南北問題と国際協力


南北問題の戦後史

田中治彦『南北問題と開発教育』(1944)より

 最終加筆  1997年3月17日


もくじ

戦後体制と南北問題

第1次国連開発の10年

UNCTADの発足

「緑の革命」

従属理論とNIEO

世銀のBHN戦略

南北包括交渉

失われた80年代

NIESの挑戦

持続可能な開発

国際先住民年

NGOと参加型開発

[注]

 南北問題という用語が提唱されたのは先に述べたように1959年のことであり、その提唱者はイギリス人のオリバー・フランクスであった。ロイド銀行の頭取であったフランクスは「先進国と低開発地域との関係は南北問題として、東西対立とともに現代の世界が直面する二大問題のひとつである」と語り、イデオロギーと軍事の対立である東西問題に比肩する重要課題として南北問題の存在を明らかにした。(1)  南北問題の原因そのものは植民地時代まで遡ることができるが、先進工業国と開発途上国の経済的な格差の問題として認識されたのは1950年代のことであった。ここでは戦後の南北問題史を概観しよう。

 

戦後体制と南北問題

 現在開発途上国ないしは第三世界と呼ばれる国々が国家として独立を達成するのは第二次大戦以降のことである。アジアと中近東の国々は大戦終了後の1940年代後半から50年代に次々独立を達成していった。またアフリカ諸国は1960年をピークに植民地支配のくびきから逃れていった。しかし政治的に独立を達成したこれらの国々も、植民地時代の従属的な経済構造のため経済的な自立を達成することは極めて困難であった。1959年に南北問題の存在が明らかにされ、1961年の国連総会において「国連開発の10年計画」がスタートする背景には以上のような事情がある。(2)

 戦後の国際経済の体制は1944年に米国のブレトンウッズで開かれた会議に発している。連合国44か国により発効したブレトンウッズ協定に基づき、45年には国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行)の二大国際金融機関が設立される。これにより国際的な基軸通貨がポンドからドルに移るとともに発展途上国の経済開発を促進する体制ができた。一方、国家間の国際協力の原像は欧州の戦後復興のために実施されたマーシャルプランに求めることができる。これは正式にはヨーロッパ復興計画とよばれ、第二次大戦後のヨーロッパ諸国の戦災復興のために1948年から51年にかけてアメリカが実施した援助である。この計画によって合計125億3400万ドルの援助が西ヨーロッパ諸国に供与された。第1次国連開発の10年計画はマーシャルプランの経験をもとに発想されている。

 開発途上国に対する本格的な援助はかつて全世界に広大な植民地をもっていた英国によってなされる。1950年に始まるコロンボ計画である。これは東南アジア、東アジアの経済開発協力機構であり、コロンボにおいて開かれた英連邦外相会議で提案された。当初農業開発を中心とした6か年計画でスタートしたがその後何度も延長される。また英連邦に限らず計24か国が参加し、日本も1954年にこの計画に参加している。日本の最初の円借款は1958年にインドに対して実施されているが、それはコロンボ計画の一環として行われたものであった。

 後の南北対立につながるもう一つの大きな動きを上げておかねばならない。それは1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議である。この会議にはインドなどの非同盟主義諸国、フィリピン、パキスタンなどの親欧米諸国、中国、北ベトナムなど社会主義諸国が参加してバンドン原則と呼ばれる平和10原則を採択した。この中では反植民地主義と民族自決の原則が掲げられアジア、アフリカ諸国の連帯がうたわれた。これにより以後中東、アフリカなどでは民族解放運動が盛んになり数年間で数十か国が独立を達成した。後に本会議は非同盟諸国会議へと引き継がれる。アジア・アフリカ会議の趣旨は主に政治的なものであったが、国際協力も10原則の中に含められ1964年のUNCTAD(国連貿易開発会議)の結成に寄与している。また、西欧自由主義諸国でも社会主義諸国でもない国々を後に第三世界と呼ぶようになるが、そのルーツもこの会議に求められる。

 

