青少年の社会教育史
子どもたちの集団活動を歴史的に追ってみよう。最初の少年団体であるボーイスカウトの起源は大正期まで遡れるし、地域子ども会については直接的には戦後だが、その基盤となっている地域子ども集団になると、近世まで辿れる。以下、時代の順を追って見てゆきたい。
伝統的集落の中の子ども組
「正月小屋のなかでは、をかしいほどまじめな子供の自治が行はれてゐた。或は年長者のすることを模倣したのかも知れぬが、その年十5になつた者を親玉または大将と呼び、以下順つぎに名と役目とがある。去年の親玉は尊敬せられる実力はなく、これを中老だの隠居だのといつてゐる。指揮と分配とは一切が親玉の権能で、これに楯つく者には制裁があるらしい。7つ8つの家では我儘な児でも、こゝに来ると欣々然として親玉の節度に服している。これをしをらしくもけなげにも感ずるためか、年とつた者は少しでも干渉せず、実際にまた一つの修練の機会とも認めてゐたやうである。」
これは、柳田国男の『こども風土記』に描かれた風景であるが、近世に広く認められる地域の子ども集団はおそらくこのようであったと思われる。これらは、子供組(長野県、静岡県)、コヤド(福井県)、コモン(熊本県)、子供仲間等といって、6、7歳のころから、13、4歳の青年期に達するまでの子供たちが加入していた。ただし、その多くは、青年たちを組織していた「若者組」ほどには恒常的な組織ではなく、正月15日の小正月の他、3月、5月の節句、盆行事、11月の亥の子行事、などの年中行事の際に組織されていたものである。特に、小正月は「子どもの正月」とも言われ、鳥追い、かまくら、もぐらうち、カセドリ、サギチョウ、ドンド、など地方によって多彩な行事が子ども等の手によって行われていた。子どもたちが、自主的に、木や藁、あるいは正月の飾りなどを集め、小屋や円錐型の建物を建て、雪でかまくらを作り、子どもたちがその中で共同生活するのが特徴である。その後、建物や小屋を焼いて火祭りを行うところも多かった。
この他にも、寺子屋を基盤にした「天神講」が広く認められる。2月の25日に行われることが多く、この日には子ども仲間がお宮に集って餅や甘酒を食べたり、お札を配ったり、遊んだり、あるいは、習字をしてその紙を燃やすところもある。この行事も、頭分を中心に子どもたちによって行われていた。
これらの地域少年集団は、その後、学校教育の普及、旧暦から新暦への切り替え、など様々な近代化の波によって、消滅したり、あるいは子ども会へと衣替えしてゆく。それでも高度成長が始まる昭和30年代までは各地でこれらの行事や、子ども集団が残っていたし、秩父地方などでは現在でもなお生き続けている。
武士の子どもたち
一方、武家社会にも子供らの自治的な集団が存在した。郷中(薩摩藩)、仲間(大垣藩)、什(会津藩)、連(熊本藩)、社(土佐藩)などと呼ばれる組織である。この内、薩摩の士風を作りあげたといわれる郷中は、およそ4〜5町4方を単位とする「方限」が基盤となっていた。年齢によって、小稚児(6・7歳〜10歳)、長稚児(11歳〜14・5歳)、二才(15・6歳〜24・5歳)、長老(妻帯して郷中を去った先輩)のおよそ4つのグループに編成される。それぞれの集団で「頭」が選ばれ、郷中生活の一切を監督し、責任を負っていた。多田健次は、これらの武家の少年組織に共通する要素として、@自治的に運営されている、A地域を基盤にしている、B閉鎖的で相互に対立している、C除外されると一人前の武士と認められない、D士道の向上をめざした、厳しい心身鍛錬の場である、E武術稽古に重点がおかれている、の6点をあげている。
子ども組から子ども会へ
子ども組がどのような経過を経て、子ども会へと代わっていったのかについては、必ずしも十分な資料や研究があるわけではない。宮本常一は『日本の子供たち』のなかで次のように述べている。
「明治以後、学校教育が国民全般の間へ浸透してくると、いままでの年中行事にともなった子供のあつまり、鳥追い、カセドリ・三九郎・オンベヤキ・トンド・トロヘエ・モグラウチ・イノコなどは、門づけして物をもらい、ときには、悪口雑言もするから、社会道徳に反するばかりでなく、乞食のまねをするものとして、学校からとめられた地方が多かった。と同時に、子供たちのあつまりを道徳的なものににしようとして、各地で作られたのが、子供会である。はじめは子供たちが、夜適当な家へあつまって勉強することから発足した。これは多くの場合、子供たち自身が若者組から発達してきた青年会に見ならってはじめたものである。若者たちの間には、明治の中頃からひとつの自省作用がおこり、若者組の名を日進会とか月将会、啓成社等々と改組し、夜あつまって習字やそろばんの練習をすることがはやった。そして、若者組という名を青年会とかえたものも少なくない。かかる機運が子供たちの上へも反映した。
中には、天神講が子供会にかわったものも少なくなかった。(中略)山口県地方では、天神講を子供会にあらためて、学習や娯楽のあつまりにしたものが少なくない。と同時に寺の僧たちが中心になって、多くその世話をした。」
若者組を青年会へと再編するに当って、大きく影響を与えたのは山本滝之助が著した『田舎青年』である。その滝之助は、広島県沼隈郡で1903(明治36)年、自ら青年会を組織するが、それに先立ち、1894(明治27)年に「少年会」を設立している。彼が少年会を作ったのは、少年たちがせっかく尋常小学校でいろいろ学んでも、卒業後すぐに悪い風儀に染まってしまうことを嘆いてのことであった。そこで、「尋常小学卒業者ニシテ卒業後未ダ四ケ年ヲ経過セサルモノ」に限って少年組織を設立した。即ち、滝之助は小学校の補習機関として少年会を考えていたのである。
