相互支援コミュニティ発達プロジェクト

 本プロジェクトは高次脳機能障害者小規模作業所「クラブハウスコロポックル」と外部研究者の共同研究組織である。本プロジェクトに参加するのはクラブハウスの役員、指導員、それに社会学、心理学の研究者である。同作業所の特徴を理論化し、実践的な研究を探っている。

 これまで日本日本心理学会総会(2003年度)においてワークショップが行われている。以下は第一回報告書の序文を同プロジェクト・マネージャーである石黒が書いた草稿である。このプロジェクトの特徴の一端が示されている。

 ●なお、報告書は作業所にて実費販売しています。購入希望者は作業所koropokkuru@mail.goo.ne.jp へお問い合わせ下さい。


                       

   相互支援コミュニティ発達プロジェクト第一回報告書 序(草稿)より 


                         序

 これは、高次脳機能障害者のための作業所である小規模作業所コロポックルと外部研究者の共同研究組織である「相互支援コミュニティ発達プロジェクト」の第一回報告書である。本プロジェクトは2001年5月に正式に発足し、それから2003年3月でほぼ二年が経過する。これから三年目を迎えるにあたって、これまでの歩みを簡単に振り返るとともに、そこから今後の展望を描きたい。

 「相互支援コミュニティ発達プロジェクト」の特徴は、その研究の主たる対象が障害者個人よりもその個人を含む作業所の活動そのものに向けられている点である。障害者研究において個々の障害者の障害を理解し、それに適切な支援をしていくことは大切なことである。しかし、障害者とて孤立して生きているわけではない。彼ら、彼女たちを支える家族、友人、知人が、彼らの生活の「環境」となっている。そしてまた彼ら自身が多様な社会生活の一メンバーとして生活し、他者にとっての「環境」となっている。作業所で高次脳機能障害者の方たちと接しているとお互いがお互いを支援していることがわかる。言葉につまった仲間に、別のメンバーがヒントを出したり、笑い話をしてその場を和ませる。そうした相互支援関係の中で当事者は自分の価値を味わい、居場所を確認していく。家庭では悲劇の引き金のように語られていたメンバーが作業所では笑いを作り出す中心になっていることも多い。

 作業所という共同体にはいったいどんな力があるのだろうか。この作業所に集うのは当事者だけではない。当事者の親、指導員、ボランティア、見学者、外部研究者などが集う。雑多な人々が集う場、それがこの共同研究のフィールドとなっている小規模作業所コロポックルである。多くの人々が集うということは相互に接触が生じることを意味している。それは支援であると同時に摩擦としても現れる。作業所というコミュニティ、そして共同研究というこの研究プロジェクトも支援と摩擦という一見相反するものの調和の上になりたっている。これはここに特有の問題ではないはずだ。全国の作業所運営にとって、また実践共同体で研究をする者にとって、それは常に「体験される事実」であろう。本プロジェクトもその困難にしばしば直面して来た。だが、今こうして何とか第一段階を超えることができた。

 

高次脳機能障害者の数は不確定である。それは該当者が少ないというからではなく、その障害が障害として認定されにくいからである。交通事故等による外因性の脳外傷者と内的な疾患による脳機能不全者がそこには含まれる。疾患や事故による脳機能や運動機能の低下という生理・身体的な障害は個人的な不全として表出する。だが、同時にそうした生理・身体的な障害は社会的な不理解という環境の中では二次的な障害として結実してしまう。視力が低下した時、メガネはそれを補償する。それによって、通常視力の低下は社会的な障害とはならない。他方、開眼者にとってのみ整備された空間は視覚障害者にとっては「整備されていない不自由な」空間であることも多い。そのため、それによって視覚障害者は個人として「不便」を被ることを余儀なくされる。「社会的障害」は社会的環境の不整備に目をやらず、その困難のすべての原因をその当事者に個人的に帰属させ、「あなたがそのようであるのはあなたが悪いからだ」というメッセージを送り続ける。それによって、誰にも向けることのできない苦しみが当事者自らの中にあるかのように思えてきてしまう人々がいる。この不幸を断ち切るには、生理・身体的障害が社会的障害として、即ち自分の身体の不自由が「社会生活の不全」へとすり替わる過程をしっかりと見つめ、その事実に基づいて、自らの未来を創り出していかなくてはいけない。障害者を支援することは、その社会的な障害への展開過程を明らかにし、それを阻止する手続きを創造していくことであろう。高次脳機能障害者を「社会的障害者」にしているものは何なのであろうか。我々はそれを知りたい。そして、作業所が障害者にとって、どのような場であるのか、どのような場であるべきなのかわかりたい。我々はそこに生きる人々の生き様を記述することから始めた。それを通して、彼らにとって、そして彼らと共に生きる我々にとって「相応しい環境」とは何か考えていきたい。