第1次国連開発の10年

 1961年1月に米国第35代大統領にジョン・F・ケネディが就任した。ケネディは同年12月の国連総会で演説し、1960年代を「国連開発の10年(United Nations Development Decade)」とするように提唱した。これを受けて全会一致で採択された二つの決議では、開発途上国全体のGDP(国内総生産)の年平均成長率を60年代末までに少なくとも5%に引き上げることが具体的な目標として規定され、これに向けて先進各国が協力すべきことが述べられた。これらの決議は国連が南北問題に積極的に取り組むことを表明した点で画期的なものであったし、西側先進国がこぞって開発問題に参加する気運を産み出した。

 第1次国連開発の10年計画の発想の理論的根拠となっていたのがヌルクセ(R. Nurkse)、ロストウ(W.W. Rostow)ら経済学者の「近代化論」である。例えば、ロストウは既に近代化を達成した欧米諸国こそが独立した新興国家のモデルであると考えた。即ち、欧米諸国は18世紀末から19世紀中盤にかけて農業中心の伝統社会から工業中心の産業国家へと「離陸(take off)」をなしとげた。その一番機がイギリスであり、二番機がフランスである。欧州ではこれにドイツなどが続き、新大陸のアメリカ、非西欧の日本もこれに続いた。従って、戦後独立したアジア・アフリカ諸国もこれら先進国の例にならって経済的な近代化を達成し、近代国家へと離陸すべきと考えられた。ロストウは近代化をなしとげる要因として、一定の資本蓄積と技術革新が必要であったと分析した。しかし、現実の第三世界諸国はこの二つが決定的に欠けており、これらの国々の近代化を早めるためには先進国から途上国に多額の資本と先端技術を移転することで達成されると考えた。

 ロストウらの議論は一早く工業化を成し遂げた西欧文明に対する信頼と、戦後最大の経済力を誇るようになったアメリカの自信が伺える。そこにおいては「近代化=西洋化」という文化的な優越感が端々に出てくるし、経済大国となったアメリカこそがリーダーとして途上国援助に責任をもつべきであるという自負心も見られる。国連開発の10年計画には、「貧しい」国々を救わねばならぬというケネディ大統領一流の「正義感」「使命感」すら伺える。しかし、同時にこの時期は米ソを盟主とする西側資本主義国と東側社会主義国との対立が深刻化して「冷戦」と呼ばれる時期でもあった。現に1962年にはキューバ危機、64年はベトナム戦争へのアメリカの直接介入が起きている。アメリカを始めとする西側諸国は、経済基盤の弱い開発途上国が革命や混乱のなかで東側についてしまうことを最も恐れていた。第1次開発の10年の時期は、冷戦下で米ソの援助合戦が繰り広げられた時期でもあった。

 

UNCTADの発足

 1960年代には南北問題に関する国際諸機関が整備されていった。1962年には経済社会理事会と国連総会が国連貿易開発会議(UNCTAD= United Nations Conference on Trade and Development)の設立を決めたのを受けて、64年に第1回のUNCTADがジュネーブで開催された。初代事務局長となったアルゼンチン人のプレビッシュはこの会議に『開発のための新しい貿易政策を求めて』と題する報告書を提出した。プレビッシュ報告書は、開発途上国の赤字を解消するためには先進国と途上国とが一体となった新しい貿易政策が必要であると述べ、「援助よりも貿易を」をスローガンにその後のUNCTADの方向づけをする次のような重要提言を行った。@一次産品価格安定のための仕組みとして国際商品協定の締結、A途上国からの工業品輸出を容易にするため、先進国側が途上国に特恵を与える一般特恵制度の導入、B交易条件の悪化の影響を相殺するために途上国に与えられる補償融資制度の導入。

 UNCTADによって経済分野において第三世界諸国が結集する場が形成された。第一回UNCTADのための準備会合に参加した開発途上国77国をもじってしばらくはG77という言葉が開発途上国の呼び名となった。開発途上国(Developing Countries)という用語が「後進国」「低開発国」に代わって一般に使用されるようになったのはUNCTAD以来である。

 一方西側先進国のグループも1961年にOECD(経済協力開発機構)を発足させた。これはマーシャルプランの受け入れ機関であったOEEC(欧州経済協力機構)を改組したものである。OECD内に開発援助委員会(DAC)が設けられ開発途上国に対する援助供与国側の共同機関として現在にいたるまで活動している。日本がOECDに加盟するのは1964年のことである。

