法政大学社会学部・現代福祉学部

2005年度後期 コミュニケーションの理論U 最終レポート課題講評(提出者253名)
 

 最終成績の発表に先立ち、今回のレポートに関して講評を行ないます。

 

 まず、大変残念なことをお伝えしなければなりませんが、今回提出された中に、明らかに同じ元の原稿を共有し、それを複数人で使用したと考えられる不正なレポートが複数見つかりました。今回の場合は元の原稿に使われていた説明が誤っているにも関わらず、その部分をそのまま他の者が利用していたなど、非常に稚拙な手口でしたが、手口の巧拙に関わらず、こうしたものはだいたいすぐに判明するものです。盗用と判断されたものはもちろんD判定の不合格としています。

 あらためて言うべきことでもありませんが、レポートを提出することはきわめて公式的な社会行為ですので、くれぐれも公正な態度でのぞんでもらいたいと思います。

 

 さて、講評ですが、全体としては、講義で使われていた概念の使い方を見るという、課題本来の目的通りに、その点ではっきりとレポートの出来が分かれました。

 上記のような盗用は論外ですが、個々のレポートとしては記事の引用や参考文献の提示において、形式としては大きく目だった不備はありませんでした。しかしそれだけに、テーマの選択や概念の使い方での差が大きく出てきたところがあります。その点を含めて、以下のポイントにまとめて、今回のレポートで気がついた点を述べたいと思います。

 

1.事例の選択

1)大きな事件よりも身近な事例で

 今回のレポートで条件となっていたことに、「過去5年間に起こった具体的な出来事」を取り上げる、ということがありました。ここで、まずいわゆる「社会問題」や「事件」といった大きなテーマを取り上げることで、その後のレポートの展開に苦戦したものが多かったようです。社会学のレポート、と聞くと、何か「社会で実際に大きな問題となっていること」をテーマに選ばなければならない、と考える方が多いようですが、社会学では必ずしもそれを扱わなければ社会学にならない、ということはありません。むしろそのような「大きな」テーマだけで「社会」を考えてしまうこと、それ自体が今の社会学では問い直されていることでもあります。

 今回のような「コミュニケーションの観点」で考えるというテーマであればなおのことですが、やはり身近で経験しやすい事例の方が、自分の頭で考察する場合は扱いやすいのではないでしょうか。

 外交交渉などの事例を扱った場合ならば、各方面からの公式的な情報が多いのでそのコミュニケーションの道筋がまだよく分かるのですが、いわゆる「少年犯罪」とか、「ニート・フリーター」といった「若者の問題」などは、実際当事者の間でもそれがどのような経緯で発生しているのかが、よく分かっていないところがあります。このようなことの原因を、わざわざ「具体的な」コミュニケーションの観点で明らかにしょうと思っても、実態に直接触れることは至難のわざで、私も含めて多くの人には推察する以外に方法はないと思われます。

 特に犯罪事例を扱った人が多かったのですが、これはいくつかの点で困難を抱えています。まず、当事者以外には分からないことが多いし、むしろ当事者だって多くの場合犯罪に巻き込まれようとして巻き込まれたわけではないのですから、「なぜそうなったのか」というのはやはり長い時間をかけて検討しなければ分からないのではないでしょうか。すぐに分かれば犯罪などは起こらない、といっては言いすぎかも知れませんが、少なくともたかだか2千字程度のレポートで分かろうはずがないと、私には思われるのですが。また、特に殺人といった暴力的な犯罪というのは通常のコミュニケーションが成立しないときに生じるのであって、それはコミュニケーションではない、といはいわないまでも、少なくとも通常のコミュニケーションしか営んでいない人々が、そういう「異常な事態」を考えようとしても、想像の範囲にはおのずと限界があるのではないでしょうか。

実際、日々マスコミで流されているものも、ほとんどは推測の域を出ないものです。そのうえ、2千字どころか一分(文字にして大体四百字でしょうか)くらいで「原因」を突き止めようとする無謀な報道やコメントが後を絶ちません。むしろそのように大々的に報道されているから、なんとなく「そのように思ってしまう」ということがあるわけで、多くの人は「マスコミの弊害」を口にはしますが、結局こうしたときに、同じような形の推測にレポートという公の場で関わってしまうのは、そのような無謀な思考に自分も加担しているわけで、ある意味で危険なことに思われます。

