地域の国際化と国際交流

国際交流の戦後史

−青少年の交流を中心に

田中治彦

 

  「戦後の国際交流を振り返り将来を語る(シリーズ青少年海外交流史その5・6)」

『青少年と国際交流』161・3、1996年2・3月より。

最終加筆 1998年3月17日

もくじ

1. 対米親善交流に始まる (1945〜1959年)

2. 多様化する国際交流 (1960〜1973年)

3. 地球的課題の出現と「第三の開国」 (1974〜1978年)

4. アジアへの傾斜と国際的責任の増大 (1979〜89年)

5. 1990年代の国際交流 (1990年〜)

6. これからの国際交流

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1. 対米親善交流に始まる (1945〜1959年)

 

 1945(昭和20)年に敗戦を迎え、国土は荒廃し戦後の復興に忙しかったこの時期は、国際交流をしようという気力も財政的な余力もなかった。アメリカの占領下で出発した新生日本は、外国と言えばアメリカ合衆国であり、外国人と言えばアメリカ人であり、外国語と言えば英語であった。昭和20年代には第一の「英語ブーム」が起きる。昨日まで戦争をしていた国であるから、当然ながら敵国であった米国との「国際親善」が主要な国際交流の目的であり、そのことに大きな意義が認められた時期でもあった。国には財源がなく、国際交流は専ら米国の資金と民間のイニシアティブで進められた。

 戦後の最初の国際交流はYWCA、ボーイスカウト、青少年赤十字など国際的につながりのある青少年団体が米国のカウンターパートの招待により実現している。米国のフルブライト財団による奨学金制度も、新日本の建設に燃える日本青年を大いに勇気づけた。現在の60才以上の各界のリーダーの中にはこの奨学金でアメリカを見、さまざまな知識を学んだ人々が多くいる。現在日本にはアジア各国を始め第三世界から多くの留学生が来ているが、この時の成果の大きさを見れば、対象国は違っても当然の「恩返し」と考えるべきであろう。

 1955年には長崎とセントポール市(ミネソタ)との間で「姉妹都市」交流が始まった。その後仙台とリバサイド、岡山とサンノゼ(いずれも1957年)と続き、米国の諸都市と姉妹都市関係を持つことが一種の流行にもなった。この時期の国際交流は総じて、日本人がアメリカ人の好意で米国に渡り、知識と経験を身につけて帰るというものであった。

 ユネスコの国際理解教育に触れておこう。1946年に成立したユネスコは「人々の心の中に平和の砦を」と訴え、再び戦争を起さぬためには国際理解教育が必要あると主張した。そこには@平和教育、A人権教育、B各国理解、C国連理解の4つの柱があった。日本では平和教育と国連理解において教育実践が熱心に進められた。日本で始まった民間ユネスコ活動も国際理解教育の普及に一役買った。

 

2. 多様化する国際交流 (1960〜1973年)

 

 総務庁の青年海外派遣事業が1959(昭和34)年に始まった。派遣団は南米、ヨーロッパ、アメリカ、アジア・オセアニアに分かれて各国の産業、経済、文化の実情を2〜3か月にわたって視察し各国の青年たちと交歓した。アメリカ一辺倒から世界全体へと国際交流の多様化が始まった。

 日本国民が世界に目を向けるようになった一大イベントが1964年の東京オリンピックであった。独立したばかりのアフリカ諸国を始め世界94か国が東京に集まった(当時の国連加盟国は112か国)。5大陸からの参加者がそろい、東京の空に描かれた五輪の輪はつかの間の国際平和を象徴していた。オリンピックで日本を訪れる選手や観光客と話そうということで、戦後の2回目の英語ブームが起きた。

 姉妹都市の相手国はそれまですべてアメリカや欧州、オセアニアに偏っていた。しかし、1961年には舞鶴がソ連のナホトカと、1963年には珠洲がブラジルのペロータスと、1965年には横浜がインドのボンベイと、1966年には萩市が韓国の蔚山と姉妹都市関係を結んだ。日本青年団協議会は他団体が相手にしていない国との交流を考え、文化大革命最中の中国や北朝鮮との青年交流を模索した。

 青少年育成国民会議が設立された翌年に当たる1967年には総理府の主催で「青年の船」事業が開始された。この事業は各自治体がこぞって着手する青年交流事業の先鞭を付けるものであった。相手先は若者が自費では行こうとせず、かつ費用的にも安い近隣のアジア諸国であった。このように1960年代にはそれまで欧米に偏重していた国際交流が、アジアや共産圏、第三世界へと多様化する時期である。また、高度経済成長に伴う財源増の中で、行政が行なう国際交流事業が本格化したのがこの時からである。