 

「緑の革命」

 「緑の革命(Green Revolution)」とは穀物の収量を飛躍的に増大させる品種の開発とその普及をめぐる一大プロジェクトの総称である。(3) 緑の革命はある意味で第1次国連開発の10年を象徴する事業でもあった。それは1943年メキシコで始められた。この年米国のロックフェラー財団の助成を受けて現在のCOMMYT(国際小麦トウモロコシ改良センター)の前身となる組織を設立した。ここで開発された新品種はメキシコの食糧生産を飛躍的に増大させ、1944年から67年の間に小麦の生産は3倍に、トウモロコシ生産は2倍となった。

 この成功に力を得たロックフェラー財団はフォード財団とともに1962年、フィリピンにIIRR(国際稲作研究所)を設立した。ここでも品種改良は成果を収め、IR8号、IR5号と名付けられた品種(別名ミラクル・ライス)がインド亜大陸、フィリピンなどで広範に植え付けられた。1965年からわずか7年の間に、開発途上国における多収穫品種の作付面積は、小麦で1万ヘクタール弱から1700万ヘクタール以上に、米では4万000ヘクタールから1600万ヘクタール近くまで増えた。これらの品種は場所によっては50パーセントの増産を達成しており、多収穫品種を導入した国々の穀物自給率の向上に貢献した。

 ところが1970年代に入って新品種の作付面積は頭打ちとなった。というのはこれらの品種を導入するには、まず潅漑設備が整って水が安定的に供給される必要があった。さらに、大量の肥料と化学除草剤、収穫のためのトラクターなど農業機械も必要であった。これらの設備を整えたり購入できるのは大農、富農層である。作付面積が伸びなくなったのは、70年代に導入できる層には行き渡ったからである。さらに新品種を導入した地域では単一の品種を大量に一地域に集中したため、局地的に発生した病虫害が全域に拡大して甚大な被害をもたらすこととなった。また、新しい品種の味になじめない消費者も少なくなかった。

 1960〜80年代にかけて人口増加が著しい南アジア、東南アジア地域で食糧自給率が下がっていないのはこれらの多収穫品種のおかげである。ところが、これらの地域では国単位での食糧生産が伸びているにもかかわらず、飢餓人口も増加するという矛盾を生じている。即ち、大農・富農層はより生産を上げ豊かになり、これを導入できない貧農、土地なし農民層はますます貧困になったことを意味している。この結果それまで存在していた相互扶助的な農村組織が変貌したり解体するところも現れ、新品種の導入は生産的技術的な側面にとどまらず農村社会に深刻な影響を及ぼした。また、中小農民の間では多額の投資に見合った収入が結局得られなかったり、農薬の大量投入や塩害により土壌が破壊された地域も出てきた。

 第1次国連開発の10年計画が終了してみると、開発途上国全体のGNPを確かに引き上げはしたが、一方で途上国内部の貧富の格差は拡大し、北と南の国の間の格差も広がるという結果になった。最新の技術と大量の資金を先進国から途上国に投入してその発展を図るという構想は成功せず、さまざまな課題を双方に残すこととなった。緑の革命の顛末は第1次開発の10年を象徴する出来事であった。但し、緑の革命は否定的な側面ばかりではない。IR品種に影響を受けて、今度は在来種を土台とした独自の改良多収品種の開発が進んだのである。これらは外部から導入されるのではなく、各国各地域で開発されたため土地の環境にも適合し地域住民の嗜好にもあっていたために各国で普及していった。

 緑の革命の最大の成果は、「開発」とは単に資金と技術を導入して量的に拡大することではなく、地域の文化をもとにして社会全体の開発の中で考えられるべきであるという教訓を残したことであるかもしれない。

 

従属理論とNIEO

 第1次国連開発の10年計画が終了した時点で開発途上国のGDPの成長率は年率5.5%という結果となり、目標とした年率5%を一応クリアした。1970年月に国連で採択された第2次国連開発の10年では、経済成長率の目標を年率6%としただけでなく、農業生産、製造業生産、輸出などの個別のマクロ指標についても目標値を設定した。先進国の政府開発援助額をGNPの0.7%にすることを求めたのはこの時である。