児童文化と子ども会
1981(明治24)年に巌谷小波が叢書『少年文学』の第一巻として『こがね丸』を書いたのが、日本における近代的な児童文学の草分けとされている。小波は、1869(明治2年)に京都に旅行した時、ある小学校長から乞われてお伽話の口演をする。これが大正から昭和にかけて児童文化の主流として存在した「口演童話」の始まりである。その口演童話の普及において功績があったのが久留島武彦である。久留島は関西学院で教会の日曜学校の主任をした経験を生かし、1903(明治36)年7月、横浜市蓬莱町のメソジスト教会で「お伽倶楽部」を開いた。彼自身、この会合を「子供会」と呼んでいた。
戦前において子ども会といえば、現在のような恒常的な団体ではなく、「子ども会」という名の行事を指すことの方が多かった。その原形が、久留島のお伽倶楽部に見られるのである。お伽倶楽部は盛況のうちに、毎月第1土曜日に行われたが、都合で11月には打切られ、1906(明治39)年には場所を神田の基督教青年会館に移し、毎月第3土曜日に、お伽話を中心の子ども会を開いた。この会は8年間続き、毎回盛況であったという。
小波に対しては、彼が主筆をしていた雑誌『少年倶楽部』の出版元である博文館に口演の依頼が各地から寄せられた。博文館としても読者の獲得に効果があることから、「講演部」を設け、久留島をその主任に迎え入れ、小波とコンビで各地を巡回させた。このお伽の会は、各地で人気を呼び、それが機縁となって京都、大阪、神戸、金沢、大分など各地にお伽倶楽部の支部ができてゆく。1918(大正7)年頃からお伽話が童話と呼ばれるようになり、各地に童話研究会が生まれ、童話会や子ども会が開かれるようになる。ほとんどの師範学校には、童話研究会が組織されている。例えば、東京高等師範学校には、1925(大正14)年に「大塚講話会」が結成され、下位春吉が指導に当っている。
日曜学校の活動
キリスト教会の日曜学校の運動が、日本の児童文化活動に及ぼした影響は小さなものではない。そもそも久留島がお伽倶楽部を興したのも、関西学院時代の日曜学校の経験からヒントを得たものと言われている。
日本の日曜学校の歴史は、教会の歴史よりも古く、明治6年のキリスト教解禁とともに、宣教師宅、教会、講義所などに開設され発展してきた。はじめの頃は「安息日学校」と呼ばれていたのが、明治30年頃から「日曜学校」と名を代えたらしい。1901(明治34)年、国際日曜学校協会の支援のもとに日曜学校社から月刊雑誌『日曜学校』が刊行された。明治3年、国際日曜学校協会のブラウンが来日し、その提案により、翌年第1回全国日曜学校大会が開催され、「日本日曜学校協会」が設立された。1910(大正9)年には、早くも世界日曜学校大会を東京で開くに到った。
こうしたことから、各地における日曜学校設立のうごきにはずみがつき、大正期に大きく発展した。とくに関東大震災後の救護団の活動はめざましく、昭和初期には全国で2500カ所、児童数20万人を擁していた、といわれる。
キリスト教会の動きに刺激を受けて、仏教系のお寺や大学においても日曜学校が広まっていった。すでに1972(明治5)年には博多の万行寺で児童念仏講として子供会が行われたという記録があり、少年講、少年会、少年教会などの名称で子ども対象の宗教教育がなされていた。1890年代からキリスト教の影響を受けて日曜学校の形態をとるようになった。1905(明治38)年に安藤正純が『仏教終身読本』を出版したのが日曜学校教案としては最初のものである。
日曜学校が最も盛んであったのは大正から昭和初期である。曹洞宗系の駒沢大学では、1913(大正2)年に学内に少年布教団が誕生する。大正4年には学内に日曜学園協会が発足し、上馬新町で子ども会を実施している。その後、192(昭和4)年には、竹内道説部長のもとに、「児童教育部」と改称し、日曜学校を中心とした子ども会活動を積極的に展開する。昭和7年には、同部所属の日曜学校だけで、14ケ所あったという。花岡仙鳳(昭和年卒)の回顧談を読むと、当時の部員は先輩にしごかれながらも、かなり綿密なカリキュラムで講演童話などの技法を身につけていったことがわかる。夏休み、春休みなども利用して、部員は4〜5人の班を編成して日本各地や、遠く朝鮮、満州を巡回している。これは、部員にとっては楽しい年中行事であり、また、この巡回子ども会が全国各地の寺院に日曜学校や子ども会を普及させていった。もちろん、部員たちの多くは卒業後地元の寺院で日曜学校などを開いたのである。
こうした活動は、駒沢大学に止まらず、大正大学、立正大学、東洋大学でも行われており、4大学は児童宗教教育連盟を組織し、合同で少年少女大会を開いている。キリスト教だけでなく、仏教においても日曜学校が広く普及していたことがわかる。
ボーイスカウトと少年団
英国陸軍の軍人であったベーデン-パウエルが『スカウティング・フォア・ボーイズ』を出版し、少年たちにスカウト訓練を呼びかけたのが1908年、同じ年にはその模様を駐英秋月左都夫公使が日本政府に報告している。日本の最初のボーイスカウトである東京少年軍(翌年、東京少年団に)が誕生したのが5年後の1913(大正2)年。日本におけるボーイスカウト運動の動きは国際的にみても早かったと言うことができる。
実は、ボーイスカウトが日本に紹介される前にも、少年団体はいくつか存在していた。大沼直輔の『学校少年団の理論と訓練』によれば、明治13年にすでに3団体、明治34年に16団体、日露戦争後の明治44年には13団体あった、と報告されている。しかし、ボーイスカウトの訓練法を基盤にして結成された少年団体は、小柴博が修養団幼年部を改組して創設した東京少年軍が始めてである。その後、ボーイスカウトの影響を受けて、静岡、大阪、金沢、京都、北海道などに少年団体の結成が相次ぎ、1916(大正5)年には少年団体数は34と増加した、と言われている。