1964年に海外渡航が自由化されたことにも触れねばならない。外貨事情の好転に伴い、それまで特別な理由がなければできなかった海外旅行が一般の人でも自由にできることになった。持ち出せる外貨に厳しい制限があったが、それでもたくましい若者はシベリア鉄道の片道キップを手にヨーロッパに渡った。帰りの旅費は観光地のレストランで皿洗いなどして稼ぐのである。わずか4半世紀後に日本の若者が同じレストランでフルコースを食べてクレジットカードで決済する姿は想像できなかったに違いない。

東京オリンピックから大阪の万国博覧会(1970)にかけて、日本人の国際的な目が大いに開かれ国際交流プログラムも進展していた。にもかかわらず、学校教育の現場では国際理解教育は苦杯を舐めていた。1958(昭和33)年の学習指導要領により、基礎学力の充実、技術立国のための理数科の充実、技術・家庭科の必修、道徳の特設などの改訂が行われ、教育現場は急激に忙しくなった。これに1960年代の急速な進学率の上昇が加わり、受験戦争が激化した。一時ブームであった国際理解教育は隅に追いやられ、一部の熱心な先生だけが行なうという国際理解教育「冬の時代」を迎えていた。以後、1989年に指導要領が改訂されるまで国際理解教育は日の目を見ない。

 

3. 地球的課題の出現と「第三の開国」 (1974〜1978)

 

1973年10月第4次中東戦争が勃発し、アラブ諸国は石油の禁輸措置を講じた。それまで1バーレル4ドルであった石油は一気に30ドルまで値上がりした。99パーセントの石油を外国に頼る日本経済にとってこれは決定的なダメージであった。「アラブ」と「アブラ」の区別もつかないような日本人は自分たちの経済の基盤である資源とエネルギーの多くを外国に、しかも第三世界に負っていることを否応なく知らされた。翌年1月の田中角栄首相は東南アジア歴訪の旅に出た。しかし彼を待っていたのはバンコクとジャカルタにおける反日学生デモであった。戦後日本はアジア太平洋戦争の後遺症から東南アジアにおける政治的な影響力を極力避けた代わりに、経済的には盛んに進出していた。日本企業が首都のメインストリートに並び、自分たちが使う日常製品の多くが日本製であることに、タイやインドネシアの国民はプライドを傷つけられ危機感を持ったのである。

経済と政治の両面からアジアで反発を受けたことは、対米一辺倒であった日本の対外政策の見直しを否応なく迫るものであった。経済から「第三世界」に気づくというのはいかにも戦後日本を象徴している。田中首相が東南アジア歴訪でたまたまお土産として持参した「東南アジア青年の船」事業は、期せずして日本とASEANの友好のために重要な役割を果すことになった。

国の組織である国際交流基金(1972年設立)、国際協力事業団(1975)、民間団体である日本国際交流センター(1973)、トヨタ財団(1974)、国際協力推進協会(1975)なども設立され、欧米とともにアジア諸国との官民の交流と協力に活動の重点を置くようになる。

ユネスコ総会は1974年に地球的課題の解決のために新しい国際理解教育の枠組みとして「国際教育」を勧告した。これは1960年代に顕在化した地球的諸課題を解決することを目的とする新たな国際理解教育であり、その主要な学習内容は、@平和(軍縮)教育、A開発教育、B環境教育、C人権教育である。平和教育においては冷戦下で急増した核兵器の廃絶をめざし、開発教育では開発途上国に顕在化する貧困や先進国との貧富の格差の問題の理解とその解決をめざした。

一方、モノの豊かさを達成した日本社会では余暇の増大の中、心の充実を求めて生涯学習やボランティア活動が起きようとしていた。学生運動に挫折した若者たちはそのエネルギーをどこに振り向けてよいのか模索していた。1976年に神奈川県の長洲一ニ知事は国際ではなく民(たみ)と民とが交流する「民際外交」を提唱した。1979年国際児童年の年に悪化したインドシナ難民の大量流出問題をきっかけに日本社会は急速に「第三の開国」へと向かうことになる。

 

4. アジアへの傾斜と国際的責任の増大 (1979〜89年)

 

1979年に入るとテレビから国際児童年のテーマソングが流れてきた。

‘Every child has a beautiful name. Beautiful name, beautiful name. ..’

