2014年度 立教大学社会学部・共通科目(秋学期) 
エスノメソドロジー レポート講評(提出者58名)

 まず、今回たいへん残念な結果として、ネット上の既存の文書からの大量の引き写し部分が含まれたレポートが複数発見されました。コピー元が「エスノメソドロジー CM」で検索すれば簡単に出てくるほど、単純なものですが、検索結果に関わらず、文献名を明記しないで引用するものはすべて盗用に該当します。
 しかしながら、評価に当たっては、盗用そのものをもって減点とはせず、盗用部分と記述部分の整合性の問題などから、文章内容について減点しました。ただし、CMのトランスクリプトなどについては、作成そのものをデータ提示方法として加点要素としたので、盗用と判断された場合はその分も減点(無効)としました。
 いずれにしても、盗用自体が反社会的な行為ですので、レポート提出が公式の社会的行為である以上は、そのような行為を前提に評価をすることは到底認められません。今後は絶対につつしんでください。

 一方、全体の評価としても残念ながら、今回はC以下の評価が多い結果となりました。

 下記にその原因について指摘したいと思います。

1)文献引用について
 基礎学習の過程で徹底されているはずのもので、これまでは特に指摘しませんでしたが、文献参照を全く使わないで完結しているレポートが多かっただけでなく、そもそも引用の意味が考えられていないものが目立ちました。
 今回は広告を題材とした場合、必ず文献やデータを参照することを義務付けていますので、文献名がない場合はそのまま減点の対象としました。
 しかし、そうした形式的な問題よりも、本来文献参照とは、自分の考えや、その根拠となる事実について、文献に載っているデータや概念をもって補強するためのものであり、特にエスノメソドロジーのように、概念そのものが簡単には伝えにくい場合は、教科書を初めとして、関連する概念やその説明が文献から引用されてもよいはずなのですが、ほとんど直接の形で利用されているケースがありませんでした。また、参照として文献名を挙げれば必ずしも十分ではなく、具体的に書かれている内容のどこが文献にもとづくかを、文章の引用や該当頁として示さなければ、文献を参照する意味が伝わらない可能性も生じます。
 そのほかにも、文章を章立てに分けたり、データの説明と分析などの部分を構成として区別していないなど、文章作成の基本が守られてないケースも目立ちました。

2)対象となる行為の分析について
 エスノメソドロジーとして、成員カテゴリー化および行為の連鎖的な構造について分析することがやはり義務付けられていましたが、多くのレポートで何がカテゴリー化されていて、どういう行為が連鎖しているのか、という指摘がなされていないものが見られました。
 こうした分析がないままに、単に広告の中で描かれていることをトランスクリプトなどで示したとしても、それは単なる内容の引き写しであり、分析がないままにそうした内容について述べても、それも感想等の域を出ないことになります。
 また、今回は「理解の産出過程」を詳しく説明することは課しましたが、特に広告で使われていることば全体を書きだしたりすることは要求していません。そうした作業を妨げるものではありませんが、トランスクリプトをなぜ必要とするかといえば、行為の構造を示すためのものであって、その点では分析の対象となる構造を示す部分だけを詳しく記述すればよいという場合もあり得ます。
 たとえば、質問に対して答が来るべきところを、全く違うことを行っている場面について、そこで何が起こっているのか、といったことを考える場合、焦点となるのはあくまで、その質問―答という連鎖が生じる場面とその分析なのであって、それは機械的にその場面で生じている音声をただ書き表す作業とは異なります。
 その意味では、何を焦点として分析するのか、ということが目的としてはっきりしていない場合、提示されている内容もまた、何のために書かれているのかが理解できず、評価につながらないことが多く、逆に焦点となる部分を、なぜそこに注目するかの説明とともに、きちんと指摘して、その解明を行うようなスタイルのレポートは評価を得やすい結果となりました。

3)行為とその社会背景について
 これは分析対象の選択だけではなく、分析から導いたことから何を結果として述べるかにも関わりますが、社会背景の導き方がいまひとつ理解されていないようでした。
 たとえば広告の中で「家族」がカテゴリー集合を参照しながら描かれていることを指摘するまではよいのですが、そこで考えるべきなのは、なぜその場面でそれ以外のカテゴリー集合ではなく{家族}としての理解を導く必要があるのか、あるいは、広告として訴える内容や設定が{家族}であることとどう関わるのか、といった点であって、単に家族が描かれている様子をこう理解しました、ということだけでは、エスノメソドロジーとしては問題がないとしても、それ以上の考察に関わっていないことにもなります。
 複数見られた例では、携帯電話がよくつながるという場面を「家族」の会話で表現している場面が取り上げられていましたが、その背景を考えるとき、ただ通話範囲が技術的に広いことを示している、という話で終わっては「家族」という話は何も関係ないことになります。たとえば、{家族}を参照している関係なので、いつ電話してもよい、あるいは電話を掛ける/受ける義務があるといったカテゴリーに結びついた活動から考えると、それは「つながる」という話といろいろと関係して来るはずです。逆にだからこそ、分析において「家族」を焦点とする意味も出てくることになります。
 その一方で、カテゴリー化をステレオタイプとして取り扱う傾向も見られましたが、「ステレオタイプ」として理解しているのはもしかすると分析をしている人だけで、そうした理解が、場面の中で何かをしている(理解を産出している)人たちにとっては、特に関係がないとすれば、その時点で今回のレポートで要求しているものとは違うことをしていることにもなります。たとえば、「子どものために料理しないといけない」という状況にいる女性に向かって、それはステレオタイプだから、と指摘することにおいて、実際に彼女の「子どもが食べる」という行為に対して誰が何の責任を持つことになるのでしょうか。

 以上、レポート作成の基本的な技術に関わるところもありますが、授業全体に対する取り組みとして、教科書が指定されながらも、教科書を活用したレポートが少なかったり、授業後に教科書や授業に関する質問もほとんどなかったことは、授業評価アンケートでの回答にも示された受講者の積極性の乏しさとして、今回の厳しい評価とも関連するようにも考えられます。
 たとえ5時限目の授業であるからといって、逆にそれを前提に受講している以上は、曜日ごとのスケジュールを調整して臨むなど、予習などと合わせて受講者側が準備してくる部分がなければ、授業内での対応だけではおのずと限界があります。ただしこの点に関しては、次回の講義内容を予告するなど、授業での伝達内容について改善する必要も認識はしています。

 最終的な成績については、今回のレポートに加え、オンラインでの本文提出を含む7回の授業内課題提出への評価にもとづいて総合的に算定しています。

以上

2015年 3月10日
是永 論