少年団が飛躍的に伸びるのは、裕仁皇太子が1921(大正10)年に英国を訪れてボーイスカウトを視察したことが報ぜられ、翌年、英国皇太子が訪日したことを契機に、「少年団日本連盟」が結成されてからである。日本連盟が結成された1922(大正11)年には2,052、1931(昭和6)年には、6,104の少年団体が存在している。
大正期には、児童文化運動やボーイスカウトの動きに触発されて、少年団体活動が飛躍的に伸びる。1919(大正8)年には東京香蘭女学校に女子補導団(ガールスカウト)が誕生したし、1922(大正11)年には、滋賀県守山小学校に少年赤十字が作られ、1924(大正13)年には大日本海洋少年団が創設される(翌年、翌年少年団日本連盟海洋健児部に)。また、青年団体であるYMCAが大阪で始めての少年キャンプを行うのもこの頃(1920年)である。
全国の村や町では、少年団はどのように迎えられていたのであろうか。宮本常一は先にあげた本の「少年団」の項で次のように述べている。
「青年会が青年団という名にかわり、全国的な組織ができてくるころから、子供会や子供仲間も少年団(ボーイスカウトとは別個に)という名にかわって、年中行事に関係するばかりでなく、神社や道路の掃除、火の用心番などもおこなうにいたった。つまり、社会奉仕的な行事が多くなってきたのである。これは一方にボーイスカウトなどの影響があったと見られた。これらの動きは、昭和にはいって活発になるのだが、そのはじめは全国的に見てほとんど小学校の先生は干与していなかった。
ということは、年中行事を中心にした子供組を改組したものが多かったからで、かりに指導者があっても、さきにのべたように、それは寺の僧とか、村の進歩的と目される人びとであった。そして少年団としての仕事は、道路清掃・神社清掃・早起会・草刈り・勉強・火の用心番などをおこなうものであった。」
ボーイスカウトについては、「こうしてしだいに国内にのびてくるのであるが、この少年団の中には、日本の少年たちにとって、異質に感ぜられるものがふたつあった。ひとつは指導者とか役員の中に在郷軍人の多いことであり、その二は国際性からくる一般日本人との感覚のずれであった。したがってよい指導者をもつものとそのあたらしさに心をひかれるものがこれに参加したのであって、田舎の子供たちがこれに参加することは少なかった。つまり都会的な性格をたぶんに持っていたのである。」と、述べている。
少年団は、1932(昭和7)年の文部省訓令によってその性格を大巾に変えるのであるが、これは後に述べよう。
セツルメントとピオネール
日本におけるセツルメント運動は、片山潜のキングスレー館がその先駆であるが、児童文化活動に関しては、関東大震災が直接の契機となって1923(大正12)年に設立された「東京帝国大学セツルメント」からである。帝大セツルメントは、翌年に柳島に施設を建築し、レジデントの居住を始める。当初、成人教育部、調査部、児童部、医療部、相談部、市民図書部に分かれて事業を開始した。間もなく毎日百人も200人もの子どもがおしかけてくるようになる。開設後、3年間に行った児童関係の活動を拾ってみると、児童図書館の開設、遠足、児童唱歌大会、林間学校、編物講習、子供会、陸上競技大会、展覧会、などがあげられている。
その後、各地にセツルメントないしは隣保施設が設けられるが、ほとんどが児童文化活動を重要な事業の柱としている。1933(昭和8)年版『日本社会事業年鑑』によれば、全国隣保事業施設において行われている事業で、最も多いのが「一般教化に関するもの」で168事業、続いて「児童に関するもの」で148事業、という数字がある。さらに、その内容には、託児所、児童保護指導クラブ、コドモ会、妊産婦保護、日曜学校、等があげられている。これをみても、特に都市の零細民居住地区において、セツルメントが児童文化活動に果たした役割が大きかったことが伺われる。
しかし、民間のセツルメントの運動は、一方で、公営の隣保事業が増加し、他方でセツルメントが左翼の温床と目され、当局の弾圧を受けるにしたがって、次第に下火になってゆき、1938(昭和13)年には東京帝大セツルメントも解散する。
セツルメント運動が盛んに行われていた同じ時期に、これまでの少年少女運動の枠組みには入らない、新しい運動が興っていた。それは労農大衆団体に指導される形で発展した、「ピオネール」「労農少年団」などと呼ばれるプロレタリア少年運動であった。日本で最初のピオネールといわれる、宮城県豊里労農少年団は1928(昭和3)年に結成されている。革命に成功したソビエトにピオネールの全国組織が結成されるのが1922年であるから、かなり早い動きであったといってよい。しかも、被差別部落の少年少女らによる「少年少女水平社」は、全国水平社が結成された翌年の1922(大正11)年に結成されているし、新潟県木崎村の小作争議(1925〜26)や千葉県の野田醤油労働争議(1927〜28年)では、児童による同盟休校、無産農民小学校の開設、労農少年少女軍の組織といった、ピオネールにつながる活動がすでに展開されていた。