一方で今回のレポートはこのように「難しく」考えることは一切要求していません。講義でもつとめて身近な例を挙げましたし、身近にあるコミュニケーションをとりあげて、少し考えてくれば、そこにある「アスペクト」や「シークエンス」といったことは、むしろすぐに見えてくるものです(概念についての説明はまた後で)。しかしだからといって、そのようなことが「大きな出来事」や犯罪などを全く扱えない、ということではありません。外交関係の分析などは実際にも「フェイス」などによって擬人化して分析する例が多かったように、そこには個々人のコミュニケーションとは変わらないものがあるはずです。また、詐欺の問題を扱ったことで理解されると思いますが、何気ない普段のコミュニケーションの中にも、実はそこに「犯罪」に関わる部分を見出すこともできるのです(ただし、これは特定の犯罪の直接の「原因」を考えることとは別のことです)。

逆にレポートのテーマとしては、課題条件にも書いたように最初から「ふさわしいテーマ」があるのではなくて、このようなコミュニケーションを考えるという観点から、結果としてふさわしいものが見えてくることになります。ですから、犯罪や事件を扱っているからテーマへの評価が低いということは、次に示す「同一事例の参照」という点以外では、特にありません。

実際のレポートの中で、大きな出来事よりも「身近な事例を見つめることによってこそ、本当に大切なことを学べるのではないか」と書かれていた方がいましたが、まさにその通りのことです。

 

2)「あなた」のことばで

 これもやはりマスコミの影響、というものを考えざるを得ませんが、結果として「同じような事例」を扱ってしまっているレポートが多く目につきました。

 特に多かったのは

@日米牛肉輸入再開問題(BSE問題について、特に昨年12月からの日米交渉)

Aリフォーム詐欺(振り込め詐欺)

B少年犯罪(奈良小学生殺人・女子高生の刺殺・予備校講師の殺人など)

Bの過熱報道はいうまでもありませんが、@についてはちょうどレポートを書く時期に報道が見られたこと、Aについては講義で扱ったこと、また近年は詐欺の事例は非常に多いので、目に付きやすいということがあります。

単にレポートの条件ではなく、卒論などでも「みんなが問題だと言っているから問題として考える」という発想は、社会学を行なう上ではまず改めた方がいいように思います。社会学以前に「みんな(=他の人)が問題だ」とすでに言われているならば、別にあなたがわざわざ考えなくてもいいのでは、という話になるかも知れませんし、考えたいのであれば少なくともなぜそれを「あなた」が考えなければならないのかを、まず示す必要があると思います。過熱報道に顕著ですが、その問題がなぜ「大きな」問題なのかは、結局は「みんなが問題」以外に、確固たる根拠は実はなかったりもするわけです。

「あなた」のことばで、まず「あなた」が問題を考えること。結果として誰かが考えてしまっているのならば、それはそれで、そうしたデータ(文献)を集めて比較すればいいわけですし、レポートにとどまらず、社会学ではその姿勢がまず何を考える上でも重要になるかと思います。その上で、こういうことを考えているのは、「私ぐらいしかいないからだ」というのは、何よりも説得力があるものです。逆にいえば、マスコミは「みんなが‥」ということが目的なので、私はそれ自体も決して責めることではないと思います。これはどちらが優劣かという問題ではなく、単に目的の違いです。

※ですから、社会学にとっては「日常社会に役に立つ/立たない」という議論をすることは二次的であって、最初の講義で述べたように「社会を理解することが」が第一になるわけです。逆に、別に社会というものを直接に理解しなくても、日常社会で生きて行くことができるのは、言うまでもないことです。

今回もその目的の問題として、レポートの提出条件に示した通り、上記三つに該当したものは、相対的な評価が低くなっている場合があります。

 

2.他人の考えを用いる=アスペクトとして

 上で、まずあなたが問題を考えることが大事だといいましたが、これは何も他の人の意見に一切耳を傾けるな、ということではありません。誰かが考えてしまっていることは、だからそれがすぐに大事だ、ということにはなりませんが、「他の人と同じことを考えている=他の人がその意義を認めることができる」という点では、逆に重要な意味を持っています。結局は一人で考えることには限界があり、他の人の考えを十分に参照することがなければ、結局はその問題に対して新しい視点やアイデアをもたらすことはありません。

ただし、「参考にすること」と「真似すること」は別のことです。確かに「真似すること」から多くは始まるのですが、講義ですでに示された内容をただ繰り返したり、単純に要約しても、それは一方で「あなた」が自分の頭で「考えている」ことにはならないのです。

