青少年の社会教育史
初稿 1988年5月1日
最終修正 1998年3月17日
本稿では、明治以来の青年期教育の変遷を追ってみたい。本書の性質上、学校外の青年教育に焦点を当てるものであるが、できる限り学校教育(中等教育)にも言及し、青年期教育をトータルに捉えてゆきたい。
江戸時代の自給自足的な農村社会には、若者組、若連中、若衆組、などと呼ばれる青年集団が存在した。これらの集団が現在の青年団のルーツとされている。若者組の年齢幅は、一般的に数えで15歳くらいから上限は30歳、時にはそれ以上のこともあった。かれらは、村落の重要な戦力であり、生産活動のみならず、夜警、けんかの仲裁、消防などの村の治安維持に出動し、冠婚葬祭の手伝い、特に祭礼、娯楽行事において中心的な役割を担った。また、多くは若者宿という青年の共同宿泊施設をもち、そこで寝泊まりし、部落の慣行や労働作業などについて年長者から教えを受けていた。若者組は、それ自体若者の社交の場であり、結婚前の男女の交際の場でもあった。
武士の子弟については、郷中(薩摩藩)、仲間(大垣藩)などの青少年訓練のための集団が認められる。郷中では「二才」、仲間では「おとな仲間」が青年集団に相当する。これらの集団は、それぞれの頭のもとに自治的に運営され、士道の向上を目指していた。一方、学校形態の教育機関としては、「藩校」が江戸の中期より各藩に作られる。これは、文武両道を掲げて藩の優秀な官僚を養成するのが目的であった。藩校の総数は、廃藩置県までに延べ280余りになる。こうして設立された藩校には、時習館(熊本藩)、日新館(会津藩)、弘道館(水戸藩)、明倫館(尾張藩)などがある。
明治維新と若者たち
明治維新とそれに続く様々な改革は、青年たちの生活と意識に大きな影響を与えた。向学心に燃える青年たちは、啓蒙思想家による私塾に集まり、洋学を学んだ。1872(明治5)年の「学制」により、近代的な教育制度が日本にも導入される。学制は、小学校に続いて中学校を構想していたが、実際にできた中学校はそのほとんどが私立校(私塾)であった。明治7年から自由民権運動が始まり全国に拡大してゆく。それは、単に政治運動としてではなく、社会科学、文学、自然科学を含む青年の学習活動として展開されてゆく。一つの民権結社には一つの私塾があったと言われたほどであった。その例として、高知の立志社、福島県の石陽社、岩手県の求我社、などが知られている。
明治以降の近代化のモデルとなったのは、イギリスを初めとする欧米諸国であった。その近代化を支えていたキリスト教について、当然青年たちの関心は高まった。明治4〜9年頃、熊本洋学校でジェーンズの教えを受け、やがて花岡山上でキリスト教の布教を決意した35名の青年たちを「熊本バンド」と呼んでいる。その中の一人に小崎弘道がいた。小崎らは、1880(明治13)年、東京の京橋教会において「東京基督教徒青年会」(YMCA)を組織する。これが日本の組織的な青年団体の始まりであり、また、「青年」という用語が広く用いられるようになったのもこれからである。YMCAは、演説会や機関誌『6合雑誌』を出して、キリスト教の普及に努めた。1903(明治36)年には、全国組織として「日本基督教青年会同盟」が成立する。YMCAが目指した、キリスト教による近代的な自我の確立という思想は、主に都市の知識青年の間に受け入れられていったが、その発想は、明治10年代に農村部で若者組が「青年会」へと改組してゆく過程で、単に名称のみならず近代化という価値志向においてもなんらかのインパクトを与えたものと想像できる。
若者組から青年会へ
明治維新は農村の若者集団にも大きな変動をもたらしていた。学校が整備されるに連れ、子供たちは学校に行くようになり、昔のように若者組で知識を身につける必要がなくなる。警察署、消防署ができてゆけば、若者組が担っていた夜警、治安維持、消防の機能は失われる。結局、若者組に残されたのは、祭りと社交の場だけであり、酒や賭事に溺れる若者も多かった。若者組の頽廃状況は西村茂樹、徳富蘇峰らが等しく指摘するところであった。 こうした状況に対して、村の教師や僧侶らの有力者から批判が出され、また、青年自身からも反省の声があがってくる。明治10年代には、先の自由民権運動や基督教青年会の動きに影響を受けながら、「青年会」ないしは「夜学会」を結成し、風紀の改善と学習活動を行ってゆく。これらは、当初は教師や僧侶の指導のもとに有志の青年によって結成されるが、次第に、村の青年全体を網羅するようになる。その背景には当時義務教育から疎外されていた青年たちの学習意欲の高まりを見ることができる。
この若者組改革の動きを決定づけるのが、山本滝之助が著した『田舎青年』(1896、明治29年)である。滝之助はこのなかで、「均しく之青年なり、而して一は懐中に抱かれ、一は路傍に棄てらる、所謂田舎青年とは路傍に棄てられたる青年」であると述べて農村青年が「青年会」を組織し、共に学び精進するように檄をとばす。滝之助は巻末に現存する694の青年会を掲載しているが、この中には、青年会、夜学会という名称の他、青年団、青年倶楽部、あるいは○○社と名のったものもある。また、小学校の同窓会も50以上含まれており、小学校の補習教育的な活動をしていたことが伺われる。
中等教育の成立
富国強兵政策を進めてゆくうえで、初等教育を普及させて庶民の教育水準を上げることが求められると同時に、社会の中枢を担うエリートを養成する必要があった。1877(明治10)年に始めてかつ唯一の大学として東京大学(明治19年に東京帝国大学と改称)が設立される。当初は上(大学)と下(小学校)ができて、真中(中学校)はほとんど実質がなかったが、のちに東京大学の予備門が「高等学校」になり、府県に一校の「中学校」が設けられるようになる。明治19年に「中学校令」が公布され、1899(明治32)年に「高等女学校令」「実業学校令」が制定されて、戦前の複線型の教育制度が一応完成する。すなわち、エリートは中学校→高等学校→大学の道が開かれ、庶民はせいぜい高等小学校までで社会へ出る、という青年期教育の2重構造ができあがったのである。しかも、中等教育のなかでも、女子が進む高等女学校、職業教育を施す実業学校からは、大学へは進めず「袋小路」になっていた。