全農(全国農民組合全国会議派)など労農大衆団体が、独自の方針を打出し、本格的にピオネールを組織し出すのは、1929(昭和4)年以降のことであり、山梨県山之神、東京落合、水元、青砥、秋田県阿仁、北海道蜂須賀、和歌山田辺の各ピオネール、大阪無産少年団、沖縄大宜味仲好会、など全国各地に組織されている。司法省刑事局による「我国におけるピオネール一覧表」には41のピオネールがあげられている。ほとんどが昭和5〜6年の結成であり、設立の背景としては小作争議が最も多く、労働争議、階級意識昂揚、がそれに続く。所属団員数は8名というものから、約700名というものまでまちまちである。主な活動としては、示威運動、同盟休校、訓導への反抗、少年による行商といった、大人の闘争そのものへの支援が多く、これらの闘争の終焉とともに解散した少年団がほとんどであった。しかし、中には日曜学校開設、ピクニック、林間学校、音楽班・美術班、といった児童文化活動もわずかながら見受けられる。最盛期には100を超えるピオネールが存在したとされているが、1934(昭和)年頃にはほとんど姿を消した。
ピオネールは、結局地についた組織を残すことができなかったが、この運動が教育界に与えた衝撃は大きく、文部省による少年団の直接の組織化を促すことになる。
学校少年団と少年団体の統制
1932(昭和7)年12月、文部省は「児童生徒に対する校外生活指導に関する件」として訓令と通牒を出した。その趣旨は、学校または一定の地域を単位として少年団体を組織し、学校教育との緊密な連携のもとに指導することにあった。この訓令により、いわゆる「学校少年団」が急速に組織されてゆく。この訓令が出された背景の一つには、社会主義的な少年団運動への対抗があるとともに、ボーイスカウトの訓練法を基盤とする「少年団日本連盟」の活動に対する批判があったからである。
すなわち、満州事変がおき、国際連盟を脱退するという「非常時」において、兵士の予備軍として青少年の団体訓練を行いたいという要望が軍部には強く、すでに青年については青年訓練所の設置などの処置を行ってきた。しかし、少年について見れば、昭和2年より、少年団日本連盟に対して補助金を交付するなどの育成措置をとってきたにもかかわらず、「全員主義ではなく精鋭主義」であり、「学校中心ではなく地域中心」であり、とりわけ都市部の比較的裕福な層の子弟しか組織しえていない、といういらだちがあった。また、ボーイスカウトがもっている「国際主義的」「自由主義的」な側面に対しても、批判が強まっていた。
学校少年団の組織化により、1931(昭和6)年には6,104団体であった少年団体は、1936(昭和11)年には15,383団体へと飛躍的に伸びている。しかし、これに見合うだけの指導者養成ができようはずもないし、一片の通達で学校の先生たちがその趣旨を理解することも難しく、その活動の実質は数の伸びとは逆に貧弱なものであった。ただ、宮本常一は、学校少年団ができた昭和10年以後から、火の用心に辻々を回る少年を全国各地で見掛けるようになった、と観察しているので、その程度の効用はあったのだろう。
1935(昭和10)年には「帝国少年団協会」を発足させ、これに新しくできた学校少年団を加盟させた。翌年、岳陽連合少年団と乃木少年団が同協会に加盟した。しかし、学校少年団と従来のボーイスカウト系の少年団との間では、さまざまな軋轢が各地で生じた。結局、政府は大日本少年団連盟(1935に財団法人化して少年団日本連盟から改称)と帝国少年団協会を解散させ、大日本青少年団に一本化する方針を固めた。1941(昭和16)年1月、両少年団連盟と大日本青年団、大日本連合女子青年団が統合されて「大日本青少年団」が誕生した。この年には、学校教育は4月に国民学校に移行し、あらゆる児童文化団体は12月に「日本小国民文化協会」に統合させられた。こうして、学校教育、社会教育、児童文化という子供のあらゆる教育、文化活動が政府によって統制されるのである。
1945(昭和20)年5月、戦時教育令の公布により、すべての学校、生徒が学徒隊に編成されることになった。これに伴い大日本青少年団本部も6月に解散した。しかし、戦争の帰趨はもはや明らかであった。
敗戦直後の状況
爆撃で都市は焼かれ、その焼け跡には両親を失ったいわゆる浮浪児たちがあふれていた。大人ですら生きるためには何でもする時代であったから、子どもたちによる犯罪は深刻化していた。占領軍が進出してきた地域では、子どもたちが兵士にガムをねだったり、「パンパンごっこ」をしたり、という状況であった。
1946(昭和21)年の夏、戦災都市東京では、行政が都内の小学校教員、学生、青年団員、神職者らを組織し「緑蔭子供会」を実施した。これは、都内の公園や街頭で紙芝居や歌や踊りを見せるというものであった。大人は生活に忙しく、子供たちはほとんど放っておかれていたので、各所で多くの観客を集めた。同年10月、文部省から各地方長官あてに出された「青少年不良化防止対策要綱」及び「『児童愛護班』結成活動に関する通知」のなかで、この緑蔭子ども会が取り上げられ奨励される。児童愛護班は「有志によって……児童の遊び場である都市の公園、運動場、盛り場、街頭等において訓話、音楽、遊戯等を通ずる児童愛護運動にてい身し、真にかれ等の母となり姉となって児童の心身の健全な発達と校外生活における余暇の善用をはかり、ひいて児童に真に明るい明日に対する希望をもたせるよう指導の万全を期せんとするもの」と説明されており、緑蔭子ども会の方法論がそのまま持ち込まれている。
児童愛護班は主として戦災都市において伸び、例えば神奈川県では、1948年に32班、4年に35班という数字が記録されている。児童愛護班の活動は、戦後の子ども会の1つの源流となるのだが、最初は戦災都市における児童の保護と非行防止から始まったものであった。
児童文化運動と子ども会
敗戦直後の児童をめぐる状況は児童文化関係者の心を痛めていた。戦前の童話会や日曜学校に関った人びとは、戦後の自由な空気のなかで活動を始める。仙台では、大正の頃から児童文化活動が盛んな地域であるが、1946(昭和21)年3月、天江富弥、鈴木碧、らが中心となって「仙台児童クラブ」を結成した。仙台児童クラブは仙台市公民館を拠点に、市内各地において童話、舞踊、紙芝居、児童劇、映画等を盛り込んだ「子ども大会」や「子ども祭り」を開催した。