 しかし、60年代に高度成長を遂げた先進工業諸国との経済格差は一段と拡大し、世界の輸出に占める途上国の比重は次第に低下してまた交易条件も悪化していたため、途上国側の不満といらだちがさまざまな国際会議の場で表明された。プレビッシュはすでに「中心−周辺理論」を提起し、世界の中心に位置する先進工業国は、貿易と投資により周辺部の開発途上国から富を吸い上げますます豊かになっていくと論じていた(従属理論)。フランク、アミンらはプレビシッシュの理論を発展させる形で、マルクスの国内での資本家階級と労働者階級の対立の概念を国家間の対立に置き換えた「新従属理論」学派を形成していた。こらの理論の影響を受けて1970年代には「新国際経済秩序(NIEO)」の主張が第三世界の政治家たちから起こってきた。NIEOには先進工業国の支配のもとにできあがった構造的な国際経済体制(IMF・GATTに象徴される)を根本的に突き崩していかなければ途上国はいつまでたっても経済的な従属から逃れられないという認識がある。具体的には、天然資源についての主権の確立と、不公正な既存の国際経済体制に代わる新体制の確立の前提となる「主権の平等」の概念を提起している。

 いっこうに経済格差が縮まないフラストレーションをもつ南の国々にとってNIEOの議論は魅力的であった。1973年月アルジェにおいて開催された第4回非同盟諸国首脳会議では「経済宣言」が採択され天然資源恒久主権(資源ナショナリズム)の立場が強く打ち出された。同年10月、第4次中東戦争の勃発とともにOPEC(石油輸出国機構)諸国は石油戦略をとり、原油の禁輸と価格の4倍引き上げを強行した結果、先進工業国のみならず世界経済全体に大きな打撃を与えた。このことは開発途上国側に大いに自信をもたせた。

 国連は非同盟諸国の要求によって74年に国連経済特別総会を開催した。この総会では非同盟諸国とOPECの急進派が終始会議をリードして、「新国際経済秩序」樹立のための宣言と行動計画を採択させることに成功した。その後の南北交渉はNIEOの樹立が主要議題となった。

 

世銀のBHN戦略

60年代を通じて途上国に投下した多大な援助がいっこうに効果を挙げないことに対する不満は先進国側にも溜まっていた。60年代の戦略は経済全体のパイを大きくする中で国民一人一人の取り分を増やすものであったが、その前提には成長の果実が次第に社会の上層から下層へと浸透していく(トリックル・ダウン効果)という仮説があった。しかし、緑の革命でも見たように社会のわずか1〜2割の層が国の経済と政治権力を握っている途上国にあっては、成長の成果は上層部に留まってしまって民衆には一向に浸透していかない。その結果国の中の貧富の格差を拡大し、開発が新たな社会不安の火種になるという逆の効果を生んでしまうケースも多かった。

 第1次国連開発の10年で中心的な役割を果たした米国は1973年に対外援助法を改正して援助の新方向を打ち出した。これは援助の配分に当たって、農業、人口計画、保健衛生、教育などの分野を優先し、貧困層や社会的弱者を対象としたプログラムに重点を置くものであった。米国の影響が強い世界銀行にもこの考え方が反映され、ロバート・マクナマラ総裁の下で「人間の基本的ニーズ(BHN=Basic Human Needs)」重視の開発戦略が打ち出された。BHN戦略は経済成長の果実を社会の上層部が一人占めするのではなく、絶対的貧困層に及ぼすという所得再配分を強調とした開発アプローチである。(4) BHNには衣食住、教育、医療という人間として生きていくうえでの基本的なニーズが含まれており、日本国憲法第25条にある「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」がこれに相当する。世銀が提起したBHN戦略はその後ILOやOECDにも採用され、70年代の援助供与側の開発戦略の一つとして重要な位置を占めるようになる。

 1960年代の開発のアプローチが先進国から途上国への大規模技術と資金の移転であったのに対して、1970年代の南北問題の主要なテーマは、「南」の側からは国際経済体制の構造的改革を求めた「新国際経済秩序」であり、「北」の側からは貧困層への所得再配分を求めた「人間の基本的ニーズ」戦略であった。

