護派の草野は日本のODAが経済成長論の考え方に立っていることを認めた上で、「日本のODAが途上国の貧困層にはあまり役立っていないという批判は、私の観察では当たっていない。たしかに、食料、医療、医薬品等人道上のすぐ目に見える効果の上がる援助も必要だが、同時にやや中長期的に、途上国の経済成長が進む過程で、そうした問題を自らの努力の中で解決することこそ重要である。」(草野、153頁)として、経済成長を進めていけば他の問題も中長期的には解決すると楽観的な見通しを示す。
同じ対立が開発と政治の関係にも持ち込まれる。村井は「いったい何を基準にして援助額は決められてきたのだろうか。・・第一に反共・親西側陣営であることだ。とりわけ、容共・親共の国と対峙し、緊張関係にあったほうが援助額が多くなる。・・相手国が親米・親西側ないしアメリカと軍事同盟国でありさえすれば、独裁政権であろうと、軍事政権であろうと、援助対象国として重視されるということである。」(村井、9〜10頁)と論ずる。
これに対して草野は「戦略援助の是非については私自身は、西側同盟の一員として日本が発言権を確保するためには、必要であったと考えるが、これは個人のイデオロギーとも絡み議論の余地はあろう。」(草野、153頁)「これまで行われてきた日本のODA批判の典型的な議論は、『民主主義体制とは形式ばかりの途上国政府に対する援助は、かえって相手国の富の格差を広げるだけであり停止すべきだ』というものであった。・・だからといって私は冒頭の議論を直ちに支持するわけにはいかない。開発が行われ途上国の経済が離陸すれば、程度の差はあれ中間所得層が増大し、政府が教育に力をいれるようになり、そして最終的には教育の普及が政治的関心を高めるはずだと考えるからである。」
この点でも両者の主張は真っ向から対立している。開発と環境の問題をめぐっても似たような構図の対立が現れる。鷲見一夫はODAと環境破壊との関係をこう述べる。「日本の開発援助においては、日本企業のための利益誘導の色彩が極めて強く、援助受け入れ国の自然環境に対してはほとんど考慮が払われてきていない。こうしたODAがらみの環境破壊について、日本の政府関係者からしばしば言われてきたのは、環境的配慮をどのように払うかは、援助受け入れ国の問題であるという説明である。しかし、これは、政府関係者の責任回避のための弁解にすぎない。なぜなら、日本の援助資金が環境破壊に使われないようチェックする責任は、当然、日本自身にあるからである。」援助受け入れ国だけに環境的配慮をまかせた悲劇的な結果の実例としてタイのスリナガリンド・ダムの例をあげる(鷲見、33頁)。鷲見の著書の中でブラジルの大カラジャス計画、インドのナルマダ渓谷ダム計画などをとりあげ、日本や世銀の援助による環境破壊と住民の人権問題について議論を展開している。
鷲見は同書の最後に「理想的には環境アセスメント法を早急に制定し、国内プロジェクトと海外援助プロジェクトの双方について、環境アセスメントを実施すべきであろう。しかし、これが難しい場合には、差し当たっては『援助基本法』を制定し、この法律のなかで環境アセスメントの実施の方向を明らかにし、細則については別に定めるとい方法を講ずるのがよいであろう。」と具体的な提案を行った。
これに対して草野は『日本のODAをどうするか』の中で鷲見が例として上げたナルマダ・ダム計画などについて現地視察をもとに反論を行っている。草野はさらに近著で政府の環境保全対策について議論している。「残念ながらこうした開発には、プラスの効果と同時に、環境、住民移転などマイナスの効果が生じることは、タイの東部臨海開発プロジェクト等の例でも明らかである。問題は開発に伴うマイナス面をいかに減少させるかだが、この点についてはDACなどの国際的な場での議論を受け、(中略)国内のODA批判にも応えようとしたのであろう。日本政府も体制を整えつつある。」(草野、157頁)と述べて、日本政府、JICA、OECFの対応を紹介している。
これまでの対立点をまとめると、村井、鷲見の立場は開発には弱者の人権尊重、環境の保護、民主主義の確立が不可欠であり、これが満たされない場合には開発プロジェクトそのものを見直すべきであるという議論である。それに対して草野と笹沼は、経済成長こそが長い目で見て貧困を救い、民主主義を促すのであるからダムの立ち退きなどの犠牲を生じても経済開発を進めるべきであるという立場である。開発の被害者に対しては別の手段で補償し、環境保全についてもこれを開発と両立するように考慮するというという立場である。
日本のODAに関する大きな論点の一つに日本の援助と企業との結び付きの問題がある。村井は企業と援助の関係についてこう述べる。「援助の企業の濃厚なかかわりは、その歴史に由来する。・・援助も賠償も、初期のものはほとんどヒモ付きであった。いまでも、贈与の部分は基本的にヒモ付きである。賠償を利用して、日本の企業はアジアに製品を輸出するきっかけをもったともいえる。(中略)企業からすれば、援助はとりっぱぐれのない「安全な」商売である。とはいえ、いくら企業が援助のカネでモノを売りたくとも、相手国政府がそれをほしがらなければ話しにならない。曲がりなりにも相手国政府の要請に応えるという形をとる(要請主義)からである。要請主義は、相手国政府の自主性を尊重し、内政干渉を避けるためにできた原則である。しかし、実体はそれほどきれいごとではない。たとえばコンサルタント会社や商社などが、売りたい商品やプロジェクトにかこつけて、「要請」の中身自体を相手国政府に売り込んでしまうのである。」(村井、27頁)