児童クラブの中心メンバーは、宮城師範学校の児童文化班であった。1946〜47年には、子ども会指導者のために童話、人形劇等の講習会も開き、県内の児童文化の質的向上に寄与した。また、県内の各市町村を巡回し、地方の児童文化に刺激を与え、塩釜、古川、石巻等にも児童クラブが誕生している。
奈良市の称名寺書院には、戦災で東京の自宅を失った久留島武彦が仮寓していた。戦前から親交があった奈良県童話連盟のメンバーは久留島のもとに出入りし、新しい社会の子どもたちのために何らかの組織を作るべく協議していた。こうして、46年春に「奈良子ども会」が誕生する。この会は、毎月一回各小学校講堂持ち回りで、童話、影絵芝居、狂言、音楽などを子どもらに提供した。
こうした童話人の積極的な行動に刺激されて、奈良市内の心ある人びとによって子ども会の結成が相つぎ、1948(昭和23)年春にはその数200を数えるに至った。さらに周辺部でも子ども会結成の機運が高まり、特に県北を中心に広まっていった。
少年少女団体の復活
1948(昭和23)年10月、文部省はCIE(連合総司令部民間情報局)の協力を得て、アメリカから呼びよせた4名の講師を加え、青少年教育指導者講習会(IFEL)を日本青年館分館の浴恩館で開いた。1950年までに合計3回の中央講習会とブロック別講習会が開かれる。第1回のIFELの参加者110名のなかには、ボーイスカウト、ガールスカウト、青少年赤十字の関係者19名が含まれていた。
講習会の内容を見ると、当時アメリカで発達していたグループワークの理論がそのまま持ち込まれていることがわかる。CIEは、日本の社会教育団体の民主化の基礎的な理論として、全体主義に対抗する小集団理論であるグループワークに期待したのであった。
戦前の学校少年団はすでに影も形もなかった。文部省は少年教育については六三制の学校教育に追われており、学校外教育に関しては特別な方針を持っていなかった。こうした中で、一早く再発足の名乗りをあげたのはボーイスカウトである。CIEにはボーイスカウトの関係者もおり理解も早く、戦前の軍国色を一掃することを条件に復活が認められた。1946(昭和21)年5月には地方組織の結成が報告され、翌年には中央事務局を設置した。1950(昭和25)年には世界会議にも復帰した。1949年に財団法人健志会は、財団法人ボーイスカウト日本連盟に組織を変えていた。
一方ガールスカウトは、1947(昭和22)年にまず日本ガールスカウト中央準備委員会を設立し、1949(昭和24)年4月に37の地域組織をもってガールスカウト日本連盟を発足させた。1952(昭和27)年には連盟が社団法人となり、1960(昭和35)年に世界連盟に正加盟国として認められた。
青少年赤十字の再発足は、1947(昭和22)年当時に使用されていた中学校国語の教科書「世界を結ぶもの」の一節にあった「少年赤十字」に触発された生徒たちの動きがきっかけになっているようである。日本赤十字社はアメリカ赤十字社の援助のもとに青少年赤十字の再建に乗り出し、1948(昭和23)年に再発足する。
海洋少年団は、海軍軍人の直接指導を受けていたこともあって再発足は遅れている。海上保安庁や平和の海協会などの援助を得て「少年海の会」が結成されたのが1951(昭和26)年5月、さらに全国組織として日本海洋少年団連盟として結成されたのはその2カ月後であった。
児童福祉法と「子どもの日」
戦争の惨禍を受けたいたいけな子どもたち、民主的な平和な社会への希望としての子どもたち、そんな子どもたちへの償いの気持ちと期待とを感じさせるのが、児童福祉法(1947年)や児童憲章(1951年)、それに子どもの日の制定(1948年)である。
厚生省を中心とする児童保護のさまざまな活動は、子どもの日を中心とする児童週間の行事として展開される。これらの動きの中に、後の子ども会につながる活動もあった。1948(昭和23)年10月、児童局長通知「児童文化向上対策について」の中で「児童指導班結成及び運営要綱」と「母親クラブ結成および運営要綱」とが示されていた。児童指導班とは、すでに学生、青年によって行われていた施設でのボランティア活動を地域にも広げようと意図したもので、戦前のセツルメントの子ども会の発想を引き継ぐものである。児童指導班は、量的にみれば必ずしも広がったとは言えないが、愛媛県ではその主旨にのっとりVYS(Voluntary Youth Social Worker)運動を提唱し、その後、福島、岩手、山梨などに同様の組織が作られた。
母親クラブは、保育所などに子どもを預けている母親たちが施設と協力して子どもを育てようとして戦前から作られていたものであるが、これを再組織し母親を近隣で組織をつくり地域の子どもたちの健全育成を進めようとするものであった。これも一定の成果をあげ、地域子ども会結成の機運を盛り上げた。
1951(昭和26)年の児童福祉法の改正で新しく設置された福祉事務所が、子ども会等の指導育成に当ることが明文化され、同年発足した社会福祉協議会ともども、地域の子ども会の育成に当る。
一方で、1951年から61年まで「子どもレクリェーション・キャンプ指導者講習会」「グループワーク講習会」「児童集団指導研修会」と名称は何度か変っているが、毎年子ども会指導者の研修会が厚生省と全国社会福祉協議会の主催で開催されている。研修会は4泊5日程度のキャンプ方式で行われ、キャンプやレクリェーションの技術、グループワーク、地域子ども会の作り方、などが内容となっている。この講習会の中から、熱心な地域子ども会指導者を多数輩出している。
