立教大学田中研究室・南北ネットワーク
1998年8月10日
田中治彦
(立教大学文学部)
総合学習と開発教育に関するハンドブック
まず、お断りしておかねばならないのは私自身は開発教育については20年くらい考え続けてきているが、こと学校教育のカリキュラム論については「しろうと」と言った方がよい。それでも総合学習についての原稿をお受けしたのは、2002年の学習指導要領から導入される予定の「総合的な学習の時間」が創造力豊かに展開されるためには「しろうと感覚」も必要だろうと考えたからである。本誌を読者のおそらく半数くらいは学校関係者ではないだろう。しかしながら「総合的な学習の時間」は、校門まで迫っているグローバル化と情報化の波に対応しきれない旧態依然とした「学校」の門を押し開くべく設定されるものと私は解釈している。その意味では本誌の読者の半数を占める国際協力NGOや社会教育関係者もこの議論に加わり、新しいカリキュラム作り、授業作りに参加してもらいたいと願うものである。
1.「総合的な学習の時間」
総合学習という用語が一般の人々の耳目に届き関心をひくようになったのは中央教育審議会(中教審)が1996年7月に21世紀初頭の学習指導要領の基礎となる第一次答申のなかで「総合的な学習の時間」の設置を提言してからである。中教審答申と開発教育との関係については本誌35号(1997年3月)で特集しているのでここでは深入りしない。中教審答申を受けて設置された教育課程審議会(教課審)は昨年11月に「中間まとめ」を公表し、この中で総合学習について中教審答申よりはやや具体的に記述している。本答申はこの6月22日に出されたばかりである。本答申(審議のまとめ)にしたがって「総合的な学習の時間(総合学習)」の内容をまず紹介しておきたい。
まず、現行(1989年度)の指導要領では小学校・中学校の教育課程は「教科」「道徳」「特別活動」の3領域から成り立っている(高校は道徳を除いた2領域)。「教科」は国語・算数(数学)・理科・音楽など10教科であり、「特別活動」は学級(ホームルーム)活動、児童会(生徒会)活動、クラブ活動、学校行事に分かれる。教課審の「中間まとめ」によれば、小・中学校では領域として総合学習が加わり、「教科」「道徳」「特別活動」「総合的な学習の時間」の4領域となる。すなわち総合学習は一つの教科として導入されるのではなく、道徳や特別活動と同等の領域として加わることになる。[補注]
本誌35号で金谷敏郎は総合学習の内容とされている「国際理解・情報処理・環境学習が、これからの教育に必須の社会的要請であるとするならは、なぜこれらをそれぞれ、独立した科目として設定してはいけないのか」と疑問を呈している。1) しかしながら現実問題として総合学習が教科ではなく道徳や特別活動と同列の「領域」として設定されることは本決まりであるので以下それにしたがって記述する。それでは総合学習の内容はどのようになっているのだろうか。「審議のまとめ」をそのまま引用しよう。2)
「総合的な学習の時間」の学習活動は、(中略)地域や学校の実態に応じ、各学校が創意工夫を十分発揮して展開するものであり、具体的な学習活動としては、例えば国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて、適宜学習課題や活動を設定して展開するようにすることが考えられる。その際、自然体験やボランティアなどの社会体験、観察・実験、見学や調査、発表や討論、ものづくりや生産活動など体験的な学習、問題解決的な学習が積極的に展開されることが望まれる。
ここで具体的に示されているのは「国際理解」「情報」「環境」「福祉・健康」の4つの学習であり、さらに自然体験・社会体験などの「体験学習」も示されている。またこれらはあくまで例示であり、これ以外の「横断的・総合的な課題」「児童生徒の興味・関心に基づく課題」「地域や学校の特色に応じた課題」などを学習課題としてもよいとされている。総合学習は「国際化や情報化をはじめ社会の変化に主体的に対応できる資質や能力を育成する」ために設置されるわけであるから、現代的な課題であってかつ各教科で取り上げられにくい諸課題を学校ごとクラスごとに設定してもよいことになる。例えば、生と死(脳死問題)、セックスとジェンダー、暴力と麻薬、宗教、プライバシーとマスメディア、核兵器と安全保障など私たちの生活に直接間接に大きな影響を及ぼしたり私たちが日々選択を迫られている課題である。
