自己紹介 田中治彦の巻
立教大学から一番近いところで生まれたのは私だろうと思います。教育実習などでよくお世話になる池袋第五小学校の裏の通りで、1953(昭和28)年に生まれました。といってもそこにいたのはわずか2か月で、都電の東池袋4丁目のあたりに引っ越しました。東京オリンピックのためにそこも立ち退きまして、中学のときに上池袋に移り、現在も親はそこに住んでいます。
引っ越しは何度もありましたが、池袋駅の周辺で子ども時代を過ごしました。雑司が谷墓地はかっこうの遊び場でしたし、巣鴨拘置所(今のサンシャイン)の前庭でも野球をしました。ボールが拘置所の中に入ると塀を乗り越えて取りに行きました。「コラコラ、お前たちの来るところじゃない!」と守衛さんに叱られたものです。まだ野原も残っていましたし、盛り場にも出没しましたし、親も先生も「勉強、勉強」と言いませんしたから、幸せな少年時代だったと思います。
今の仕事につながるきっかけは、たどってみれば中学2年のときに海外文通をしようと思って郵便友の会に入会したことです。郵便友の会は学校の部活なのですが、同時に全国組織をもつ青少年団体でもありました。月に1回くらい城北ブロックの中学高校の郵便友の会が集まって会合を開きます。何と女子がいるではありませんか。私は私立男子校だったので、もう文通なんかそっちのけでグループ活動に熱意を燃やしました。小学校の頃あんなにイヤだったフォークダンスが、こんなにも楽しいものかと思ったものです。
青少年活動の「おいしい」体験をしたものですから、大学に入ってからも山手YMCAで青少年のリーダー活動をしました。子どもたちを連れて野尻湖のキャンプに行ったり、西那須野のアジア学院にワークキャンプに行ったりしました。いろいろ紆余曲折があったのですが、結局3年次のコース分けで「社会教育」を選びました。教育心理学や教育社会学も興味があったのですが、私の成績では入れてもらえませんでした。社会教育なんて当時は人気がなかったのでフリーパスで入れました。
そのまま東大の大学院に進学です。研究者にはなりたいと子どもの頃から思っていました。鉄腕アトムのお茶の水博士にあこがれていて、試験管やビーカーをぐつぐつ煮るのが夢だったのです。自然科学と社会科学の違いはありますが、まあいいでしょう。修論のテーマはイギリスのユースサービスです。自分の体験から青少年の社会教育活動をライフ・テーマにしたかったからです。後にイギリスに留学する機会があり、博士論文はイギリスのボーイスカウトと日本の少年団運動をモチーフにしました。
さて、やや戻りますがアジアとの出会いは大学4年のときに参加した東南アジア青年の船です。これは本当にショックでした。何しろ日本とASEANの青年が各国30名ずつ乗船し、船の上や各国で2か月も過ごすのです。船室もインターナショナルです。それまでシンガポールの青年はどんな顔をしているのだろう、とかイスラムの人は何を食べるのだろう、なんて何も知りませんでした。今でこそ「アジアは面白い」と若い人もさかんに出かけますが、1975年当時は、日本中がアメリカかヨーロッパを向いていて、何とか追いつこうとがんばっていた時代です。自己主張しなければ何も受入れられないミニ国際社会の厳しさと、そうはいいながら何でも許してしまう包容力のあるアジアの両面を感じました。
大学院も終わりに近づき、イギリスのユースサービス研究も一段落した頃、私は「アジア」「青少年」「国際交流」に関わる次のテーマを探していました。1979年の暮れに国連広報センターなどの主催で「開発教育シンポジウム」が朝日講堂で開かれました。私はその時は開発教育という用語がピンとこなくて参加しませんでした。その後、ある人との会話のなかで開発教育という用語が出てきたとき、何か「啓示」を受けたように感じたのです。これこそ自分が求めていたテーマであり、アジア・青少年・国際交流のいずれをも満たすものであると。
シンポジウムの後に作られた開発教育研究会に参加しました。研究会の顔ぶれは当時ようやく誕生した国際協力NGOや、YMCAなどの青少年団体、青年海外協力隊のOBなどです。おかげさまで1982年に結成された開発教育協議会の設立に参画しました。開発教育協議会は今でも私がもっとも力をいれて活動している団体です。大学院は出たけれど就職口はなかなか見つかりません。そんな私を拾ってくれたのが日本国際交流センターに務めていたI氏です(現在はNGO活動推進センター事務局長)。当時、国際交流センターではアジア各国のNGOと日本の助成団体をつなげる仕事を始めており、私は毎年東南アジア各地に出かけて、地元のNGOの人々と膝を交えて話し合えたのは幸運でした。
開発教育といっても、何が「開発」なのか何が「協力」なのか、というのはなかなか難しいものです。バングラデシュの農村に出かけていって農民組合の人々と話したり、マニラのスラムでの医療活動を垣間見たり、スマトラの山奥で活躍する日本人ボランティアと出会ったりと、実に面白い仕事でした。そして開発とか援助とかを、理論ではなく肌で理解できたのです。この足掛け5年間の活動が今でも私の貴重な財産であり、今後もこれ以上にエキサイティングな仕事をすることはないかもしれません。
1986年に縁あって岡山大学の教育学部に職を得ることができました。博士課程を終えて5年たっていましたので、採用が決まったときは嬉しかったです。岡山は私にとっては全く異文化でした。知り合いもほとんどいません。ただ、岡山YMCAに旧知のMさんが総主事として神戸から赴任しており、彼といっしょに岡山のNGOと開発教育関係者を集めて「南北ネットワーク岡山」を結成しました。岡山での私の12年は南北ネットワークとともにあったといっても過言ではありません。
岡山ではNGOとか開発教育という言葉は全く普及していませんでした。南北ネットワークがこれを広めたのです。毎年1回、シンポジウムや講演会やバザーをやりました。ところが、数年たつと、シンポジウムなどに来るべき人は来てしまって広がりがありません。そこで、今度はアジアの音楽会、写真展、そして演劇という手法を使って開発教育のめざすところを訴えました。演劇は南北ネットワーク岡山のメンバーであるK君(当時大学4年生)のオリジナルのシナリオを使って、セミプロ級の演出家のもと、オーディションまで行って実行しました。「明日はきっと晴れる」という題ですが、男役が少ないこともあって私自身も出演しました。
立教大学には1997年10月に移ってまいりました。池袋に生れて池袋に帰ってきたのですから縁があったというべきか、キリスト教の大学だから神様のお導きがあったというべきでしょう。立教のイメージはというと薄いピンクか淡いクリーム色。なんとなくモヤモヤした雰囲気でリベラルなところ、それに盛り場に近いところは私に性(しょう)にあっています。 これからしばらくは2002年に導入される総合学習をにらんで、国際理解・開発教育のカリキュラム作りと、学校とNGO・NPOとの連携について考えていこうと思っています。また「アジア大好き」の学生たちと一緒にスタディ・ツアを企画することも楽しみにしています。