PTAと校外生活指導
1959(昭和24)年の学習指導要領の改定の頃までは、指導要領にも「校外生活指導」という一項目があり、このことが強調されていた。校外生活指導が重視された背景には、これまで再3伸べてきたように、地域社会における児童の生活環境の悪化や非行の増大という事情があるとともに、戦後の新教育の普及過程で、学校は地域社会から遊離してはならない、という考え方が広く受け入れられていたことである。
当初学校自身が、児童会の下に各地区ごとの校外児童組織(これを「子ども会」と称している例もある)を作る、というような実践が行われたが、PTAの普及に伴い校外での生活指導はもっぱらPTAが引き受けるようになってゆく。PTAは、アメリカの教育使節団の勧告を受け、CIEの指導のもとに発想されたものである。1947(昭和22)年3月に文部省から「父母と先生の会−教育民主化の手引」が出され、各学校に作られてゆく。この中で、PTAができることによる利益として15項目があげられている。その内の次の3項目が校外指導に関係する。
(5)児童生徒をわりよい環境の中におくことができる。
(6)児童生徒の保護対策をたてる機運が生れる。
(12) 児童生徒のために学校外で娯楽のプログラムを作れる。
具体的には、適切な図書、映画、紙芝居などの普及活動、子ども会、遠足、映画会、スポーツ会、学習会などの開催、通学区域ごとの子どもクラブの結成、などが上げられている。
1954(昭和29)年には文部省はPTAの規約案(第3次)をつくり参考に供しているが、この中で、A家庭と学校との緊密な連絡によって、児童、青少年の生活を補導する、B児童、青少年の生活環境をよくする、の2項目がある。これらにより、PTAの活動の一環として子ども会の指導が行われるようになり、各地での子ども会の結成が促されて行く。現在でも、PTAを基盤にした子ども会の数は多いが、子ども会が非行防止を第一義的な目的としていたり、役員の一年交代制により指導力がの不足する、といった現在の子ども会の弱点はすでに発足のいきさつから来る問題であった。
全子連の結成まで
1955(昭和30)年には、厚生省の資料で子ども会数62,822(会員2,977,577人)、児童指導班数4,075(班員26,416人)という数字が報告されている。一方、同年の文部省の統計では、子どもクラブ数40,337(会員2,133,737人)、児童愛護班数5,151(班員47,758人)となっている。この頃まで、厚生省は「子ども会」の用語を用い、文部省は「子どもクラブ」の名称を使っている。しかし、その使いわけをしているのは、せいぜい都道府県レベルまでであり、市町村や単位の子ども会レベルでは、厳密な使いわけをしていないので、この両者の数字には、相当数重複がある。
もとより、子ども会は定義もはっきりせず、組織も不明確なものであるから、これらの数字はあくまで参考値である。しかし、1956年には350万人であった子ども会の会員数は、年々増加し1960年には518万人に達し、子ども会の数も74,932から3,623へと増加しているので、この時期地域子ども会が全体としては伸びていることは確かである。1959年版「青少年白書」によれば、地域の少年集団は次の4つのタイプのものがあった。
@ 学校またはPTAが、校外補導組織として、校区内の児童生徒全員を地区地域班に組織しているもの。
A 婦人会、青年団等の地域団体あるいは民間有志が、部落町内等の区域において、その地域の子ども組織として結成させているもの。
B 市町村の教育委員会、児童愛護班等がその管下区域に組織しているもの。
C 子どもの有志が自由に同好組織をつくり、これにおとなの有志が指導助言を与えているもの。
学校・PTA主導型、町内会・自治会主導型、行政主導型、自主的任意集団型、の4タイプである。
厚生省と全国社会福祉協議会は、毎年、児童福祉大会及び児童集団指導者講習会を開き、一方文部省も、全国児童文化会議及び少年生活指導研究集会をもって、子ども会の育成や指導者の養成に力を入れていた。これらの集会に参加した指導者の間で、各地の情報交換が行われたり、共通の問題を話しあうのみならず、全国的な連携組織が必要である、という声も上がってくる。
子ども会の全国組織としては、緑蔭子ども会の指導者らを中心に1949年に「子どもクラブ全国連盟」が結成されたことがあったが、あまり広まらずに立ち消えになっていた。1963年に、文部省主催の少年生活指導研究集会が中央青年の家で開催されたとき、かねてからの全国組織結成の機運が高まり、集会参加者の有志をもって「全国少年団体指導者連絡協議会」が作られた。翌年、任意団体として「全国子ども会連合会」が発足した。1965年には文部省より社団法人の認可を受けるものの、当初は一部の有志による組織作りであり、全国関係者の総意によるものではなかったため、全子連にあえて加わらないという動きも出てきた。
こうした動きとは別に、各地域においては、単位子ども会の結成が増え、市区町村、都道府県レベルでの連合組織の結成が急速に進んでいった。そこで、現事務局長である末吉裕郎が1967年から68年にかけて全国を歴訪し、1968年2月に下田市で改めて、全国の都道府県と政令指定都市の代表による会議をもった結果、同年9月に定款を改正することで現在の形の子ども会連合会が発足した。
スポーツ少年団の発足