一方でこれまでの教育界の体質として公的文書に「例示」されたことの意味は大きく、実際には総合学習は当面ここで例示された4ないし5領域を中心に展開されることになると予想される。開発教育がどの内容において展開しうるかという点については後述しよう。
筆者は本誌第35号で、次の指導要領では学校五日制が完全実施となり総時間数が減ることと、時間削減に対する各教科の抵抗が強いことを考え合わせて、総合学習はせいぜい週1時間程度しか取れないだろうと予想した。3) ところが、「審議のまとめ」では総合学習には小学校3・4年で年間105時間、5・6年で110時間が割り当てられており、いずれも週当たり3時間が取られている。中学では1年が70〜100時間、2年が70〜105時間、3年が70〜130時間であり、週当たりで2〜3時間が割り当てられる。筆者の予想は見事にはずれたが、それだけ文部省が今回の指導要領の改訂に当たって「総合学習」にかける期待が大きいことがわかる。総合学習は現在小学校1〜2年で実施されている「生活科」に乗せて小学校3年以上で設定される。週3時間といえば現在の社会科と同じ時間数であり、総合学習の実施については今から本腰を入れて準備しなければならないであろう。
2.カリキュラムとしての総合学習
それではこの総合学習をどのようにイメージしたらよいだろうか。実は教科を超えた「横断的・総合的な学習」は、日本の教育の歴史のなかで決して目新しいものではない。水越敏行は、日本のカリキュラムはほぼ30〜40年おきに教科中心カリキュラムと子ども中心カリキュラムの間をらせん状にたどっているという。4) 図2に示されたAの大正自由教育の時代(1920〜35年ころ)は世界的な新教育運動が展開され、日本でも附属小学校や私立学校で生活中心のカリキュラムが実践された。その伝統は今でも玉川学園、自由学園などに残っている。Bの皇国教育のころ(1935〜45年ころ)になると、教科の統合性はむしろ進展したものの全体としてみれば修身、国語、国史などの教科主義が中心となった。
戦後に連合国の占領下で教育の民主化が進み、その核として問題解決学習を中心とする経験主義の学習が全国の学校を風靡した。図2でいうとCの戦後の新教育の時代(1945〜57年ころ)。本誌の読者の大多数が学んだのはDの時代であり(1958年以降)、技術立国によって西欧に「追い付け追い越せ」が目標であり、また東西冷戦下のイデオロギーの締付けもあって教科中心のカリキュラムが全盛となった。
その結果、「詰め込み」「落ちこぼし」といった現象が現れ、最近では子どもが授業に興味関心を全く示さないという深刻な事態も現出した。教科中心のカリキュラムは個々の子どもの発達よりは教科の背景にある科学の論理を優先しがちである。そのため子どもの理解いかんにかかわらず先に進んでしまうためこのような現象が出てくるのである。また最近の重要な課題である、環境、開発、人権、情報などはそもそも教科の枠組みに収まりきらず、またその基礎となっている科学の系統から見ても「学際的」であるため、教科中心カリキュラムからはこのような重要課題が取り残されてしまった。これらの背景により今回の合科・総合学習(図2のE)の提言に至るのである。

それではカリキュラム論から見たときに総合学習なり「横断的・総合的な」学習とはどのような学習活動なのであろうか。水越は米国でのカリキュラム研究をもとにカリキュラムを図3のように類型化している。図3の最上段の「並列カリキュラム」は主に科学の体系に基づいて構成された現行の教科別のカリキュラムである。国語、理科、英語、社会といった科目が相互にほとんど連関のないまま並列的に教えられる。2段目の「相関カリキュラム」は独立した教科が相互に関連したり、重なって学ぶことができるようにカリキュラム構成上の配慮をすることである。例えば、社会科で熱帯林の問題の授業をしているときに、同じ学期に理科で森林の生態系の学習を行うというような配慮である。