1893(明治26)年には、「実業補習学校規程」が制定された。実業補習学校(実補)は、小学校教育の補習と簡易な職業知識を教授することを目的としていたが、その内実は「実業」よりも「補習」教育に重点がおかれていた。当初はさほど広まらなかったが、明治35年頃より、特に農村部で伸びていった。実補は、当時各地で実施されていた夜学会を再編、吸収するかたちで発展していった。
日露戦争と青年会
明治27、8年の日清戦争では、一部の青年会が軍資金を献納したり、出征家族の農事援助などをして世間の評価を受けた。十年後の日露戦争においては、いわゆる銃後活動が全国的に盛り上がり、内務省や陸軍省から注目されるところとなった。また、戦争を契機に生まれた青年会も多かった。以後太平洋戦争まで青年団は、好むと好まざるとにかかわらず軍部との関係を深めてゆくことになる。
1905(明治38)年、内務省は「地方青年会」の勧奨のために優良青年会について報告を求め、また、文部省は通俗教育振興上「地方青年団体」の指導と設置、勧奨につとめるよう通達を出した。これらの文書は、政府が青年団体に関して発した最初の公文である。日露戦争後の農村の疲弊を乗り切るために、内務省は「地方改良運動」を展開し、このなかで、農事改良、納税完遂、道路修理、植林などの事業の主力を青年団体に期待した。内務省は1906(明治39)年、地方長官会議で青年団体の指導を指示し、文部省は910(明治43)年に、全国1178青年会の中から、82団体を選び、優良団体として表彰した。
このように行政の指導が加わってゆくにつれて、青年会の数も飛躍的に増加し、町村単位、郡単位の青年会の結成が促される。また、政府側の認識の高まりに勇気づけられて、青年会の側でも、中央の組織を作るべきだ、という声が上がってくる。1910(明治43)年には、ついに、全国各地から1914名の代表を集めて「全国青年大会」が名古屋において開催される。これは日本における全国規模の青年大会の最初のものであった。
明治期の青年団体
東京府師範学校に学ぶ蓮沼門3は、青年の修養と風紀の粛正をめざして同志とともに「修養団」を結成した。1906(明治39)年のことである。以来、機関誌「向上」の発刊、幼年部の発会(のちにボーイスカウトに)、公開講演会の開催、東北6県の遊説、など精力的な活動を展開する。特に、大正4年に檜原湖畔において青年指導者訓練を目的とした「天幕講習会」は、後に青年団などの指導者養成に大きな影響を与える。また、企業家と手をくんで、工場労働者に労使協調を説く教化事業に力を注ぐようになる。
1904(明治37)年に機関誌『明治の女子』を創刊した「基督教女子青年会」(YWCA)は、翌年正式に発足する。封建的な家制度のなかで社会参加を拒まれていた明治の女性たちも、女権拡張思想やキリスト教を基盤とする廃唱論、あるいはミッションスクールの拡がりの中で、日本で最初の女性による青年団体を結成することになったのである。活動としては、聖書研究会、修養会、寄宿舎の建設などを行うが、後には女工、看護婦、職業婦人への活動を展開するようになる。
進学要求の高まり
1907(明治40)年には、それまで4カ年であった義務教育が6年に延長された。すでにこの時点で、尋常小学校は全員就学に近く、高等小学校に進学する者も5割を超えていたので、義務教育の延長はじきに達成された。産業革命と日清、日露の戦争を経て、国民の間には教育は立身出世の手段として必須のものという認識が広まっていた。
初等教育の次は中等教育である。中学校の入学難は、明治末期から深刻化してきた。中学校志願者の合格率は、1904年の60.4%から、1921年の36.2%まで年々下降していた。不本意ながら高等小学校に籍を置くものも増え、高等小学校への進学率も上昇していった。1917(大正6)年の臨時教育会議でも、中等教育については抜本的な対策を出していないばかりか、当時の文部省関係者は、中等教育を受けさせると肉体労働を嫌うようになる、と国民の間の進学熱にこそ問題あり、としたのである。その代りに、文部省は補習教育に力を入れる方向をとる。
しかし、当時の実業補習学校の状況といえば、総じて、小学校に付設された、専用の施設はなきに等しい、専任教員は一人いるかいないかという、およそ青年期教育機関とは名ばかりの「安価な中等教育の代用品」だったのである。しかも実補は、1929(昭和4)年に社会教育局の設置とともにその所管となり、名実ともに社会教育機関となる。
これに加えて、軍部の強い要請で「青年訓練所」設置の問題が出てくる。これは、第一次世界大戦後の軍縮を背景に、軍備を制限された軍部が、軍事力の質的向上を目ざして設置を促したものである。最終的には、実補に続く訓練機関として、16歳からの4カ年の間に、軍事教練、公民教育、補習教育を施すもの、として構想された。青年訓練所は1926(大正15)年に設置された。実補、青年訓練所に団員を出していた青年団は、こうした動きに巻き込まれることになる。
青年団への政府の統制
陸軍少将であった田中義一(のちに首相)は欧米の青少年団体を視察し感銘を受けて、1914(大正3)年に帰国した。田中はドイツ流の青年訓練のやり方が日本にも必要だと考え、青年会を改造することでその目的を達成しようとした。翌、1915(大正4)年、内務、文部両省より青年団体に関する訓令(青年団体ノ指導発達ニ関スル件)と通牒が出された。訓令により、青年団は修養機関である、という規定がなされ、@青年団の最高年齢は20歳、A設置区域は市町村単位、B指導者は小学校長、あるいは名望ある者(市町村吏員、警察官、在郷軍人、僧侶など)、C運営費は団員の負担、というように青年団の組織について具体的な基準を定めている。この訓令以降、青年会という呼び名が全国的に「青年団」に代わって行く。この基準の設定は、若者組から青年会へと自発的に発展してきた青年団にとっては重大な変革であった。