スポーツ少年団の誕生にあたっては、東京オリンピックとの縁が深い。東京オリンピックが決った1960年、日本体育協会はオリンピックの青少年運動を進めるため特別の委員会を設け、検討を始めた。青少年スポーツの裾野を広げるに当っては、将来のオリンピック選手を養成するのか、それとも少しでも多くの少年たちにスポーツを楽しんでもらうことを目的とするのか、議論があったようであるが、最終的には後者を主とすることとして、1962年6月に、22団700人の団員をもって創設された。
1963年に日本スポーツ団本部事務局を日本体育協会に設置、同時に都道府県の体協に都道府県スポーツ少年団本部を設置、1966年には市町村レベルにも少年団本部を設置することで、「上から下へと」スポーツ少年団の普及を図ってきた。その結果、10年後の1973年には団員数100万人を突破し、全子連に次ぐ一大青少年団体に成長したのであった。
スポーツ少年団はもともと、少年期、青年期、成人期と続く「国民スポーツ運動」として構想されたものであったが、結果的には小学生の団員が大半(岡山県の場合、小学生の団員が87.7%)であり、学校のクラブ・部活動との関係で、発達段階からいって最もスポーツに適している青年期をほとんど組織していない(同上、中学生は10.5%、高校生は1.5%)。また、子どもたちにスポーツの楽しさを味わってもらおう、という当初の主旨からすれば「複合種目」を行うスポーツ少年団が最も適していると思われるのだが、1970年には全国の少年団の内、62.1%が「複合種目」を目的としていたのに対して、1981年には「複合種目」の占める比率が15.3%と大幅に減少している。残りの84.7%の少年団では単一の種目しか行わなれていない。その内訳は、野球−24.0%、剣道−14.1%、サッカー−10.5%、バレーボール−7.2%、ソフトボール−5.9%、等である。これらのことから、「遊び」としてのスポーツが大切である少年期に、勝利を目ざした訓練に重点が置かれてはいまいか、単種目で子どもたちのニーズに十分答えているのか、といった様々な批判や疑問が関係者から提起されている。
政府の青少年施策の動向
戦後の政府の青少年施策は、1950年代は農村の、1960年代は都市の勤労青年に対する施策が中心であり、少年教育に関する施策が優先的にとりあげられるようになったのは70年代に入ってからである。それでも、1960年代までにも少年を対象とした施策がいくつか見られるが、それらは一言で言えば「少年非行対策」であった、と言って良い。
戦後第一の非行のピークは1949〜52年頃であるが、この時期の主要な答申や施策を上げれば次のようになる。
1949年−○少年非行に関する衆参両院決議、○青少年指導及び不良化防止対策基本要綱(文部省)、○第一回青少年保護育成運動(総理府)、○内閣官房長官通知「青少年対策について」
1950年−○社会教育審議会答申「青少年教護に関する建議」、○中央青少年問題協議会(中青協)設置
1951年−○「児童愛護班のしおり」、「子どもクラブのあり方」発行(文部省)
1952年−○第1回全国児童文化会議開催(文部省)
1953年−○青少年問題協議会設置法公布(これにより青少年指導員を委嘱)、○中央児童福祉審議会「児童に有害な文化財の悪影響防止に関する決議」
1955年−○文部次官通達「青少年団体活動の促進について」、○中央青少年問題協議会「青少年に有害な出版物映画等の対策」決定
その後しばらくは少年に直接関連する答申や施策は少なく、第2の非行のピークである1960年〜65年に次の動きが出てくる。
1960年−○中青協「『刃物をもたない運動』の実施について」、○同「青少年の非行防止および勤労青少年対策の強化等について」
1961年−○中青協「青少年対策当面の重点目標」
1962年−○中青協「青少年対策の強化について」、○文部省に青少年教育課を新設
1963年−○社会教育局長通達「青少年非行集団対策について」
1964年−○中青協「当面の青少年対策に関する意見」意見具申
1965年−○政府、青少年の健全育成と非行防止対策を発表
1966年−○青少年育成国民会議結成、○日本青年奉仕団推進協議会結成(翌年、日本青年奉仕協会に)、○総理府に青少年局を新設、○中青協、中央青少年問題審議会に改組、「当面の青少年対策の重点について」発表
これらの動きは、それぞれの時期の目前の少年非行の増大に対処するためのものであった。1960年代中盤の動きの中で、従来各省バラバラであった青少年施策を総理府が中心になって調整すること、単に非行対策ではなく、健全育成という考え方に重点を移してゆこうとしていることが読み取れる。
子どもを守る運動
池田内閣の高度経済成長政策による1960年代の急激な都市化と工業化の中で、子どもたちの生活は大きく変貌した。交通事故の急増、公害や環境汚染により子どもたちの生活環境は悪化した。農村部では父親が「出稼ぎ」に行き、家庭崩壊の現象も現われた。都市部では女性の社会進出とともに、いわゆる「カギっ子」問題がクローズアップされる。「人づくり国づくり」政策の中で、学校のカリキュラムは過密化する一方で、「つめ込み教育」「落ちこぼし」「見切り発車」の現象が広範に見られ、また、受験戦争が過熱した。
子どもたちの文化も大きく変った。テレビが急速に普及し、放課後テレビにかじりつく子どもたちの姿が見られた。1959年の「少年サンデー」「少年マガジン」の創刊により、週刊少年雑誌が飛躍的に増大し、マンガブームを呼ぶ。都市の過密化は子どもたちから遊び場を奪い、テレビやマンガの増大、それに塾の隆盛と相まって、子どもたちの伝統遊びや異年齢のタテ集団は徐々に衰退して行く。
子どもたちの文化や生活を守ろうとする民間の運動としては、すでに1952年に「日本子どもを守る会」が結成され、1955年に「第一回母親大会」が開催されているが、上記のような1960年代の子どもをめぐる否定的な状況の中で新たな児童文化・福祉の運動が盛り上がってくる。