NHKではゴダイゴのメロディーに合わせて、世界の子どもの楽しそうな表情をスポットで伝えた。しかし、その直後のニュースは「ベトナムからの大量の難民が流出し、隣国の沿岸にたどりついています」と報じた。その頃、バンコクには欧米各国のNGO(民間協力団体)がカンボジア難民を救援するために続々と集まっていた。日本から単身乗り込んできた若者やバンコク在住の婦人たちは、何から手をつけてよいのか困惑していた。日本国内では有史以来初めて国民的規模で難民の募金活動が展開される。難民救援を目的として日本国際ボランティア・センター、曹洞宗ボランティア会、幼い難民を助ける会などが結成された。難民問題に限らず現在の著名な国際協力NGOにはこの時期(1979-1983)に結成された団体が多い。

同じ1979年11月、東京の朝日講堂で国連広報センターやユニセフの主催で「開発教育シンポジウム」が開かれる。南北問題を扱ったこの耳慣れない集会には主催者の予想を裏切って200人近い人々が参加した。開発教育シンポジウムにはその後毎年、横浜、大阪、名古屋で開かれ、1982年末には「開発教育協議会」が結成されるに至った。開発教育協議会はその後毎年夏に全国研究集会を開き、これにより南北問題、国際協力の理解に大いに貢献した。

1983年元旦の全国紙の社説はすべて「アジア」で埋めつくされた。1984年秋に今度は「アフリカ」がブームとなった。サハラ砂漠南縁地方とソマリア・エチオピアなどで深刻な干ばつが続き、一部で飢餓状態となったため国際的なキャンペーンが行われたのである。まだまだ力が弱い日本のNGOではあったが、一部の団体はアフリカにまでその活動範囲を広げた。

1986年のプラザ合意による円高誘導は日本に空前の好況をもたらす。仕事があっても労働力が不足して倒産する現象すら起こった。自動車産業始め多くの企業はその労働力を海外に求めざるを得なかった。フィリピン、タイ、中国、マレーシア、イラン、ブラジル等、世界中から日本に合法、非合法で労働者が集まった。彼らは、それまで私たちが知っていた外国人−英会話講師、留学生、在日韓国・朝鮮人−とはその量においても質においてもおおよそ違っていた。最盛期には50万人もの外国人労働者が日本に居住し、地域によっては人口の3パーセントに達するところも出てきた。ごく普通のアパートや社員住宅に住み、従来の住民と一緒に生活することになり、さまざまな軋轢が生じた。

 

5. 1990年代の国際交流 (1990年〜)

ベルリンの壁が崩壊した1989年は日本の国際化にとっても大きな転換点であった。この年、前年度の日本のODA(政府開発援助)額は米国を抜いて世界一となったことが判明した。ODA、NGOを含め国際援助と協力への関心が急速に高まる。「持続可能な発展」を提唱した1987年のブルントラント委員会報告と92年のリオデジャネイロでの地球サミットをにらんで地球環境問題への関心も高まりつつあった。

この年には学習指導要領が12年ぶりに改訂された。1990年代の学校教育を規定するこの指導要領は国際化という観点からみると物足りないものではあったが、それでも指導要領のあちこちに「国際化」「国際理解」「国際的視野」等の文字が現れた。実際改訂された教科書には社会科のみならず国語や英語でも国際理解や国際協力そして地球環境を扱った教材が目立って増加する。

こうした動きの中で、それまで首都圏や関西にとどまっていた開発教育や国際協力のNGO活動が地方の諸都市でも活発になってきた。地方自治体による国際化センターが地方都市のあちらこちらに設置されたことも一役買った。従来、文化理解と親善交流が中心であったローカルの国際交流も、徐々に地球的な諸問題や「足もとの国際」を取り上げるようになった。これにより地元の留学生、外国人労働者、在日韓国朝鮮人等への理解も徐々にではあるが深まりをみせた。

リオの地球サミット、コペンハーゲンの社会開発サミット(1995)、北京の世界女性会議(同)などの国際会議には必ずNGOの代表が呼ばれるようになり、市民の間でもこれらの会議に参加するものが増えた。これにより従来の国際協力NGOだけでなく、女性、人権、環境などに関っていたNGOが国際協力や開発の問題に関心を示すようになる。この間、国レベルでは湾岸戦争への対応や国連PKO活動への参加、国連安全保障理事会の常任理事国入り、など日本の国際社会での役割と責任の増大に伴うさまざまな動きが出ている。しかし、課題解決型の国際教育の経験がなく、国際社会のなかで物事を考えてこなかった多くの国民にとってこれらの問題を議論する有効な方法も分からず、国論も中途半端に分裂している状況である。