通牒の設置基準は、上限年齢、設置区域、指導者にそれぞれにおいて従来の青年団とはくい違う点が多かったので、地域によっては大きな混乱を招いた。1920(大正9)年に、内務、文部両省は再び訓令と通牒を出し、青年団は本来自主自立的な団体であること、団長は団員の中から推挙すること、最高年齢は25歳でもよいこと、などを伝え、先の訓令の軌道修正を行っている。地方からの反発や批判がいかに大きかったかを物語るものである。しかし、青年団に地方行政の網がかぶせられたことには変りなく、以後青年団に対してはさまざまな国家統制の手が伸びてくる。先の青年訓練所の設立もその一つである。
全国組織の結成
青年団の全国組織を作る動きは明治末期より度々あったが、政府はこれを時期尚早として再3抑えてきた。代わりに、地方改良運動の実施機関として設立された「中央報徳会」の青年部が全国的な青年団の連絡指導組織であるとされていた。1916(大正5)年、中央報徳会青年部は「青年団中央部」と改称され、1920(大正11)年には財団法人日本青年館がその役割を担う。
日本青年館は、明治神宮の造営工事に青年団が全国規模で労力奉仕をし、それが成功したことから企画されたもので、献金、労力提供など文字通り青年たちの手によって建設された。落成は1925(大正14)年である。こうした活動のなかで、全国組織作りの機は熟したとして、政府の了解をとりつけ、同年名古屋において、「大日本連合青年団」の発団式が挙行された。当時(大正15年)の青年団の現況は、団数14,915、団員数は257万人であった。これは当時の青年男子(15〜24歳、約550万人)の過半数である。
一方、女子青年団の全国組織化の動きはやや異なっていた。女子青年については、明治の後期より、小学校の同窓会あるいは婦人会の一部として「処女会」が全国各地に結成されていた。先の大正4年の訓令により、地方行政による処女会設立の動きも活発化し、その数も増加した。内務省はこの頃から「処女会中央部」の設立をすすめ、1918(大正7)年に発会式を行った。男子の青年団については、なかなか全国組織を認めなかった政府が、女子に関しては早々と全国機関を設置させている。1926(大正15)年の時点で、全国の処女会数は6,185、会員数は53万人と報告されている。
1926(大正15)年に内務・文部両省は女子青年団体の指導と設置要項に関する訓令と通牒を男子の青年団体にならって出した。婦徳の涵養、情操の淘冶といった古来の美風が強調されていた。この結果、各地に女子青年団がひろまり、1927(昭和2)年には「大日本連合女子青年団」が結成されるに至る(処女会中央部は同時に解散)。
青年団の「自主化」運動
青年団に行政が介入し出した大正期は、同時に「大正デモクラシー」の時代であり、自由主義思潮がひろまり、また社会主義を目指す運動も活発に展開されていた。青年団の内部でも、これらの思想の影響下で、政府の対する反対運動が起きる。長野県下伊那の「青年団自主化運動、秋田県土岐町の「青年団自治独立運動」、また、長野県上田市を中心とする「自由大学運動」もその一つであるし、昭和初頭における一連の「青年団及び青年訓練所の思想事件」もその一例である。この中で、長野県下伊那地方の動きを見てみよう。
1918(大正7)年、下伊那千代田村青年会が役員の選任を会員の中からとして、役員から村長や校長を除外した組織づくりを行い、また、年齢の上限も訓令と違う25歳としたことから、青年団自主化の動きが始まり、大正9年には全郡的な運動となる。その後自主化は、役員や年齢の問題にとどまらず、思想善導の名で青年の思想にまで介入する政府や在郷軍人会の指導に対する反対運動へと拡大していくとともに、地域的にも長野県連合青年団から大日本連合青年団へと運動を広めてゆく。
大日本連合青年団にはその創立の翌年(1926(大正15)年)に「全国的に自主化せしめ」るために加盟し、毎年の青年大会でねばり強く自主化の要求を行った。しかし、その度に、決議案は保留され、1931(昭和6)年の大会では県団として脱退しかける一幕もあった。こうして十年間にわたった自主化の運動を続けたが、1933(昭和8)年には「非常時」の波に押されて、運動の終止符を打たねばならなかった。
自主化運動とは性格を異にするが、軍部の介入を排し青年団の主体性を保持しようとした一人として田沢義鋪の活動をあげておかねばならない。田沢は、1921(大正10)年に日本青年館の創立理事となって以来、一貫して青年団の中心的指導者として活躍し、1934〜36(昭和9〜11)年までは理事長の任についている。田沢は、青年訓練所の設置に当ってこれに異を唱え、押しつけの軍事教育に反対している。青年団の主体性を掘りおこすために、「青年の一人一研究」「共同研究」「産業活動」などを奨励し、浴恩館(東京)に「指導者講習所」を設置、指導者育成に力をいれた。また、選挙粛正運動を展開し、青年団に政治教育を確立しようとした。田沢は、軍国主義の高まりのなかで昭和11年に青年団をさったが、田沢の思想や人格に感銘を受けた青年は多く、後に「青年団の父」と仰がれる。
一方、大正末期から昭和初期にかけての不況と、社会主義思想の高まりのなかで、都市の青年団体にも動きが起きてくる。東京帝大YMCAが1928(昭和3)年に創立40周年を記念して行った全国基督教学生討論会では、社会運動や階級闘争とクリスチャンのあり方について話し合った。社会主義的な傾向は学生キリスト教運動(SCM)において著しく、昭和8年には、YMCAの夏季学校で受講青年が激しく講師や運営のあり方を批判し、これをきっかけにYMCA同盟はSCMと関係を断つことになる。
