青少年の社会教育史
鈴木利貞と座間村幼年会に関する研究
田中治彦
平成7〜9年度文部省科学研究費補助金(基盤研究C2)研究成果報告書, 1997年9月刊
鈴木利貞の座間幼年会の実践について筆者が初めて知ったのは1991年頃であった。当時上平泰博、中島純と私は「少年団研究会」を組織して、少年団とボーイスカウトの戦前の歴史について調べていた。ある日の研究会で上平氏が鈴木英夫著『細谷川 座間村幼年会と鈴木利貞』を私たちに紹介した。ボーイスカウト系ではない日本独自の少年団運動についてはこれまで沼津の岳陽少年団のみが資料的に追究可能な素材であったが、座間幼年会は岳陽少年団とは別の意味で興味深い少年団であった。
当時神奈川県の相模原に住んでいた中島氏が隣町ということもあって、さっそく鈴木英夫氏のお宅を訪問した。英夫氏は父親である利貞の日記を初め、座間幼年会関係の資料を多数丁寧に保管されており、ご自身が北原白秋の弟子であった関係で、それらの資料ともども整理しておられた。その資料の豊富さもさることながら、自宅の離れを改造して「湘東文庫」と名付け、資料を一般の人々にも公開していると聞いて驚いたものである。
筆者も岡山から何度か湘東文庫を訪問し、座間幼年会や少年団日本連盟発足当時の資料を見せていただいた。日本連盟創設に至る資料のみならず、岳陽少年団などについても他では見ることができない貴重な資料が多数発見された。その成果は拙著『ボーイスカウト』(中公新書)や少年団研究会による共著『少年団の歴史』(萌文社)に生かされている。というよりこれらの資料がなければ私たちは体系的な少年団史を記述することすらできなかったであろう。
私たちの研究会では、湘東文庫に眠っている鈴木利貞の貴重な論文や資料を何とか生かすことはできないものかとしばしば話しあった。そこで文部省の科学研究費助成に申請したところ、幸運にも1995年度から3か年にわたって研究助成金を得られることになったのである。湘東文庫には、利貞の手書きのものとして本書に収めた『社会的陶冶と幼年会の実際』を初め、教育小説『細谷川』の草稿(未完)や少年団、幼年会に関する短い論稿、それに多数の幼年会記録が残っている。また、およそ20年間に及ぶ利貞自身の日記『我身の歴史』が保管されていた。その後の調査で『神奈川県教育』誌に利貞が寄稿した「少年団論」等が発見された。本書ではこれらの中から利貞の主著である『社会的陶冶と幼年会の実際』を収録することとした。さらに、幼年会会員に繰り返し語られ利貞の理想郷を表現した教育小説『細谷川』(原稿としては未完)についても、利貞の理想を知る意味でも重要であるのでその梗概を収録することとした。これに鈴木英夫、中島純両氏による解説論文を掲載して利貞の実践と理論の意義を読者により深くご理解いただけるように編集した。
鈴木利貞と座間幼年会の教育史上の意義については中島論文に詳細に述べられているが、簡単にまとめるならば次の四点になる。第一に、少年団研究の立場から、座間幼年会は日本の少年団運動の中では、英国ボーイスカウトの影響が少ない「土着」の少年団のひとつの典型であるということである。1922(大正11)年に少年団日本連盟が結成されてからは、こうした日本独自の少年団は少なくなっていくが、座間幼年会は最後まで郷土に根ざした少年少女組織として存続した。沼津の岳陽少年団もまた独自性の強い少年団ではあるが、岳陽が武士道をもとに「硬派」な少年訓練を施したのに対して、座間は地域の伝統行事と児童文化活動を主とする地域集団であり、その活動内容は対照的である。
第二に、座間幼年会は集落ごとの通学班として座間小学校の教育と深い関係をもちながら活動を展開した。今でいう「学社連携」のルーツといえる活動である。これは利貞が座間尋常小学校の代用教員となったことで可能になった。『社会的陶冶』の本文には、他の学校から座間小学校に転任してきた教師が、幼年会の会合に初めて出席し、児童のみによる整然とした運営と行儀の良さに驚く場面が描かれている。「学社連携」についてはスローガンとしてはよく聞くものの、その実態となると成功例を探すのはなかなか困難である。筆者らは、座間幼年会は理論面からも実践面からも、戦前、戦後を通じて最高級の事例であると感じている。
三番目に、これは座間幼年会の経営に関わることであるが、座間幼年会が明治末期から昭和30年頃まで半世紀に渡って活動を続けてきた基礎には、「人づくり」と「金づくり」を意識的に行なってきた利貞の才覚にあると思う。利貞は幼年会で育っていった年長者をリーダーとして年少者の指導に当らせている。彼らは村の青年団においても中心的な人物となった。ここまでは社会教育者として他にもよく行なわれている事例があるが、利貞の実践の優れたところは、幼年会の財政基盤を子どもらの労働収入によって確立したことである。子どもたちは「たにし取り」「縄ない」など自分たちでできることでお金を稼ぎ、それを幼年会の基金とした。利貞はゆくゆくはその利息でもって活動資金を捻出するよう計画した。現在に至るも民間非営利団体(NPO)のネックは「ヒト」と「金」である。利貞の実践はNPO経営のテキストを見ているようである。