これに対して渡辺は、「ある開発プロジェクトの収益性が高いものであるならば、その発掘・形成に関心をもつ機関は、日本企業のみならず外国企業を含めて少なくないはずである。・・仮に日本の一企業がこれらの多様な発掘・形成主体間の競合に打ちかって自ら発掘・形成したプロジェクトを、開発途上国政府による対日要請案件とすることに成功したとしよう。しかしこれはまだ道半ばであって、実際の援助供与に案件がむすびつくのにはまださらに遠い道のりがある。・・さきに記した調達システムゆえに、日本企業がこうした努力を通じて発掘・形成した案件にようやく日本の援助を利用できることになったとして、これが当の日本企業への発注に結びつく比率は、多く見積もっても20%程度にすぎないという事実である。」(渡辺・草野、24頁)と述べる。渡辺はさらに、「民間直接投資がもつ大きな開発効果と開発途上国のこれに対する熱い期待のことを考えるならば、日本の援助が民間企業の進出をより積極的に促進し、両者が一体となって開発途上国の開発にあたらせるという戦略がより望ましいと考えねばならない。」(同、36頁)
開発における企業の役割についてODA批判論と擁護論とでは180度の開きがあることがわかる。
基本的な問題でありながら一見両者が一致している議論がある。それは、途上国側の自立自助の尊重という点である。1992年6月30日に閣議決定された「政府開発援助大綱」の基本理念の部分では、「(我が国は)開発途上国の離陸へ向けての自助努力を支援することを基本とし、広範な人造り、国内諸制度を含むインフラストラクチャー(経済社会基盤)及び基礎生活分野の整備等を通じて、これらの国における資源の配分の効率と公正や「良い統治」の確保を図り、その上に健全な経済発展を実現することを目的として、政府開発援助を実施する」と述べられている。
鷲見は「援助基本法」を制定してそのなかで3つの基本理念を明示すべきとしているが、その第一は「ODAは、援助受け入れ国の自助努力を支援するものであって、援助国の国益的考慮が優先されるべきものでないこと」を掲げている(鷲見、215頁)。
日本が被援助国から援助国に転じて20年の間に日本のODAは金額の上では世界のトップクラスに躍り出た。それ故、援助を実施する体制は量的にも質的にもこれに追い付いていくことができず、さまざな問題の原因ともなっている。援助の実施体制を整備すべきという議論についてはその理念ほどには大きな食い違いはない。紙面の関係で論点のみを一覧にして整理しておこう。
A. 援助基本法について
「ODA基本法をつくり次の5点を盛り込む。@ODAの理念、AODAの原則、B統括執行機関の設置、C独立した監視機関の設置、D情報公開と住民参加の原則」(村井、265〜269頁。巻末には「国際開発協力基本法」の案文が掲載されている)
「結局、もし基本法を作ることになれば、その内容は『ODAは各国の自立を促し国民の福祉を増進させることに使う。軍事援助は行わない」という言葉につきるであろう。とするならば、これは今の政府の方針となんら変わるところはない。」(笹沼、132頁)
B. 実施体制の一元化について
「ODAの責任体制を明確にし、意志決定の煩雑さを除き、予算の不透明さを解消するために、国際開発協力省(庁)を設置し、その管轄下にJICAとOECFを統合した執行機関を置くべきである。」(村井、267頁)
「私は従来から援助庁構想には消極的である。」「次のような提言は可能であろう。第一に日本のODAを外交上の手段として位置づけている以上、外務省のこの分野での権限をより明確化し、統合、調整機能を持たせること。(略)第二は、・・・ODAの外交上の重要性に鑑みて、経済協力担当相を閣内にもうけることを提唱したい。」(草野、183〜185頁)
C.人員不足について
「一兆3353億円という供与額に比べて、これらを執行するスタッフは外務省、JICA、OECFあわせても総勢1560人にすぎない(「我が国の政府開発援助1991」上巻)。ODA執行スタッフは、年間一人平均8億5000万円程度のODA供与に従事しなければならないのだ。・・大規模開発はやめるようにしよう。手間がかかっても、小さな規模の援助に切り替えていこう。・・とてもいまの陣容では足りなくなる。そのための要員は増やすべきだし、育成にも取り組まなければならない。」(村井、270〜271頁)
「アメリカやイギリスに比べ援助に関して歴史が短いという点を考慮したとしても、援助が外交の重要な手段として位置づけられている現在、スタッフ増員の実現は火急の事柄であろう。・・国会で議論を起こし、国民世論の注意を喚起する必要がある。」(渡部・草野、209頁)
D.評価体制について