中等教育の一元化
青年団も地方行政側も、実業補習学校と青年訓練所の2重設置には悩まされていた。昭和7年頃より両者の統合を求める声が高まり、1935(昭和10)年には両者は「青年学校」へと合体された。青年学校では、勤労青少年に対して定時制で、普通教育の補習、職業教育、および軍事訓練が施された。
当時、工業化の急速な進展に伴い、義務教育だけでは満足できない青少年層が大量に高等小学校に進学するようになっていた。1935(昭和10)年で進学率は60%台、1940(昭和15)年には70%台となり、これに中等学校入学者を含めると、同一年齢層の90%までが、少なくとも8年間の全日制教育を受けていた。このような日本の中等教育の実情と、欧米の統一学校運動の影響を受けて、時としてファシズム的な「平等化」の表現をとりながらも、すべての青少年に中等教育をうけさせよう、という声が高まってきた。1939(昭和14)年の教育審議会の答申などを受けて、1943(昭和18)年に「中等学校令」を公布した。
これは、中学校、高等女学校および実業学校を含めて「中等学校」と表現し、法制上同等の学校であることを規定した画期的なものであった。ファシズムと戦争遂行が要請する合理化と「革新性」がこのような形をとったといえよう。この改革は戦局の悪化という状況で、実質的には見るべき成果はなかったが、戦後の六三制導入が比較的スムーズに行われた背景として、その意義は決して小さくなかった。
青年団体の統制と解体
1931(昭和6)年の満州事変以後の急激な時代の流れは、あらゆる青少年活動を押し流し始めた。全国の青年団では、慰問文を満州の将兵に送ったり、義捐金を募集したりした。日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年には、時局対策協議会を全国6カ所で開き、非常時青年叢書を発行した。1937(昭和13)年、ついに日中戦争の火蓋がきられた。翌年、大日本連合青年団は、連絡提携組織ではなく、全国青年団の指導統制をはかるため名前を「大日本青年団」と改めた。同年YMCAも、皇軍慰問事業を始めた。1938(昭和13)年にはヒトラー・ユーゲントが来日し、熱烈な歓迎を受けた。日本からも青少年団体の代表が訪独する。
1939(昭和14)年から始まった青年学校の男子義務化は、青年団の存続にとって大問題であった。これまでも、実業補習学校という形で夜学会が吸収され、青年訓練所で青年団の仕事を横取りされ、今また、12歳から19歳までの男子青年すべてを青年学校生として送り込まねばならないとすれば、いったい青年団の役割はどこに求めたらよいのであろうか。そこへ、青年団には何ら事前の相談なしに、荒木文部大臣から「学徒隊」編成の発表があった。もし、これが実施されれば青年団の存在意義はなくなってしまう。結局、学徒隊の構想はいったん延期されることになった。
1940(昭和15)年、大政翼賛会が発足。ついに、大日本青年団および大日本女子青年団は解散させられることになった。翌年1月、両青年団体に、大日本少年団連盟と帝国少年団協会を加え、「大日本青少年団」発会の運びとなった。この時、大日本青年団は16,004団、団員244万人、大日本連合女子青年団は15,492団、団員157万人であった。その年の12月、日本軍は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入。
翌1942(昭和17)年、大日本青少年団は、大政翼賛会の傘下にあることを明記した規約に改正した。YMCAもYWCAももはや独自の活動を許されず、日本基督教団の1部として位置づけられる。
戦局は次第に悪化し、昭和18年に入ると中学生以上は工場などに動員され、事実上学校教育は成り立たなかった。翌年には、本土が爆撃され児童の疎開が始まる。大日本青少年団ももはや青少年団体とは言い難くなっていた。1945(昭和20)年に入ると、その青少年団も解散させられることになった。本土決戦に備えての措置である。「戦時教育令」が公布され、すべての学生、生徒が地域、職場ごとに学徒隊に編成されることになった。
広島と長崎に原爆が落され、8月15日がきた。
敗戦と青年団
軍隊や工場に動員されていた若者たちが続々と村や町に帰ってきた。敗戦のショックで彼らは開放感と虚脱感に襲われ、その日その日をブラブラと送っていた。こうした中で、しろうと芝居ややくざ踊りが流行し、若者の心を捕らえていた。
政府の動きは早かった。8月28日に、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、9月25日には「青少年団体の設置並に育成に関する件」という文部次官通達が都道府県に出された。この通牒では、青少年団体は「官製的或は軍国主義的色彩を一掃し、郷土的団体としての特色を発揮」すべきこと「純然たる民間団体として運営すること」とされているが、青年団体の組織、名称、年齢範囲、役員、経費等についてまでこと細かに決められており、新時代の発想とはかけ離れたものであった。栃木県、新潟県、高知県など、この通達によって青年団が結成されたところもある。例えば高知県では「11月末には、殆んど大半の町村に結成された。しかし、中には戦時中の青少年団体と大差ない保守的な団体もあれば、中には青少年団体の性格もわからず、集まっては町村当局を非難攻撃し、社会の批判を繰り返し、議論倒れに陥いる青年団もあれば、中にはまた集まった者同志がけんか口論に終始し、かえって青少年の社会性を混乱に導く温床になったような団体も現われ」という状態であった。