 最初にも示したとおり、今回講義で使った概念としての「ことば」をレポートに盛りこんでもらったのは、この「他人(教員)の概念を使って自分の頭で考える」という、バランスを見るためのものでした。「ことば」というのは面白いもので、いくら一方的に聞いてわかったつもりでも、それを逆に自分から使うことができなければ、他の人はその「ことば」を分かっていると理解してはくれません(英語を話すときを考えれば、すぐに理解できるでしょう)。ただ人が話したようにことばを繰り返すだけなら、オウムでもパソコンでも、最近は携帯ゲーム機でもできることです。でもそのときに「このゲーム機は人の言葉を理解する」とは言われることがないように、自分の頭で考える(理解する)ということは、実は「ことば」を自らで使うことに密接に関わっているのです。

 そしてその点で、もっともことばの使い方で理解が分かれたのは、おそらく多くの人が思い当たるように「アスペクト」という概念でした。

 まず、理解の分かれ目は、同じ出来事に対して二つ以上の違う「アスペクト」が考えられているか、ということでした。「犯人が持つアスペクト」というように、一方の「アスペクト」だけを扱うだけでは、単なる一個人の気持ちや心理を扱っているだけになります。ここではあくまで、二人以上の主体(国家などでもよいですが)によるコミュニケーションの結果として、「アスペクト」が生じており、それについて考える必要があるということです。ですから、単純に社会で何かが流行しているとか、問題が発生しているといった形だけで済ませ、そこに人々における見解の一致や相違といった問題が関わることがないと、なかなかアスペクトを考えていることにはなりません。むしろ、「問題だ」と思われていることも、実は別のアスペクトとして「問題なく」行なわれている(あるいはその逆)、というのが実際にアスペクトを考えることになるのではないでしょうか。

 参考文献や資料もまた、その点で、コミュニケーションをそうしたいくつかのアスペクトで考えるために必要になってくるものでした。確かに、「このような説得の仕方が、この文献にも載っている」というのは、ある意味で見解の一致を示すことにもなりますが、一方で、見解の相違を示す部分が全くないと、それは点としての比較にすぎず、アスペクトとしての面につながる、新しい見方や考え方には到らないものです。

 そうはいっても私自身も「アスペクト」という考え方を習得する難しさも一方では承知していますので、このレベルまで要求するのは少し酷かとは思います。したがって、他の概念が大体理解されていれば、それ相応の評価は与えました。ただ、講義期間中は「アスペクト」にはじまって講義で使っていた概念に関する質問に来られた人は数名しかいなかった(というよりも、通常よりも非常に質問者の少なさが目立つ授業でした)ので、少し分かってくれば、それほど使うのは難しくないとも考えてはいました。ただ結果としては、全ての概念を分かって書いているように見えたのは全体の半分に満たなかったので、これは教える側の責任ももちろん痛感いたしますが、やはり単純に「分からなければ質問をする」というのは重要で、そのためにこの情報化時代にもわざわざ毎週顔を突き合わせて(メール等で行なうのはやはり限界があります)講義を行なう意義もあると考えてください。

表面的に見ても、数行にわたって何度も同じ言葉を書いたりするなど、明らかに不自然なことばの使い方が目立ちました。何も特別な用語を覚え、できるだけ多用するのが社会学の目的ではなく、ある出来事を考えるために、その出来事について資料を集めて分析して、その分析の結果に最も「ふさわしいことば」として何かの用語を使う、という姿勢が重要です。この点で、学問の用語とはマスコミの流行語や時事用語と少し違って、ある特定の「点」をただ示すためのものではなく、考えるための「面」を作るために使うものだとしてもいいでしょう。その意味で、用語をたくさん使うことが重要なのではなく、いかにそれにふさわしい状況に使うか、ということが大切になってきます。

いま流行の「格差」や「ニート」ということばもある意味、ある特定の目的のために社会学などで発明された用語ですが、残念ながら多くの人が、この「用語を(たくさん)使うこと」そのものを目的としてしまった結果、ことばが一人歩きしてさまざまな弊害が出てきてしまっているのが事実です(この点で興味のある方は 本田由紀ほか著『「ニート」って言うな!』光文社新書 をご覧ください)。

※ちなみに、「アスペクト」というのは社会学などではほとんど使われていないので、この言葉だけを覚えていても、それだけではあまり意味がありません。(「下流」みたいに、言葉をつくる側としては、たくさん使われればそれだけお金になるのは事実ですが‥)もちろん概念の方は、このあとも少しぐらいは覚えておいていただかないと半年の間も何をやっていたのかが意味が分かりませんが‥。

 

以上の点を参考に、手元にある方はレポートをもう一度見直してみてください。

 最終成績は、今回のレポート(80%)のほかに、授業での各課題の提出状況(20%)を加えて算出します。

 

以上

2006年2月13日

担当教員 是永 論