第四は社会教育史上での意義づけである。座間幼年会は1916(大正5)年には活動拠点としてとして「幼年倶楽部」を建設した。同年には幼年会のOBにより「青年倶楽部」も併設されている。これらは現在でいう児童館、青年館であり、さらに地域住民によって広く利用されている点で公民館の性格をもつ。というより公民館そのものと言ってもよい。その証拠に、戦後の社会教育法により座間に公民館を建設することになったとき、地元の人々は「アア、幼年倶楽部のようなものを建てればよいのだな」と思ったそうである。すでに1946年に幼年会のOBにより「座間青年同志会」が発足して、一早く青年団を復活させていたし、1954年には彼らの運動により座間公民館の開館に成功している。
総じて、鈴木利貞と座間幼年会の実績は、少年団、青年団、公民館、学社連携など、社会教育のあらゆる分野のルーツとして評価されるべきなのである。利貞の実践が座間村に限定された地域的なものであったためこれまで埋もれていたが、その業績は青年団の基礎をつくった山本瀧之助や田澤義鋪に匹敵するものと考えられる。
利貞の実践は神奈川県教育界にわずかではあるが影響を及ぼしている。戦前の軍国教育の一翼を担った団体に「帝国少年団協会」がある。軍部と右翼と文部省は、ボーイスカウト色を強めていた少年団日本連盟に対抗する形で、1933(昭和8)年頃より学校教育の枠内でいわゆる「学校少年団」を奨励し全国各地の学校で結成させていた。帝国少年団協会はその上部団体として1935(昭和10)年に設立されたものである。
少年団日本連盟の指導者は一定のスカウト訓練を受けモラルも高い地域の指導者であったのに対して、帝国少年団協会は学校教員を指導者に求めざるを得なかった。それでなくても多忙な学校教育にあって少年団というやりだせば限りのない仕事を持ち込まれた学校側は、当初よりこの活動におよび腰であった。帝国少年団協会の常務理事で同運動の実質的な指導者であった陸軍大佐大沼直輔は、文部省とともに教員対象の指導者講習会を実施するとともに、学校少年団の優れた実践事例を求めていた。
1938(昭和13)年10月に神奈川県横浜市の三澤小学校と平楽小学校とで学校少年団の研究会が開かれた。平楽小学校の校長は後に横浜市の教育委員長となる足立直寿であり、鈴木利貞の実弟であった。この研究会の記録は「学校教育と少年団教育」として『帝国少年団叢書』第23号(1938年)に紹介されている。その校内組織と指導方法は座間幼年会以来40年の経験をもとにした微に入り細をうがったものであった。例えば「上級生の自覚、自重自尊」の項に次のような文章がある。「これまで腕白で始末におへなかつた者でも、一度役員となれば、腕白もして居られません。殊に之といつて異彩のない者であつた者下を導くに方り、ほんとうに豊かな慈愛と熱心さを持つて数ケ月で見違へる程、よい意味での大人らしい態度となりこの自尊心はひいて学業にも及ぼされた例もあります。」(25頁)足立校長は問題を起こす児童が多かった同小学校に1931(昭和6)年に赴任しており、この文章には幼年会式の少年団により同校を立て直した足立の自信が感じられる。
足立は少年団の理想について「それは理想郷の建設」と述べ、「向ふ三軒両隣の児童が一致して一部落を理想郷としようと精進し、やがて一村一市の少年が同志として結び、ひいて全国少年にまで及ぼし度いものである」と述べている。ここでいう理想郷とは『細谷川』に出てくる「泉村」のことである。足立の研究会での発言は陸軍軍人の大沼直輔が臨席しているにもかかわらず、時局におもねるような用語は非常に少なく、自身の理想とするところを堂々と開陳している。足立の実践と理論の重みは、大沼をして「先生の少年団に関する別つして学校教育との関連に就ての抱負を同志に紹介することは私の欣快とするところであります」と語らせている(16頁)。足立にしてみれば、昨日今日始まった帝国少年団協会に比べて、自分は40年来座間幼年会で育てられかつ実践したきたという自負があったことだろう。
岳陽少年団も一時は岳陽連合少年団と改称して独立の気概を見せたが、やがて帝国少年団協会に合流した。少年団日本連盟は大日本少年団連盟と改称して軍部の圧力に抗しようとしたが、結局は1941(昭和16)年1月に解散させられ、大日本青少年団に統合された。座間幼年会はまことに細々とではあったが、軍国主義の嵐のなかでも郷土に根ざした活動を続け、戦後も急速な都市化が座間を襲う昭和30年代まで活動を続けた。
本書の編纂に当たっては鈴木英夫氏より並々ならぬご助力をいただいた。本書に収録した『社会的陶冶と幼年会の実際』『細谷川梗概』の二書の解説文をご寄稿いただき、全体を校閲していただいた。中島純氏には公私ともに多忙のなか、鈴木利貞と座間幼年会の実践を分析した論文を寄せてくれた。利貞の二書の原稿整理とワープロ入力については岡山大学教育学部の卒業生松尾美穂さんと大学院生の筒井愛知君にお願いした。明治大正期とはいえ古い漢文体で書かれた利貞日記を前に悪戦苦闘していた筆者に的確なアドバイスをくださったのは「山本瀧之助日記」を復刻した多仁照廣氏であった。ここに心より感謝申し上げたい。
文部省による本研究助成事業に触発される形で、鈴木英夫氏ら「座間幼年会を偲ぶ会」の皆さんが独自に「鈴木利貞日記」などを掲載した『幼年会を語る』を刊行し、鈴木邸の庭に「座間幼年会発祥の地」の記念碑を建立された。また、地元座間市においても座間幼年会を再評価する動きが出ているという。本事業が地元にとっても意義あるものとなりつつあることは誠に喜ばしい。私ごとではあるが、1997年10月より東京に転任することになった。岡山大学での最後の仕事をこのような形で残せることを嬉しく思うものである。
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