大日本青少年団は解散し、市町村単位の青年団は消滅していたが、お祭りや共同耕作という伝統的な役割を担う部落レベルの青年組織は、分団、支部、若者組などの名で残っていた。戦場や工場から帰ってきた若者たちは、村の青年集会場に集まり、伝統的な祭りや演芸会をのことを話しあったりした。江戸時代の若者組のような集団であった。やがて、全村的全町的な行事を行う場合、どうしても村全体町全体の組織を作る必要に迫られ、活動に熱心な青年たちを中心に村単位町単位の青年団が結成されるようになってくる。あるいは、青年学校、国民学校の校長、教員や村の有志(かつての青年団関係者)の呼びかけで、それに答えた青年たちが相談しながら青年団を作ったり、農事研究会や新農村建設同盟などが推進役になって全村的な青年団の組織化を図った例もある。
1946年2月には、戦前に自主化運動の実績をもつ長野県連合青年団が結成されたのを皮切りに、1946年中に23の県が、1947年には21の県が連合青年団を結成し、そして1948年12月の沖縄青年連合会の成立によりすべての都道府県で連合青年団が復活した。しかし、全国組織の再生は事実上占領が終る1951年まで待たねばならなかった。
青少年指導者講習会(IFEL)
1946年頃から戦前の体質を残している青年団については、占領軍が民主化の指導を行うなどしていた。1948年7月には社会教育局長から「地方における社会教育団体の組織について」が出され、青年団の運営に甚大な影響を与えた。というのは、この通達によって官公庁は社会教育団体に対して事務室、職員、補助金を提供することを禁じられたからである。これをきっかけに青年団の自主性の確立の動きが強まっていった。
同年10月から、青少年教育指導者講習会(IFEL)が開かれる。IFELは1950年まで、中央および各地方で実施され、その後の青少年団体の運営に大きな影響を及ぼした。これは、すべて1週間〜12日間程度を合宿形態で行われるものであり、内容はグループワークの理論を中心に、討議、ワークショップ、レクリエーション等を導入したものであった。講師は米国からグループワークの専門家を呼び、国内の講師と共に行っている。IFELが提供したグループワークの理論は、その後の青少年活動の基本となった。ただし、日本の青少年活動の歴史とは違うアメリカで発達したグループワークの理論をそのまま方法として導入しようとしたため、内容が未消化に終っていた点は見逃せない。ただ、民間も行政も含めて青少年関係者が一同に会するのは初めての経験であり、この時の人間関係や相互の影響が、その後有形無形の形で生きてくる。IFELへの参加者は合計1,418名にも上り、この講習の受講者によって各都道府県ごとに伝達講習会が開かれた。
青年団体の復活
敗戦後いち早く復興の動きを示したのはYMCAであった。1945年9月25日には戦後最初の中央常務委員会を開催し戦後対策を立てている。翌年の11月、罹災会館の復興促進、聖書輪読運動の展開、地方都市のYMCA建設、主事の養成機関の設置、等7項目の「復興3か年計画」を決議した。戦後すぐに手掛けた事業は在外抑留者引揚援護事業であった。
YWCAは、1945年10月19日に初めての常任委員会を開き、キリスト教信仰の強化、国際連盟への早期復活、婦人参政権に対応した公民教育、の3つを確認した。YWCAが、大阪などで実施した婦人を対象に実施した成人教育、政治教育の講座はたいへん好評であった。会長の植村環は、1946年4月に戦後初の海外渡航者として渡米し、1年間に渡って各地で講演している。
青年団の場合、地縁による青年団体ということがなかなかGHQの理解を得られず、地方の民事部の担当官によっては一時的にせよその活動を停止するという措置がとられることもあった。また、全国組織の結成については全体主義や軍国主義的団体の復活につながるのではないか、という警戒心が強く当初消極的な態度をとっていた。しかし、1957年頃から態度を軟化させ、1959年には全国組織の強化に賛意を示すようになってきた。そして、1951年に佐賀で開かれた日本青年団体連絡協議会臨時大会において、日本青年団協議会が結成され、ここに青年団の新しい全国組織が誕生したのである。
教育基本法と社会教育法
戦後の教育改革は1946年に来日した米国教育使節団の報告書がその下敷きになった。この中で中等教育については、いわゆる6・3・3制を提唱し、下級中等学校について、義務、無償、共学、共通の教育課程、とし、上級については希望者全員入学、無償、できる限り共学、職業課程と普通課程の同一学校での統合、を勧告している。従来の進路や性で区別されていた「複線型」の学校体系から、すべての者が同格の上級学校に進める「単線型」が提起されたのであった。
その後、日本側の教育刷新委員会の議を経て、1947年3月に教育基本法と学校教育法が公布され、6・3・3制が実施される運びとなった。中学校が義務教育とされたことにより、その校舎や教職員の手当てが当面の大問題であった。戦災で多くの校舎が破壊され、高等小学校や青年学校を活用してもとても間にあう状態ではなかった。国民が新制中学校によせる期待は高く、校舎が建設できずに辞任する市町村長が出てくる程であった。こうして財源難という困難な状況のなかで、新しい学校制度はスタートした。
49年に社会教育法が成立し、学校教育に並ぶ社会教育行政の新体制ができた。ここでは、戦前の社会教育から180度の転換が行われた。まず、社会教育の主体は国民であり、行政はその学習活動を側面から援助するための「環境醸成」の義務をもつものとされた(第3条)。第二に、戦前のように婦人会、青年団、在郷軍人会などを利用した「団体中心」の「上からの」社会教育ではなしに、公民館、図書館、博物館といった専門職員を擁する「施設中心」の施策によって「下から」の学習要求に応える、ということになった。従って、社会教育の提供者は、戦前のように国ではなく、市町村が一義的に負うものとされた。
