2017年度 立教大学社会学部・共通科目(秋学期) 
エスノメソドロジー レポート講評(提出者38名)

 総合的な評価の発表に際して、今回提出されたレポートの講評を行います。

 全体としてはBの評価が最も多い結果となりました。課題点の平均が高く、授業への参加態度が良好だったこともあり、多くの履修者がこちらが要求する水準を満たしていたといえますが、同時に、Aとしての優れた評価を得るには不足していた部分があったともいえます。
 下記にその理由について指摘したいと思います。

1)考察対象(ターゲット)となる行為の記述について
 今回の課題では広告を題材とする一方で、エスノメソドロジーとして行為について分析することが義務付けられていましたが、多くのレポートでは、すぐに広告の内容について記述することから始まっていて、レポートで広告におけるどういった行為を対象として、それをどのような点から分析するのかが、冒頭からきちんと明示されているものが少なかったです。
 こうした明示がないままに、すぐに広告の内容をトランスクリプトなどで示されても、その記述がレポートが考察する対象にどのように関係するのかが読んでいてもわからないために、何を目的としたレポートなのかが伝わらず、それが評価に影響するところもありました。
 逆にトランスクリプトを作成する目的は、考察の対象を(細かく)記述してその構造を明らかにすることにある以上、考察の目的が明確でなければ、その記述の仕方が妥当なものであるかどうか判断がつきにくいことにもなります。前提として書き起こしが作成条件になっていましたが、動作の説明や発話以外のことばをどの程度記述するかは一概には決められないところで、動作に言及しないと行為の構造が分からない事例については、簡単でも必ず動作を記述しないと分析ができないはずです。
 これに対して、動作とことばの関係が明確でないまま、機械的に発話(ことば)だけの記述で済まされている場合、作成条件は満たしているとしても、その記述が分析に対して貢献すると考えるのは不可能で、ただ作成上「手を抜いた」ととらえられてしまいます。一方、発話の記述にしても、重なりや沈黙が見られる場合は、単純な「行為連鎖」として分析することには一定の注意が必要になるところですが、そうした部分が記述から元から省略されている場合もまた、やはり機械的な記述以上の意味をもたないといえます。
 以上に対して、考察の焦点となる部分を、なぜそこに注目するかの説明とともに、きちんと指摘した上で、その解明を進めるものは、多少記述内容に不足があっても、その目的から補って評価することができました。

2)カテゴリー集合について
 カテゴリー集合については、事例中に見られる集合をたとえば{家族}などとして示すことは比較的簡単にできる一方で、その指摘だけにとどまってしまい、やはり集合を示すことが考察上どういった意味を持つのかがよく分からないレポートが目立ちました。
 今回広告を題材としたことに大きく関連しますが、広告では多くの場合、単一の集合を参照して行為の描写が完結することは少なく、参照が別の集合に転換したり、あるいは二重(多層)の参照を並行して展開していくことが見られたりするのですが、それだけに、そうした通常の(単一集合の)参照とは異なったやり方がどのような意味を持つのかが考察の焦点になっていく可能性があります。それはもともと広告が、ただ人物の行為を描くだけではなく、それに関係した広告主と視聴者(消費者)の行為を同時に参照する表現上の「構造」をもっていることにも関わります。しかし、このような広い視点をもって分析をしているものは少なく、集合の参照についてもあくまで機械的になされている印象が多かったです。
 また、今回は分析対象となる表現と、その社会的な背景との結びつきを考えることも条件となっていました。その点では、先に示した表現上の「構造」とともに、あるカテゴリー集合の参照が、広告が社会的に果たす(と想定される)機能とどのように関連するのか(あるいは関連しなくてよいのか)が考察されて然るべきなのですが、1)における行為の記述と、社会的な背景が全く個別に論じられており、その意味では前者の行為の分析がなくても後者が導けるような関係になっている場合も見られ、そのために最終的な表現の必要性についての考察も不十分に展開することになりました。
 たとえば広告の中で{家族}というカテゴリー集合を参照しながら描かれていることを指摘してたとしても、そこで考えるべきなのは、なぜその場面でそれ以外のカテゴリー集合ではなく{家族}としての理解を導く必要があるのか、あるいは、広告として訴える内容や設定が{家族}であることとどう関わるのか、といった点であって、単に家族が描かれている様子をこう理解しました、ということだけならば、分析の必要がないともいえますし、その必要性に考えが及ぶこともないでしょう。
 逆に広告はこうした理解について、教科書にある「象徴」のような、さまざまな「構造」を表現の実践について展開する特徴があるわけですから、そのダイナミクスへの視点がやはり必要になってくるものと考えられます。

3)文献引用について
 大学での基礎的な学習の過程で徹底されているはずのもので、敢えてレポートの条件としては明示しませんでした(ただし授業内では評価基準の一部として説明はしました)が、作成条件以外の文献参照を全く行わずに完結しているレポートが多かっただけでなく、教科書を参照する意味自体が考えられていないものが目立ちました。単なる教科書の用語引用を求めているのではなく、実際にそれぞれが課題に使用した事例に対して、文献のどの部分にある考え方がどのような意味を持つのかが、しっかり示されていなければ、正確な意味で文献を用いたことにはならないともいえます。もちろん教科書の範囲だけの考え方では自ずと限界がありますが、毎回さまざまな参考文献を紹介していましたし、使えるものが必ずしも限られるわけではなかったといえます。その点では引用の箇所が曖昧だったり、用語の意味が表面的なつながりしかなかったりするなど、こちらも機械的な引用が少なくなかったです。
 一方で、社会背景の説明に対してはエスノメソドロジーの概念に限らず、調査データの引用などもいろいろと考えられるはずですが、それに着目した引用も少なく、後半の議論の説得性に欠けるものも多かったです。

 最終的な成績については、今回のレポートに加え、オンラインでの本文提出を含む7回の授業内課題提出への評価にもとづいて総合的に算定しています。

以上

2018年 3月2日
是永 論