1959年に鹿児島で生まれた「親子読書」運動は、毎日20分間だけ時間を割いて、子どもが声を出して本を読むのを親がじっと聞いてあげる、という手軽さから、その後各地で運動の輪が広がり、1967年には「日本親子読書センター」が設立され、1970年には「親子読書地域文庫全国連絡会」が結成される。地域文庫は、自宅を一定日に開放したり、児童館、公民館などの公共施設を利用したりして行われ、1975年頃から急速に伸びて行く。 戦記もの、怪奇もの、ハレンチもの等、一部の俗悪なテレビやマンガ文化を憂いた人々の中から、質の高い芸術文化を子ども等に提供しようとする運動が生まれる。1966年、埼玉県大宮市で親子映画作品「竜の子太郎」「黒姫物語」の製作及び上映が成功したのを契機に、翌年には「親子映画運動推進連絡会」が発足、各地に「親と子のよい映画をみる会」を誕生させた。同じく66年に誕生した「福岡子ども劇場」は、その後急速に全国に拡大し、1973年には「全国おやこ劇場こども劇場連絡会」を結成している。
これらの児童文化運動は、単に図書、映画、演劇の活動に止まらず、「子どもまつり」やキャンプ、ハイキングなど、多彩な活動を展開しているところも多い。こうした児童文化運動の広がりの中で、政府の施策を批判しながら、独自の子ども会や少年団を結成する動きが現われ、これらの子ども組織が連合して1972年に「少年少女を育てる全国センター」を結成する。
おわりに
表は、ほぼ十年ごとの比較しうる資料をもとに作成した少年少女団体の会員数の推移である。少年少女団体の会員数は戦後ほぼ一貫して伸びていき、スポーツ少年団を除いては1980年代にそのピークがあることがお分かりいただけよう。明治後期から大正期に花開き、途中軍国主義に巻き込まれながらも、戦後も再び活況を呈した少年少女の集団活動は今や大きな転機を迎えている。その原因や新しい方策については別稿にゆずりたい。
表 少年少女団体の会員数の推移
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ボーイスカウト日本連盟 |
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56,963 |
132,485 |
315,489 |
263,460 |
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ガールスカウト日本連盟 |
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6,211 |
25,300 |
91,923 |
90,680 |
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日本海洋少年団連盟 |
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8,120 |
30,000 |
32,800 |
27,500 |
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青少年赤十字 |
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564,683 |
902,185 |
1,524,244 |
2,146,152 |
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全日本鼓笛バンド連盟 |
|
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211,308 |
396,790 |
110,755 |
|
日本スポーツ少年団 |
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|
397,698 |
879,809 |
1,191,000 |
|
全国子ども会連合会 |
|
|
約300万 |
9,695,119 |
7,000,000 |
出典:「青少年白書1958年版」「青少年団体史」「続・青少年団体史」「中青連加盟団体調査報告書」
柳田国男「こども風土記」『定本柳田国男集』第21巻、筑摩書房、1962年、37頁。
宮本常一「日本の子供たち」『宮本常一著作集』第8巻、未来社、196年、88〜117頁。
多田健次「武家社会の子ども」『日本子どもの歴史』第4巻、第一法規、1977年、188〜208頁。
山本滝之助「田舎青年」、『山本滝之助全集』(財)日本青年館、1985年、所収。 勝尾金弥「子どもと文化」『日本子どもの歴史』第5巻、304〜311頁。
海老沢有道、大内3郎著『日本キリスト教史』、日本基督教団出版局、1971年、477〜481頁。
斉藤昭俊『近代仏教教育史』、国書刊行会、1975、76〜84頁。
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岡山県スポーツ少年団『岡山県スポーツ少年団のすがた(昭和60年度)』、16〜17頁。
日本体育協会日本スポーツ少年団『日本スポーツ少年団創設20周年記念 20年のあゆみ』、1983年。
増山均「子ども組織と教育学」青木書店、1986年、5〜106頁。
宮原誠一(他編)『資料日本現代教育史3』三省堂、1974年、372〜384頁。
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