第三に、これが青年団体にとって最も関係の深いところだが、行政は社会教育関係団体に「不当に統制的支配を及ぼし、又はその事業に干渉を加えてはなら」ず(第11条)、行政の役割は、関係団体の「求めに応じ、これに対して、専門的技術的指導又は助言を与える」ことのみに限定されたのである(第12条)。補助金の支出も同時に禁止され、いわゆる「ノーサポート、ノーコントロール」(援助もせず、統制もしない)の原則が貫かれたのである。しかし、補助金の問題に関しては、10年後(1959年)の社会教育法の「大改正」により、教育団体への公金支出の禁止という憲法89条への抵触の問題や、日本社会教育学会などの反対にもかかわらず、民間社会教育団体への補助金支出の道が開かれることになる。
新しい青年団体の誕生
現在存在する青年団体の多くは、1950年前後に誕生している。戦争で多くの中堅層を失い、残った老年層は新しい時代の考え方を理解できず、結局青年たちが新しい村づくり、国づくりに活躍するしかなかったし、現に青年たちもそういう自覚をもっていたのであろう。
1947年2月、京都女子大学において京都少年保護学生連盟が誕生した。BBS運動の始まりである。戦前の権威主義的な少年保護制度は、新しい状況に対応できず、また、高齢層が多かった少年保護司と少年との年齢的な断層を埋める必要があった。これに、青年自身が身近で起きている非行の問題に同世代として関与し、非行に陥った少年が立ち直れる日までよき兄よき姉になろう、という気持が相まって、BBS運動は広まっていった。52年には日本BBS連盟が結成される。
戦後農地解放が実施され、農村の民主化と農業や農村生活の合理化が目ざされた。その一つに農業改良普及事業がある。この中で、農村青少年育成が大きな目標として取り上げられ、1949年から国と都道府県の手によってアメリカの例に倣って4Hクラブの結成が促された。その後、クラブ員の青年から自分たちの手でこの運動を推進すべきである、という声が出てきて、1955年に全国農村青少年クラブ連絡協議会(後に全国4Hクラブ連絡協議会と改称)が生まれる。
電話も普及せず、旅行もままならない時代にあって、手紙一つで日本中のあるいは世界中の人々と友人になれる、ということで文通を手段とした青少年団体が1949年に発足した。郵便友の会である。きっかけは同年愛知県犬山で開かれた子供博覧会の郵便展であり、これにヒントを得た高校生たちが郵便局に相談したのが郵便友の会設立へとつながった。その後、各地の高校に郵便友の会が結成され、1951年京都で開かれた全国大会で全国郵便友の会連合の結成が宣言され、1955年には(財)日本郵便友の会協会が設立される。
ユネスコ関係の動きも活発であった。1946年に国連の一機関として発足したユネスコは、「心の中に平和の砦を」と訴え、わが国の青年たちにも感銘を与えた。1947年7月に、全く自発的にユネスコ協力会が仙台に誕生し、続いて京都、大阪、神戸へと広がっていった。1950年には日本ユネスコ学生連盟が結成され、1951年には日本ユネスコ協会連盟が発足している。活動の担い手は青年や婦人が中心であった。
日本青年館の事務局長であった横山祐吉は、1951年2月にアメリカ教育視察団の一員として渡米した際、米国ユースホステル協会会長に会い、ユースホステルに関する知識を得て帰国した。横山は友人の中山正男(東光石油社長)や下中弥三郎(平凡者社長)および学生ワンダーフォーゲル関係者と図り、1951年10月に日本ユースホステル協会を発足させた。設立記念の第1回ホステリングを山中湖畔で行い、日本のユースホステル運動のスタートを切ったのであった。
この時期には、この他政治的な主張をもつ青年団体や宗教的倫理的青年団体も数多く誕生している。
1946年 実践倫理宏正会青年部
47年 生長の家青年会
48年 健青クラブ(翌年日本健青会に)
全国学生自治会総連合
49年 カトリック青年労働者連盟
51年 全日本仏教青年会同盟
日本民主青年団
53年 修養団青年部
友愛青年同志会
青年学級をめぐって
やくざ踊りや演芸会に始まった敗戦直後の青年団活動ではあったが、こうした刹那的生活にあきたりない青年たちは、戦争によって満たされなかった知識を求め、また、新しい時代に対応するために、研究会、夜学会などを自発的に行っていた。また、自分たちの学習の場として公民館を建設する運動をおこしたり、公民館等で各種講座を開講するよう求めたりする青年団もあった。
山形県では、青年学校生徒が群市毎に「勤労学徒連盟」を組織し、高校の地方分散、定時制課程の分校、分室の設置を要求した。そこで、市町村は主に農村部に、定時制高校の補足的役割をもつ長期教養講座を「青年学級」と名付けて1948年頃より開設した。その後各地で青年学級が青年団独自で、あるいは教育委員会や公民館の事業として開設されるようになった。しかし、青年学級が盛んになるにつれて、経費や指導者、あるいは学習内容でゆきづまるようになり、1951年5月に静岡で開かれた第1回定期大会で熊本県団より青年学級法制化が提案され承認された。日青協では「青年教育特別対策委員会」を設置し継続して検討することとし、国会や関係機関に法制化の陳情や請願を行った。
一方、文部省も1950年以降青年学級についての調査や実験的事業を実施し、勤労青少年に対する社会教育事業として青年学級を位置づけ法制化の準備を進めていた。ところが、52年に入ると、文部省と日青協の間で法制化の内容について意見の食違いが出てきて、また、文部省の社会教育行政の進め方や当時の再軍備の危険性など社会状況を敏感に受け止め、文部省の施策に関し日青協執行部は不信感を持つようになった。52年の定期大会(福井)では、静岡県団が「青年学級の自主化確立及び法制化反対」の動議を提出し、賛否両論が激しく闘わされた結果、最終的に法制化反対が決議された。