 

6. これからの国際交流

戦後50年の国際交流を振り返るなかで今後の国際交流のあり方について思いつくままに記してみよう。まず、国際交流という用語自体きわめて不明確で広範な使われ方をする用語である。スポーツの国際試合も外国企業への研修にも国際交流ということばが使われる。日本が極度に閉鎖状態にあった時であれば国際交流自体に意義があったかもしれないが、年間に1300万人もが海外に行く時代にもはや国際交流ではその独自性を主張することはできない。そこで、青少年の国際交流というテーマに即して、国際交流の目的を「親善交流」「国際理解」「国際協力」「内なる国際化」に分け、それぞれについて検討してみたい。

(1) 親善交流 − 戦後の日米交流、70〜80年代の日中、日韓、ASEAN交流など、日本と諸外国が新しい国家関係を結ぶ際に青少年の親善交流事業が開始されてきた。これは青少年自身のニーズというよりは政治的外交的文脈のなかで実行されたのである。今後もこのような親善交流はありうるが(例えば、ロシアや北朝鮮との交流)「親善」という目的そのものが必要と考えられる時期はそう長くはない。青少年の国際交流を考えるとき、親善をベースにしながらも次の国際理解や国際協力の目的との組み合わせが必要となる。

(2) 国際理解 − 青少年の国際交流事業は目に見える成果がすぐに出るわけではなく、基本的には国際的な視野をもった人間の養成が目的となる。青少年の多感な時期に海外の同年齢の若者に直接出会い、議論や生活を共にすることの意義は大きい。本や映像のレベルではなく、異なった文化の人々と直接接し、同年齢層ゆえの共通性にも気づく。場合によっては主催者側の意図した「国際理解」を超えて、恋愛や国際結婚に至るケースもある。

違う国家や文化の若者どおしが触れ合うこと自体に知識を超えた教育的意義があるにしても、多くの若者が自費で海外に渡航している現状では公費で行う国際交流事業には特別な学習目標が求められよう。

まず、何をもって国際理解とするのかといった目標論が不明確な場合が多い。とかく「異文化理解」という文脈で国際交流が考えられていたため、異文化に触れたことで満足してしまうきらいがある。しかし、同じ若者としてそれぞれの社会の未来を創造する立場にあるわけであり、現在の地球社会が抱えている課題の理解はどうしても欠かせないし、これがなければディスカッションが発展しない。平和、開発、環境、人権の諸課題については最低限の知識と自分なりの意見を持てるようにすべきであろう。

これも従来から指摘されていることであるが、自分の国と社会についてよく知っていることは必須である。特に日本の近代史については周辺のアジア諸国との関係で理解しておく必要がある。日本と韓国との青年交流の進展により、日本の青年が過去の歴史に無理解なため逆に友好関係をそこねているということは憂慮すべき事態である。

(3) 国際協力 − 日本と発展途上国との交流においてしばしばニーズのミスマッチが生ずる。日本側が文化交流を行おうとしているのに対して、相手側は日本での技術研修を要求してくるということがある。発展途上国では青年に技術や知識を得て国づくり社会づくりの第一線に立ってもらうという明確な目標がある。一般的な文化交流に人材や財源を割く余裕がないのである。

この意味で国際交流事業といえども担当者には国際協力に対する知識と理解が求められる。ただし、発展途上国との交流をすべて技術研修にすべきと言っているのではない。途上国側には自国の費用で文化交流を行う余裕がない以上、日本側の費用で文化交流を促進することにはそれなりの意義があるからである。

(4) 内なる国際化 − 日本の中にも国際交流があり、国際問題がある。1980年代の国際交流史で上げたように、留学生、定住外国人、外国人労働者らが抱える課題は、地域社会における交流のなかでこそ明らかになるであろう。

内なる国際化にはもうひとつの意義がある。国際交流事業に参加した若者たちの一部は直接外国と関わる仕事や活動に携わるだろうが、多くの者に対してはむしろ自分の地域を国際化できる人材として成長してほしい。「地球的視野に立って、地域で活動する」人材の育成こそ、国際交流事業が目指すべき目標であるからである。


 

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