3段目のクロスカリキュラムは、あるテーマについて近接し関連した教科・領域をまとめ、数時間の学習活動として単元的に構成するものである。現行の教科・領域を前提として開発教育のテーマを学習しようとすればこのクロスカリキュラムの手法をとらざるをえない。最下段のコア・カリキュラムでは、以上のような教科の枠組みから完全に解放されて、個別テーマ(コア=核)を中心に学習が展開される。「開発」「環境」「人権」「ジェンダー」「多文化共生」といったグローバルな課題はそれぞれテーマごとに教えられる必要があり、その内容は現行のカリキュラムでは社会、理科、家庭、保健、道徳など多学科・領域にまたがっている。そのため、教科の枠組みを前提とする限りは十分に学習活動が展開されない。その意味で今回導入されることになる総合学習にとって、コア・カリキュラムはひとつの有力なカリキュラム編成原理である。
水越は図3の上3段が教科主義に基づくカリキュラム、最下段を経験カリキュラムと解説しているが、経験カリキュラムはここで上げられているコア・カリキュラムに限られるものではない。
総合学習については他の分類法もある。加藤幸次は従来学校で行われてきた総合学習を以下のように分類してその実践例を上げている。5)
@ 「教科」総合学習
A 「合科」総合学習
B 「学際的」総合学習
C 「トピック」総合学習
D 「興味・関心」総合学習
@の「教科」総合学習では、例えば社会科で「縄文時代」を扱うのと並行して特別活動で古代人の住居を作ってみるというような例が上がっている。水越の図3との関係でいえば相関カリキュラムに相当する。Aの「合科」総合学習には、社会科と理科を基礎として新しく設定された「生活科」の事例がある。Bの「学際的」総合学習には中国の人口問題を教えるに当たって、数学(統計)、社会(歴史・地理)、理科(生物・化学)、国語(文学)で複数の教師によって追求するといった事例がある。一見次の「トピック」総合学習と同じと感じられるが、ここではまだ教科の枠組みをくずしていないところに特色がある。Bの「学際的」総合学習は図3でいうとクロス・カリキュラムに相当するものである。以上を加藤は「教科アプローチ」と分類している。
さて、C「トピック」総合学習とD「興味・関心」総合学習について加藤は教科アプローチに対して「生活アプローチ」と位置づけている。これは上記の経験カリキュラムに相当するものである。「トピック」総合学習は教科のタガをはずして、個別テーマについて学習を進めるものである。私たちの生活に直接間接に関係のある平和、人口、環境、エネルギー、情報などの問題を学ぶ際にはこの「トピック」総合学習にならざるをえない。加藤は今後導入される総合学習の中心はこの「トピック」総合学習となるであろうと述べている。
D「興味・関心」総合学習は、教科の論理からは最も遠く、学習者の興味関心に最も近いところにある学習活動である。学習者がその興味関心に従って自由に課題を設定し展開する学習活動とされる。現在のよく行われている事例では小学校の夏休みの宿題に出される「自由研究」や一部の中学高校で行われている「卒業レポート」「課題研究」がこれに相当する。教師はテーマの大枠を示すことはあっても、実際の研究テーマと学習方法の選択は学習者に手に委ねられている。
こうしてみてくると、総合学習といっても全く目新しいことをするわけではなくて、従来の学校においてもしばしば実践されてきたものである。実際、本特集号に寄稿されている論文もそれぞれ上記の分類に入るものである。萩原茂論文(開発教育の視点を取り入れた国語の授業)は中学の国語という教科をベースとしてさまざまな参加型学習の手法を採用して開発教育の目標を追求していく「教科」総合学習の一事例と考えられる。また、チョコレート作りから南北問題を追求した高橋道子の実践(私の開発教育イメージ)もまた社会科における「教科」総合学習である。