青年学級振興法は、日青協などの反対運動にもかかわらず、1953年6月の国会で可決された。1951年11,721学級、52年13,628学級であったものが法制化によって1953年14,407学級、55年17,606学級と伸びて行く。ところが、青年学級はこの1955年をピークに以後減少しつづけ、1960年には11,869学級になってしまう。これは、青年が農村を離れ都市に出ていったことが大きな理由であるが、法制化によって青年の主体性が失われ、学級運営が画一化規格化し、青年の学習要求に十分応えられなかったことにも起因している。しかも、法制化によって、青年学級が充実化したかというと、例えば、1954年で専任講師の比率は3.28%にすぎず、法制化以前の状況と変りなかった。また、高校などと比較してもその補助金は格段に低く、まさに「中等教育の安易な代替物」であった。
法制化に反対した日青協では、独自に学習活動を展開すべくその方針を定めた「勤労青年教育基本要綱」を1954年に発表する。また、学習方法としても「共同学習」を生み出した。これは、IFELで導入されたグループワークや社会主義国の集団主義教育の影響を受けながら、日本独自の生活綴方などの実践にも学んで提起され実践されたものである。それは、青年のもつ潜在的な悩みや要求を、集団の場で出し合い、それを共有し、自分たちで解決できるものは行動化し、できないものは大人や行政に訴えてゆくものであった。こうした学習活動を背景に、1955年には「全国青年問題研究大会」が開かれ、その成果は『日本の青年』としてまとめられ出版され、ベストセラーとなった。
国際青年組織の動向
第二次世界大戦とそのもたらした荒廃は、世界の平和は政府間の交渉や一部の特権的な人々の交流だけでは守ることができない、という教訓を残した。こういう考え方から、国際連合や分野別の国際組織が作られていった。青少年関係も例外ではなかった。すでに、1944年には、373名、27か国の青少年代表がロンドンに集まり、国際青少年会議を開いていた。
1945年11月には、36か国の青年代表が同じロンドンに集まり、世界平和と民主主義の確立を目ざして世界民主青年同盟(WFDY)を結成した。しかし、高邁な理想にもかかわらず、戦後の社会体制間の利害の食違いは大きく、1949年にブダペストで開かれた第二回大会では分裂が決定的となった。多くのヨーロッパや北米の青少年団体は1948年8月にブラッセルで会議を開き、29か国の代表をもって世界青年会議(WAY)を結成した。
WAYはその活動の基礎を世界人権宣言におき、WFDYが各国内の団体が個別に参加して構成されるのと違って、各国内の民間青少年団体が構成する国内委員会の集まりである。WAYは、1951年に米国で第1回総会を開くに当って、占領下の日本にもオブザーバーを出すようにCIE宛に要請した。CIEは、IFEL参加の青少年団体指導者たちにこの招待の件を伝えた。WAYに出席するためには国内の連合体を形成しなければならないので、1951年5月に、ボーイスカウト日本連盟、ガールスカウト日本連盟、YMCA、YWCA、日本青年館、日本赤十字社青少年課の6団体をもって中央青少年団体連絡協議会(中青連)を組織することになった。
こうして結成された中青連は、1954年のシンガポール総会で正式にWAYに加盟する。こうして発足した中青連には、その後日本青年館に代わって日本青年団協議会が、日本赤十字者の代わりに青少年赤十字が代表を送り、1960年までに、日本ユネスコ学生連盟、日本ユースホステル協会、全国農協青年組織協議会、日本郵便友の会協会、日本健青会、修養団青年部、友愛青年同志会、が加盟する(加盟順)。
一方、結果的に社会主義関係の青少年団体を中心に構成されることになったWFDYには、その最高決議機関である執行委員会に、1958年に日本民主青年同盟が正式代表として出席し、日本青年団協議会がオブザーバーを派遣した(会場、セイロン・コロンボ)。
都市の勤労青少年対策
敗戦から1960年代までの政府の青少年施策の軸は、非行対策と勤労青少年対策であると言ってよかった。少年非行対策については別項(少年少女集団活動の歴史)で述べたのでそちらを参照して欲しい。勤労青少年対策としては、1950年代は農村の勤労青年がその主たる対象であり、先に述べた青年学級振興法に基づく青年学級の普及や農業改良普及法に基づく青少年クラブ育成(4Hクラブ)がその施策の中心であった。
ところが、1955年頃から15歳〜30歳位の青年層が農村を離れ、大都市に集中し始めた。これは日本の大都市を中心にした工業化により、青年が労働者として都会に移動したからである。その典型が、東北の中卒の青年たちが夜行列車に乗って首都圏にやってくる集団就職であった。1955年〜60年の5年間に、東京、大阪などの大都市を抱える8都府県に流入した人口は274万人にも上る。これは有史以来の出来事であり、民族の大移動とも言える現象であった。
このため、農村を基盤としている青年団の団員は減少し、また、青年学級の受講生も減っていった。ところが、家族から離れて一人都会に出てきた青年たちを受け入れる青年団体や学級は都市部には極めて少なく、都市の勤労青少年の問題がクローズアップされてくる。もちろん、都市に青年団体が全くなかったわけではなく、東北から集団就職してきた青年を主たるメンバーとして「若い根っ子の会」が1954年に結成されるし、労働組合や企業の後援でできたサークルに入って、スポーツや文化活動を楽しむ勤労青年の姿も多く見られた。それでも、これらの活動に入ることができる勤労青年の数は全体から見ればわずかであり、なんらかの公的な対策を求める声が強まってゆく。
1962年に中央青少年問題協議会の建議「青少年対策の強化について」でも、勤労青少年の育成は6つある柱の一つとして取り上げられ、勤労青少年に対する教育訓練機関の整備充実、勤労青少年の福祉の増進、事業主とくに中小企業主に対する啓発、の3つが提言されている。実際の施策としては、青年の家、勤労青少年ホーム、スポーツ・レクリェーション施設など青年活動の拠点となる施設建設が行われた。