「ODAをめぐる問題で、もっとも大きなものの一つが、事後評価の不備である。・・政府機関から独立した監視機関を設置する。この機関は、事後評価の実施はもちろんのこと、ODA改善のための研究も兼ね、人員はODAを受け取る側の第三世界からのスタッフで固めるようにする。」(村井、268頁)
「援助行政の流れの中に事後評価の重要性を考慮し、新たな体制整備を行うべきであろう。・・そこで、内閣官房外政審議室(現在、対外経済協力閣僚会議と対外経済協力審議会の事務局)に、行政府レベルの事後評価機能を集中する一方、対外経済協力審議会内に、中立的な立場から事後評価を行うための小委員会(民間有識者を大幅に登用)を設けることを提案したい。」(渡部・草野、213〜214頁)
E.情報公開について
「日本政府は、情報公開に応じない理由として、外交機密、受取り国の内政干渉、金融機関(日本政府は特殊法人OECFをこう称する)の守秘義務などをあげる。・・ODAの案件には、供与により影響を受ける住民の参加を義務づける必要がある。・・一方、日本側でも徹底した情報公開を行う。ODAの原資は、OECFが扱う有償資金虚力であっても、一般市民の税金、郵便貯金、厚生年金などである。原資の出資者にはその使途を確認する権利も義務もある。」(村井、269頁)
「(93年から国際協力プラザが東京にオープンしたことにより)これまでに比べ情報の入手は容易となろう。しかし、これだけでは問題は解決しない。折をみて、経済協力担当相から国民に対して直接説明する機会が欲しいし、国民を広い意味でODAの政策過程に参加させることが望ましい。ここでODAは国民の熱意ある支持があって初めて可能だという点を思い起こして欲しい。」(草野、187頁)
ODAについては議論すべき論点はこれ以外にもあるが、基本的な対立点については以上の記述でご理解いただけるのではないかと思う。具体的なプロジェクトを取り上げて議論することにより一層理解が進むであろう。『開発教育』の第24号にはナルマダ・ダム問題を取り上げて援助を継続すべきか中止すべきかを中学生たちがディベートした事例が紹介されている。(5) ODAプロジェクトは海外で実施されていて実地検分が困難なことと、情報の入手が難しいために具体的なプロジェクトとなるとなかなか議論がしにくいものである。1994年5月に岡山で開かれた開発教育推進地域セミナーではタイの東部臨海開発プロジェクトを取り上げてディベートを実施した。このプロジェクトについては一定の資料と文献がありディベートの題材として適当であったからである。(6)
東部臨海開発をめぐるディベートではここで述べてきた対立点がすべて出された。一方では、日本がこれまで進めてきた開発路線を是としてこれをタイに移入しようとする日本のODA関係者とそれを見習おうとするタイの経済政策担当者があり、他方では、移転される住民の立場にたつNGOと環境保護運動家がプロジェクト反対の論陣を張る。このディベートを通して明らかになったのは、この問題がタイの一プロジェクトの問題ではなく、日本の過去と現在の開発の課題でもあるということである。ひとごとではなく自分たちの課題として捉えられたことでディベートは成功したと言うことができる。
このディベートの過程でODA側は「近代化」「工業化」に代わる有効な開発の方法が果たしてあるのか、との鋭い問題提起がなされた。これに対してプロジェクトに反対するNGO側からは「もう一つの開発」の道が提示された。これは伝統文化、人権、環境の保護に根差した開発の道であり、タイにおいて発展した考え方である。
(1) 日本の政府開発援助の実態と歴史については次の文献を参考にした。通商産業省『経済協力の現状と問題点(平成5年版)』通商産業調査会、1994。樋口貞夫『政府開発援助 第二版』勁草書房、1986。松井謙『国際協力論演習』晃洋書房、1988。フランツ・ヌシェラー『日本のODA 海外援助−量と質の大いなる矛盾』スリーエーネットワーク、1992。西垣昭・下村恭民『開発援助の経済学』有斐閣、1993、『ベールをぬいだ援助−NGOによる先進国ODAの検証』NGO活動推進センター、1993。
(2)グラント・エレメントの計算式(略)
(3) IMF協定8条において規定された為替制限の撤廃義務を受入れた国をIMF8条国と呼ぶ。対語としてはIMF14条国があり、これらの国々では国際収支を理由として為替の制限措置が例外的に認められるが、その継続については毎年IMFとの協議が義務づけられている。
(4) 経済協力に関する専門用語については次の辞典が便利である。海外経済協力基金開発援助研究会編『経済協力用語辞典』東洋経済新報社、1993。
(5) 善財利治「『環境問題』教材で進める開発教育−政府開発援助についてのディベート」『開発教育』24号、1993年6月、70〜78頁
(6) タイ東部臨海開発の是非については以下の書物が参考になる。草野厚『ODA一兆2千億円のゆくえ』(東洋経済新報社、1993)。村井吉敬(編)『検証ニッポンのODA』(学陽書房、1992)、ターラー・ブアカムシー『援助はタイを豊かにするか』(岩波ブックレット、1994)。
|
|
|
| |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|