楢府暢子論文(教科横断型の総合学習の構成)は、「タイ米」をテーマとして家庭科・英語・社会科の3教科の3人の教員が教科横断的に授業を構成した典型的な「学際的」総合学習である。岡山市立旭竜小学校長であった片山主計の実践は、国際理解教育を全校ぐるみで展開したもので、小学校のすべての教科、特別活動、学校行事を動員して国際理解教育を実施している。その実践は多岐にわたるがそのきっかけとなったのは中国残留孤児家族の入学であり、「中国」をテーマとした学習だったようである。
以上の4事例は現行の学習指導要領の枠組みの中で実践されているために、その追求する目標は学際的でありテーマ中心であるにもかかわらず、どうしても従来の教科・領域をベースに展開せざるをえない。もし今後総合学習が導入されれば、これらの実践はよりやりやすく、かつより多様に展開することができるだろう。
これらに対して高等学校の場合は現行の指導要領のもとでも事実上総合学習を展開することが可能である。新堀毅論文にあるように東京都立国際高等学校の場合はその建学の目的自体に国際理解が入っており、教科として「国際理解」が設定されている。従って同高校の場合、従来の教科の枠にこだわらず「テーマ」総合学習や「興味・関心」総合学習が可能である。3年次必修の「国際関係」という科目では年間を通して「相互依存の世界」「開発と環境」「戦争と平和」「人権の尊重」の4テーマが設定されている。これらはまさに開発教育の「テーマ」総合学習である。
「興味・関心」総合学習の良い事例が神奈川県立外語短大付属高校で行われている「プロジェクト・リサーチ」である(石塚章論文)。同校では国際科の2年次生に通年の科目としてこの「プロジェクト・リサーチ」を課していて、生徒は自分の興味関心に従ってテーマを選択し、一年かけて論文を作成する。前記、東京都立国際高等学校の「課題研究」の科目も趣旨はほとんど同じで「興味・関心」総合学習のひとつの事例である。
3.開発教育カリキュラムの試み
それでは来るべき総合学習のなかに開発教育はどのように位置づくのであろうか。従来の学習指導要領であれば、私たちはその中にどれだけ開発教育関連の内容を入れることができるか、そして教科書にどれだけ盛り込むことができるかということに腐心した。しかし、今回の総合学習ではそもそも指導要領に詳細な内容は明示されず、しかも教科書自体がない。再度の引用で恐縮だが「総合的な学習の時間」の学習活動は「例えば国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童生徒の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて、適宜学習課題や活動を設定して展開するようにすることが考えられる」と記述されていて各学校にその内容や方法が委ねられている。
とすると「総合学習の中に開発教育はどう位置づくか」という問いかけは誤りであって、「私たちは開発教育を総合学習の中にどのように位置づけようとしているのか」あるいは「そのためにどのようなカリキュラムと教材等が必要なのか」という問いに変えねばならない。これを現場から言えば「来るべき総合学習の実施に当たって、開発教育はどのような実践の蓄積があり、どのような内容と方法そして教材を提示してもらえるのか」となるであろう。
開発教育協議会はこれらの問いに応えるべく先の総会において「中期3か年計画」をスタートさせ、その中で「開発教育研究会」を発足させることを決めた。同研究会は総合学習にらんだ「開発教育カリキュラムの作成」と「開発概念の検討」を2つのテーマとし、5月末に第1回の研究会を行っている。その準備状況はこの夏横浜で開催される全国研究集会の課題別分科会で報告されるであろう。