青年の家は1958年から国の助成が始まり、公立青年の家が設置され始めた。翌年には、皇太子御成婚記念として御殿場に国立中央青年の家が開設した。1960年に公立青年の家は全国に70か所(国立1か所)であったのが、1965年に100か所(同4か所)、1970年に164か所(同7か所)、1975年に227か所(同12か所)と大幅に増加している。これらの施設は必ずしも勤労青年のみを対象としたわけではないが、1960年代には勤労青年の利用が学生と並んで多く、また、都市の非宿泊型の施設(青年館、青少年センターなどと呼ばれることもある)では、勤労青年のサークルやグループ活動の拠点となっていた。勤労青少年ホームについては、1957年から労働省の補助が始まり、やはり1960年代〜70年代前半に大幅に伸びている(1960年−4か所、65年−33か所、70年−142か所、75年−331か所)。
勤労青少年対策としては、施設建設の他にも、1970年の勤労青少年福祉法の制定により、総合的な福祉施策がとられるようになってゆく。
高度成長と青年団体
表は、1950年代後半と60年代後半の青少年団体の会員数の推移である。YMCA、YWCA、BBSが着実に会員数を伸ばしている一方で、農村を基盤とする青年団と農村青少年クラブ(4Hクラブ)において、会員の現象が著しい。郵便友の会(PFC)は結成2年後の51年に結成学校グループ数(中高校)3,665、会員数約40万人という「ブーム現象」を示したが、その後、学校グループ数はしばらく2000台を推移し、1965年頃より減少傾向を示すようになる。もっともこれらの団体の会員数の減少は活動の質の低下を必ずしも示すものではなく、特に国際交流などの面で新しい活動の展開を見せる。
日本ユースホステル協会は1960年代に急速に会員を伸ばした団体である。1961年には会員数12万人であったのが、1969年に50万人に達する。若者の旅行ブームや森繁久弥が主演したNHKドラマ「太陽の丘」のヒットが会員増に拍車をかけた。
1960年代には都市化現象だけでなく高校や大学への進学率の急激な上昇があり、これも青年団体に影響を与えた。高校進学率でみると、1955年に51.5%、60年に57.7%であったのが、65年に70.7%、70年に82.1%となり、1974年には遂に90%を超すことになる。10代後半の青年たちの大半は学校に行っている、という状況が現出したのである。1950年代に社会変革を目ざした主役は勤労青年たちであったのが、1960年代には学生たちであった。とりわけ安田講堂事件に象徴される学園民主化闘争と1970年安保闘争がその頂点である。かれらは戦後生まれの第一世代であり、青年たちの意識も前の世代とはかなり違ってきた。
日本社会が高度成長から低成長へと転換する1973年頃には、学園紛争も沈静化してきたが、同時に若者の意識や行動の変化がだれの目にも明らかになったきた。ユースホステルが1973年に63万人という最高の会員数を記録してから、その後激減するという現象は若者の意識の変化を象徴するものだった。若者は集団での宿泊や堅苦しい夜のミーティングを敬遠し、多少お金を出しても小人数の友人だけで民宿やペンションを利用するようになった。青年の集団離れ、組織離れが言われるようになり、モラトリアム青年などという言葉も現われた。青年にもっと社会に目を向けさせようと「社会参加」ということが強調された。
高度成長が終ったとき、日本社会はいつの間にかGNP世界第二位という「経済大国」になっていた。日本は国際社会の中で、応分の役割を果たすべきことが各国から求められるようになった。「国際化」が合言葉になった。若者たちも、小使いで海外旅行ができるようになり、どんどん外国に出ていった。その中で、バングラデシュやインドシナの難民に手を差し伸べようと活躍する若者も出てきた。あるいは、日本のなかで第三世界や国際協力の諸問題を学習して行こうとする開発教育の運動も起ってきた。これらについては別稿で見てゆきたい。
中央青少年団体連絡協議会編『青少年団体史』中央青少年団体連絡協議会、1969年。
多仁照廣『若者仲間の歴史』、日本青年館、1984年。
熊谷辰治郎編『大日本青年団史』、日本青年館、1943年。
山本滝之助「田舎青年」、『復刻版 山本滝之助全集』日本青年館、1985年。
田澤義鋪「青年団の使命」、『田澤義鋪選集』田澤義鋪記念会、1967年。
『大日本青少年団史』、日本青年館、1970年。
日本青年団協議会編『日本青年団協議会2十年史』、日本青年館、1971年。
奈良常五郎『日本YMCA史』日本YMCA同盟出版部、1959年。
『修養団運動八十年史』修養団、1985年。
『水を風を光を−日本YWCA80年』日本キリスト教女子青年会、1987年。
『日本近代教育百年史』第7〜8巻、社会教育@〜A、国立教育研究所、1974年。
宮原誠一『青年期の教育』岩波書店、1966年。
『高知県青少年団体史』、高知県文教協会、1979年。
『日本ユースホステル運動30年史』、日本ユースホステル協会、1981年。
『郵便友の会25年のあゆみ』、日本郵便友の会協会、1974年。
全国青年学級振興協議会編『青年学級のあゆみと展望』、大蔵省印刷局、1964年。
総務庁青少年対策本部編『昭和60年版青少年白書』、大蔵省印刷局、1986年。
仲新監修『学校の歴史3 中学校・高等学校の歴史』、第一法規、1979年。
吉田昇(他編)『中等教育原理』、有斐閣、1980年。
文部省『学制百年史』、ぎょうせい、1972年。
『日本近代教育史事典』、平凡社、1971年
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