 

  本報告書はプロジェクトの概要を紹介する序章に続き、二部構成になっている。第一部に実践研究報告、第二部に研究論文が位置づけられている。その間には、プロジェクト参加者であるアーティスト新明史子氏の「記憶」に関する作品の写真が挟まれている。

  序章「実践的研究のデザインにむけて高次脳機能障害者作業所「コロポックル」における協働的研究の試みの軌跡」では、プロジェクトの二年間の歴史とそこから生じた問題が述べられており、協働研究の今後の課題が示されている。プロジェクトの歴史は多様な人々が一つのフィールドに集うことによる協働の困難の克服と再生産の歴史である。作業所実践者と研究者、プロジェクトと当事者、当事者の家族の関係の軌跡もそこには示されている。高次脳機能障害者個人とその家族の理解と支援を作業所という場で考えようとする研究・実践プロジェクトが各支援組織に必要であることは容易に理解されるだろう。しかし、それを生み出し、維持し、さらに意義ある組織とするためには何が必要なのか。もちろんプロジェクトはまだ途上にあるが、そうした悩みと努力の軌跡をここに記した。

第一部には二篇の実践研究報告が掲載されている。第1章「電話相談と記録」では、友の会と作業所の有機的な関係が浮かび上がる。執筆者は文字通り、当友の会、作業所を立ち上げた当人である。二人は作業所の入り口に置かれたデスクで毎日外からかかってくる相談の電話に対応している。その件数は相当のものであり、一つ一つが重い悩みの吐露であることから、それを受ける側の苦労がしのばれる。今回の報告の中では、一人の相談者の相談の軌跡を追っている。最初の電話相談から始まる1年四ヶ月ほどの経過が記録されている。相談者の悩み、その家族の苦悩、それに対する医師、職場の同僚、カウンセラー、ソーシャルワーカー、友の会として相談を受ける二人の対応、さらには入所してからの指導員とのかかわりなどが見えてくる。ここには、当事者にとっての生活が描かれている。当事者から見たならば、作業所に来ることは、生活の一部でしかない。また、当事者とその家族の悩みの軌跡は、生活の中で出会う多くの人々との関わりの困難の軌跡を意味し、それに対する周辺的な支援のあり方を照らし出すものになっている。当事者に対する支援が総合的なチームワーク的対応を必要とするものであることがここからはっきりとわかる。

第2章「個人支援と記録のあり方」(指導員グループ)では、作業所で実際にどのような「記録」がとられ、それがどのような機能を担っているのか、さらに作業所の実践とともにどのようにその記録が変化していったのか、その軌跡が語られている。作業所のみならず、あらゆる組織において記録をとることは珍しいことではない。しかし、それがいったいどのような役割を果たしているのか、それが「当初目指していた」役割ではなく、実際の実践の中で「果たした」あるいは「機能してしまった」役割をしっかりと跡付けることは少ない。本報告はそうした利用実態を捉えようとしている。この報告からはいくつかの重要な事実が指摘されている。(1)記録は発達する。当作業所には複数の記録媒体があるが、それらは最初からその利用を十分見通して継続的に使われているものではなく、実践の中で「必要性」が生じたときに使われるようになり、その「必要性」がなくなったり、「うまく機能しなくなる」と使われなくなる。(2)コミュニケーションツールとしての記録という側面。記録は指導員がその日あったことを「記録するために記録する」という単なる「過去の記念碑的蓄積」ではなく、誰かとコミュニケーションするための媒体になっている。たとえば、「三者面談表」は当事者、その家族、指導員と間のコミュニケーション媒体であり、「金銭管理ノート」は金銭管理に対する親の不安と当事者のおぼつかなさに対する指導員の指導媒体であり、「連絡帳」は同時期に作業所や病院に通所している場合などの関係諸機関の間の連携媒体である。このようにして、本報告では不特定の読み手のための「記録のための記録」ではなく、本人の「生活支援のための記録」という視点が浮き彫りにされている。実践に息づく記録を捉えるスタンスとして傾聴すべき点が多い。

 第二部には三編の研究論文が含まれている。 第3章「作業所でメンバーが記録することの意味―『週報』をめぐる記録行為の分析から」では、メンバーが自らの記憶補助として作成している「週報」の作成・利用の詳細な検討を通して、そうした営みが当事者が作業所で生活をする上でどのような役割を果たしているのか示している。通常、「過去のデータの貯蔵が出来ない人達」として彼らを捉える時、メモや日誌などはその記憶補助装置としての側面が注目され、記憶補助の効果、効率性という認知的側面からその有用性は評価される。しかし、実際に、そうした道具が社会生活で使われる場合、その認知的有用性だけを考慮するだけでは真に役立つものとはならない。例えば、メモが記憶補助に役立つといっても、混んだ店先でメモを一つ一つ確認しながら商品を探したり、駅の売店で携帯のメモを参照してほしいものを店の人に伝えるなどということはなかなかできない。何故なら、そうした行動は通常の客の行動パターンからみて、奇異な印象を与えるため、そうした使用を当事者自身が必ずしも快く思わないからである。このようにどんなに認知的に役立つものであっても、状況に適切でなければ使用されない。その社会的適切性についての視点が必要である。