研究会は、今後総合的な学習の時間がどうなるのかということを常に視野に入れながらも、当面は開発教育協議会がこれまで蓄積してきた理論と実践を整理し、独自の「開発教育カリキュラム」を作成することが大切であるという認識をもっている。第1回の会合において小貫仁(埼玉県立所沢緑ケ丘高校)が学校における開発教育の目標について報告したので、以下それに従って開発教育の目標論について考えたい。6)
開発教育の定義については1993年から3か年にわたって全国研究集会などで議論しており、その成果は協議会のパンフレットなどにおける開発教育の説明に生かされている。ここでは開発教育とは以下のようなねらいをもった教育活動であると定義しておく。
私たちは、これまで経済を優先とした開発をすすめてきた結果、貧富の格差や環境破壊など、さまざまな問題を引き起こしてきた。これらの問題に取り組むことが、私たちみんなの大きな課題となっている。
開発教育は、私たちひとりひとりが、開発をめぐるさまざまな問題を理解し、望ましい開発のあり方を考え、共に生きることのできる公正な地球社会づくりに参加することをねらいとしている。
そのために、開発教育は次のような教育活動を展開する。
@ 開発を考えるうえで、人間の尊厳性の尊重を前提とし、世界の文化の多様性を理解すること
A 地球社会の各地に見られる貧困や格差の現状を知り、その原因を理解すること
B 開発をめぐる問題と環境破壊などの地球的諸課題との密接な関連を理解すること
C 世界のつながりの構造を理解し、開発をめぐる問題と私たち自身との深い関わりに気づくこと
D 開発をめぐる問題を克服するための努力や試みを知り、参加できる能力と態度を養うこと
この文章はその前段で開発教育のねらいを明らかにしている。開発教育はつまるところ「共に生きることのできる公正な地球社会づくり」をめざしている。すなわち「共生」と「公正」である。「共生」とは文化・宗教・民族が違う者どおしが文字どおり共に生きることである。これは人間と文化の多様性の理解とその尊重の上に成り立つ。一方「公正」はこの地球社会の不公正・不平等を是正するもので経済的・制度的改革を伴うものである。これを教育的に見るならば前者は「違い」を尊重するアプローチであり、後者は「平等」を志向するアプローチである。「違い」を認めながら「平等」を追求するのは一見ベクトルの方向が逆であるので教育方法としてはかなりくふうを要する。
文章の後段の@〜Dは開発教育の目標である。開発教育のカリキュラム作成のためにはこの目標を小学校・中学校・高校別、さらには各学年ごとに設定していく作業が必要である。開発教育の学習を主に「文化領域」と「課題領域」に分けて、それを発達段階別に学習目標をイメージ化したものが図4である。小学校の段階では文化領域の学習が多く、年齢が上がるに連れて課題領域の学習が増加する。あるいは「共感的理解」から「構造的理解」へといったストリームを想定している。
カリキュラムを作る際には発達段階という視点とともに、目標をさらに「知識目標」「態度目標」「技能目標」に分けていく考え方も大切である。小貫は初等教育(小学校)と中等教育(中学・高校)におけるそれぞれの目標を仮に次のように想定している。

A.初等教育
初等段階の開発教育のねらいは、異文化との共存の感性を育み、身近な問題から開発のあり方を考え、世界の緊密なつながりを理解して、共に生きることのできる公正な地球社会づくりに参加できる基礎を養うことである。そのために次のような目標を設定する。
[知識目標]
@ 世界のさまざまな文化を理解する
A 地域の問題を理解し、世界の貧困・格差の現実を把握する
B 環境問題などの地球的諸課題を理解する
C 世界のつながりに気づき、貿易等の関係の実態を理解する
D 世界の諸課題への対応と日本の役割を理解する
[態度目標]
@ 自分への自身をもち、他者を受容する
A 他者への共感がもてる
B 広い視野で世界への興味、関心をもつ
C 不正を嫌い、仲間と共に生きようとする
D 問題解決のために仲間と協力しあう
[技能目標]
○ 資料を収集・選択し、調査できる
○ 課題を客観的に探求できる