 

南北包括交渉

 1980年代にはBHN戦略によって途上国の貧困層の生活が大幅に改善され、NIEOによって途上国の貿易が伸び経済発展を達成するはずであった。ところが、1980年代は振り返って「失われた80年代」と呼ばれている。

 197年国連総会では80年代の第3次国連開発の10年に向けて国際開発戦略に貢献するような「包括交渉(Global Negotiation)」体制を作ること、その中で一次産品、貿易、通貨金融、開発、エネルギーの5つの問題を同時並行的に検討することが合意された。1980年代の国際開発の方向づけを求められたブラント委員会は80年に『南と北−生き残りのための戦略』と題する報告書を発表した。 (5) ブラント報告書は包括交渉の発想を基本的に支持して、南北首脳によるサミットの開催を提案した。これを受けて1981年にはメキシコのカンクンにおいて初の南北サミットが開催された。先進8か国、途上国14か国の首脳が一堂に会したことは画期的であったが、会議は難航し結局、包括交渉早期開催の合意に達することができなかった。

 包括交渉が発足できなかった要因はいくつかあるが、一つは「南」の側で石油を持つ国と持たざる国とが対立し途上国が一丸となって交渉にのぞめなかったことである。また、この頃から石油の供給が過剰になり、石油自体は途上国側の交渉の決め手にならなくなっていた。先進国でも英国のサッチャー政権、米国のレーガン政権など新自由主義を唱える政権は、途上国に自助努力を求めて経済協力には消極的であった。とりわけ、包括交渉を実施するための新たな中央機関の設立は、GATT、IMF、世銀の権限を脅かすものであり、これを恐れた先進国側が包括交渉に対して否定的となった。

 カンクン・サミットにおいて包括交渉の開催に至らなかったことは、途上国側に失望感を抱かせた。これ以降、NIEOや包括交渉のこと語られなくなったし、南北サミットもその後開催されなかった。

 

失われた80年代

 1973年の石油値上げで巨額の石油収入を得た産油国はその資金の多くを先進国の民間銀行に預金した。これを受けた民間銀行では有利な貸出先を求めて貸出競争を展開する。それは主として新興工業国や資源保有国であり、その中にはメキシコ、ブラジルなどの中南米諸国が数多く含まれていた。これらの国では工業化を推進するために多額の資金を必要としており先進国の民間銀行から積極的に借入れを行ったのである。

1982年頃からの石油価格の下落は「逆オイル・ショック」となって石油産出国の経済に打撃を与えるとともに国際的な発言力を低下させた。逆オイル・ショックは石油に留まらず、一次産品市況全体に低落をもたらした。これによりメキシコ、ヴェネズエラなどの中南米諸国では新たに債務不履行問題を発生した。これらの国では工業化のために民間銀行から借りたお金が石油や一次産品の価格下落のために返済できなくなってしまったのである。累積債務問題はそれを発生させた途上国のみならず、世界の金融市場の信用に不安を与え、その解決は80年代最大の国際金融問題となった。

 累積債務問題に対しては、債務削減、利払いの軽減、新しい資金の供与などの措置がとられているが、各国の経済開発に与えた影響は甚大であり、その最大の被害者は最も弱い立場にある民衆であった。すなわち、IMFなどでは債務救済措置を実施するに当たっては各国の増税、歳出の軽減など条件を付ける。そのため教育、保健、福祉などの財源がまずカットされ、そのつけは貧しい民衆にまず及ぶ。中南米諸国では80年代に国民生活レベルが悪化した国々が多い。

 1980年代前半にはアフリカ大陸でも深刻な問題を生じていた。1970年代を通じてサヘル地域(サハラ砂漠南縁部一帯)は慢性的な干ばつに襲われ、食糧不足の状態であった。これに内乱や政治的混乱を生じていたソマリアやエチオピアでは80年代に入って一部の地域で飢餓状態を生じた。この地域は内戦と飢餓とで大量の難民が発生した。1983年で緊急食糧援助を必要とした国は22か国にも上った。国連総会はこの事態を重く見て1984年に「アフリカの危機的経済情勢に関する宣言」を採択し、アフリカ飢餓救援キャンペーンがNGOやマスコミによって世界規模で繰り広げられた。 (6) 幸い1985年に干ばつが終息したこともあって、86年段階で危機状態を脱していないのはエチオピア、スーダンなど5か国となった。しかし、サヘル地方は気候の変動を受けやすく人口増加、砂漠化など多くの問題を抱えたまま現在に至っている。