さて、作業所の記憶障害が重篤なメンバーは自ら書いた日誌を参照することによって、過去に対する指導員の質問、例えば「今日は何をしましたか?」に答える。これは認知的な補助として日誌を正しく利用している例である。ところが、それが「思い出そうとして努力」しているのではなく、あたかも書かれたメモをただ棒読みするように「メモを読む」だけでしかない場合、それは作業所においては「記憶補助」ではなく、「記憶阻害」装置として機能してしまう。つまり、記憶を補うために用意された道具が、「記憶を不要にする事態」を作り出してしまうのである。このように、従来の認知的な視点のみから記憶補助装置を捉える視点では、同じ道具が社会生活のそれぞれの場面で、適切な道具にも不適切な道具にもなることを捉えられない。従って、メモやボイスレコーダーそれ自体の記憶補助に対する認知的評価だけでなく、実際にそれがどのような生活の場において、どのように使われるのかという「実践の中での使用」を捉えることが必要である。このように本研究では社会生活への復帰訓練の中での記憶装置が果たす二面性が明らかにされ、記録に対する新しい視座が提供された。

第4章「見えない障害への共同的推論:高次脳機能障害作業所における記録と共同的記録作成」では終わりの会のメンバーの発言を指導員が記録する場面とさらにその後に指導員だけで行われる「ケース会議」における記録行為をとりあげ、記録をとることの作業所における実践的な意義を議論している。それによれば、当事者も指導員も常に実践への参加が記録作成に向けられることによって秩序づけられていることがわかった。例えば、終わりの会で、メンバーは「一日の出来事をただ思いつくままに語る」のではなく、「記録を指向する」ことによって「自分の考えを記録できるようにまとめて話す練習をしている」という。

また、作業所の一日の活動が終了した後、指導員だけで行われるケース会議が開かれる。会議といっても実際には一日を振り返りながら、各指導員がそれぞれケース記録を書いていく時間である。そこでは、まさにスモールトークが重ねられ、当事者に対する指導員の主観的な印象がそれぞれ語られる。その重ね合わせの中で、一人では捉えることができなかった当事者の特徴が見えてくる。従って、実際には一人の指導員が書くケースファイルであっても、そこには他の指導員や役員、さらには当事者の声や面接をした家族の声までもが反響していく。このように、記録をとることは、「何らかの事実をそのまま複写する」ことではなく、その後の新たな活動を組織する創発的な機会となっている。

第5章「『記録の不在』をめぐるやりとりー高次脳機能障害者共同作業所コロポックルにおける想起コミュニケーションの分析から」では、作業所における会話データに基づいて、忘却の再定義が試みられている。当事者は自分が記憶障害者であると認定されることによって、自分を「想起が出来ない忘却者だ」ととらえることを余儀なくされる。それによって、想起への希望を失ってしまうこともある。だが、この作業所においては事情が異なっていた。メンバーは相互に、ミーティングの中ですぐに思い出せない人を「忘却者=思い出せない人」としてではなく、「忘却者=まだ思い出していないが、思い出そうと努力している人」として扱う。このことは、当事者を励まし、「思い出していない」という事実に失望することなく、想起に向けて動機付けているのではないかと松島氏は主張する。こうしたまなざしを相互に向けている場がこの作業所であるという。本論文はこれまでの常識的「忘却観」の棄却を求めているという点でラディカルな主張を含むものである。 

本報告書が想定している読み手は次のような人々である。

 1)現在、作業所を運営している、あるいはこれから作業所を運営しようと計画している実践者

 2)現在作業所等の施設の研究に携わっている研究者

 3)作業所に通所している当事者の家族

 4)作業所に関わる行政機関関係者

 5)高次脳機能障害者の研究に関わる医学、リハビリテーション関係者

 

 それは、ここには十分な成果があるから、それらの方々に読まれるべきだというのではなく、多くの誤りの指摘や教えを乞うためである。ここで取り上げられる雑多な問題が、多くの読者を得ることによって整理され、実践的な意義を与えられていくことがあれば嬉しい。未熟な旅立ちに対して、その展開の仕方に拙さが残るにしても、多くの人々の議論の俎上に載せられることを期待している。

 

 

                      相互支援コミュニティ発達プロジェクト

                      プロジェクト・マネージャー

 

                       石 黒 広 昭