○ 調べたことを整理し、表現できる
○ 相手を受けてめて、意見交換できる
○ 問題解決の可能性に希望をもてる
知識目標と技能目標の@〜Dは先の開発教育の定義の@〜Dに対応している(中等教育も同じ)。例えば、知識目標の「@世界のさまざまな文化を知る」、は態度目標「@自分へ自身をもち、他者を受容する」に対応する。自信をもち他者を受入れることなしに世界の文化を知ったとしてもそれは単なる「もの知り」にすぎない。自分の身の回り(たとえば学校のクラス)で他者を受容する態度があったうえで、世界の文化を知ることが将来多文化の「共生」へとつながっていくのである。
同様に、「A世界の貧困・格差」といった知識は、「他者への共感」があってこそ生きてくるのである。共感のない貧困理解は「日本のような豊かな国に生れてよかった」という感想を残すのみであろう。
B.中等教育
中等段階の開発教育のねらいは、世界の多様性を尊重し、開発をめぐるさまざまな問題を理解し、望ましい開発のあり方を考え、共に生きることのできる公正な地球社会づくりに参加することである。
[知識目標]
@ 世界の多様な文化に現れる人間の尊厳性と世界の多元性を理解する
A 貧困や南北格差の現状と原因を理解する
B 地球的諸課題を理解し、関連性を総合的に考察する
C 世界のつながりの構造を理解し、開発をめぐる問題と自分自身との関わりを理解する
D 問題克服のための努力や試みと日本の役割を理解する
[態度目標]
@ 自分を見つめ、他者を尊重し、世界の多元性を受容する
A 問題に共感をもち、世界との関係を引き受ける
B 広い視野で世界への興味、関心をもつ
C 不正を嫌い、人々と共に生きようとする
D 勇気と希望をもって、未来のために協力しようとする
[技能目標]
○ 資料を収集・選択し、調査できる
○ 課題を批判的に分析し、多角的に考察できる
○ 調べたことを整理し、表現できる
○ 相手を受けてめて、平和的にコミュニケーションできる
○ 問題解決に先見性をもって、建設的な意思決定ができる
開発教育のカリキュラム化に当たってはこれらの目標論を精緻にするとともに、さらにそれぞれの段階で開発教育の内容と方法と教材とを結び付けていかねばならない。これらの作業は今後のことになるが、ここで気をつけねばならないのは、開発教育のカリキュラムは、従来の科学優位・知識中心カリキュラムのように一定の知識を発達に応じて羅列した上位下達型の体系性重視のカリキュラムを避けねばならないことである。教師の問題意識と生徒の興味関心に従って自由に創造力豊かに展開できる余地をもった、あるいはそうなることを促すようなカリキュラムづくりにチャレンジしていきたい。
4.総合学習と開発教育
それでは2002年の学習指導要領が想定している総合学習の中に開発教育はどのように位置づけたらよいであろうか。私たちは上記のような考察の結果、開発教育の内容は総合学習の「国際理解」の部分をおおむねカバーできると考えている。現在学校レベルで行われている国際理解教育は英語学習、国際交流、異文化理解が主である。私たちは今後の国際理解は地球社会の公正と共生をめざしたより課題解決的なアプローチが必要と考えている。
総合学習については「中間まとめ」の時点では内容の例示として「国際理解・外国語会話」となっていた。私たちはこの記述では国際理解の内容が外国語会話(すなわち英会話)に置き換えられるのではないかという強い危惧をもち、協議会としてもこの点について意見書を提出していた。幸い「審議のまとめ」では総合学習の内容の部分では「国際理解」単独の表記となり外国語会話がはずされている。外国語会話については「小学校において、国際理解教育の一環としての外国語会話等が行われるときには、各学校の実態等に応じ、児童が外国語に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりするなど小学校段階にふさわしい体験的な学習活動が行われるようにすることが望ましい。」と記されており、「中間まとめ」に比べればかなり改善されている。開発教育の発想を採りいれた小学生にふさわしい英会話教材の開発も今後のひとつの課題としておきたい。