 

NIESの挑戦

 中南米、アフリカの「失われた80年代」にあって気を吐いているのが東アジア、東南アジアの国々である。新興工業経済地域(NIES=Newly Industrialising Economies)とは、70年代〜80年代に著しい経済成長を遂げた韓国、台湾、香港、シンガポールなどの国家・地域群を指す。(7) これらの国々は70年代を通じて年平均%前後の経済成長を記録し、80年代でも6〜7%の成長を達成した。経済成長の要因は、当初輸入代替工業化を行いこれに成功すると輸出指向工業化に転換した。日本と米国という一大市場に輸出することにより外貨を稼いだ。また、インフレ抑制策をとり国内貯蓄動員に力を入れ外貨への依存度を低下させた。これらの成長のしかたは日本のそれと同じであり、日本の教訓を学んだ成果ともいえる。

 最近急速な経済成長を遂げNIESの仲間入りを果たしつつあるタイの例を見てみよう。タイのGDP年平均成長率は1960年代で8.4%、70年代で7.2%、80年代で7.6%となっており、先進工業国はもとより開発途上国全体の平均を大きく上回っている。タイの経済開発の特徴はその豊富な農産物、水産物を加工して付加価値を高め、これを輸出することによって外貨を稼いできたことである。輸出を伸ばしているのはコメ、ゴムといった伝統輸出商品に加え、タピオカ、砂糖などの新興農産物、冷凍エビ、水産缶詰、ブロイラーなどアグロインダストリー(農業関連工業)である。私たちが普段口にするものには驚くほど多くのタイ製品がある。焼き鳥、冷凍エビ、冷凍イカ、酢漬けしょうが、パイナップル缶詰などもタイ製品が多い。(8)

 見逃すことができないのは、このタイの経済成長を日本の投資と政府開発援助が支えてきたことである。上記のアグロインダストリーはもともと日本の市場に合わせて商社や日本企業が投資し技術的な指導も行ってきた。タイに対する日本のODAの供与額は1978〜90年度の累計で36億2千万ドルにも上り、タイにとって日本は最大の援助国である。日本のODAはタイの道路網、港湾、発電所などのインフラストラクチャー(産業基盤)の整備のために使われタイの工業化を支えてきた。ところが、タイの急速な工業化はさまざまな問題を生じさせている。首都バンコクの交通渋滞と大気汚染、農漁村部における森林破壊や海洋汚染などは深刻でありすでに公害病患者も発生している。

 近代化論に基づく開発理論は60年代の大規模資本移転の失敗からしばらく冬の時期を迎えていた。しかし、NIESが実施した輸出振興による工業化政策は近代化論の中でも非正統派といわれたミントらが主張していたもので、ここにおいて再び近代化論が力を得てくる。同時にNIESの国々における急速な経済発展がもたらした環境の破壊については別の立場から批判が出ている。また経済開発にともなうダムや港の整備に伴って住む家を追われたり、都市のスラムを形成するなど、様々な社会問題を生じることになる。環境や人権や文化的アイデンティティを優先した新たな開発理論と開発戦略が注目を浴びるようになるのも80年代の特徴である。

 

持続可能な開発

 従来、環境と開発とは相対立するものとして考えられたきた。すなわち開発の進行が環境を破壊するという議論である。ところが、環境問題である砂漠化の進行、熱帯林伐採などの背後には人口増加、貧困、移住民などの開発問題がありこれらは密接に関連している。こうした認識が80年代に高まり、これらの問題を統一的に扱うためにノルウェーのブルントラント首相を委員長とした「環境と開発に関する世界委員会」が設置され、1987年に『我々の共通の未来(Our Common Future)』と題する報告書が提出された。(9)