また総合学習の内の「環境教育」についても開発教育の立場から提言していく必要があろう。現在行われている環境教育の問題点は、第一に環境破壊の原因を先進工業国の過剰開発に求めていて、開発途上国の人口と貧困の問題を軽視していることである。すなわち南北間の格差の是正こそ地球環境を守る道であるという視点が明確でない。第二に、環境における地域課題とグローバル課題との関連性が不明確で、人々の認識が地域から地球へと広がる学習の筋道が十分に出来ていない。第三に、従って環境問題の解決を「省エネ」や「リサイクル」のための「体験学習」を通した「心構え主義」に追い込む傾向があることである。これらの問題点を克服するためには開発教育と環境教育が統合的に行われるべきであり、そのためのカリキュラムを私たちは提言していかねばならない。
以上の他にも「情報教育」や「福祉・健康」においても、あるいは「審議のまとめ」には例示されていないものの総合学習の中で扱われてしかるべき分野(例えば、ジェンダー、平和、人権)においても開発教育のこれまでの実践と発想が有効に生かされる領域はあるだろう。
長年カリキュラム研究を現場の教師とともに行ってきた佐藤学は、「いくら『総合的な学習の時間』が与えられても教師の側に教えたい内容や追求したい主題(がないならば)結局、文部省や教科書会社が提示する通りの内容に頼らざるをえなくなる」と述べて、総合学習が導入されたからといって現代的な切実な課題が子どもたちに「自動的に」教授されるものではないとその危険性を指摘している。そして、教師が「一人の市民として社会と向き合い自己の人生と向き合っているなら、そして教師自身が真摯な学び手であるなら、子どもに何が何でも教えたい内容や子どもと探求したい事柄は、いくら時間があっても足りないほど抱いているはずである」として、総合学習はつまるところ教師の構想力と自律性に係っていると結論している。7)
佐藤の言は私たちを勇気づけてくれる。なぜなら、開発教育の各種の集会には「一人の市民として社会と向きあい自己の人生と向きあい」「真摯な学び手」である多くの教師と、学校外で活動している市民とが集っているからである。総合学習に開発教育が位置づくかどうかはまさに私たちの構想力と創造力といくばくかの努力に係っている。さらに言うならば、開発教育が学校のなかに根付くそのときこそが混迷する日本の学校教育にひとつの光明が与えられるときであると信じるものである。
1) 金谷敏郎「これからの学校教育と開発教育−中央教育審議会第一次答申を読んで」『開発教育』35号、1997年3月、8頁。
2) 教育課程審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について(審議のまとめ)」1998年6月。
3) 田中治彦「21世紀初めの教育課程に望むもの−開発教育の立場から」『開発教育』35号、40頁。
4) 水越敏行(他編)『どう取り組むか総合的学習』三晃書房、1997年、46〜54頁。
5) 加藤幸次郎(編著)『総合学習の実践』黎明書房、1997年、8〜17頁。
6) 小貫仁「学校での開発教育の全体構想(草稿)」1998年。
7) 佐藤学『カリキュラムの批評』世識書房、1996年、450〜451頁。
[補注]「総合的な学習の時間」は結局、「領域」としてではなく、学習指導要領の「総則」のなかに記述されることになった。これは領域とするためには、目標、内容、方法などを細かく規定しなくてはならず、総合学習の趣旨からいってそれは本来のねらいからはずれてしまうからである。しかしながらこれはあくまで法制的なことであり、実質的には「第4領域と考えてよい」(文科省A氏)とのことである。
[開発教育協議会『開発教育』第38号、1998年8月より]
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