 この中で環境と開発とを両立させる概念として「持続可能な開発(Sustainable Development)」が提示された。これは「将来の世代がそのニーズを充足する能力を損なわないように現在の世代のニーズを充足させる開発」と定義されている。この概念には解釈の幅が大きく個別の問題(例えば、原子力発電)になると議論が分かれ、かつ途上国と先進国とではその受け止め方も違っている。192年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた国連環境開発会議(地球サミット)では持続可能な開発とそれを実現するための国際協力の方法が話し合われた。地球温暖化対策、砂漠化防止、有害廃棄物の制限など多くの分野で成果を上げたものの、援助資金や技術移転では国によって意見が食違い合意に至らなかった。会議で採択された「環境と開発に関するリオ宣言」の理念を達成するために21世紀に向けて「アジェンダ21」という行動計画が策定された。アジェンダ21では全人類の活動が地球環境に及ぼす影響を考慮して経済活動を改める必要があるという理念に基づき、持続可能な開発のために地球規模での国際協力の必要性が前文で述べられている。アジェンダ21には政府や国連機関だけではなくNGOや女性の役割などにも言及があり、その範囲も森林、大気、海洋など幅広いものである。

  持続可能な開発の概念はNGOや教育関係者にも影響を与えており、環境保護団体と開発協力団体の提携、環境教育と開発教育の接近などの動きが見られる。

 

国際先住民年

 地球規模で「開発」が進む中で、その最大の被害者が各地に点在する先住民(Indigenous people)たちであるという認識が広まってきた。マレーシアのサバ州、サラワク州の森林が大量に伐採され日本に輸出されたために、そこに住んでいたイバン族、プナン族などの人々は強制的に移住させられた。食糧、建築材、薬など生活用品のすべてを森に依存していた人々は今生存と文化破壊の危機に瀕している。ブラジルで実施されつつある大カラジャス・プロジェクトはアマゾンの広大な森林を切り開いて製鉄業を起こし、大規模工業団地と農場・牧場をも作る一大開発計画である。ここでも約1万人のインディオたちが強制退去させられた。

 先住民の多くは狩猟採取と牧畜、農業を営んでいるために近代化の価値観から言えば「遅れた」「未開の」人々であると考えられてきた。彼らを指す用語そのものが差別的である。北米のインディアン、南米のインディオはもともとこの地を「発見した」コロンブスがインドと間違えたことに起因する。今ではそれぞれ「アメリカ先住民」「インディヘナ(先住を意味する)」と呼ぶようにしている。北極圏一体に住むイヌイットはエスキモーと呼ばれるが、これは「生肉を食う人」という蔑称である。南アフリカの草原で暮らすバサルワはブッシュマン(やぶに住む人)と軽蔑的に呼ばれる。

 先住民の多くは厳しい環境の中で先祖代々生活を営んできた。それ故、自然を破壊することなく共存して生活してきた。地球規模の環境が広範に破壊される中で、リオの地球環境サミットでも先住民の生活様式や生活哲学は注目を集めた。1992年には先住民の現在の悲惨な状況の遠因となったコロンブスのアメリカ大陸「発見」400周年が祝われ、これを記念してバルセロナ・オリンピックが開催された。国連ではこの年をあえて避け翌1993年を「国際先住民年」とした。先住民の問題は開発途上国固有の問題ではなく、日本でもアイヌ民族をめぐる課題が存在する。先住民の問題は、開発、環境、人権に関りながら今後に大きな課題を残している。(10)

 

NGOと参加型開発

 NGOと呼ばれる民間の開発団体が南北問題の一つの主役として登場したのも80年代の特徴である。すでに欧米のNGOは1950年代より開発途上国各地で活動してきた。70年代に入るとアジア・アフリカ・ラテンアメリカの各地に地元の人々によって運営されるNGOが誕生しだした。80年代には国や地域ごとの連携も進み、NGOの活動が一定の成果を上げ、国や国際機関にも広く認められるようになる。

 NGOの活動が評価されるようになったのは、第一に彼らが最も援助を必要としている貧困層や権利を侵害されている少数民族や難民とともに活動してきたこと、第二に、受益層である人々の参加によって民主的かつ効果的にプロジェクトを運営していることである。もちろん、すべてのNGOがそうしているわけではないし、失敗の事例も少なくない。しかし、これら二点は従来の国家中心の開発とそれに資金を提供した先進国や国連のプロジェクトの最も弱かった点である。1970年代後半からは世銀のBHN戦略や従属理論の影響を受けながら、従来の近代化論に対置して「もう一つの開発論」「内発的発展論」など民衆の自助努力と伝統文化を重視した開発論が展開された。これらの理論には開発途上国においてNGOが実施してきた受益者中心の開発の手法が反映している。

 DACは1989年に「1990年代の開発協力」を発表して、90年代の開発協力を主導する理念として「参加型開発(Participatory Development)」を提唱した。参加型開発とは、開発の受益層自身が開発の意志決定プロセスに参加すること、そしてより公平にその恩恵を受けることが含まれる。これは民主的なシステムの確立と公平な分配を保証する概念でもある。従って、この場合の参加は強者の参加ではなく、当然「弱者」の参加である。弱者とは都市のエリートに対する農村の住民、男性に対する女性、大人に対する子ども、支配民族に対する少数民族や先住民族などである。ILOなど複数の国連機関は共同で調査を委託し、参加型開発の現状、方法、そして課題をまとめて『民衆と共にある開発(Projects with People)』を1991年に発表した。(11)「持続可能な開発」と「参加型開発」は90年代の国際開発をリードする概念となっている。


[注]

(1) オリバー・フランクスの演説は後に「新しい国際均衡−西欧世界への挑戦」と題してサタデー・レビュー誌(1960年1月16日)に掲載された。

(2) 国連を中心にした国際開発の動向については以下の文献を参考にしている。松井謙『国際協力論演習』晃洋書房、1988。谷口誠『南北問題−解決への道』サイマル出版会、1993。

(3) 緑の革命については次の文献を参考にした。西川潤『飢えの構造−近代と非ヨーロッパ世界』ダイヤモンド社、1974。スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』朝日新聞社、1980。西川潤『食糧−21世紀の地球』岩波ブックレット、1983。フランセス・ムア・ラッペ(他)『世界飢餓の構造−いま世界に食糧が不足しているか』三一書房、1988。

(4) 絶対的貧困(absolute poverty)の用語はBHNとの関連でこれを満たされない状態を指すと説明されるが、明確な基準があるわけではない。世界銀行の1990年開発報告では、一人当たりの年間収入が370ドル以下を貧困(poor)として、同275ドル以下を極貧(extremely poor)と分類している。しかし、年間収入や一人当たりのGNPで貧困を測ることの疑問については序章で述べたとおりである。

(5) The Independent Commission on International Development Issues, North-South - A Programme for Survival, 1980. (森治樹監訳『南と北 生存のための戦略 ブラント委員会報告』日本経済新聞社)

(6) 緒方貞子監修『飢餓−それは人災か? 国連人道問題独立委員会報告』、世界の動き社、1985

(7) NIESは最初NICS(新興工業国)と呼ばれ、アジア、中南米、南欧の計11か国を指していた。1988年以降は、台湾と香港の国際法上の地位に関連してNIESと呼ぶようになった。

(8) この他、缶入りペットフード、こんにゃく、チューブ入り本わさび、キュウリやナスの漬物、たこの燻製、パン粉をつけたフライ用あじ・きすなどもタイ製である。末廣昭『タイ 開発と民主主義』岩波書店、1993。

(9) World Commission on Environment and Development, Our Common Future, Oxford University Press, 1987.(大来佐武郎監修『地球の未来を守るために 環境と開発に関する世界委員会』福武書店)

(10) 先住民については以下の文献を参照されたい。ジュリアン・バーガー『世界の先住民族』(明石書店、192)。ジョージナ・アシュワース『世界の少数民族を知る事典』(明石書店、190)。開発教育との関連では、上村英明「『国際先住民年』と先住民族と開発教育」(『開発教育』第25号、193年10月)。

(11) Peter Oakley et al., Projects with People - The Practice of participation in Rural Development, ILO, 1991.(P・オークレー(編)『国際開発論入門−住民参加による開発の理論と実践』、築地書館、193)


 

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